招く影
「ねぇ、パパ。パパ!」
砂を蹴る足音と一緒に、弾んだ声が響いた。
「なんだい?」
「あれ見てよ! 雲が生き物みたい! すごーい!」
父は娘の指先を追い、空を仰ぐ。
「……本当だ。これは驚いたな」
南国の陽光を受けて、空には巨大な白い雲が浮かんでいた。
あまりにも大きく、あまりにも輪郭がはっきりしていて――どこか、蜘蛛を思わせる形をしている。
だが雲は、ただそこに在り続けるだけだった。
流れもせず、崩れもせず、まるで空に縫い留められているかのように。
浜辺の少し離れた場所で、数人の使用人が控えていた。
白い日傘の下、風に揺れるスカートの影だけが砂に落ちている。
彼女たちは声を出さず、ただ“見てはいけないもの”を遠巻きに見守っていた。
最初のうち、人々は足を止め、空を指さし、口々に騒いだ。
だがやがて、その異様さも日常に溶けていく。
「変な雲だな」
「まあ、珍しいだけだろう」
驚きは薄れ、話題にもならなくなった。
――それから、しばらくして。
異変に最初に気づいたのは、浜辺を走り回っていた少年だった。
「ねぇ! 見て! 雲、動いてる!」
その声に、近くにいた人々が一斉に空を見上げる。
確かに、雲がゆっくりと形を変えていた。
まるで意思を持つかのように、輪郭を組み替え、何かを描こうとしている。
「……文字か?」
「いや、絵……?」
雲はやがて、一つの形に落ち着いた。
巨大な“手”。
空いっぱいに広がる白い掌が、ゆっくりと――ある方向を指し示していた。
「なんだ……あれ……?」
人々の視線が、その先へと集まる。
街の外れ。
椰子の林を越えた向こうに広がる、深い森。
普段は静かで、人寄せつかぬその森の奥から、その日だけは、かすかな赤い光が漏れていた。
「……森が、光ってる?」
ざわめきが広がる。
だが、誰一人として足を踏み出そうとはしなかった。
その森には、昔から言い伝えがあった。
入った者は戻らない。
“招かれた者”しか、生きては帰れない――と。
「どうするの、パパ?」
娘が不安そうに父の手を握る。
「どうするも何も……行くわけにはいかないさ」
そう答えながらも、父の視線は森から離れなかった。
声には、かすかな迷いが滲んでいた。
そのとき――
彼の背後で、柔らかく、しかしはっきりとした声が落ちる。
「……呼ばれているのは、あの森ではありませんわ」
エルネスタだった。
誰に言うでもなく、空を見つめたまま。
その言葉の意味を、彼女自身も説明しなかった。
一瞬の沈黙。
そして、人垣の中から一人の青年が歩み出る。
「俺が見てくる」
静かな声だった。
「無茶だ!」
「やめとけ!」
周囲が一斉に止めるが、青年は首を振る。
「誰かが行かなきゃ、このままだろ」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
青年はそれ以上何も言わず、赤く光る森へと歩き出す。
すると――
その背を追うように、一匹の犬が駆け出した。
サファイアのように澄んだ青い瞳を持つ、大きな犬だった。
「サフィル! 戻ってきなさい!」
少女の声が響く。
だがサフィルは振り返らない。
少女は一瞬だけ父を見上げ、そして――その手を振りほどいた。
「待て! 危ないぞ!」
父の叫びも届かず、少女は犬を追って森へと駆け込んでいく。
赤い光に包まれた木々の間へ。
二つの小さな影は、あっという間に見えなくなった。
浜辺の遠景で、メイドの一人が思わず一歩踏み出しかけ、
すぐに足を止めた。
その影だけが、長く砂に伸びていた。
残された人々は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
――森の奥にあるものは何か。
雲が指し示した“招き”の正体とは何なのか。
やがて、空の雲はゆっくりと元の形へ戻っていく。
何事もなかったかのように。
沈黙を装うように。
森の謎を解き明かす者が現れる、その時まで――。




