突然ですが婿になりました
ふあ~、よく寝た~~!
カリンが助手席で猫のように伸びをしながら、ぱっと目を覚ました。
キラキラと輝く青空。
真っ青な海。
窓から差し込む光のリズムと、心地よい車の振動。
「わぁ、もうここまで来たんだ!」
目をらんらんと輝かせ、カリンが叫ぶ。
「青い空~♪ そよぐ風~♪ ふんふんふん~♪」(憧れのハワイ航路)
「お前、いくつだ?」
ハンドルを握るパパタローが呆れたように片眉を上げた。
「じゅうろくでぇす♡ あらやだ、28でおボケなさった?」
「こらこら、カリン君。足をダッシュボードに乗せるな、行儀悪い。」
「違うわよ! 新車でしょ?足跡つくのがイヤなんでしょ?ケッチィ~!」
……パパタローはタジタジだ。
ケチは否定しないが、やっぱり行儀は悪いと思う。
と、そんな心の声を見透かしたように、カリンが話題を変えた。
「それより~!」
窓の外に両手を突き出し、まぶしいくらいの笑顔で叫ぶ。
「眼下に広がる青い海っ!
突き刺すような陽射しっ!
今日は花火っ! いいねっ! 最高だねっ!
手羽先せんべいっ! どりゃあうまいがねっ!」
「……あとビール、ほしいかも」
と、ぼそっと呟いたあと、急に元気よく叫ぶ。
「なんてねっ! 海だよっ! スイカだよっ!」
「うまいがねっ!」
パッケージに書かれた名古屋弁を真似して、目をキラキラさせながら連呼している。
こら未成年!
お酒は20歳からだよ。さっき自分で「16」って言っただろ。
はぁ。
結局、パパタローはカリンの勢いに押されて、何も言えなくなっていた。
ふと、視界に映る、懐かしい空。
やがて、その先に見えてきたのは――幽玄森。
「……もうすぐ着くな」
パパタローは幼い頃、よくこの森に来ていた。
懐かしい思い出が、ゆっくりと心に浮かぶ。
――ヒュッ!
突然、空を切るようにして何かが飛び込んできた。
茶褐色の物体が視界を横切り、そのまま森の中へと消えていった。
「……隕石か?」
目を細めるパパタローをよそに、カリンはスマホを取り出す。
「宏美おばあちゃんに電話しとくねー!」
「……ああ」
「なに? 緊張してんの? ふふっ、やだ〜♡」
「いや、さっきの石が気になって……」
そう言いかけたその時だった。
――ポツリ。
フロントガラスに、一粒の雨。
晴天なのに、前方だけが雨に包まれていた。
それは、まるで空と地面を繋ぐ光のカーテン。
「お天気雨っていうんだよ、パパタロー! こういうの、“狐の嫁入り”って言うんだって!
……昔の人は、見ちゃいけない神様の婚礼を見てしまった罰として、異界に連れて行かれるって……ふふ、ロマンチックじゃん?憧れちゃう~。」
「狐の嫁入り? なんだそりゃ。昔話か?」
「ふふっ、ただの気象現象~」
軽く笑いながら、カリンは指をフロントガラスへ向ける。
「でもさ、あの光の帯、時空の裂け目に見えない?異世界とか行けそう!」
「んなわけあるか……」
呆れたパパタローが返す間もなく、
「つっこめーー!!」
カリンが絶叫した。
「はいよぉぉ……」
やる気のない返事でハンドルを切った。
その瞬間
世界が、歪んだ。
ずしんとした衝撃。
雨は、上からではなく、地面から空へと吸い込まれているように見えた。
ふわりと意識が浮き、世界がコマ送りのようにぎこちなく進み出す。車は走っているはずなのに、景色がどこか歪んで見えた。
「カリン……?」
助手席を見ても、返事はない。まるで眠ってしまったかのようだ。
「……まったく、お前は昔から、眠りが深すぎるんだよ」
その時、視界の隅に、まばゆい光が差し込んだ。
「うわっ……なんだ、あれ……」
光の中心に、女性がいた。
ふわりと宙に浮かぶ姿。九本の尾を揺らし、全身は金と白の光に包まれている。
その瞳は、夜空の星を閉じ込めたように輝いていた。
「……裸!?」
つい口走ってしまい、慌てて目を逸らす。
「ふふ……やはり太郎殿は、昔と変わらず素直じゃのう」
その声は直接、心に響いてきた。
それは、少年の頃――幽玄森の石に、ひとりきりで語りかけていた時に、胸の奥で響いていた、あの声と同じだった。
音ではない、感覚として届く柔らかで温かな声。
「久しいの、太郎殿。妾じゃ。覚えておるか? 幽玄森でよく話しかけてくれたの」
「ま、まさか……あの苔だらけの石が……!?」
「左様。妾はかつて幽玄森にて、人の世を見守っていた妖石。正体は――九尾の狐、翠狐じゃ」
そう言って、光の尾が優雅に揺れた。
その美しさに、パパタローは言葉を失った。
「……で、でも、なんで今こんな……?」
「狐の嫁入り──そちは、妾の儀式に、どっぷり割って入ってくれたのじゃ。おかげで式は台無し……ふふ、じゃが感謝もしておる」
「え、感謝?」
翠狐は柔らかく微笑んだ。
「妾にとって、この天気雨は単なる現象ではない。“転生”の儀、その扉なのじゃ。そしてもう一つ“掟”でもある」
「掟……?」
翠狐はわずかに顔を赤らめ、尾で胸元を隠しながらそっぽを向いた。
「……妾の一族には、異界の門が開かれるとき、尾を一つ捧げて“契り”を結ぶ古の掟があるのじゃ」
「魂の盟約。妾の命の一部が、そちの命に溶けるということ……」
?
「だから!”簡単に言うと、その、婚礼前の姿を人の男に見られてしまったら……強制的に、その……婿殿と……契りを結ぶ決まりなのじゃっ!!」
「な、なんですと!?」
パパタローの顔も真っ赤になった。
「べ、別に……いやなら、断ってくれても、いいんじゃが……」
「ううん。いいよ」
「……え?」
「……いいよ」
パパタローは一瞬、目を伏せた。
目の前の眩い光景と、胸の奥に残るかすかな温もり。
「昔、あの森で……ずっと誰かに呼ばれてる気がしてたんだ。答えなきゃいけない気がしてた」
「それが今なら、答えてみるよ。運命ってやつにさ」
翠狐は一瞬目を瞬かせたあと、頬を染めながらも、安堵と喜びの入り混じった表情を浮かべた。
「……ふふっ、相変わらず即決じゃのう。だが、決めたのなら、妾の加護を授けようぞ」
翠狐が指を鳴らし、一本の尾が銀白に輝きながら、するりと宙へ舞う。
その瞬間、翠狐の瞳から光が一瞬だけ揺らぎ、ふと顔を伏せた。
「これは“守護の尾”。妾の一柱の力を分け与える証……」
声の調子が、かすかに弱くなる。
(……何かが、削れている?)
「この尾が、そちの命を異世界で守ってくれよう」
尾はゆっくりと、パパタローの右目へ――
「うわっ!? 目がぁあああっ!」
光が走る。痛みではない。
温もりが内側に満ちていく。右目に、狐の紋様が淡く浮かんでいた。
「続いて――カリンにも」
再び尾が抜け、カリンの右手にふわりと触れた瞬間、狐の紋様が淡く浮かび上がる。彼女の瞼がぴくりと動いた。
カリンの手に尾が触れた瞬間、翠狐の髪の一部が淡く色褪せ、苔のような緑に変わった。
「まさか……」
「そう、尾は妾の命の欠片。分けるたびに、“完全”から遠ざかっていくのじゃ」
「それと、道案内も必要じゃな。そちに従い、共に歩む“従魔”を与えよう」
翠狐が名を告げる。
「名は――“雨音”。妾の長きにわたる従者じゃ」
その名を呼んだ瞬間、翠狐の尾から赤い光がくるくると弾け、一尾がまた消えた。
翠狐の尾が弾け飛ぶと、まるで命の芯がほどけたかのように、彼女の髪がふわりと揺れ、色が沈んだ。黄金の輝きは失せ、代わりに静かな苔色が広がってゆく。
その横顔は、さっきまでの気高き巫女ではなかった。
少し年下の少女のように、どこか心細げだった。
その中心から現れたのは、紅の毛並みを持つ小柄な狐。
その瞳は、翠狐に向けられた深い愛と別れの寂しさを湛えていた。
「妾の元で長く尽くしてくれたな、雨音。……これより、そなたの新たな主は、太郎殿じゃ」
「キュゥ……」
小さく鳴いた雨音が、翠狐に最後の挨拶をし、ゆっくりとパパタローのもとへ歩み寄る。
その瞳には、誇らしさと不安が入り混じった、切なげな輝きがあった。
「……泣くな。また会える」
翠狐の言葉に、雨音はそっと頷いた。
そして、魔法陣が静かに現れ、雨音との契約が解かれると同時に、翠狐の尾がまた一本、消えていった。
途端に、腰まで届いていた髪が肩にかかるほどに短くなり、声もどこか幼くなる。
「……また、近づいてしまったの。あの日の姿に」
「ついた先で、天音に名をつけてやってくれ。これが従魔契約だ。」
「ああ」
「さあ、これで準備は整った。婿殿は妾の姿が変わってしまって、残念か?」
「いや?むしろ守ってやりたくなった。」
「そうか。」
翠狐はパパタローを見つめ、どこか名残惜しそうに微笑む。
まばゆい光が、彼らを包み込んだ瞬間――
音が消え、色が消え、輪郭が溶けていった。
パパタローの意識は、深く、深く沈んでいく。
浮遊するような感覚。懐かしい温もりと、新しい息吹の境界。
最後に見えたのは、翠狐の微笑みだった。
それは寂しげでいて、どこか母のようでもあり、恋人のようでもあった。
「――異世界で、妾は待っておるぞ。……婿殿」
──瞬間、世界が、反転した。
赤い車は、夜の高台からそのまま滑るようにガードレールを越え、湖へと落ちた。
水しぶきが高く上がる。だが、音はしない。誰も見ていない。カメラも、通行人も、警報もない。
まるで最初から存在しなかったかのように、
湖へと沈む車。
けれど、意識は浮かぶように、新しい空へと昇っていくにつれ
妹達と犬の記憶が唐突に頭に浮かんだ。
沙織、幸恵、ノア、小太郎!
音が戻る。
風の匂いが鼻をかすめる。
空にかかる逆さまの虹の中、巨大な月が、まるで笑っているかのように歪んでいた。
「……ここ、は……」
パパタローはゆっくりと目を開いた。