孤高の旅路
ミラーベール島へ出航前夜――
「ヴィクター様。
我がメイダの王が、なお滅びず在られるとの噂がございます」
ひと呼吸、言葉を沈めてから、彼女は続けた。
「……真であれば、従いましょう。
虚であれば――終わらせねばなりません」
「ゆえに、ミラーベールより戻り次第、
リスフェルドへ向かうことを、お許しくださいませ」
その言葉を最後に、彼女は深く頭を下げた。
・・・・・がたん
・・・がたん
・・・・・がたん
規則的な揺れ。
浅い眠りから覚めたカテリーナは、揺れる馬車の窓越しに、広がる平原を見ていた。
王国メーア・ウント・ベルゲンの王都ヴァルトクロンを発ち、
南東へ向かう乗り合い馬車に身を預けている。
御者台の脇、手綱を預かる女が一人いた。
年の頃は三十前後。日に焼けた頬と、風をよく通す声。
「この道はね、王都とヴィントロスを結ぶ常道なのよ」
名も知れぬ小さな村――
そう呼ばれることの多いその地名を、彼女は当たり前のように口にする。
「商人も、兵も、旅人も使う道さ。
だから私も、もう何十往復したか分からないわ」
気負いのない調子で続けた。
「旅は長いから、名乗っておくよ。
ヴェントラ。よろしく」
「カテリーナです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
馬車は、淡々と進んでいく。
シルバーホーン山脈の庇護を離れると、視界は一気に開けた。
なだらかな草原が、地平まで続いている。
リュフト平原。
「ほら、あそこ」
ヴェントラは鞭の先で、遠くを指した。
「風角鹿。
角が風を受ける形をしてるでしょ。
走るとね、低く鳴るんだ。慣れると“朝だな”って分かる」
群れは遠く、決して近づかない。
それを見送るように、馬車は進む。
「メイダの古い紋章にも、描かれていましたね」
その言葉に、ヴェントラは少しだけ目を丸くした。
「詳しいじゃないか。
そうそう、“誓いを忘れぬ者は、この鹿を撃たぬ”って言われてた」
少し進むと、足元をかすめる影があった。
「灰原兎だよ」
そう言ったその口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
「人を見るより先に、風を見るの。
だから追おうとしても無駄さ。ここじゃ、賢いほうが生き残るってわけ」
間を置いて、何気ない調子で続ける。
「そうそう、空気の微細な振動を読むんだってさ。
昔はそれを真似て、兎笛なんか吹いて狩ったらしいけど――」
「兎笛?」
首をかしげたその反応を見て、彼女は少しだけ肩をすくめた。
「ちょっとやってみようか?」
そう言うと、胸元から小さな笛を取り出す。装飾もなく、玩具のように簡素なそれを、ためらいもなく唇に当てた。
――ひゅう。
音と呼べるほどの音は出なかった。
耳には、ただ風が撫でたようにしか感じられない。
けれど次の瞬間、草の揺れ方が変わった。
風向きでは説明のつかない、集まるような揺れ。
少し離れた場所で、灰原兎がぴくりと耳を立てる。
一羽ではない。二羽、三羽。
まるで「呼ばれた」かのように、同じ方向を向いた。
「子どもが近くにいる時は、絶対に使うな、って言われてる。
兎だけじゃなくて、ついでに引き寄せちまうからね」
冗談めかした口調とは裏腹に、その目だけが一瞬、草原の闇を測るように細められた。
「聞こえない音ほど、厄介なもんさ」
やがてヴェントラは空を仰ぎ、ふっと声を落とした。
「今日は、風読鷹がいないね」
高空を旋回するはずの影は、どこにもない。
「嵐は来ないと思うけど……
あれが消える日は、念のため早めに村へ入る」
日が傾き、馬車を降りて徒歩に変わるころ、夜の気配が滲み出す。
「祈り鼠も出てくる頃だ」
昔話を語るような調子で、彼女は言った。
「廃塔や、倒れた標柱のまわりさ。
人が何かを残した場所に寄り添って生きる。
“まだ祈りが残ってる”って、そういう意味だね」
間を置いてから、声がわずかに低くなる。
「……荒原狼だけは別。
あれは獲物じゃなく、“弱り”を見る。
だから今日は、無理しないほうがいい」
幾度かの乗り継ぎと徒歩を経て、日が傾くころ。
「ほら、あれがヴィントロス」
風が集まり、いったん休むように抜けていく土地。
王都と平原をつなぐ、小さな村。
「名は地味だけどね」
ヴェントラは肩をすくめた。
「ここがあるから、行き来ができる」
馬車が止まり、カテリーナは静かに地に降りた。
「……ヴェントラさん、ありがとうございました」
そう言うと、彼女は一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
「こそばゆいねぇ。
“さん”なんて柄じゃないよ。呼び捨てでいい」
手綱を軽く鳴らし、前を向いたまま言う。
「この辺じゃよくある名さ。
“風を読む”って意味で、ヴェントラ。
……もっとも、読まない奴もいるけどね。あはは」
「では……ヴェントラ。
ありがとうございます」
彼女は一度だけ、確かに頷いた。
「そうか。カテリーナ、ね。
いい名前だ。重たい道を、ちゃんと歩いてきた音がする」
カテリーナのウォーハンマーには、
白い布が静かに巻かれていた。
それは血を隠すためではない。
振るわぬ時に示す、礼であった。
風が、二人のあいだをすり抜けてゆく。
カテリーナはその感触を胸に刻み、
名も大きくは知られぬ村――ヴィントロスへと、
静かに足を踏み入れた。
「おや? メイドさんかい。めずらしいね」
声をかけられ、カテリーナは足を止めた。
振り向きはしない。ただ、わずかに顎を引く。
「旅装です。
今は、仕える家も名も――ここには関係ありません」
白布を巻いたウォーハンマーが、風にかすか鳴った。
それだけで、声の主は理由もなく一歩さがる。
ヴィントロスは、
“事情を聞かずに泊める村”として知られている。
カテリーナは何も説明せず、
その沈黙に対価を支払うように、宿の灯りへと歩き出した。




