霧の高地と、ヒッポグリフの初仕事
ヒッポグリフの背に乗って上空へ飛び立ったパパタローは、加速時の息苦しさが解消されると、すぐに辺りの景色に心を奪われた。
下界を覆い尽くす霧海が、太陽の光を受けて一面、銀色に輝いている。まるで巨大な綿菓子の上を滑空しているようだ。眼下には、所々に霧を突き破って、ヴィクターの屋敷のような古い城や塔の尖塔が見え隠れしていた。
「すげぇ……まさに霧の高地だ」
パパタローの後ろでムニンは丸くなり、羽毛の中に顔を埋めていた。
「にゃ〜……あったかいにゃ……極上の毛布にゃ……」
「お前、寝るなよ!景色見ろ、景色!」
「景色は逃げないにゃ。愛と睡眠は逃げるにゃ」
ヒッポグリフは滑らかな滑空を続け、約30分後、眼下に広がる広大な牧草地帯に着陸態勢に入った。
牧場は、広大な草原が広がり、一部に頑丈な木柵が巡らされた、自然そのままの地形を利用した場所だった。そこには数十頭ものヒッポグリフが、悠然と歩き回っているのが見えた。
「ブブォー!」
パパタローが乗ってきたヒッポグリフが力強い鳴き声を上げると、他のヒッポグリフたちが一斉に顔を上げた。
着地地点には、アシュレがすでに待機していた。
「ようこそ、パパタロー・R・シルバーハート様。ムニン殿も」
「お、お早いですね、アシュレさん」
「ヒッポグリフは優秀ですから。さて、早速ですが、こちらが今日から君が担当するヒッポグリフです」
アシュレは一頭のヒッポグリフを指し示した。そのヒッポグリフは、他の個体よりも少し小さく、翼の付け根に白い斑点があった。
「名はルビー。少し気性が荒いですが、慣れれば最も賢い子です」
ルビーはパパタローを警戒するように、鋭い鉤爪の足で地面を掻いた。
「では、最初の仕事です。ルビーの調子が少し悪いです。パパタロー様の『癒やしの魔力』で、ルビーの疲労を取ってあげてください」
「君の魔力は『生命力の具現化』だと、ヴィクター様は仰っていました。
心から『回復を願う』ことで、魔力はそれに応えるはずです」
アシュレの言葉に、パパタローは小さく息を呑んだ。
ルビーは牧草の上に伏せている。
眠っているはずなのに、翼の付け根がわずかに痙攣し、後脚の鉤爪が苛立つように地面を引っ掻いていた。
――夢見が悪いのか。
そっと近づいた、その瞬間。
「ブッ――!」
眠ったままのルビーの脚が、反射的に跳ね上がった。
空を裂く音とともに、鉤爪がパパタローの胸元を掠める。
「うわっ!」
間一髪でかわしたが、ルビーの呼吸が乱れる。
寝息は荒く、白い斑点が不規則に明滅し始めた。
「……悪化しているな。
触れられたくないほど、疲れている」
アシュレの声が低くなる。
「痛みと疲労が、眠りの中で暴れているようです」
パパタローは一瞬、手を引きかけ――やめた。
(怖がらせたくない。苦しいままにしたくない)
深呼吸をひとつ。
(魔力が溢れるんじゃない。
俺の中の量が、ちょっと多いだけだ)
もう一度、今度はゆっくりと、ルビーの顔へ手を伸ばす。
「……大丈夫だ」
言葉は、ほとんど独り言だった。
「無理しなくていい。
ちゃんと、休んでいい」
呪文ではない。
願いですらない。
ただ、相手の安らぎを思う気持ち。
その時――
右目の狐の印が、薄く、しかし確かな温もりを帯びて輝いた。
パチ……パチ……。
ルビーの白い斑点から、微かな白金色の光が立ち上る。
荒れていた光は次第に丸みを帯び、穏やかな流れとなって、パパタローの掌へ吸い込まれていった。
ルビーの脚から力が抜ける。
呼吸が深くなり、鉤爪が草を掴むのをやめた。
「……」
ルビーは小さく喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細める。
「……治った。疲労が、ほどけた」
アシュレが静かに、しかし確信をもって告げた。
「やはり。
君の魔力は『生命力そのもの』に作用する」
一拍置き、続ける。
「これが、ヴィクター様が君をこの地で保護したいと願った
――切実な理由の一つでしょう」
「切実な理由……?」
パパタローが聞き返す前に、
ムニンが肩によじ登り、耳元で囁いた。
「後でにゃ。
今はこの子を、ちゃんと休ませてやるにゃ」
こうして、パパタローのヒッポグリフ牧場での仕事と、
愛を注ぐことで安らぎをもたらす「生命力の魔力」の制御訓練が、静かに始まったのだった。




