忘れられた庭
「幽玄森入口ぃ~。幽玄森入口~ぃ」
バス運転手のアナウンスが入った。
「お客さん、到着しましたよ」
ダミ声ではない、柔らかい女性運転手の声だ。
バス制服の胸元には「吉田」と書かれた名札。
後ろで髪を束ね、「海沿交通」のマーク入りの帽子をかぶっている。
(前のおじいちゃん運転手も吉田さんだったよな……顔、似てなくもないし。世代交代ってやつか)
このバスは、地元密着のミニバスだ。
満員になることは滅多になく、町のモールか病院か役場に行く時くらいしか、使う人はいない。
バスは海沿いを通り、森を抜け、町内を二時間おきに一周する。
俺は浜辺を見ていたら、いつものように安心しきって早々と寝落ちしてしまっていた。
乗る時の癖で、運転手さんには行き先を告げてある。
優しい吉田運転手さんは、ちゃんとバスを停めて起こしてくれたわけだ。
都会のバス事情は知らないが、うちのローカルバスは本当に親切だ。運賃も町民価格だ。
他所の事情は知らないが……。
俺は白洲花太郎。
十四歳、中学二年生。
今から、勢いよく冒険に出ようとしている。
「吉田運転手! ありがとうございます!」
ズボンのポケットから五十円玉を出して、切符と一緒に運賃箱へ放り込み、バス停へ降りる。
その時――
「お客さん、待って!」
「釣りはいらねーぜ!!」
「いえ、ちょっと足りないんですが……」
「ん?」
バスの運賃表を見ると、貼り紙が目に入った。
『夏休み運賃。小学生~中学生までみんな50円!(五歳以下は無料)なお、犬は50円です』
「ほら」
吉田運転手さんが、俺の後ろを指さした。
「冒険!!!」
「タローにぃ、冒険!」
“An adventure!”
「わん!」
元気よく飛び降りてきた三人と一匹。
「沙織、幸恵、ノア、小太郎! なんでお前らがここにいる!?」
「だって、タローにぃに言おうとしたら、いびきかいて寝ちゃうんだもん!」
* * *
夏休みの宿題も終わり、やることもない。
家に閉じこもるのも飽きていた。
テレビでは、誰も真剣に見ていないのに「森へ行こう!」とキャンプ番組が流れていて、
唐突に「森に行きたい」という衝動に駆られた。
――ただし、キャンプをする気はなかった。そこは重要である。
釜に残っていたご飯をラップでくるんで、適当におにぎりを作り、
母親がおやつ用にストックしてくれていたのり塩ポテチ、冷たい麦茶を入れた水筒、
それから充電し損ねたスマホをリュックに詰めて、近所のバス停へ向かった。
「タロー、どこ行くん?」
道場へ向かう道着姿の母親に見つかった。
それを聞きつけた沙織、幸恵、ノア、小太郎が、ぞろぞろと玄関から出てくる。
「ちょっと冒険にね!」
「タローにぃ、どこ行くの?」沙織(十歳)
「たろー、どこ行く?」幸恵(五歳)
“Taro, where are you going?”ノア(十二歳)
「わん?」小太郎・三年目
人の話を聞かない子らだ、本当に。頭を抱えた。
「タロー、家出か?」
「タロー、家出だよきっと」
“ Taro, you're such a coward.”
「わん?」
家出じゃないし。
しかもノアが何となく悪口を言っているのは分かる。
「Noah, what are you saying?(angry)」
“ Taro, where are you going?”
“ That's not it! The next line!”
だいたいお前、日本語話せるだろ!
「痛い痛い、ぐりぐりしないでぇ~!」
「いやー太郎は本当に愛されているねぇ。そこは母さんの誇りだよ」
俺の母親は、合氣道の師範だ。
ショートカットで姿勢に無駄がなく、雄々しいのに所作は綺麗で、動画サイト――特に海外からのフォロワーが絶えない。
「セイセイトショウブー」と片言で言いながら、異国の人が道場破り(?)に来ることもしばしば。
試合が終われば、冷たい甘酒と塩昆布を振る舞い、なぜか互いにリスペクトし合っている。
夏ともなると、地方から学生や社会人が合宿に来ては、投げ飛ばされて帰っていく。
海外からの客人は、円相場に応じて増減するらしいが、それでも客が途切れないのは、母親が謙虚で礼儀正しく、凛々しいからなのだろう。
道場で人が投げられているのを見て育った結果、
俺の身体には「反抗しても返り討ちにされる」という事実が深く刷り込まれている。
今は反抗期のはずだが、あまり過激に反抗しないのも、そのせいだ。たぶん。
自家製甘酒は好きだが、さすがに飲みすぎた。
「まぁ、行ってくるよ」
「太郎! 悩んでるんだね」
どうしてそうなる?
「戻ったら道場に来なさい。久しぶりに投げ飛ばしてやっから」
「投げとバァす!」
「あははは」
「わん」
バスが来た。
「ははは。バス停までお見送りありがとう!」
「気をつけるんだよ~」
……あれ? 静かだ。
「さぁ。稽古稽古」と言う母親の声が、遠ざかっていった……ような気がしたのだが――
* * *
――ということを思い出しながら、俺はしぶしぶ不足分の百五十円を吉田運転手さんに渡した。町民価格に助けられている。
吉田運転手さんはにこっと笑い、身をかがめて手を差し出した。
「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしておりますね。
そうそう、帰りの時刻もちゃんと見ておいてくださいね。いってらっしゃーい」
手を振る吉田運転手さん。
バスはクラクションをひとつ鳴らし、四人と一匹を残して走り去っていく。
バスの後ろには「すいこの里」とラッピングされていて、
ニコッと笑うご当地キャラ「すいこちゃん」が、だんだん小さくなっていった。
「なんで、お前らがついてきてるんだ!!」
「沙織も冒険行くの!」
「幸恵も!」
「Me too!」
「わん!」
数秒間の沈黙。
じりじりと照りつける日差し、蝉の声、滴る汗。
「……はぁ」
着いてきてしまったものは、もうしょうがない。兄として冷静になって現実を受け止めた。
まずはバスの本数を確認――といっても、ほとんどない。
(最終、十八時かぁ……。九月からは十七時になるのか)
「念のため連絡しておくか」
俺はスマホを取り出し、母親に電話をかける。
一コールもしないうちに、母親が出た。
「あ。お母さん? 妹たちが着いてきてたんだけど……」
「ああ。沙織、幸恵、ノア、小太郎いるよ」
「やっぱり~」
『沙織、幸恵、ノア、小太郎見つかった! 太郎とやっぱりいたわ!』
電話の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
「悪いけど、今日は一緒に遊んでやって?」
楽しそうに騒いでいる妹たちを見たら、怒る気も失せた。
「……わかった」
「やったー冒険!」
「冒険!」
「ボウケン!」
「わん!」
* * *
幽玄森入口には鳥居が立っていた。
『帝の愛妃「翠狐」は九尾の狐の化身でした。巫女がこれを見破り、武士が狐を退治すると、狐は毒を放つ石に変身しました。後に僧が一喝すると石は九つに割れ、妖石は各地に散らばり、その一つがこの地に残っています』
そんな伝説が、九尾の狐の可愛らしいキャラ「すいこちゃん」と共に書かれている。
「そっかぁ~。へぇ~。あるある~」
いつもの、そっけない同意の返事。
「お兄様! そういう白けた言動はおやめください」
「だから若者は! と言われるのですよ」
「誰だよ……」
一度、興味本位で森に入ったことがある。
妖石なんてものは見つからなかった。
(まぁ、物語性があったほうが有り難みが出るしな。地方再生ってやつだろ)
勝手にそう解釈した。
「そうだ! ちょっとしたゲームをしよう!」
「ゲーム?」
妹たちのテンションが、一気に跳ね上がる。
「どんな物でもいいから、赤色を見つけたら――無条件で、その方向に進む!」
思わず大声を出してしまい、慌てて周囲を見る。
……誰もいない。お地蔵さんだけだ。
いつもと同じ道を辿るのは退屈だ。
そこで、この「赤いものルール」が生まれた。
「迷路って、左手の法則とかあったよな……。迷路じゃないけど、こういう時は左から行こう!」
鳥居をくぐらず、左側の細い道を進むことにした。
「左から行こう!」
* * *
赤……赤……赤――。
「赤っ!!」
頭の中で唱えていたつもりが、いつの間にか声に出ていた。
(見つけようと思うと、案外ないもんだな)
かれこれ小一時間は歩き回った気がする。
あかい~ゆうひが~ぱっぱらぱ~♪
あかい~ひでお~♪
あかぎれ~♪
あか(垢)はきたない~♪
アーカンソー州はさすがにここではない~♪
即興で「赤ソング」を歌ってみたが、だんだん雑になってきて、
もはや“あか”が付いていれば何でもいい状態になっていた。
「ちょっと! お兄ちゃん、あれ見て!」
沙織が慌てて俺の服を引っぱる。
「お? あったか?」
俺は「赤」を探し続けて疲れた目をこすりながら、沙織の指さす方を見た。
「熊出没注意」
黄色地に黒文字とクマのイラスト。
「違うな。黄色と黒は、俺にとって単なるノイズさ」
「いや、そうじゃなくって~~~!」
「クマ!?」
“Oh, bear!”
「わん!」
鼻歌が止まる。
「きいろーとくろーは、ふんふんふんふんふうぅん~♪」
二十四時間戦う気には、なれなかった。
* * *
「タローにぃ、モーダメー。疲れたぁー」
「もうだめ~。疲れたー」
「わん!」
小太郎だけは元気だ。
「よし、飴ちゃんだ!」
「わーい、あめちゃん! あめちゃん!」
「木陰でお茶休憩にしよう!」
「はーい、きゅうけいきゅうけい!」
「すぐ見つかると思ったんだけどなぁ。右側から行けば良かったかな……」
「そもそも、森に赤なんてないのかなぁ……」
「……いや。あるんだぜ」
ルールを曲げるのは簡単だが、悔しい。
「くそっ!」
目の前の石を思い切り蹴り飛ばすと――
パーン!
石が倒木にドサッと当たり、続いてバキッと枝が折れる音が、森に響いた。
土と落ち葉が舞い上がり、静かだった空間が一気にざわつく。
「……え?」
森の奥から、ゴソゴソ……と何かの足音が近づいてくる。
妹たちも小太郎も固まり、空気がぴんと張りつめる。
木の陰から、ゆっくりと姿を現したのは――
大きなクマだった。
(マジかよ……!)
クマは、最初は倒木の辺りをじっと見ているだけだった。
だが、こっちの存在にも気づいて、鼻をひくひくさせる。
「ぎゃーーーっ、クマやーーー!!」
“Oh, bear!!”
「わん!」
妹たちと小太郎を抱えるようにして、俺は全力で森の奥へ駆け出した。
うわうわうわうわうあうわうわうあああ!!!!
クマが反応し、こちらを追ってくる気配がする。
(来るなぁ、クマぁ~~~!!)
「タローにぃ!」
「なんだよ!!」
「赤だ! 赤だよ!!」
……赤毛の狐だ!!
一同のテンションが一瞬だけ上がるが、すぐに現実が戻ってくる。
「こんな時にぃ!!」
茜色の毛並みの狐が、こちらをちらっと見た。
ふさふさの白い尾を揺らし、五メートルはあろう川を、軽々とひと跳び。
「飛んだ!」
狐は対岸から振り返り、じっと俺たちを見ると、そのまま森の奥へと消えていく。
「来いって言ってるよ!」幸恵が叫んだ。
「わん!」
「こんな時でも、ルールはルールだぁ! ここから入るぞ!」
「え~。川の向こう、草だらけだよ~」
長女の沙織が、泣きそうな顔で言う。
「大丈夫! 小太郎! 川を渡って草を蹂躙せよ!」
小太郎は器用に石伝いで川を渡り、対岸の草むらを駆け回る。
ぺしゃんこになった草の間に、小さな道ができた。
「さすがだ、小太郎! 本当にやるとは思わなかったけど……。とにかく逃げろー!」
俺たちは、小太郎の作った道を一気に駆け抜けた。
追ってきたクマは川の手前で立ち止まり、しばらくこちらを見ていたが、
やがて踵を返し、森の奥へと戻っていった。
* * *
「やった、クマは来ないぞ!」
「やったー!」
「ワン!」
緊張が切れた瞬間、俺はその場に尻もちをついた。
パンッ。
リュックの中で、何かが破裂する音。
「わぁっ!」
「痛ててて……」
「ゆっきーもやるっ!」
幸恵が真似して尻もちをつき、草の上でころころ転がる。
「あははは、いってぇー!」
「今の“パンッ”って何だ?」
リュックを開けると、のり塩ポテチの袋が盛大に破裂し、中身が散乱していた。
「破れてる!」
「あ~あ~……」
みんなでポテチを拾って、ぽりぽりと食べる。
そのまま空を見上げて、地面にごろんと寝転んだ。
風が運んでくる匂いに、思わず笑みがこぼれる。
「のり塩の匂いだぁ……」
「“の~”はのりしおの~の~♪」(ドレミの歌調)
「はははっ」
自分たちで決めた意味不明な“山の掟”に縛られているのが、妙におかしい。
それに、外で食べるポテチはどうしてこんなに美味いのか。
(生きてるって感じがするなぁ)
バリバリバリッ。
「こら、沙織! 一気に食べるなって!」
「私じゃないよ!」
その瞬間だった。
ふさふさの白い尾。
茜色の胴体の狐が、軽やかに跳んで俺のすぐそばに着地し、
散らばったポテチの匂いをくんくん嗅ぎ始めた。
「うわっ、赤い狐だ!」
「食べるか?」
俺が軽い気持ちでポテチをひとつ放ると――
狐はポテチめがけて、俺の手ごと口にぱくり。
「わぁっ!」
噛まれたかと思ったが、ただのよだれまみれだった。
赤毛の狐は構わずリュックに顔を突っ込み、残りのポテチを漁り始める。
「ちょっと~~!! ポテチが~~!!」
ひとしきり食べると、狐はしっぽを揺らして歩き去っていった。
「……あれ? 道がある」
小太郎が踏み倒した草の向こうに、石畳の道が伸びている。
「何だか、行けそうだね」
「ナンダカテンションアガッテキター!!」
ノアと小太郎が興奮して駆け出す。
「待てー!」
俺たちも、石畳の道を進み始めた。
十五分ほど歩くと、あたり一面に霧が立ち込めてきた。
木々の影が白くにじみ、世界の輪郭がぼやけていく。
やがて一陣の風が吹き、霧がさっと晴れた。
目の前には――
鮮やかな緑の草原が広がる、不思議な空間があった。
霧はひんやりと冷たく、音がすっと吸い込まれていく。
「タローにぃ……今、何か見えた?」
沙織が小声で囁く。
振り返ると、そこには何もない。
ただ――木立の奥で、狐の耳が揺れたような気がした。
キュー。
「あの赤い狐だ! 変な鳴き声、“きゅー”だって!」
霧の向こうで、先ほどの赤毛の狐が振り返り、
「こっちへ来い」とでも言いたげに鳴いた。
狐に導かれるように進んでいくと、その先に池があった。
朽ちかけた神社の祠と、古い桜の木が並んでいる。
池の水面は鏡のように周囲の景色を映し、
底では、こんこんと水が湧いていた。
「わぁ、湧き水だ……」
「こんなところがあったんだ……」
スマホの地図アプリで位置を確認してみるが、
画面には、ざっくりとした位置しか表示されない。
「まぁ、いいや」
「まぁいいやー」
祠に近づくと――
さっきの赤毛の狐の子どもたちが、一斉にこちらを見て、キューキュー鳴きながら四方へ散っていった。
「うわっ、びっくりした。こんなに狐がいたんだ……」
「きつねかわいいいい~。七匹いるよ!」
しばらくすると、子狐たちは危険がないとわかったのか、
また戻ってきて、それぞれ好き勝手に遊び始めた。
「かわいい~~」
妹たちの目は、すっかりとろけている。
そして、祠の前。
茜色の狐がちょこんと座り、じーっと俺を見ていた。
「ん?」
「こんにちは。さっきの赤い狐かな?」
俺はなぜか、普通に挨拶をした。
「僕はタローだよ!」
「私は沙織!」
「私は幸恵!」
「ノア!」
「わん!」
自己紹介したつもりはなかったのだが、妹たちが勝手に続いた。
狐から返事はない。
それでも、「自分たちは怪しい者じゃないですよ」とアピールできた気になっていた。
「そりゃ、返事はしないよな……」
俺は苦笑して、いきなりタコ踊りを始めた。
「うりゃうりゃうりゃうりゃ~~~!!」
驚いた子狐たちが一瞬引くが、
すぐに茜色の狐が甘噛みで俺の手に噛みついてきた。
「あはははは!」
「痛テテテテ!」
「これなにー?」
幸恵が指さした先には、人が座れるくらいの大きさの石があった。
その石は、鮮やかな緑の苔に包まれ、
まるで自分の姿を誇っているかのように、つやつやと光っている。
ただ、不思議なことに――
石の端の、ほんの一部分だけ苔が生えておらず、
そこだけが「膝」のような形をしていた。
(ここに座れってことか?)
けれど、なんだか失礼な気がして、俺は石の“隣”に座った。
自分の行動が妙におかしくて、ひとりで笑ってしまう。
「……あ。おしっこしたい……」
(この石にかけたら……)
そう悪いことを考えて、ちらっと石の横を見た瞬間――
赤毛の狐が疾風のごとく飛びかかり、
俺を池の方へ追い立てた。
「うわぁ~!? なに? やめてよぉー!」
それ以上は追ってこず、狐はさっさと祠へ戻っていった。
「……ここでしろってこと?」
「まさか、あの赤い狐が祠を守ってるとか?」
「まさかね……」
「ふぅ」
用を足して戻ってくると、
例の赤毛の狐が、リュックに首を突っ込んでいるのが見えた。
「あー! 僕ののり塩ポテチ!!」
「ゆっくり食べようと思ってたのになぁ……」
仕方ないので、自分で握ったバカでかい不格好なおにぎりを取り出し、みんなで分け合う。
「ぶかっこぉーー!」
のり塩ポテチは、赤毛の狐が全部つついて食べてしまった。
その日から、俺はこの場所が気に入って、何度も通うようになった。
行くたびに、のり塩ポテチを持っていくが、毎回のように赤毛の狐に奪われる。
「今日からお前はノリシオだ! 今度はコンソメ持ってきてやる!」
嫌味のつもりで、俺はその赤毛の狐に名前をつけた。
ただ、不思議なことに――
祠に“お供え”として置いたポテチだけは、いつも無事のまま残っていた。
水筒の温かいお茶を飲みながら、
俺はあの石の隣に座り、何かあるたびに石へ近づいては、今日の出来事を一人で語り続けた。
そこからは、空の広がりがよく見えた。
遠くの山の稜線と、白い雲の形が、妙に心に沁みる。
「ここは、落ち着くなぁ」
そのうちに、石が「ここが膝だから座れ」とでも言っているように感じ始めた。
苔のない部分こそが“膝”だと勝手に解釈し、そこにそっと腰を下ろす。
話しているうちに――
不思議な温もりが、じんわり背中から伝わってくる気がした。
今日の学校のこと、家のこと、妹たちの話。
とりとめもなく話していると、
石がほんの少しだけ「うん」とうなずいてくれているように思えて、
胸の奥がじわっと熱くなり、涙がこぼれた。
* * *
何度か通っているうちに、俺はひとつのことに気づいた。
この祠の周りの石は、何かのルールに従って並べられている。
なんとなく、線で結んでみた。
――八稜星、オクタグラム。
ただし、石が一つだけ欠けていて、図形は未完成だった。
(これ、あと一個足されたら完成するんだよな……)
尖端同士をぐるりと円で結んでみる。
「おお~! 魔法陣だ!」
「まほーびん?」
「魔法陣ね」
「わん!」
魔法陣を書いたからといって、何か起こるわけ……と思ったその瞬間、
子狐たちが一斉に散っていった。
「わぁ~すごい!」
「すごーい!」
「ウ”ーワンワンワン!!!」
一瞬、祠の脇に――狐耳をもった女性の姿が、ちらりと見えた気がした。
「……あれ? 見間違いかな?」
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。
「お天気雨かな?」
「おーい、雨宿りしよう……?」
返事はない。
森のどこかで――
“聞こえたようで聞こえない声”が、雨音に紛れて揺れた。
去りし君 風にまぎれて 消ゆる声
妾ひとりぞ 庭に残れり
(あなたが去ったあと、
声だけが風に紛れて消えてゆきます。
この庭に、覚えているのは私ひとり)
「……あれ?」
「誰かと一緒に来てたような……」
帰り道を辿りながら歩いても、
胸のざわざわは消えなかった。
振り返っても、そこにいるのは自分だけ。
風が枝を揺らし、その影が――
ほんの一瞬だけ、狐の尾に見えた。
その違和感だけが、失われた“何か”の名残のように、胸に残った。
* * *
その日も、俺は例の祠へ来ていた。
のり塩ポテチをリュックから出した瞬間、
茜色の狐――ノリシオが、どこからともなく現れて、
いつものように俺の手から奪い、さっさと草むらへ走り去っていく。
「お前、絶対そこに隠れてたよな……」
キューッ。
ノリシオは、知らんぷりの顔で尻尾を振ると、祠の影へ消えた。
俺は苦笑しながら、いつもの苔石の隣に腰を下ろす。
石はひんやりしているのに、座っていると落ち着く不思議な場所だ。
「今日さ、学校でさ……」
ぽつり、ぽつりと話しているうちに、
風の音が、いつもと違うことに気づいた。
――さらり。
苔石の上で、何かが揺れた。
首をかしげて見ていると、
苔が、緑色の髪のようにふわりと揺れた。
「……え?」
瞬きした次の瞬間、
苔の間から、小さな“耳”がぴこっと立ち上がる。
うっすらと翠がかった、狐の耳。
続いて、石の端に、ちいさな影が結ばれた。
手のひらサイズの、子狐の姿。
尾は短く、淡い光をまとっている。輪郭はふわふわと揺れ、光の粒が滲むように溶けていた。
「き、狐……? いや……違う?」
俺がそっと手を伸ばすと――
すっ。
子狐は、石の隙間に吸い込まれるように消えた。
「……今の、何だ?」
石の表面が、ほんの少しだけ温かい。
さっきまでそこに“誰か”がいた気配だけが、静かに残っていた。
そのとき――
風が、声のように耳をくすぐる。
……こわく、ないのかえ?
「え?」
振り返っても、誰もいない。
俺は首をかしげたまま、石をそっと撫でる。
石は黙っている。
けれど、その温もりが、さっきより少しだけ増した気がした。
(姿が見えないのは……ちょっと残念だな。もっとちゃんと会ってみたいのに)
そう心の中で思った時――
背中のほうから、くすくす笑うような気配がした。
……見たらの、そち、びっくりするぞえ。
「え? なに?」
あまりの美しさに、膝が抜けるやもしれぬ。
「そ、そっかぁ……
……やっぱり残念だなぁ」
風が、照れたように揺れた。
まるで“石の中の誰か”が、顔を赤くしているみたいだった。
* * *
翌日も、俺は祠へ来ていた。
のり塩ポテチは、すでにノリシオに半分奪われ、
残りは祠の石の前にお供えしてある。
俺は苔石の隣に座り、そっと声をかけた。
「昨日の……君、またいる?」
風がゆっくりと流れ、苔の上に光が集まる。
す……。
淡い翠色の光をまとった、小さな狐の輪郭が浮かび上がった。
「やっぱり……いるんだ」
胸が弾む。
子狐は、ちょこんと頭を下げるように尾を揺らした。
「昨日さ、君……しゃべってたよね?」
……声、聞こえたのかえ?
「聞こえたよ。風みたいに、ふわって」
子狐は驚いたように耳をぴくりと動かす。
その仕草が、小さくて、やたらと可愛い。
「僕だけに聞こえるの?」
……そちは、“石の声”を恐れぬ子じゃからの。
「石の声?」
妾は、石に宿る影のひとかけ……
名を持たぬ妖の、ちいさき欠片よ。
「……妖怪ってこと?」
子狐は一拍置いて――
こわいかえ?
「ぜんっぜん!」
即答だった。
子狐の光がふわっと膨らむ。
まるで照れているようだ。
……そなた、不思議と馴染むの。
「馴染む?」
うむ。妾の気配を怖がらぬ。そういう子は珍しいのじゃ。
「そっか……じゃあ、僕たち友達だな!」
……ともだち、かえ?
子狐は、こくりと頷く。
胸の奥がじんわり温かくなってくる。
俺はしばらく黙って、それから笑った。
「じゃあ今日から……ううん、今日“こそ”友達だな!」
子狐は目を丸くしたまま固まった。
……ともだち……?
「うん。一緒に話してくれるし」
子狐はそっと尾を揺らし、俺の足元に光の粒を散らす。
それは、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。
……妾のようなものを、友と呼ぶのかえ?
「うん」
消えてしまう、影の欠片じゃぞ……?
「消えたって、また来ればいいじゃん。
僕もまた来るし。何回でも」
子狐は、ゆっくりと石の中へ身を沈めた。
それでも、尾の先だけが、苔の上にちょこんと残っている。
……そちは、不思議な子じゃ。
「君が不思議なんだよ」
その時――
バリッ。
ノリシオが勝手にポテチの袋を破り、
のり塩まみれの顔で現れた。
「お前……絶対それ狙ってただろ……」
キュー!(訳:何が悪い)
子狐の翠の光は、小さく震えた。
それは、確かに“笑っている”ように見えた。
俺は石に向かって言う。
「妖怪でも、影でも、欠片でも……
俺は君が好きだよ。
だから、ちゃんと友達でいような」
風に紛れて、声がした。
……そなたこそ、妾の初めての“友”じゃよ。
胸がぎゅっとなった。
姿は、まだちゃんとは見えない。
それでも――確かに、そこにいる。
帰り際、俺は振り返って手を振った。
「また来るね!」
森の影が、小さく揺れた。
待っておるぞ、そち。
子狐の声は、風より優しく、
雨の匂いのように静かに消えていった。
◆
帰り道
さっきまで後ろで響いていたはずの声――
高い笑い声、幼いはしゃぎ声、そして犬の吠え声が、
風に吸い込まれるように消えた。
「……あれ?」
タローは振り返った。
誰もいない。
けれど“ひとりで来た”感じがしない。
胸の奥が、妙にざわつく。
(……なんだ、これ)
何かが抜け落ちたようで、
でも“何があったのか”分からない。
スマホを取り出す。
写真もメッセージも“最初から自分一人用”として自然に埋まっている。
その自然さが、不自然だ。
「……変だな」
声に出してみても、理由は浮かばない。
タローは歩き出す。
けれど足取りのどこかで、
“誰かと一緒に歩いていた”感覚だけがついてくる。
名も、顔も、呼びかける言葉も出てこない。
ただ――
胸に小さな穴が開いたような、そんな感じ。
風が草を揺らし、
その形が一瞬だけ、手を振る影のように見えた。
「……気のせいか」
タローは苦笑して、前を向いた。
霧の向こうで、世界は何もなかった顔をしていた。
コピペ:八芒星は、完全生や再生、無限の循環などを象徴すると言われています。
※4翠:みどりや青緑色を意味する。「みどりのきつね」2021年に期間限定で販売されたらしいですね。知らんけど…。
※5茜:深い赤みを帯びた色




