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異世界スイートテイル 〜狐の嫁入りは誰にも見られてはいけない掟なのです(肉球マーク)。  作者: 2番目のインク
第二部:欠けた神の夢編

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船出

港町は、朝の光にきらめいていた。


夜中の雨が残した名残で、

街路樹の葉は、まだ少し濡れている。


風に揺れるたび、

葉先から雫が落ち、朝の光を受けてきらきらと弾けた。


川の水は澄み、

底の小石までくっきりと見えている。


潮の匂い。

焼きたてのパンの香り。

カモメの鳴き声。


船乗りがロープを引き、子どもたちが走り回り、

酒場の戸口からは、昨夜の名残の笑い声がこぼれている。


出航を前にした港は、

まるで祭りの朝のような賑わいに包まれていた。


その喧騒の先。

桟橋に静かに係留しているのは、

漆黒の船体を持つ一隻の大型帆船だった。


船首には、古代語で刻まれた名が、朝日を弾いている。


――〈Ragna Mareラグナ・マーレ

“終焉の海”。


かつて戦で沈みかけた軍艦の名。

それを私財で買い取り、何度も自らの手で修理したのが、

船長バルナークだった。


彼は船腹を叩き、誇らしげに笑う。


「ほぉら見ろ。

 まだ傷が残ってるだろ?」


ごつごつした木肌を、愛おしそうに撫でる。


「嵐の牙に噛まれた証だ。

 いい女ってのは、傷があってこそだぜ」


カテリーナが、白い手袋を正しながら淡々と返す。


「……随分と手のかかる“女房”ですこと」


「おうよ!」


バルナークは胸を張った。


「正式名は“ラグナ・マーレ”だがな。

 呼びづれぇ。

 俺たちは“セレナ”って呼んでる」


リディアが、マストを見上げてくすりと笑う。


「“終焉の海”を“セレナ”。

 ずいぶんロマンチックですね」


バルナークは肩をすくめて笑った。


「女ってのは、呼び方ひとつで機嫌が変わるもんさ。

 なめてかかると、えらい目にあうぞ。

 あんたも女だから、わかるだろ?」


リディアは否定も肯定もせず、ただ微笑む。


バルナークは舵をぽんと叩いた。


「なぁ、セレナ。

 今日も風を頼むぜ」


ミレッタは一歩後ろで、ぎこちなく一礼する。


青緑の瞳を揺らしながら、つい、口を滑らせた。


「……泣かせたら、沈むのですね」


一瞬、静寂。


そして――


カテリーナが視線を伏せ、口元を押さえた。


「……失礼」


声は低く、だが確かに笑いを含んでいる。


リディアは隠す気もなく、肩を揺らした。


「ふふ……新人さん、切れ味がいいですね」


「も、申し訳ありません……!」


慌てて背筋を伸ばすミレッタに、

バルナークは豪快に笑った。


「ははっ! 違いねぇ!

 だがな、それでも直すし、乗るし、惚れてる!」


その能天気な声に、

港の空気が一瞬、和らぐ。


桟橋では、すでに動きが始まっていた。


塩漬けの肉樽、水袋、乾いたパンの袋。

それらが無言で手渡され、

無言のまま、船へと運び込まれていく。


ロープが張られ、滑車が軋み、

荷はひとつ、またひとつ、

セレナの腹へと飲み込まれていった。


――どん。


荷物が、やや乱暴に置かれる。


「……?」


その奥で、

小さく――


「痛っ」


(……気のせいか)


「こら、そこのあなた!

もっと丁寧に置きなさい!」


桟橋の向こうから、リディアの声が飛んだ。


「へーい」


ひげ面の男が、間の抜けた返事をする。


桟橋に立ったパパタローは、

セレナを見上げ、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


(……来なかったな、ルミエル)


未練を断ち切るように、

視線を前へ向ける。


そのとき――


「……あれ」


ミレッタが、誰よりも早く、水平線を見つめていた。


子どもが指をさす。


「ねえ! 雲、蜘蛛みたいだ!」


ざわめきが、波のように広がる。


巨大な雲が、ゆっくりと――

身じろぎした。


次の瞬間。


島の方角から、

赤い光が、にじむように溢れ出す。


ドォン――。


低く、腹の底を揺らす音。


赤い光の柱が天を貫き、

海が、真紅に染まった。


歓声が、悲鳴に変わる。


カモメが次々と墜ち、風が止み、波が凍りつく。


港が、音のない世界に沈む。


「……終わったのか?」


誰かの安堵の声。


――その直後。


悲鳴めいた甲高音が空気を切り裂き、

一拍遅れて、腹を殴る低音が ドォンッ!! と炸裂した。


裂けた雲の奥から、

黒く巨大な“脚”が、もはや戻る場所を失った肢体のように墜落した。


港の中央へ――突き刺さる。


倉庫は内側から破裂し、

魚油と火薬が混じり合って爆ぜた。


炎と黒煙が噴き上がり、

その影から、

瓦礫と化したがらくたが、見境なく空から落ちてくる。


パパタローは反射的にミレッタを抱き寄せ、

頭を胸元に押さえ、両腕で庇った。


「――うっ……」


「大丈夫か、ミレッタ!」


「……く、苦しいです……!」


「……ごっ、ゴメン!」



蜘蛛の脚には、無数のゴブリンの死骸が絡みついていた。

血に濡れ、砕け、引き延ばされた肢体。


だが――

それらは、ただ無秩序に付着しているのではなかった。


波が寄せ、

引き、

また寄せるたびに。


死骸の腕が、

ゆっくりと、同じ角度で揺れた。


まるで、

波に操られているかのように。


その動きは、不思議なほど揃っていて、

港に向かって、何度も、何度も――


招いていた。


それは偶然ではない。

崩れた配置でも、事故でもない。


潮に合わせて、

腕が上がり、

腕が下がる。


——“手招きする腕”。


パパタローの喉が、ひくりと鳴った。


(……呼んでいる)


波が打つたび、

その“招き”は、少しずつ、確かさを増していった。



背筋を、冷たいものが走る。


(……呼んでいる)


炎と煙の中、

一歩、前に出たのはヴィクターだった。


炎を背に、

微動だにせず、静かに言い放つ。


「これは“招き”だ」


誰も、言葉を挟めない。


「退く理由はない」


赤い光を映すその瞳には、

迷いも、恐れもなかった。


「進むぞ。

 我らが探す真実は、この先にある」


その声に、港がざわついた。


「よせ……島には行くな!」


潮に焼けた老人が、人垣の奥から叫ぶ。


「戻ってきた船を、わしは一度も見たことがない……!」


だが――


船は動き出す。


赤く照り返す海へ、

〈ラグナ・マーレ〉は、静かに滑り出した。


バルナークが、舵を握りながら笑う。


「なぁに、手招きされるうちは――

 まだ、沈まねぇってことさ!」


――こうして、彼らの航海は始まった。

誰ひとり、引き返す気などなかった。





「ミレッタ」


低く、よく通る声。

カテリーナだった。


「……いいかげん、パパタローさんから離れなさい」


その一言で、

ミレッタははっと我に返り、慌てて身を離した。


甲板に、違う緊張が戻る。

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