踊る甲板フィドル
ざっくり解説
※フィドル:主に民謡や酒場、船上などで使われる弦楽器。
「じゃぁいっちょいってみるかぁーーーー!!!」
船長バルナークの一声が、甲板を突き抜けた。
それだけで十分だった。
空気が一段軽くなり、
船員たちの肩から、仕事の重さが抜け落ちる。
「おうよ!」
「待ってました!」
誰かが笑い、
誰かが樽を転がす。
甲板は、穏やかに揺れていた。
船はきしむこともなく、
帆は風を受けて素直に膨らみ、
波は規則正しく船腹を叩いている。
「……あれ?」
パパタローは船縁に寄りかかり、
一度、自分の体を確かめるように瞬きをした。
「気持ち悪くない」
「でしょう?」
ミレッタが得意げに頷く。
「今日は“当たり”ですわ。
揺れも素直、風も優しい。
船酔いする条件が、見当たりません」
「船って、もっと地獄だと思ってたんだけどな……」
「荒れる時は、もっと露骨ですもの」
潮の匂い。
木と鉄の混じった船の匂い。
悪くない。
むしろ、落ち着く。
そのとき、甲板の中央で
航海士イーヴァンがフィドルを構えた。
「風次第だぞ」
弓が弦に触れた瞬間、
きゅるり、と軽快な音が跳ねた。
波と同じ速さで、
旋律が甲板を転がる。
少し外れた、
だがやけに心地いいリズム。
自然と手拍子が起こり、
笑い声が重なる。
「いいねぇ!」
「酔いが飛ぶぞ!」
甲板の隅では、
寡黙な水夫ドランが樽を逆さにし、
無言で叩き始めていた。
ドン、ドン、と低い音。
揺れと同調する、安定した拍。
「おい、ドラン!
そんな芸、持ってたのか!」
返事はない。
ただ、リズムだけが続く。
その上に、
リディアの声が重なった。
「――風吹けば、帆は歌い
波は道を譲る」
即興だった。
歌とも語りともつかない。
だが不思議と、
フィドルの隙間にぴたりと収まる。
イーヴァンは一瞬だけ笑い、
弓の動きを合わせた。
「――刃を置け
盾を外せ
今日は、海に身を預けろ」
「おお……」
誰かが感心したように息を漏らす。
その拍子に、
ミレッタがぱっとパパタローの手を取った。
「さあ!」
「え、ちょ――」
「今ですわ。
考えると遅れます!」
有無を言わせず引っ張られ、
パパタローは半歩、前に出る。
フィドルの拍に合わせ、
ぎこちなく足を動かす。
右。
左。
一拍遅れて、また一歩。
「……あれ?
俺、全然酔ってない」
「でしょう?」
ミレッタは笑い、
くるりと一回転する。
スカートが揺れ、
影が甲板を踊った。
「むしろ、楽しいんだけど」
「今日は、良い日ですから」
周囲から冷やかしの声が飛ぶ。
「おーい、様になってるぞ!」
「落ちるなよ!」
笑い声が弾む。
種物の皿が回され、
薄めた酒が配られる。
コックが木べらを振り回し、
胸を張った。
「腹に入れとけ!
揺れてからじゃ遅ぇぞ!」
パパタローは笑いながら酒を受け取り、
一口だけ含んだ。
余裕がある。
不安はない。
少し離れた場所で、
ヴィクターだけが杖に体重を預け、
静かに様子を見ていた。
それに気づいた船長が声をかける。
「おい、じいさん。
そんな渋い顔してっと、酒が酸っぱくなるぞ」
ヴィクターは小さく肩をすくめた。
「……いい音だと思ってな」
「ほう?」
「船が、迷っていない音だ」
一瞬きょとんとしたあと、
バルナークは豪快に笑った。
「ははっ!
哲学だなぁ!」
「違う。
経験だ」
それだけ言って、
ヴィクターは再び海を見た。
フィドルは鳴り、
歌は続き、
樽の音が甲板を支える。
パパタローは船長バルナークの横で、
小さな杯を掲げていた。
「あーーー、お酒飲んでる!!」
甲板の向こうから、
ミレッタが目を見開いて叫ぶ。
「だ、だめでしょうが!!
十歳ですわよ! 十歳!!」
「え、いや、ほら……
ちょっとだけだって!」
「“ちょっと”の量ではありません!」
止めに入った時には、
もう遅かった。
パパタローは、
やけに饒舌になっている。
「いやぁ、でもさぁ……
酒ってのはな……
場の空気を読む潤滑油みたいなもんで――」
「中身が出てますわ!!」
「ほら、船長も飲んでるし!
これは文化交流だよ、文化交流!」
「十歳が言う言葉ではありません!」
足取りを誤り、
パパタローは甲板の上で大きく腕を振った。
「それにさぁ……
今回の航海、なんか――」
そこまで言ったところで。
――ゴツン。
鈍く、短い音。
「……調子に乗りすぎです」
いつの間にか、
カテリーナがそこに立っていた。
拳ではない。
手刀だった。
「未成年飲酒。
航海中の油断。
そして、うるさい」
簡潔な判決。
パパタローは
そのまま前のめりに倒れる。
「……あ、だめだ……
急に……眠い……」
「お子様は寝る時間です。」
それきり、
意識は落ちた。
「……しょうがない奴じゃの…。」
ぽつりと零れた声は、
いつものミレッタの口調ではなかった。
本人も、言ってから気づいたように、
小さく口をつぐむ。
ミレッタはあらためて息を整え、
彼の頭をそっと抱えた。
自分の膝の上に乗せ、
落ちないように支えた。
寝顔は、
年相応に無防備だった。
ミレッタは髪を整えながら、
小さく呟く。
「……お酒に飲まれては、だめですわ」




