名を持つ者
甲板に倒れていた女の胸が、わずかに上下した。
かすかな呼吸に合わせ、瞼が震える。
血と灰にまみれ、蜘蛛の糸をまとったその姿は、
もはや人の形を保っているだけの存在だった。
船員たちのざわめきが強まる。
「生きてるのか?」
「本当に……人間なのか……?」
その中心で、女の唇が乾いた音を立てた。
「……わたしは……セラフィナ……」
波に溶けるような、か細い声。
だが確かに、その名は甲板にいる全員の耳へ届いた。
ざわめきが、ぴたりと止まる。
誰もが顔を見合わせる。
怯えと警戒がないまぜになり、
刃を握る手が小刻みに震えた。
「名を……?」
「蜘蛛の腹から出てきた女だぞ……」
「罠かもしれねぇ……」
怒声が飛び、空気が張り詰める。
パパタローは思わず息を呑んだ。
胃の奥が、嫌な感覚で締め付けられる。
ミレッタは一歩も動かず、セラフィナを見つめていた。
その瞳には、
“ただの人間ではない”と見抜くような、淡い警戒が宿っている。
リディアとカテリーナが同時に前へ出た。
リディアは静かな声で周囲を制し、
カテリーナはウォーハンマーを構えたまま、
船員たちを睨みつける。
「これ以上近づかないでください」
「判断は、上に任せます」
――そのとき。
ヴィクター・シルバーハートが、静かに一歩前へ進み出た。
杖を握り直し、その眼差しには、
迷いを断ち切った者だけが持つ確信が宿っていた。
「……名を持つ者は」
甲板全体が、彼の声に引き寄せられる。
「生きる意思を持つ者だ」
ヴィクターは、セラフィナを見下ろしながら続ける。
「この娘は“セラフィナ”と名乗った。それは、偶然ではない」
一拍。
「名を名乗れるということは、まだ自分を“個”として認識している証だ」
船員たちが息を詰める。
「ここで殺して、何を得る?得られるのは恐怖と後悔だけだ」
ヴィクターは顔を上げ、はっきりと言った。
「連れていく。共に進む。それが、この航海の意味だ」
静寂。
誰一人、すぐに反論できなかった。
その沈黙を、豪快な笑い声が破る。
「決まりだな!」
バルナーク船長が腹を叩いて笑い、
マントをばさりと脱ぎ捨てると、
倒れ伏したセラフィナの胸元へそっと掛けてやった。
「オレが連れてくと決めたら、それが船の意志だ!」
「逆らう奴は、この海に置いていくぜ!」
「がははははっ!
責任? そりゃヴィクターのあんちゃんに取ってもらう!」
「ひでぇ船長だ……」
船員たちが小声でぼやく。
張り詰めていた空気が、
不意に、ふっと緩んだ。
誰かが吹き出し、
次の瞬間、甲板には小さな笑いが広がる。
波音と笑い声に包まれながら、
セラフィナのまぶたが、ゆっくりと閉じた。
その名と存在は――
ひとまず、船の一員として受け入れられた。
誰もが、そう信じた。
ただ一人を除いて。
ヴィクター・シルバーハートは、
静かにその場に膝をつき、
セラフィナの胸元へ視線を落とした。
灰と血にまみれた布の隙間から、
微かな光が脈打っている。
それは、海の灯ではない。
魔石の輝きでもない。
理性では説明できぬ、
どこか懐かしく、
そして――忌まわしい脈動。
ヴィクターの瞳が見開かれた。
「……Λ(ラムダ)――だと?」
Λの残光が、確かに脈打っていた。




