光の祭り⑧~涙呼ぶ名、影は散りて
ルミエルが駆けてきた。
さっきまで災いの神スサノロキを退けたばかり──
泣き顔のまま、安堵と喜びをごちゃ混ぜにした表情で。
少し離れた場所で、カリンとムニンがその様子を見守っていた。
ムニンの尾が、どこか落ち着きなく揺れている。
パパタローは、胸の奥がほどけるのを感じた。
(終わったんだ……生きて……ルミエルも無事で……)
反射的に、彼女を抱きとめた。
その瞬間──
背筋が氷でなぞられたような違和感が走り、顔が歪んだ。
脇腹に、禍裂の小刀が深く刺さっていた。
刃が肉を割く感覚より、ルミエルの手が“そこにある”ことのほうが信じられない。
パパタローの腕の中で、ルミエルが小さく震えた。
「パパタロー!?」「タロッち!!」
カリンとムニンが同時に駆け出そうとした、その時だった。
二人の足元から影が立ち上がり、そっとその行く手を塞ぐ。
黒い幕がひらりと舞い上がり、カリンとムニンの肩へ静かにかかった。
「……ここから先は、“印”持ちのあなた様方が出てはなりません」
耳元で囁いたのは、クレハの声だった。
「クレハ……?」カリンが振り向く暇もなく、影の子守歌が意識を包み込む。
「しばし、お眠りくださいませ。狙いは、ルミエル様と……あの方の《印》ですから。あなたの印は次です。」
カリンとムニンの身体が力を失い、その場に崩れ落ちる。
だが地面に触れる前に、影がふわりと抱きとめ、木陰の安全な場所へと滑らせていった。
そして──
ルミエルの口元がゆっくり開く。
最初は囁きだった。
自分自身にも聞こえていないような、かすれた声。
——奪え。
——印を取り戻せ。
——完全体に戻れ。
——あの男を壊せ。
「……う……あ……とり……もど……さねば……」
泣き顔のまま、喜びの余韻のまま。
声だけが、別の何かに侵食されていく。
その目はまだパパタローを見ているのに、
焦点だけが、深い深い闇の底へ沈んでいた。
その瞬間、光の谷を満たしていた光環に、
ミシリ……と細い亀裂が走った。
神話の柱に傷が入るような、冷たく乾いた音だった。
小刀は抜かれぬまま、脇腹に根を張るように突き立ち、
パパタローの身体は支えを失う。
「……っ、ぐ……!」
血の気が引いていく感覚が脚を襲い、
彼は大地に崩れ落ちるように膝をついた。
視界が揺れる。
呼吸が濁る。
それでも──
パパタローは、ルミエルを見上げた。
「ル……ミ……エル……?」
彼女は泣き顔のまま、笑顔のまま、
それでいて“誰かの言葉”を口の端から漏らし続けていた。
——奪え。
——印を取り戻せ。
——あの男を壊せ。
かすれた声が、ひび割れた呪詛のように重なり、
ルミエル自身の声と、もう見分けがつかない。
その瞳だけが、
パパタローを見ていながらも、
パパタローを見ていなかった。
「……なんで……だよ……ルミ……エル……」
世界が傾く。
だが、見上げる視線だけは逸らせない。
“あの子”を手放すわけにはいかないから。
少女は、震える声で叫んだ。
「妾はルミエルなどではない!
スサノロキ様の“災審の器”──
ヴェルカじゃ!」
五本の尾が逆立ち、災の青い火が散る。
だがその表情は、怒りに染まりながらも、どこか泣き出しそうでもあった。
ルミエルの喉の奥から、
幼い声と神の声がぐしゃりと混ざったような音が漏れる。
黄金の瞳がすうっと細まり、
頬を伝う涙だけは、まだルミエルのものなのに──
その表情は、まったく別の存在のものだった。
「返してもらうぞ……」
「わらわの《しるし》……」
「災審様が……待っておられるのじゃ……ッ」
言葉のたびに、空気がひび割れるような圧が走る。
“災”を審き、“印”を正しき持ち主へ戻す。
そんな不条理な理が、ルミエルの小さな身体から溢れ出していた。
彼女の手に握られた禍裂の小刀が、
パパタローの血を吸い上げるように黒く脈打つ。
パパタローは膝をつき、
刺された脇腹を押さえながら、震える声を絞り出した。
「……ルミ……エル……やめ、ろ……」
だがルミエルは、涙で濡れた頬のまま微笑を浮かべた。
それは、彼女の意思ではない“誰か”の笑み。
ルミエルの小さな身体が、
信じがたい力でパパタローを押し倒した。
背中が地面に叩きつけられ、
息が止まりそうになる。
ルミエルの両目は涙の跡を残したまま、
しかしその奥には、まるで別の“意志”が燃えていた。
「返すのじゃ……」
「わらわの……印を……」
「災審の座へ……揃えるために──」
そして。
彼女はゆっくりと、小刀を構えた。
切っ先がパパタローの右目へ向けて降りていく。
禍裂の刀身が、血を欲しがるように低い音を響かせた。
パパタローは身をよじろうとしたが、
ルミエルの腕は異様なほど強く、びくともしない。
刃先が、まつ毛の距離まで迫った──
だが、そこで止まった。
ぴたり、と。
時間そのものが固まったかのように、動きが消える。
パパタローの視界に、ぽたり、と温かい雫が落ちた。
それは、自分のものではなかった。
刃先はまつ毛に触れんとする位置で静止している。
だが、その停止の理由は──力ではない。
「……泣いてるじゃないか……」
パパタローは絞り出すように呟いた。
見上げた先で、
ルミエル──いや、ヴェルカの瞳から、
金色の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていた。
ヴェルカの唇がかすかに震える。
小刀を握る手は、なおパパタローを押さえつけているのに、
その表情は、罪を犯す直前の子どものように歪んでいた。
「……やめ……たい……のに……」
「殺したく……ないのに……」
その声は、誰のための声でもない。
彼自身の心の奥底──
呪縛の向こう側に隠れていた“本当のヴェルカ”の声だった。
ヴェルカの涙がぽたぽたとパパタローの頬に落ち、
そのたびに小刀がわずかに震える。
まるで、涙の重みすら支えきれないほど、
彼の内側で何かが激しくせめぎ合っているかのようだった。
「……助けて……」
「……妾を……助けて……パパタロー……」
その瞬間、禍裂の刃に走っていた禍々しい光が、
一瞬だけ、しゅん、と弱まった。
涙が落ちるたびに、
災いの呪縛が削れていく。
止めたのは力ではない。
戦いでも、抗いでもない。
──涙だった。
彼自身の、真の感情が、呪縛に綻びを作っていた。
パパタローの喉が鳴る。
声にならない息が漏れる。
ここで手を伸ばさなければ、
目の前の少女は本当に壊れてしまう──そう悟った。
パパタローが膝をつくと、
脇腹の傷がじわりと泡立つように広がり始めた。
傷が治っていかない……。
(なぜだ……?この程度の傷なら、いつもならすぐに――)
体内の《印》が、いつも脈打つはずの暖かさを失い、冷たく沈黙している。
まるで、**ルミエル(ヴェルカ)の心から溢れる絶望**が、**彼の「印」の力の源を凍結させた**かのようだった。
血は赤ではなく、紫に濁り、皮膚の縁が黒く崩れてゆく。
“腐敗”だった。これは単なる毒ではない。
**愛する者の手によってもたらされた、魂の力の拒絶**だった。
パパタローの呼吸は浅く、
身体は痛みではなく、“冷え”に蝕まれていた。
それでも逃げない。
ヴェルカは叫ぶ。
その声には、別人の怒りと、ルミエルの涙が重なっていた。
「近寄るなァ!!
わらわは……災……
あなたなど斬り捨てて……!」
だが、禍裂を構えた腕が震える。
刃先がパパタローへ向かおうとして──止まった。
「なぜ……向かぬ……っ……!」
ルミエルの奥の声が、嗚咽に変わる。
「どうして……どうして刺せないの……!
わたしは……わたしは……!」
涙が、災の青を揺らした。
パパタローは立ち上がろうとするが、
腐敗は進行し、力が抜けていく。
「お前を泣かす奴、ゆるせねぇーな……あのギョロ目がよ……」
声はかすれ、立っているのが奇跡だった。
それでも──叫ぶときだけは違った。
身体は弱っても、魂は折れていない。
パパタローは血で濡れた足元を踏みしめ、
ヴェルカ(ルミエル)を真っすぐに見据えた。
そして。
「お前はヴェルカじゃねぇ!!」
谷が震えた。
腐敗に蝕まれ、呼吸すらままならない身体から、
ありえないほどの声が絞り出される。
「ルミエルだッ!!
俺の……嫁だ!!」
その叫びは、災の青を裂いた。
ルミエルの瞳が大きく揺れ、
堰を切るように涙が溢れた。
金色の涙がこぼれ、翠色の瞳へと戻っていく。
「パパタロー……っ!!
すっ、すまぬ……妾は……!」
崩れ落ち、涙が地面に落ち続ける。
その涙を踏みにじるように──
ズズ……ッ。
大地が沈み、黒い裂け目が開いた。
焦げた血肉の匂い。
腐敗した風。
そして四つ這いの影。
スサノロキ。
「影娘の反逆は失敗かぉ……?
尾も喰えなんだ……つまらんのぉ」
ルミエルを見ると、ニタリと笑う。
「翠狐は戻らんか……ならば──
ヴェルカを喰らうのみぃぃ!!」
そのギョロ目が、ちらりと木陰をかすめた。
そこには眠るカリン──“もう一つの印”がある。
しかし、今の興味は目の前の器にしか向いていない。
ルミエルは震え、パパタローを見た。
パパタローは、もはや立っているのが奇跡だった。
それでも、ギョロ目の神から視線を外さない。
スサノロキの口元が、にたぁ、と裂けた。
「翠狐は戻らんか……ならば──
せめて“器”だけでも喰らい尽くすまでぃぃ!!」
四つ這いの影が、地をえぐる勢いで跳んだ。
爪がヴェルカへ襲いかかる。
「……させ……るかよ……」
パパタローの身体が、反射的に前へ出た。
自分でも、どうやって立っているのか分からない。
スサノロキが鼻を鳴らし、舌をだらりと垂らした笑みを浮かべる。
「立っているだけで精一杯のお前に、いったい何ができるというのぉ……?」
パパタローは、わずかに口角を上げた。
「さあな……」
その指先が、ゆらりと宙をなぞる。
「……ウォーターボール。
──フタ付きで」
空気が“ひっくり返った”ような音がした。
スサノロキの周囲に、透明な水膜が瞬時に閉じ、球体の檻となった。
ぐにゃりと世界が歪み、スサノロキの姿が水越しに揺れる。
「なんだこれわぉ……?」
スサノロキが目を瞬かせた、その頭上。
水面の上──ぽうっと火が灯った。
ファイヤーボール。それも、水球の外ではなく“上部に固定されている”。
ゆらめく火が、水膜の内側へと酸素を吸い込み、燃焼音が低く響く。
きらきら、と。
水膜が光を反射し、まるで美しい灯籠のように揺れた。
「……きれいだろ。
俺の……最後の悪あがきだよ……」
スサノロキの表情が変わる。
「ぉ……おい……なんじゃこれ……
息が──……ぉ、ぉわッ……!」
火球は燃えるたびに酸素を奪い、
密閉された水球の内部はみるみる白く曇っていく。
呼吸ができない。
影も集えない。
災の神でさえ、苦悶へと追い込まれていく。
「く……るし……ッ……ぉま……ぬ……破れ……んのかこれぇ……!」
スサノロキが狂ったように水膜を引き裂こうと拳を叩きつける。
だがウォーターボールは“燃焼優先の結界式”。
外からの物理は通らない。
しかし──。
パパタローの膝が、ぐらりと折れた。
「……っ……が……!」
スサノロキが苦しむ分だけ、火球は酸素を奪い続ける。
同時に、その維持はパパタローの魔素を容赦なく食い潰していた。
視界の端が暗くなる。
耳鳴りがひどい。
右目の《印》が、じわりと色を失っていく。
(……やべ……これ……
マジで……酸欠球……)
口に出した覚えはないのに、
喉の奥でそんな言葉が転がった。
ルミエルが青ざめた顔で叫ぶ。
「パパタローっ……! やめてっ! 死んじゃう!」
「……やめなさい、パパタロー殿」
どこからか、低い声が落ちてきた。
ヴィクターだ。
バシュゥゥゥン──ッ!!
白銀の魔力杭が、水球ごと火球を貫き、
魔法構造を一撃で“破壊”した。
水膜は砕け散り、火球は消え、
スサノロキの身体が地面へ転がり出る。
咳き込み、濁った息を吐く。
喉を焼かれ、目をぎょろつかせながらも、まだ死んではいない。
パパタローは地に崩れ落ちながら、かすかに笑った。
「あと少しだったのにな……」
しかしその顔色は、もはや人のものではなかった。
紫に濁った血、腐敗する傷。
あと一押しで、本当に命が落ちていた。
「命を賭ける戦い方は、英雄のそれですが──
愚かでもありますよ、パパタロー殿」
誰にともなく、白銀のどこかから声が響いた。
黒い影が、じりじりとにじり寄る。
ルミエルは震え、倒れかけたパパタローの肩を必死に支えた。
「パパタローを……これ以上、いじめるな……!」
スサノロキの爪が、再びヴェルカ──ルミエルへ向けて伸びる。
その瞬間。
空気を裂いて、影が跳んだ。
「──そこまでです!!」
クレハだった。
主の涙を見て、影の掟などどうでもよかった。
「スサノロキッ……!!
あなたを……赦しません!!」
「ほぉ……影娘よ……
わしに牙をむくかえ……?」
スサノロキが嘲笑うと同時に、クレハの影が膨張する。
黒い翼のように広がり、雷のような加速でスサノロキへ突っ込んだ。
「ルミエル様を……守るのは……
わたくしの……本懐……!」
衝突の刹那、影の短剣がスサノロキの胸へ一寸だけ刺さる。
スサノロキの腕が閃いた。
ズブッ。
黒い爪が、クレハの胴を貫いた。
ルミエルが絶叫する。
「クレハぁぁぁああ!!」
影の身体が光に焼かれ、黒い糸となって散ってゆく。
クレハは、微笑んでいた。
「……ルミエル様……
どうか……幸を……」
そしてクレハは──消えた。
クレハが散ったあと、
ルミエルは涙で顔を濡らしながら、パパタローを抱きしめていた。
スサノロキの影が、にじり寄る。
「さあ……喰らうとしようかのぉ……
その涙、実に……美味そうじゃぁ……。
そうか、男のお前もついでに喰えば、同じかぉ」
爪が、ルミエルの喉元へ伸びる。
その瞬間。
空気が破裂した。
バァン──ッ!!
白銀の魔力奔流が、横一線に吹き抜けた。
音ではない。圧だ。
谷そのものの重力がねじ曲がったような衝撃。
スサノロキの身体が数メートル弾き飛ばされ、
地面へ叩きつけられる。
「ぐッ……!? な、何じゃあ今のは……!」
白い火花が空中に散り、
そこへ一人の男が歩み出た。
外套の裾が静かに揺れ、
靴音すら音を吸う。
ヴィクター・シルバーハート。
「……っは……シル……バーハート……様……?」
ルミエルが、涙に震える声で呼ぶ。
シルバーハートは返事をしない。
代わりに右腕をわずかに上げた。
ただ腕を上げただけ。
だが──
空気が“悲鳴”をあげた。
スサノロキが顔をゆがめる。
「やめぬかぁ!! その魔力……わしの配下風情がッ!」
シルバーハートは静かに言った。
「距離を置け。
さもなくば──今度は当てる。」
低く、冷え切った声だった。
スサノロキが跳ね起きる。
「フン……忘れたか、ヴィクター。
お前の力は元を辿れば“わし”が──」
言葉の途中。
シルバーハートの指先が、ほんの少しだけ動いた。
瞬間、
白銀の衝撃柱がスサノロキの足元を爆ぜる。
ズドォォォン!!
大地がひっくり返るような爆裂音。
灰の奔流。
災の神でさえ、よろめき、後退する。
「っ……この……小僧がァ!!
主に向けて魔法をぶっ放すかァぁ!!」
「元主です。」
一切の情がない声。
スサノロキはしばし睨み合ったあと、
舌打ちして闇へ一歩下がる。
「よい……今日のところは退くぉ……
だが覚えておけぇ、シルバーハートよぉ……」
裂け目が開く。
「翠狐も、その夫も……
次は必ず喰らい尽くす……」
影が沈んだ。
静寂が戻る。
シルバーハートは息をひとつ吐き、
崩れ落ちるパパタローの傍に跪いた。
「……間一髪でした。
あのままでは、本当に命を奪われていた。」
ルミエルが、涙で顔を濡らしたまま叫ぶ。
「シルバーハート様……助けて……!
パパタローが……死んじゃう……!」
シルバーハートは静かに頷いた。




