灰になるまでの愛
エルネスタが、ゆっくりと手を上げた。
構えではない。
祈りでもない。
それは――
世界に命令を下す者の動作だった。
「……やっぱり、そうなるのねー」
次の刹那。
空が、割れた。
雷鳴ではない。
天の骨格が軋む音。
蒼白い雷が幾重にも分岐し、天井も壁も区別なく貫通する。
床は一瞬で溶解し、石は液体となって逆流した。
――神話級。
人が耐える前提で組まれていない現象。
だが。
ヴィクターは、まだ立っていた。
雷は――
彼の影をなぞるだけで、決して芯を貫かない。
「……ッ!」
炎が降る。
隕石のような熱塊が叩きつけられ、空間が赤く歪む。
それでも、同じ。
火は彼の外套を焦がし、髪を焼くが、
肉体を破壊する軌道だけを、正確に外れていく。
ヴィクターは悟った。
――これは戦闘じゃない。
――処理だ。
ケラフィクサ――エルネスタは、こちらを見ない。
「あなたは、もう“外”に立ってしまった」
その声に、怒りも憎しみもない。
「ゾファール様の“内側”を知った人間は、
ここに居てはいけないの」
ヴィクターは杖を構えた。
雷を放つ。
炎を叩きつける。
衝撃波を重ねる。
だが――
すべて、彼女の周囲一歩で止まる。
結界ではない。
回避でもない。
当てない。
彼自身が、無意識にそう選んでいる。
「……違う……」
声が、割れる。
「君は……
こんなことをする人間じゃなかった……!」
エルネスタが、初めて振り向いた。
その瞳は――
生きていなかった。
焦点は定まらず、
感情は深い底に沈んでいる。
「……ええ」
静かな声。
「私、もう死んでるもの」
その瞬間だった。
世界が、一段階ギアを上げた。
ケラフィクサが、両腕を大きく広げた。
天を仰ぐ。
その姿勢は、祈りに似ていた。
だが――祈ってなどいない。
誇示だ。
「――聞こえるでしょう!!」
声が、空間を震わせた。
「ゾファール様は!!
欠陥にして、完全!!」
踏み込む。
足が床に触れた瞬間、
衝撃波が円環となって炸裂する。
床が砕け、石が粉となり、
空気そのものが刃となって飛ぶ。
ヴィクターの身体が、後方へ弾き飛ばされる。
当たらない。
だが――逃げ場は削り取られる。
「世界は、壊れなければ進まない!!」
ケラフィクサの声は、もはや人の喉を使っていない。
概念が叫んでいる。
「秩序は、必ず腐る!!
完全は、必ず停滞する!!」
再び、腕を振り下ろす。
今度は――
重なった衝撃波。
一撃目が空間を歪め、
二撃目が時間を遅らせ、
三撃目が存在そのものを圧縮する。
轟音。
壁が、内側から外へ爆ぜた。
「だから!!」
叫びと同時に、
ケラフィクサは両手を天へ突き上げる。
「ゾファール様は――
壊れ続ける!!」
天井が、剥がれ落ちる。
いや、違う。
“落ちて”などいない。
世界が、伏せた。
「壊れながら!!
創り!!」
衝撃波が、雨のように降り注ぐ。
上から。
斜めから。
内部から。
回避の概念を否定する、
神話級の全方位破砕。
ヴィクターは歯を食いしばり、杖を地に突き立てる。
防御ではない。
相殺でもない。
――逸らす。
「それが――
神の器よォォォォッ!!」
ケラフィクサの声が、悲鳴のように裏返る。
「私たちは!!
その内側に在るッ!!」
最後の衝撃波。
それは、音がなかった。
音が生まれる前に、
空間が砕けた。
静寂。
粉塵。
そして――
その中心で、ケラフィクサが、ゆっくりと息を吐く。
「……ああ」
「なんて、偉大……」
その瞳の奥で、
一瞬だけ。
エルネスタが、揺れた。
雷は柱となり、炎は渦となり、
空間そのものが回転を始める。
そして――
その中心で、視線が変わった。
視線の向こうに懐かしい影があった。
セラフィナは右口角を上げ、
一直線。
迷いのない軌道。
灰の向こう――
ラインハルト。
「……ッ!!」
ヴィクターの思考が、断ち切れる。
「エルネスタ! やめろォォォッ!!」
考える前に、身体が前へ出ていた。
詠唱はない。
ためらいもない。
彼が放ったのは――
生涯で初めて、“当てる”と決めた魔法。
雷と雷が衝突し、
炎と炎が噛み合い、
衝撃が世界を裏返す。
轟音。
白。
そして――静寂。
その静寂の底で、
声がした。
ねぇ、ヴィクター。
とても近くて、
とても遠い声。
あなたは――
前を見て、歩いて。
過去はね、
必ず追いかけてくるわ。
罪も、後悔も、
失ったものも。
それでも、
振り返らないで。
それは――
あなたが生きている証だから。
中心で、エルネスタの身体が、崩れ始めた。
灰が、胸元まで崩れる。
それでも、彼女は微笑んだ。
「――愛してるわ」
声は、驚くほど穏やかだった。
エルネスタはラインハルトを見た。
最後に、ヴィクターを見る。
「やっと……」
「やっと、あなたに――
この子を、託せるわ」
風が吹いた。
身体は音もなく崩れ、
人の形を保ったまま、静かに灰となる。
世界が、ひとつ息を吐いた。
――その瞬間。
外界。
Λ-11の群れが、赤い光を失った。
暴走していた個体が、一斉に沈黙する。
船長たちは、
必死に耐えながら、ついに限界を迎え――
「……終わりか……!」
誰かが目を閉じた、その刹那。
衝撃は、来なかった。
静寂。
波は収まり、
焼け焦げた甲板に、ただ風が吹く。
「……生きてる?」
誰かの声。
Λ-11は、完全に停止していた。
――核が、消えた。
再び、内側。
ヴィクターは、膝をついていた。
杖を落とし、
灰を見つめる。
「……エルネスタ……」
そのとき。
「久しぶりだね、父さん」
呼吸が、止まる。
「……ライン……ハルト……?」
少年は、灰を見て、静かに言った。
「母さんも、父さんも、俺を守ってくれた…」




