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異世界スイートテイル 〜狐の嫁入りは誰にも見られてはいけない掟なのです(肉球マーク)。  作者: 2番目のインク
第一部:狐嫁と光の祭り・災の神編

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光の祭り⑧~涙呼ぶ名、影は散りて

ルミエルが駆けてきた。

さっきまで災いの神スサノロキを退けたばかり──

泣き顔のまま、安堵と喜びをごちゃ混ぜにした表情で。


少し離れた場所で、カリンとムニンがその様子を見守っていた。

ムニンの尾が、どこか落ち着きなく揺れている。


パパタローは、胸の奥がほどけるのを感じた。


(終わったんだ……生きて……ルミエルも無事で……)


反射的に、彼女を抱きとめた。


その瞬間──

背筋が氷でなぞられたような違和感が走り、顔が歪んだ。


脇腹に、禍裂まがさきの小刀が深く刺さっていた。

刃が肉を割く感覚より、ルミエルの手が“そこにある”ことのほうが信じられない。


パパタローの腕の中で、ルミエルが小さく震えた。


「パパタロー!?」「タロッち!!」


カリンとムニンが同時に駆け出そうとした、その時だった。


二人の足元から影が立ち上がり、そっとその行く手を塞ぐ。

黒い幕がひらりと舞い上がり、カリンとムニンの肩へ静かにかかった。


「……ここから先は、“印”持ちのあなた様方が出てはなりません」


耳元で囁いたのは、クレハの声だった。


「クレハ……?」カリンが振り向く暇もなく、影の子守歌が意識を包み込む。


「しばし、お眠りくださいませ。狙いは、ルミエル様と……あの方の《印》ですから。あなたの印は次です。」


カリンとムニンの身体が力を失い、その場に崩れ落ちる。

だが地面に触れる前に、影がふわりと抱きとめ、木陰の安全な場所へと滑らせていった。


そして──

ルミエルの口元がゆっくり開く。


最初は囁きだった。

自分自身にも聞こえていないような、かすれた声。


——奪え。

——印を取り戻せ。

——完全体に戻れ。

——あの男を壊せ。


「……う……あ……とり……もど……さねば……」


泣き顔のまま、喜びの余韻のまま。

声だけが、別の何かに侵食されていく。


その目はまだパパタローを見ているのに、

焦点だけが、深い深い闇の底へ沈んでいた。


その瞬間、光の谷を満たしていた光環こうかんに、

ミシリ……と細い亀裂が走った。

神話の柱に傷が入るような、冷たく乾いた音だった。


小刀は抜かれぬまま、脇腹に根を張るように突き立ち、

パパタローの身体は支えを失う。


「……っ、ぐ……!」


血の気が引いていく感覚が脚を襲い、

彼は大地に崩れ落ちるように膝をついた。


視界が揺れる。

呼吸が濁る。

それでも──

パパタローは、ルミエルを見上げた。


「ル……ミ……エル……?」


彼女は泣き顔のまま、笑顔のまま、

それでいて“誰かの言葉”を口の端から漏らし続けていた。


——奪え。

——印を取り戻せ。

——あの男を壊せ。


かすれた声が、ひび割れた呪詛のように重なり、

ルミエル自身の声と、もう見分けがつかない。


その瞳だけが、

パパタローを見ていながらも、

パパタローを見ていなかった。


「……なんで……だよ……ルミ……エル……」


世界が傾く。

だが、見上げる視線だけは逸らせない。

“あの子”を手放すわけにはいかないから。


少女は、震える声で叫んだ。


「妾はルミエルなどではない!

 スサノロキ様の“災審さいしんの器”──

 ヴェルカじゃ!」


五本の尾が逆立ち、災の青い火が散る。


だがその表情は、怒りに染まりながらも、どこか泣き出しそうでもあった。


ルミエルの喉の奥から、

幼い声と神の声がぐしゃりと混ざったような音が漏れる。


黄金の瞳がすうっと細まり、

頬を伝う涙だけは、まだルミエルのものなのに──

その表情は、まったく別の存在のものだった。


「返してもらうぞ……」

「わらわの《しるし》……」

災審さいしん様が……待っておられるのじゃ……ッ」


言葉のたびに、空気がひび割れるような圧が走る。


“災”を審き、“印”を正しき持ち主へ戻す。

そんな不条理な理が、ルミエルの小さな身体から溢れ出していた。


彼女の手に握られた禍裂まがさきの小刀が、

パパタローの血を吸い上げるように黒く脈打つ。


パパタローは膝をつき、

刺された脇腹を押さえながら、震える声を絞り出した。


「……ルミ……エル……やめ、ろ……」


だがルミエルは、涙で濡れた頬のまま微笑を浮かべた。


それは、彼女の意思ではない“誰か”の笑み。


ルミエルの小さな身体が、

信じがたい力でパパタローを押し倒した。


背中が地面に叩きつけられ、

息が止まりそうになる。


ルミエルの両目は涙の跡を残したまま、

しかしその奥には、まるで別の“意志”が燃えていた。


「返すのじゃ……」

「わらわの……印を……」

災審さいしんの座へ……揃えるために──」


そして。


彼女はゆっくりと、小刀を構えた。


切っ先がパパタローの右目へ向けて降りていく。

禍裂まがさきの刀身が、血を欲しがるように低い音を響かせた。


パパタローは身をよじろうとしたが、

ルミエルの腕は異様なほど強く、びくともしない。


刃先が、まつ毛の距離まで迫った──


だが、そこで止まった。


ぴたり、と。


時間そのものが固まったかのように、動きが消える。


パパタローの視界に、ぽたり、と温かい雫が落ちた。

それは、自分のものではなかった。


刃先はまつ毛に触れんとする位置で静止している。

だが、その停止の理由は──力ではない。


「……泣いてるじゃないか……」


パパタローは絞り出すように呟いた。


見上げた先で、

ルミエル──いや、ヴェルカの瞳から、


金色の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていた。


ヴェルカの唇がかすかに震える。


小刀を握る手は、なおパパタローを押さえつけているのに、

その表情は、罪を犯す直前の子どものように歪んでいた。


「……やめ……たい……のに……」

「殺したく……ないのに……」


その声は、誰のための声でもない。

彼自身の心の奥底──

呪縛の向こう側に隠れていた“本当のヴェルカ”の声だった。


ヴェルカの涙がぽたぽたとパパタローの頬に落ち、

そのたびに小刀がわずかに震える。


まるで、涙の重みすら支えきれないほど、

彼の内側で何かが激しくせめぎ合っているかのようだった。


「……助けて……」

「……わらわを……助けて……パパタロー……」


その瞬間、禍裂まがさきの刃に走っていた禍々しい光が、

一瞬だけ、しゅん、と弱まった。


涙が落ちるたびに、

災いの呪縛が削れていく。


止めたのは力ではない。

戦いでも、抗いでもない。


──涙だった。


彼自身の、真の感情が、呪縛に綻びを作っていた。


パパタローの喉が鳴る。

声にならない息が漏れる。


ここで手を伸ばさなければ、

目の前の少女は本当に壊れてしまう──そう悟った。


パパタローが膝をつくと、

脇腹の傷がじわりと泡立つように広がり始めた。

傷が治っていかない……。


(なぜだ……?この程度の傷なら、いつもならすぐに――)


体内の《印》が、いつも脈打つはずの暖かさを失い、冷たく沈黙している。

まるで、**ルミエル(ヴェルカ)の心から溢れる絶望**が、**彼の「印」の力の源を凍結させた**かのようだった。


血は赤ではなく、紫に濁り、皮膚の縁が黒く崩れてゆく。

“腐敗”だった。これは単なる毒ではない。

**愛する者の手によってもたらされた、魂の力の拒絶**だった。


パパタローの呼吸は浅く、

身体は痛みではなく、“冷え”に蝕まれていた。


それでも逃げない。


ヴェルカは叫ぶ。

その声には、別人の怒りと、ルミエルの涙が重なっていた。


「近寄るなァ!!

 わらわは……災……

 あなたなど斬り捨てて……!」


だが、禍裂を構えた腕が震える。

刃先がパパタローへ向かおうとして──止まった。


「なぜ……向かぬ……っ……!」


ルミエルの奥の声が、嗚咽に変わる。


「どうして……どうして刺せないの……!

 わたしは……わたしは……!」


涙が、災の青を揺らした。


パパタローは立ち上がろうとするが、

腐敗は進行し、力が抜けていく。


「お前を泣かす奴、ゆるせねぇーな……あのギョロ目がよ……」


声はかすれ、立っているのが奇跡だった。


それでも──叫ぶときだけは違った。


身体は弱っても、魂は折れていない。


パパタローは血で濡れた足元を踏みしめ、

ヴェルカ(ルミエル)を真っすぐに見据えた。


そして。


「お前はヴェルカじゃねぇ!!」


谷が震えた。


腐敗に蝕まれ、呼吸すらままならない身体から、

ありえないほどの声が絞り出される。


「ルミエルだッ!!

 俺の……嫁だ!!」


その叫びは、災の青を裂いた。


ルミエルの瞳が大きく揺れ、

堰を切るように涙が溢れた。

金色の涙がこぼれ、翠色の瞳へと戻っていく。


「パパタロー……っ!!

 すっ、すまぬ……妾は……!」


崩れ落ち、涙が地面に落ち続ける。


その涙を踏みにじるように──


ズズ……ッ。


大地が沈み、黒い裂け目が開いた。


焦げた血肉の匂い。

腐敗した風。

そして四つ這いの影。


スサノロキ。


「影娘の反逆は失敗かぉ……?

 尾も喰えなんだ……つまらんのぉ」


ルミエルを見ると、ニタリと笑う。


「翠狐は戻らんか……ならば──

 ヴェルカを喰らうのみぃぃ!!」


そのギョロ目が、ちらりと木陰をかすめた。

そこには眠るカリン──“もう一つの印”がある。

しかし、今の興味は目の前の器にしか向いていない。


ルミエルは震え、パパタローを見た。


パパタローは、もはや立っているのが奇跡だった。


それでも、ギョロ目の神から視線を外さない。


スサノロキの口元が、にたぁ、と裂けた。


「翠狐は戻らんか……ならば──

 せめて“器”だけでも喰らい尽くすまでぃぃ!!」


四つ這いの影が、地をえぐる勢いで跳んだ。

爪がヴェルカへ襲いかかる。


「……させ……るかよ……」


パパタローの身体が、反射的に前へ出た。

自分でも、どうやって立っているのか分からない。


スサノロキが鼻を鳴らし、舌をだらりと垂らした笑みを浮かべる。


「立っているだけで精一杯のお前に、いったい何ができるというのぉ……?」


パパタローは、わずかに口角を上げた。


「さあな……」


その指先が、ゆらりと宙をなぞる。


「……ウォーターボール。

 ──フタ付きで」


空気が“ひっくり返った”ような音がした。

スサノロキの周囲に、透明な水膜が瞬時に閉じ、球体の檻となった。


ぐにゃりと世界が歪み、スサノロキの姿が水越しに揺れる。


「なんだこれわぉ……?」


スサノロキが目を瞬かせた、その頭上。


水面の上──ぽうっと火が灯った。

ファイヤーボール。それも、水球の外ではなく“上部に固定されている”。


ゆらめく火が、水膜の内側へと酸素を吸い込み、燃焼音が低く響く。


きらきら、と。

水膜が光を反射し、まるで美しい灯籠のように揺れた。


「……きれいだろ。

 俺の……最後の悪あがきだよ……」


スサノロキの表情が変わる。


「ぉ……おい……なんじゃこれ……

 息が──……ぉ、ぉわッ……!」


火球は燃えるたびに酸素を奪い、

密閉された水球の内部はみるみる白く曇っていく。


呼吸ができない。

影も集えない。

災の神でさえ、苦悶へと追い込まれていく。


「く……るし……ッ……ぉま……ぬ……破れ……んのかこれぇ……!」


スサノロキが狂ったように水膜を引き裂こうと拳を叩きつける。

だがウォーターボールは“燃焼優先の結界式”。

外からの物理は通らない。


しかし──。


パパタローの膝が、ぐらりと折れた。


「……っ……が……!」


スサノロキが苦しむ分だけ、火球は酸素を奪い続ける。

同時に、その維持はパパタローの魔素を容赦なく食い潰していた。


視界の端が暗くなる。

耳鳴りがひどい。

右目の《印》が、じわりと色を失っていく。


(……やべ……これ……

 マジで……酸欠球……)


口に出した覚えはないのに、

喉の奥でそんな言葉が転がった。


ルミエルが青ざめた顔で叫ぶ。


「パパタローっ……! やめてっ! 死んじゃう!」


「……やめなさい、パパタロー殿」


どこからか、低い声が落ちてきた。

ヴィクターだ。


バシュゥゥゥン──ッ!!


白銀の魔力杭が、水球ごと火球を貫き、

魔法構造を一撃で“破壊”した。


水膜は砕け散り、火球は消え、

スサノロキの身体が地面へ転がり出る。

咳き込み、濁った息を吐く。

喉を焼かれ、目をぎょろつかせながらも、まだ死んではいない。


パパタローは地に崩れ落ちながら、かすかに笑った。


「あと少しだったのにな……」


しかしその顔色は、もはや人のものではなかった。

紫に濁った血、腐敗する傷。

あと一押しで、本当に命が落ちていた。


「命を賭ける戦い方は、英雄のそれですが──

 愚かでもありますよ、パパタロー殿」


誰にともなく、白銀のどこかから声が響いた。


黒い影が、じりじりとにじり寄る。

ルミエルは震え、倒れかけたパパタローの肩を必死に支えた。


「パパタローを……これ以上、いじめるな……!」


スサノロキの爪が、再びヴェルカ──ルミエルへ向けて伸びる。


その瞬間。


空気を裂いて、影が跳んだ。


「──そこまでです!!」


クレハだった。


主の涙を見て、影の掟などどうでもよかった。


「スサノロキッ……!!

 あなたを……赦しません!!」


「ほぉ……影娘よ……

 わしに牙をむくかえ……?」


スサノロキが嘲笑うと同時に、クレハの影が膨張する。

黒い翼のように広がり、雷のような加速でスサノロキへ突っ込んだ。


「ルミエル様を……守るのは……

 わたくしの……本懐……!」


衝突の刹那、影の短剣がスサノロキの胸へ一寸だけ刺さる。


スサノロキの腕が閃いた。


ズブッ。


黒い爪が、クレハの胴を貫いた。


ルミエルが絶叫する。


「クレハぁぁぁああ!!」


影の身体が光に焼かれ、黒い糸となって散ってゆく。


クレハは、微笑んでいた。


「……ルミエル様……

 どうか……幸を……」


そしてクレハは──消えた。


クレハが散ったあと、

ルミエルは涙で顔を濡らしながら、パパタローを抱きしめていた。


スサノロキの影が、にじり寄る。


「さあ……喰らうとしようかのぉ……

 その涙、実に……美味そうじゃぁ……。

 そうか、男のお前もついでに喰えば、同じかぉ」


爪が、ルミエルの喉元へ伸びる。


その瞬間。


空気が破裂した。


バァン──ッ!!


白銀の魔力奔流が、横一線に吹き抜けた。

音ではない。圧だ。

谷そのものの重力がねじ曲がったような衝撃。


スサノロキの身体が数メートル弾き飛ばされ、

地面へ叩きつけられる。


「ぐッ……!? な、何じゃあ今のは……!」


白い火花が空中に散り、

そこへ一人の男が歩み出た。


外套の裾が静かに揺れ、

靴音すら音を吸う。


ヴィクター・シルバーハート。


「……っは……シル……バーハート……様……?」


ルミエルが、涙に震える声で呼ぶ。


シルバーハートは返事をしない。

代わりに右腕をわずかに上げた。


ただ腕を上げただけ。

だが──


空気が“悲鳴”をあげた。


スサノロキが顔をゆがめる。


「やめぬかぁ!! その魔力……わしの配下風情がッ!」


シルバーハートは静かに言った。


「距離を置け。

 さもなくば──今度は当てる。」


低く、冷え切った声だった。


スサノロキが跳ね起きる。


「フン……忘れたか、ヴィクター。

 お前の力は元を辿れば“わし”が──」


言葉の途中。


シルバーハートの指先が、ほんの少しだけ動いた。


瞬間、

白銀の衝撃柱がスサノロキの足元を爆ぜる。


ズドォォォン!!


大地がひっくり返るような爆裂音。

灰の奔流。

災の神でさえ、よろめき、後退する。


「っ……この……小僧がァ!!

 主に向けて魔法をぶっ放すかァぁ!!」


「元主です。」


一切の情がない声。


スサノロキはしばし睨み合ったあと、

舌打ちして闇へ一歩下がる。


「よい……今日のところは退くぉ……

 だが覚えておけぇ、シルバーハートよぉ……」


裂け目が開く。


「翠狐も、その夫も……

 次は必ず喰らい尽くす……」


影が沈んだ。


静寂が戻る。


シルバーハートは息をひとつ吐き、

崩れ落ちるパパタローの傍に跪いた。


「……間一髪でした。

 あのままでは、本当に命を奪われていた。」


ルミエルが、涙で顔を濡らしたまま叫ぶ。


「シルバーハート様……助けて……!

 パパタローが……死んじゃう……!」


シルバーハートは静かに頷いた。

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