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異世界スイートテイル 〜狐の嫁入りは誰にも見られてはいけない掟なのです(肉球マーク)。  作者: 2番目のインク
第一部:狐嫁と光の祭り・災の神編

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3/83

忘れられた庭

幽玄森ゆうげんのもり入口ぃ~。幽玄森入口~ぃ」


バス運転手のアナウンスが入った。


「お客さん、到着しましたよ」


ダミ声ではない、柔らかい女性運転手の声だ。

バス制服の胸元ふくよかには「吉田」と書かれた名札。

後ろで髪を束ね、「海沿うみぞい交通」のマーク入りの帽子をかぶっている。


(前のおじいちゃん運転手も吉田さんだったよな……顔、似てなくもないし。世代交代ってやつか)


このバスは、地元密着のミニバスだ。

満員になることは滅多になく、町のモールか病院か役場に行く時くらいしか、使う人はいない。


バスは海沿いを通り、森を抜け、町内を二時間おきに一周する。

俺は浜辺を見ていたら、いつものように安心しきって早々と寝落ちしてしまっていた。

乗る時の癖で、運転手さんには行き先を告げてある。

優しい吉田運転手さんは、ちゃんとバスを停めて起こしてくれたわけだ。


都会のバス事情は知らないが、うちのローカルバスは本当に親切だ。運賃も町民価格かみだ。

他所よその事情は知らないが……。


俺は白洲花しらすか太郎たろー

十四歳、中学二年生。


今から、勢いよく冒険に出ようとしている。


「吉田運転手! ありがとうございます!」


ズボンのポケットから五十円玉を出して、切符と一緒に運賃箱へ放り込み、バス停へ降りる。

その時――


「お客さん、待って!」


「釣りはいらねーぜ!!」


「いえ、ちょっと足りないんですが……」


「ん?」


バスの運賃表を見ると、貼り紙が目に入った。


『夏休み運賃。小学生~中学生までみんな50円!(五歳以下は無料)なお、犬は50円です』


「ほら」


吉田運転手さんが、俺の後ろを指さした。


「冒険!!!」

「タローにぃ、冒険!」

“An adventure!”

「わん!」


元気よく飛び降りてきた三人と一匹。


「沙織、幸恵、ノア、小太郎イヌ! なんでお前らがここにいる!?」


「だって、タローにぃに言おうとしたら、いびきかいて寝ちゃうんだもん!」


* * *


夏休みの宿題も終わり、やることもない。

家に閉じこもるのも飽きていた。


テレビでは、誰も真剣に見ていないのに「森へ行こう!」とキャンプ番組が流れていて、

唐突に「森に行きたい」という衝動に駆られた。


――ただし、キャンプをする気はなかった。そこは重要である。


釜に残っていたご飯をラップでくるんで、適当におにぎりを作り、

母親がおやつ用にストックしてくれていたのり塩ポテチ、冷たい麦茶を入れた水筒、

それから充電し損ねたスマホをリュックに詰めて、近所のバス停へ向かった。


「タロー、どこ行くん?」


道場へ向かう道着姿の母親に見つかった。

それを聞きつけた沙織、幸恵、ノア、小太郎イヌが、ぞろぞろと玄関から出てくる。


「ちょっと冒険にね!」


「タローにぃ、どこ行くの?」沙織(十歳)

「たろー、どこ行く?」幸恵(五歳)

“Taro, where are you going?”ノア(十二歳)

「わん?」小太郎イヌ・三年目


人の話を聞かない子らだ、本当に。頭を抱えた。


「タロー、家出か?」

「タロー、家出だよきっと」

“ Taro, you're such a coward.”

「わん?」


家出じゃないし。

しかもノアが何となく悪口を言っているのは分かる。


「Noah, what are you saying?(angry)」


“ Taro, where are you going?”


“ That's not it! The next line!”


だいたいお前、日本語話せるだろ!


「痛い痛い、ぐりぐりしないでぇ~!」


「いやー太郎は本当に愛されているねぇ。そこは母さんの誇りだよ」


俺の母親は、合氣道の師範だ。

ショートカットで姿勢に無駄がなく、雄々しいのに所作は綺麗で、動画サイト――特に海外からのフォロワーが絶えない。


「セイセイトショウブー」と片言で言いながら、異国の人が道場破り(?)に来ることもしばしば。

試合が終われば、冷たい甘酒と塩昆布を振る舞い、なぜか互いにリスペクトし合っている。


夏ともなると、地方から学生や社会人が合宿に来ては、投げ飛ばされて帰っていく。

海外からの客人は、円相場に応じて増減するらしいが、それでも客が途切れないのは、母親が謙虚で礼儀正しく、凛々しいからなのだろう。


道場で人が投げられているのを見て育った結果、

俺の身体には「反抗しても返り討ちにされる」という事実が深く刷り込まれている。

今は反抗期のはずだが、あまり過激に反抗しないのも、そのせいだ。たぶん。


自家製甘酒は好きだが、さすがに飲みすぎた。


「まぁ、行ってくるよ」


「太郎! 悩んでるんだね」


どうしてそうなる?


「戻ったら道場に来なさい。久しぶりに投げ飛ばしてやっから」


「投げとバァす!」

「あははは」

「わん」


バスが来た。


「ははは。バス停までお見送りありがとう!」


「気をつけるんだよ~」


……あれ? 静かだ。

「さぁ。稽古稽古」と言う母親の声が、遠ざかっていった……ような気がしたのだが――


* * *


――ということを思い出しながら、俺はしぶしぶ不足分の百五十円を吉田運転手さんに渡した。町民価格に助けられている。


吉田運転手さんはにこっと笑い、身をかがめて手を差し出した。


「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしておりますね。

 そうそう、帰りの時刻もちゃんと見ておいてくださいね。いってらっしゃーい」


手を振る吉田運転手さん。

バスはクラクションをひとつ鳴らし、四人と一匹を残して走り去っていく。


バスの後ろには「すいこの里」とラッピングされていて、

ニコッと笑うご当地キャラ「すいこちゃん」が、だんだん小さくなっていった。


「なんで、お前らがついてきてるんだ!!」


「沙織も冒険行くの!」

「幸恵も!」

「Me too!」

「わん!」


数秒間の沈黙。

じりじりと照りつける日差し、蝉の声、滴る汗。


「……はぁ」


着いてきてしまったものは、もうしょうがない。兄として冷静になって現実を受け止めた。

まずはバスの本数を確認――といっても、ほとんどない。


(最終、十八時かぁ……。九月からは十七時になるのか)


「念のため連絡しておくか」


俺はスマホを取り出し、母親に電話をかける。


一コールもしないうちに、母親が出た。


「あ。お母さん? 妹たちが着いてきてたんだけど……」


「ああ。沙織、幸恵、ノア、小太郎イヌいるよ」


「やっぱり~」


『沙織、幸恵、ノア、小太郎イヌ見つかった! 太郎とやっぱりいたわ!』

電話の向こうから、そんな声が聞こえてくる。


「悪いけど、今日は一緒に遊んでやって?」


楽しそうに騒いでいる妹たちを見たら、怒る気も失せた。


「……わかった」


「やったー冒険!」

「冒険!」

「ボウケン!」

「わん!」


* * *


幽玄森ゆうげんのもり入口には鳥居が立っていた。


『帝の愛妃「翠狐すいこ」は九尾の狐の化身でした。巫女がこれを見破り、武士が狐を退治すると、狐は毒を放つ石に変身しました。後に僧が一喝すると石は九つに割れ、妖石は各地に散らばり、その一つがこの地に残っています』


そんな伝説が、九尾の狐の可愛らしいキャラ「すいこちゃん」と共に書かれている。


「そっかぁ~。へぇ~。あるある~」


いつもの、そっけない同意の返事。


「お兄様! そういう白けた言動はおやめください」

「だから若者は! と言われるのですよ」


「誰だよ……」


一度、興味本位で森に入ったことがある。

妖石なんてものは見つからなかった。


(まぁ、物語性があったほうが有り難みが出るしな。地方再生ってやつだろ)


勝手にそう解釈した。


「そうだ! ちょっとしたゲームをしよう!」


「ゲーム?」


妹たちのテンションが、一気に跳ね上がる。


「どんな物でもいいから、赤色を見つけたら――無条件で、その方向に進む!」


思わず大声を出してしまい、慌てて周囲を見る。

……誰もいない。お地蔵さんだけだ。


いつもと同じ道を辿るのは退屈だ。

そこで、この「赤いものルール」が生まれた。


「迷路って、左手の法則とかあったよな……。迷路じゃないけど、こういう時は左から行こう!」


鳥居をくぐらず、左側の細い道を進むことにした。


「左から行こう!」


* * *


赤……赤……赤――。


「赤っ!!」


頭の中で唱えていたつもりが、いつの間にか声に出ていた。


(見つけようと思うと、案外ないもんだな)


かれこれ小一時間は歩き回った気がする。


あかい~ゆうひが~ぱっぱらぱ~♪

あかい~ひでお~♪

あかぎれ~♪

あか(垢)はきたない~♪

アーカンソー州はさすがにここではない~♪


即興で「赤ソング」を歌ってみたが、だんだん雑になってきて、

もはや“あか”が付いていれば何でもいい状態になっていた。


「ちょっと! お兄ちゃん、あれ見て!」

沙織が慌てて俺の服を引っぱる。


「お? あったか?」


俺は「赤」を探し続けて疲れた目をこすりながら、沙織の指さす方を見た。


「熊出没注意」


黄色地に黒文字とクマのイラスト。


「違うな。黄色と黒は、俺にとって単なるノイズさ」


「いや、そうじゃなくって~~~!」


「クマ!?」

“Oh, bear!”

「わん!」


鼻歌が止まる。


「きいろーとくろーは、ふんふんふんふんふうぅん~♪」


二十四時間戦う気には、なれなかった。


* * *


「タローにぃ、モーダメー。疲れたぁー」

「もうだめ~。疲れたー」

「わん!」


小太郎だけは元気だ。


「よし、飴ちゃんだ!」


「わーい、あめちゃん! あめちゃん!」

「木陰でお茶休憩にしよう!」

「はーい、きゅうけいきゅうけい!」


「すぐ見つかると思ったんだけどなぁ。右側から行けば良かったかな……」


「そもそも、森に赤なんてないのかなぁ……」


「……いや。あるんだぜ」


ルールを曲げるのは簡単だが、悔しい。


「くそっ!」


目の前の石を思い切り蹴り飛ばすと――


パーン!


石が倒木にドサッと当たり、続いてバキッと枝が折れる音が、森に響いた。

土と落ち葉が舞い上がり、静かだった空間が一気にざわつく。


「……え?」


森の奥から、ゴソゴソ……と何かの足音が近づいてくる。


妹たちも小太郎も固まり、空気がぴんと張りつめる。


木の陰から、ゆっくりと姿を現したのは――


大きなクマだった。


(マジかよ……!)


クマは、最初は倒木の辺りをじっと見ているだけだった。

だが、こっちの存在にも気づいて、鼻をひくひくさせる。


「ぎゃーーーっ、クマやーーー!!」

“Oh, bear!!”

「わん!」


妹たちと小太郎を抱えるようにして、俺は全力で森の奥へ駆け出した。


うわうわうわうわうあうわうわうあああ!!!!


クマが反応し、こちらを追ってくる気配がする。


(来るなぁ、クマぁ~~~!!)


「タローにぃ!」

「なんだよ!!」


「赤だ! 赤だよ!!」


……赤毛の狐だ!!


一同のテンションが一瞬だけ上がるが、すぐに現実が戻ってくる。


「こんな時にぃ!!」


あかね色の毛並みの狐が、こちらをちらっと見た。

ふさふさの白い尾を揺らし、五メートルはあろう川を、軽々とひと跳び。


「飛んだ!」


狐は対岸から振り返り、じっと俺たちを見ると、そのまま森の奥へと消えていく。


「来いって言ってるよ!」幸恵が叫んだ。

「わん!」


「こんな時でも、ルールはルールだぁ! ここから入るぞ!」


「え~。川の向こう、草だらけだよ~」

長女の沙織が、泣きそうな顔で言う。


「大丈夫! 小太郎! 川を渡って草を蹂躙せよ!」


小太郎は器用に石伝いで川を渡り、対岸の草むらを駆け回る。

ぺしゃんこになった草の間に、小さな道ができた。


「さすがだ、小太郎! 本当にやるとは思わなかったけど……。とにかく逃げろー!」


俺たちは、小太郎の作った道を一気に駆け抜けた。


追ってきたクマは川の手前で立ち止まり、しばらくこちらを見ていたが、

やがて踵を返し、森の奥へと戻っていった。


* * *


「やった、クマは来ないぞ!」


「やったー!」

「ワン!」


緊張が切れた瞬間、俺はその場に尻もちをついた。


パンッ。


リュックの中で、何かが破裂する音。


「わぁっ!」

「痛ててて……」


「ゆっきーもやるっ!」


幸恵が真似して尻もちをつき、草の上でころころ転がる。


「あははは、いってぇー!」


「今の“パンッ”って何だ?」


リュックを開けると、のり塩ポテチの袋が盛大に破裂し、中身が散乱していた。


「破れてる!」


「あ~あ~……」


みんなでポテチを拾って、ぽりぽりと食べる。

そのまま空を見上げて、地面にごろんと寝転んだ。


風が運んでくる匂いに、思わず笑みがこぼれる。


「のり塩の匂いだぁ……」


「“の~”はのりしおの~の~♪」(ドレミの歌調)

「はははっ」


自分たちで決めた意味不明な“山の掟”に縛られているのが、妙におかしい。

それに、外で食べるポテチはどうしてこんなに美味いのか。


(生きてるって感じがするなぁ)


バリバリバリッ。


「こら、沙織! 一気に食べるなって!」


「私じゃないよ!」


その瞬間だった。


ふさふさの白い尾。

茜色の胴体の狐が、軽やかに跳んで俺のすぐそばに着地し、

散らばったポテチの匂いをくんくん嗅ぎ始めた。


「うわっ、赤い狐だ!」


「食べるか?」


俺が軽い気持ちでポテチをひとつ放ると――


狐はポテチめがけて、俺の手ごと口にぱくり。


「わぁっ!」


噛まれたかと思ったが、ただのよだれまみれだった。


赤毛の狐は構わずリュックに顔を突っ込み、残りのポテチを漁り始める。


「ちょっと~~!! ポテチが~~!!」


ひとしきり食べると、狐はしっぽを揺らして歩き去っていった。


「……あれ? 道がある」


小太郎が踏み倒した草の向こうに、石畳の道が伸びている。


「何だか、行けそうだね」


「ナンダカテンションアガッテキター!!」


ノアと小太郎が興奮して駆け出す。


「待てー!」


俺たちも、石畳の道を進み始めた。


十五分ほど歩くと、あたり一面に霧が立ち込めてきた。

木々の影が白くにじみ、世界の輪郭がぼやけていく。


やがて一陣の風が吹き、霧がさっと晴れた。


目の前には――

鮮やかな緑の草原が広がる、不思議な空間があった。


霧はひんやりと冷たく、音がすっと吸い込まれていく。


「タローにぃ……今、何か見えた?」

沙織が小声で囁く。


振り返ると、そこには何もない。

ただ――木立の奥で、狐の耳が揺れたような気がした。


キュー。


「あの赤い狐だ! 変な鳴き声、“きゅー”だって!」


霧の向こうで、先ほどの赤毛の狐が振り返り、

「こっちへ来い」とでも言いたげに鳴いた。


狐に導かれるように進んでいくと、その先に池があった。

朽ちかけた神社のほこらと、古い桜の木が並んでいる。


池の水面は鏡のように周囲の景色を映し、

底では、こんこんと水が湧いていた。


「わぁ、湧き水だ……」


「こんなところがあったんだ……」


スマホの地図アプリで位置を確認してみるが、

画面には、ざっくりとした位置しか表示されない。


「まぁ、いいや」


「まぁいいやー」


祠に近づくと――

さっきの赤毛の狐の子どもたちが、一斉にこちらを見て、キューキュー鳴きながら四方へ散っていった。


「うわっ、びっくりした。こんなに狐がいたんだ……」


「きつねかわいいいい~。七匹いるよ!」


しばらくすると、子狐たちは危険がないとわかったのか、

また戻ってきて、それぞれ好き勝手に遊び始めた。


「かわいい~~」


妹たちの目は、すっかりとろけている。


そして、祠の前。

茜色の狐がちょこんと座り、じーっと俺を見ていた。


「ん?」


「こんにちは。さっきの赤い狐かな?」


俺はなぜか、普通に挨拶をした。


「僕はタローだよ!」

「私は沙織!」

「私は幸恵!」

「ノア!」

「わん!」


自己紹介したつもりはなかったのだが、妹たちが勝手に続いた。


狐から返事はない。

それでも、「自分たちは怪しい者じゃないですよ」とアピールできた気になっていた。


「そりゃ、返事はしないよな……」


俺は苦笑して、いきなりタコ踊りを始めた。


「うりゃうりゃうりゃうりゃ~~~!!」


驚いた子狐たちが一瞬引くが、

すぐに茜色の狐が甘噛みで俺の手に噛みついてきた。


「あはははは!」

「痛テテテテ!」


「これなにー?」


幸恵が指さした先には、人が座れるくらいの大きさの石があった。


その石は、鮮やかな緑の苔に包まれ、

まるで自分の姿を誇っているかのように、つやつやと光っている。


ただ、不思議なことに――

石の端の、ほんの一部分だけ苔が生えておらず、

そこだけが「膝」のような形をしていた。


(ここに座れってことか?)


けれど、なんだか失礼な気がして、俺は石の“隣”に座った。


自分の行動が妙におかしくて、ひとりで笑ってしまう。


「……あ。おしっこしたい……」


(この石にかけたら……)


そう悪いことを考えて、ちらっと石の横を見た瞬間――


赤毛の狐が疾風のごとく飛びかかり、

俺を池の方へ追い立てた。


「うわぁ~!? なに? やめてよぉー!」


それ以上は追ってこず、狐はさっさと祠へ戻っていった。


「……ここでしろってこと?」


「まさか、あの赤い狐が祠を守ってるとか?」


「まさかね……」


「ふぅ」


用を足して戻ってくると、

例の赤毛の狐が、リュックに首を突っ込んでいるのが見えた。


「あー! 僕ののり塩ポテチ!!」


「ゆっくり食べようと思ってたのになぁ……」


仕方ないので、自分で握ったバカでかい不格好なおにぎりを取り出し、みんなで分け合う。


「ぶかっこぉーー!」


のり塩ポテチは、赤毛の狐が全部つついて食べてしまった。


その日から、俺はこの場所が気に入って、何度も通うようになった。

行くたびに、のり塩ポテチを持っていくが、毎回のように赤毛の狐に奪われる。


「今日からお前はノリシオだ! 今度はコンソメ持ってきてやる!」


嫌味のつもりで、俺はその赤毛の狐に名前をつけた。


ただ、不思議なことに――

祠に“お供え”として置いたポテチだけは、いつも無事のまま残っていた。


水筒の温かいお茶を飲みながら、

俺はあの石の隣に座り、何かあるたびに石へ近づいては、今日の出来事を一人で語り続けた。


そこからは、空の広がりがよく見えた。

遠くの山の稜線と、白い雲の形が、妙に心に沁みる。


「ここは、落ち着くなぁ」


そのうちに、石が「ここが膝だから座れ」とでも言っているように感じ始めた。

苔のない部分こそが“膝”だと勝手に解釈し、そこにそっと腰を下ろす。


話しているうちに――

不思議な温もりが、じんわり背中から伝わってくる気がした。


今日の学校のこと、家のこと、妹たちの話。

とりとめもなく話していると、

石がほんの少しだけ「うん」とうなずいてくれているように思えて、

胸の奥がじわっと熱くなり、涙がこぼれた。


* * *


何度か通っているうちに、俺はひとつのことに気づいた。


この祠の周りの石は、何かのルールに従って並べられている。

なんとなく、線で結んでみた。


――八稜星はちぼうせい、オクタグラム。


ただし、石が一つだけ欠けていて、図形は未完成だった。


(これ、あと一個足されたら完成するんだよな……)


尖端同士をぐるりと円で結んでみる。


「おお~! 魔法陣だ!」


「まほーびん?」

「魔法陣ね」

「わん!」


魔法陣を書いたからといって、何か起こるわけ……と思ったその瞬間、

子狐たちが一斉に散っていった。


「わぁ~すごい!」

「すごーい!」

「ウ”ーワンワンワン!!!」


一瞬、祠の脇に――狐耳をもった女性の姿が、ちらりと見えた気がした。


「……あれ? 見間違いかな?」


ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。


「お天気雨かな?」


「おーい、雨宿りしよう……?」


返事はない。


森のどこかで――

“聞こえたようで聞こえない声”が、雨音に紛れて揺れた。


 去りし君 風にまぎれて 消ゆる声

 わらわひとりぞ 庭に残れり


 (あなたが去ったあと、

  声だけが風に紛れて消えてゆきます。

  この庭に、覚えているのは私ひとり)


「……あれ?」


「誰かと一緒に来てたような……」


帰り道を辿りながら歩いても、

胸のざわざわは消えなかった。


振り返っても、そこにいるのは自分だけ。


風が枝を揺らし、その影が――

ほんの一瞬だけ、狐の尾に見えた。


その違和感だけが、失われた“何か”の名残のように、胸に残った。


* * *


その日も、俺は例の祠へ来ていた。


のり塩ポテチをリュックから出した瞬間、

茜色の狐――ノリシオが、どこからともなく現れて、

いつものように俺の手から奪い、さっさと草むらへ走り去っていく。


「お前、絶対そこに隠れてたよな……」


キューッ。


ノリシオは、知らんぷりの顔で尻尾を振ると、祠の影へ消えた。


俺は苦笑しながら、いつもの苔石の隣に腰を下ろす。

石はひんやりしているのに、座っていると落ち着く不思議な場所だ。


「今日さ、学校でさ……」


ぽつり、ぽつりと話しているうちに、

風の音が、いつもと違うことに気づいた。


――さらり。


苔石の上で、何かが揺れた。


首をかしげて見ていると、

苔が、緑色の髪のようにふわりと揺れた。


「……え?」


瞬きした次の瞬間、

苔の間から、小さな“耳”がぴこっと立ち上がる。


うっすらと翠がかった、狐の耳。


続いて、石の端に、ちいさな影が結ばれた。


手のひらサイズの、子狐の姿。

尾は短く、淡い光をまとっている。輪郭はふわふわと揺れ、光の粒が滲むように溶けていた。


「き、狐……? いや……違う?」


俺がそっと手を伸ばすと――


すっ。


子狐は、石の隙間に吸い込まれるように消えた。


「……今の、何だ?」


石の表面が、ほんの少しだけ温かい。

さっきまでそこに“誰か”がいた気配だけが、静かに残っていた。


そのとき――

風が、声のように耳をくすぐる。


 ……こわく、ないのかえ?


「え?」


振り返っても、誰もいない。

俺は首をかしげたまま、石をそっと撫でる。


石は黙っている。

けれど、その温もりが、さっきより少しだけ増した気がした。


(姿が見えないのは……ちょっと残念だな。もっとちゃんと会ってみたいのに)


そう心の中で思った時――

背中のほうから、くすくす笑うような気配がした。


 ……見たらの、そち、びっくりするぞえ。


「え? なに?」


 あまりの美しさに、膝が抜けるやもしれぬ。


「そ、そっかぁ……

 ……やっぱり残念だなぁ」


風が、照れたように揺れた。

まるで“石の中の誰か”が、顔を赤くしているみたいだった。


* * *


翌日も、俺は祠へ来ていた。


のり塩ポテチは、すでにノリシオに半分奪われ、

残りは祠の石の前にお供えしてある。


俺は苔石の隣に座り、そっと声をかけた。


「昨日の……君、またいる?」


風がゆっくりと流れ、苔の上に光が集まる。


す……。


淡い翠色の光をまとった、小さな狐の輪郭が浮かび上がった。


「やっぱり……いるんだ」


胸が弾む。

子狐は、ちょこんと頭を下げるように尾を揺らした。


「昨日さ、君……しゃべってたよね?」


 ……声、聞こえたのかえ?


「聞こえたよ。風みたいに、ふわって」


子狐は驚いたように耳をぴくりと動かす。

その仕草が、小さくて、やたらと可愛い。


「僕だけに聞こえるの?」


 ……そちは、“石の声”を恐れぬ子じゃからの。


「石の声?」


 わらわは、石に宿る影のひとかけ……

 名を持たぬあやかしの、ちいさき欠片よ。


「……妖怪ってこと?」


子狐は一拍置いて――


 こわいかえ?


「ぜんっぜん!」


即答だった。


子狐の光がふわっと膨らむ。

まるで照れているようだ。


 ……そなた、不思議と馴染むの。


「馴染む?」


 うむ。妾の気配を怖がらぬ。そういう子は珍しいのじゃ。


「そっか……じゃあ、僕たち友達だな!」


 ……ともだち、かえ?


子狐は、こくりと頷く。


胸の奥がじんわり温かくなってくる。

俺はしばらく黙って、それから笑った。


「じゃあ今日から……ううん、今日“こそ”友達だな!」


子狐は目を丸くしたまま固まった。


 ……ともだち……?


「うん。一緒に話してくれるし」


子狐はそっと尾を揺らし、俺の足元に光の粒を散らす。

それは、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。


 ……妾のようなものを、友と呼ぶのかえ?


「うん」


 消えてしまう、影の欠片じゃぞ……?


「消えたって、また来ればいいじゃん。

 僕もまた来るし。何回でも」


子狐は、ゆっくりと石の中へ身を沈めた。

それでも、尾の先だけが、苔の上にちょこんと残っている。


 ……そちは、不思議な子じゃ。


「君が不思議なんだよ」


その時――


バリッ。


ノリシオが勝手にポテチの袋を破り、

のり塩まみれの顔で現れた。


「お前……絶対それ狙ってただろ……」


キュー!(訳:何が悪い)


子狐の翠の光は、小さく震えた。

それは、確かに“笑っている”ように見えた。


俺は石に向かって言う。


「妖怪でも、影でも、欠片でも……

 俺は君が好きだよ。

 だから、ちゃんと友達でいような」


風に紛れて、声がした。


 ……そなたこそ、妾の初めての“友”じゃよ。


胸がぎゅっとなった。


姿は、まだちゃんとは見えない。

それでも――確かに、そこにいる。


帰り際、俺は振り返って手を振った。


「また来るね!」


森の影が、小さく揺れた。


 待っておるぞ、そち。


子狐の声は、風より優しく、

雨の匂いのように静かに消えていった。



帰り道

さっきまで後ろで響いていたはずの声――

高い笑い声、幼いはしゃぎ声、そして犬の吠え声が、

風に吸い込まれるように消えた。


「……あれ?」


タローは振り返った。


誰もいない。

けれど“ひとりで来た”感じがしない。


胸の奥が、妙にざわつく。


(……なんだ、これ)


何かが抜け落ちたようで、

でも“何があったのか”分からない。


スマホを取り出す。

写真もメッセージも“最初から自分一人用”として自然に埋まっている。


その自然さが、不自然だ。


「……変だな」


声に出してみても、理由は浮かばない。


タローは歩き出す。

けれど足取りのどこかで、

“誰かと一緒に歩いていた”感覚だけがついてくる。


名も、顔も、呼びかける言葉も出てこない。


ただ――

胸に小さな穴が開いたような、そんな感じ。


風が草を揺らし、

その形が一瞬だけ、手を振る影のように見えた。


「……気のせいか」


タローは苦笑して、前を向いた。


霧の向こうで、世界は何もなかった顔をしていた。

コピペ:八芒星は、完全生や再生、無限の循環などを象徴すると言われています。

※4すい:みどりや青緑色を意味する。「みどりのきつね」2021年に期間限定で販売されたらしいですね。知らんけど…。

※5あかね:深い赤みを帯びた色

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