好きな人の話
まだまだ、やることはたくさんある。
それでも――
先に、しなければならないことがあった。
夜は、静かだった。
消した灯りの余熱だけが、部屋の隅に名残として残っている。
窓辺に立つルミエルは、月明かりに縁取られていた。
肩にかかる緑髪を、指先でそっと整える。
ただそれだけの仕草なのに、心臓が一段、強く跳ねる。
――やばい。
パパタローは、息を殺した。
(落ち着け……落ち着け、俺……)
足の置き場がわからない。
手は邪魔で、視線も定まらない。
(なんでだよ……
言うだけだろ……)
言うだけ。
――いや、言うだけじゃない。
覚悟も、気持ちも、全部。
ちゃんと、伝えなきゃならない。
何度も頭の中で練習した。
順番も、理由も、考え抜いたはずだった。
なのに――
目の前にいる本人を見た瞬間、
すべてが、きれいに吹き飛んだ。
ルミエルは、こちらを見ていない。
ただ、夜の向こうを眺めている。
強くて、長く生きていて、
何でも知っていそうな人。
それなのに、今は。
月明かりの下で、
ひどく静かで、
ほんの少し――
置いていかれそうに見えた。
(……あ)
その瞬間、
胸の奥で何かが、すとんと落ちた。
守ってやりたい、なんて大それた話じゃない。
支えたい、でもない。
ただ――
この人の隣に、立っていたい。
それだけだった。
パパタローは、背中に隠していた包みを確かめる。
指先が、汗ばんでいる。
(……まずは、これだ)
風が、カーテンを揺らした。
その小さな音が、張りつめていた緊張を、ほんの少しだけ緩める。
「……あのさ」
声が出た。
思ったより、ちゃんと出た。
ルミエルが振り返る。
目が合う。
(あ、だめだ……
今、完全に逃げ道なくなった)
でも、不思議と――
もう、逃げたいとは思わなかった。
心臓はうるさいままなのに、
足は、前に出る。
(……言おう)
うまくなくていい。
噛んでもいい。
格好悪くてもいい。
今、言わなきゃ、
きっと、ずっと言えなくなる。
パパタローは、小さく息を吸った。
――ここから先は、
覚悟だけだ。
「……あのさ」
ルミエルは、いつもの調子で首を傾げる。
「なんじゃ、パパタローではないか。
そんなところに突っ立って。夜風が、少し冷えるぞ?」
何でもないことを言うように、
月明かりの下で、ゆるく目を細める。
「今日は静かじゃの。
嵐も、追手も、面倒事もない」
肩をすくめ、軽く笑った。
「こういう夜も、悪くない。
何も起きぬというのも、案外、贅沢なものじゃ」
……世間話だった。
あまりにも、いつも通りで。
あまりにも、穏やかで。
胸の奥が、きゅっと締まる。
(ああ……)
今なら、引き返しても許されそうな空気。
だからこそ――今、言わなきゃいけない。
パパタローは、包みを差し出した。
「……はい。これ」
ルミエルが首を傾げる。
「なんじゃ、改まって」
布を解いた、その瞬間。
月明かりを受けて、
首飾りが――淡く、虹色に揺らめいた。
「……これは……」
一拍。
ルミエルの目が、はっきりと見開かれる。
「おぬし……これは……!
イミテーションか?」
パパタローは、慌てて手を振った。
「違うって。いや、待って待って。
俺たち、どこ行ってたと思ってるんだよ」
軽口に戻そうとして、少し早口になる。
「なんかさ、偶然フードの底に入ってて。ほんと偶然。
で、港のおやじに見せたら」
ルミエルは、首飾りから目を離さない。
「……見せたら?」
「『本物だ』って。目の色変えてさ。
『加工しないと価値が半分以下になる』とか言い出して」
肩をすくめる。
「気づいたら、勝手に加工されてた」
一瞬の沈黙。
ルミエルは、ゆっくりと首飾りを持ち上げる。
指先が、ほんのわずかに震えていた。
「……虹色のサンゴじゃ」
声が、低くなる。
「しかも……
これは“スカイシェルの巣窟”産……
市場に出回るものではない」
パパタローは苦笑した。
「だよな。あとで聞いたら、
『普通は命賭けだ』って怒られた」
ルミエルが、顔を上げる。
「……怒られた、では済まぬ」
視線が、まっすぐパパタローを射抜く。
「これはな、ただの装飾品ではない」
首飾りを胸元に当て、
小さく笑う。
「妾たち、よくあそこから戻れたな」
そっと、握りしめる。
パパタローは、少し照れたように視線を逸らした。
「……あの時はさ、結局イミテーションしかなくて」
「覚えておる」
「だから――
いつか本物を、って思ってただけ」
ルミエルは、首飾りを手にしたまま、少しだけ迷うように指を止めた。
「……つけてくれるかの?」
思いがけない言葉に、
パパタローは一瞬、息を詰まらせる。
「え?俺?」
「そうじゃ。そなたが贈ったものじゃ。
ならば、そなたの手で――じゃろう?」
静かな声だった。
だが、逃げ道はなかった。
パパタローは、そっと一歩近づく。
指先が、首元に触れる。
温かい。
思ったよりも、ずっと。
髪を避け、留め具に手をかけた、その瞬間――
ふいに、ルミエルが顔を上げた。
目が合う。
月明かりを映した瞳が、
すぐそこにあった。
(……近い)
どちらからともなく、息が止まる。
ほんの一瞬。
時間が、静止したように感じられた。
――次の瞬間。
パパタローは、気づけば前に出ていた。
理屈ではなかった。
考える前に、体が動いた。
唇が、触れる。
軽く。
確かめるように。
深くもなく、長くもない。
ただ――そこに、想いがあった。
ルミエルの目が、わずかに見開かれる。
だが、拒まなかった。
ほんの一拍遅れて、
彼女は、そっと目を閉じる。
唇が離れたとき、
夜風が、二人の間を抜けていった。
「……大胆じゃな」
声は、低く。
けれど、どこか柔らかい。
「す、すまん……
いや、その……勢いで……」
言い訳を探すパパタローの手首を、
ルミエルが軽く掴む。
「よい」
短く、そう言った。
「そのくらいでなければ、
妾の隣には立てぬ」
ふっと、口元が緩む。
「……続けよ。
首飾りが、まだじゃろう?」
パパタローは、何も言えずに頷いた。
震える指で留め具を留める。
月明かりの下、
虹色のサンゴが、静かに胸元で輝いた。
――確かに、そこに在った。
月明かりの下、
虹色のサンゴは、確かにそこに在った。
「……似合うかの?」
その声は、いつもより少しだけ弱い。
パパタローは、正面から答える。
「綺麗だ」
そして、にやりと笑った。
「時々、パパタローは大胆になるな」
「これは“贈り物”としても高価じゃが――何より」
指先で、軽く首飾りを叩く。
「生きて帰ってきたことが、一番の価値じゃ」
パパタローは、その本音を受け止めたまま、息を吸った。
――ここで逃げたら、もう言えなくなる。
思ったより、声は低かった。
「俺は人間だ。長生きはできない。
精神は二十九で、体は十歳からやり直し。
うまくいっても……八十年くらいだと思う」
夜風が、カーテンを揺らす。
ルミエルは、少しだけ目を細めた。
「……相変わらず、唐突じゃな。
どうしたのじゃ、パパタロー?」
それでも、彼は続けた。
「君は、その先を生きる。
俺がいなくなってからも、ずっと」
一拍。
「だから、永遠は約束できない」
それでも、彼は一歩、踏み出す。
「でも――逃げない。
関わってしまったものを、放り出さない」
拳を、そっと握る。
「君と生きたい。
君の時間を、少しだけ……俺にくれないか」
ルミエルは、黙って聞いていた。
「俺は先に死ぬ。
それでも、生きている間は隣にいる。
帰る場所として、君を選び続ける」
深く息を吸う。
「……結婚しよう、ルミエル」
月明かりの中で、言葉は静かに落ちた。
ルミエルは、すぐには答えなかった。
一度だけ瞬きをし、ゆっくりと息を吐く。
「……ずるい男じゃの」
責めるでも、笑うでもない声。
「そのように言われては……
妾、逃げる理由を失うではないか」
一歩、近づく。
「妾は長く生きる。
そなたのいない時を、幾度も思い出すことになろう」
視線が落ち、指先が、わずかに震えた。
「じゃが――それでもじゃ」
顔を上げた瞳は、泣いていなかった。
「そなたが先に死ぬと知っていても、
妾は……そなたを選ぶ」
胸に、静かに手を当てる。
「終わりを知りながら、
それでも逃げぬ者を――
妾は、好む」
風が、二人の間を通り抜けた。
「掟で婿となったのなら、
妾は――そなたを、伴侶として迎え直そう」
指先が、そっと触れる。
「共に暮らそう、パパタロー。
そなたが生きておる間、
妾の隣は、そなたのものじゃ」
一瞬だけ、声が和らぐ。
「……その先を一人で歩くことになろうとも」
「それは、妾の責じゃ」
はっきりと告げる。
「結びとなろう。
妾は、そなたの妻となる」
その言葉が、月明かりの中で静かに定着する。
パパタローは、答えを探さなかった。
ただ、一歩だけ近づく。
ルミエルも、拒まない。
視線が絡み、どちらからともなく、ほんの少し顔を傾ける。
唇が、触れた。
誓いを確かめるための――
短く、静かな口づけだった。
離れたあと、二人は何も言わない。
それで、十分だった。
永遠の誓いではない。
だが――取り消しのきかぬ言葉だった。
「……まぁ」
ルミエルが、ふと視線を逸らす。
「一つ、申しておかねばならぬことがある」
嫌な予感に、パパタローは眉をひそめた。
「掟の効果が、すでに発動しておってな」
「……うん?」
「離れたくとも――離れられん」
一拍。
「……え?」
「物理的にも、魔術的にも、精神的にもじゃ」
沈黙。
「……え!?
それ、今言う!?」
「今でなければ、いつ言う」
ルミエルは、平然としている。
「一人になりたくても?」
「無理じゃ」
「……浮気しても?」
一拍。
ルミエルは、表情一つ変えずに告げた。
「――死にたいのか?」
「……ごめんなさい」
「よろしい」
間髪入れず、続く。
「それと」
ルミエルは、ちらりとパパタローを見る。
「プロポーズで、先に死ぬ死ぬ言うのは、どうかの?」
「ダメだめじゃw」
思わず、パパタローが肩を落とす。
「エルフ種は長命ではあるが、不老ではないぞ」
「……あ」
「妾も、いつかは老いる。
ただ、その“いつか”が、そなたより少し後なだけじゃ」
そう言って、視線を夜空へ戻す。
月明かりの下、
二人は並んで立っていた。
冗談のようでいて、
逃げ道のない現実を、同時に見据えながら。
離れようとしても、
最初から、離れられない距離だった。
ルミエルは肩をすくめ、からりと言った。
「笑える地獄は、
だいたい地獄にはならんのじゃ!」
そう言って、
呵呵と笑った。
まだまだ、やることはたくさんある。
それでも――
先に、しなければならないことがある。
――一緒に、生きて、幸せになろう。
翌朝は、昨日より少し遅かった。
カーテン越しの光は柔らかく、
急かすような朝日ではない。
世界が、ほんの少しだけ手加減している。
離れのヒッポグリフ小屋の方から、
ルビーの低く澄んだ朝の鳴き声が聞こえてきた。
パパタローが目を開けると、
すぐ隣に、ルミエルがいた。
――近い。
枕一つ分も離れていない距離。
昨夜より、ほんのわずかに。
(……寝相、いいんだな)
そんな、どうでもいいことを考えてしまい、
自分で苦笑する。
ルミエルは、まだ眠っている。
長い睫毛が影を落とし、
呼吸は静かで、規則正しい。
胸元で、
虹色のサンゴが、朝の光を受けて淡く揺れていた。
(……妻、か)
言葉にすると、
まだ現実味がない。
そっと、指先を伸ばす。
触れるか触れないか――
その距離で、止めた。
「……なにを、しておる」
目を閉じたまま、声だけが返ってくる。
「起こした?」
「起きてはおった。
そなたの呼吸が、やけに近くてな」
「それ、俺のせい?」
ルミエルは、ゆっくりと目を開ける。
「近いのは、嫌ではない」
そう言って、
ほんの少しだけ、こちらへ寄ってくる。
距離が、消える。
パパタローの肩に、
軽く額が触れた。
「……え?」
「昨夜の続きじゃ」
囁くような声。
「夫婦になった翌日に、
距離を取る理由はないじゃろう?」
言い返す言葉は、出なかった。
代わりに、
そっと、腕を回す。
抱きしめるほど強くはない。
逃がさないほどでもない。
ただ、
“そこにいる”と分かるくらい。
しばらく、何も言わない。
その静けさの中で――
ルミエルが、ほんの少しだけ顔を上げた。
近い。
近すぎる。
視線が合う。
「……朝じゃぞ」
「うん」
次の瞬間。
唇が、触れた。
目を閉じる前に、
ルミエルが小さく息を吐いた。
「……よい」
それだけ言って、
額をこちらに預ける。
世界は静かで、
問題も、追手も、掟も――
今は、少し遠い。
「なあ」
パパタローが、小さく言う。
「なんじゃ」
「……その、後悔してない?」
ルミエルは、目を閉じたまま、
ふっと鼻で笑った。
「後悔しておるか?
……間抜けな質問じゃな。
うぬぼれておると、鼻をつまむぞ?」
そう言いながら、
指先が、軽くパパタローの鼻先に触れる。
それから、声を落とす。
「妾は、そなたを選んだ。
それだけで、十分じゃ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……ああ)
これは、燃える恋ではない。
だが、
毎日を並んで生きるための温度だ。
「起きるか?」
「もう少しだけ」
「朝飯は?」
「後でよい」
そんな、どうでもいい会話を交わしながら、
二人は、しばらく動かなかった。
ルミエルは、窓の外を眺めて、ぽつりと言う。
「さて。
やることは、山ほどあるぞ」
パパタローは、苦笑する。
「だよな」
それでも、自然に言えた。
「……一緒にやろう」
ルミエルは、肩をすくめる。
「言われるまでもない」
朝の光の中、
二人は並んで立っていた。
昨夜より、ずっと現実的で、
それでも確かに――
始まっている今日だった。




