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第一話 連続行方不明事件



『連続行方不明事件 遺言に謎の言葉「怪人」』

北東の穏やかな港町、バリータウン。このバリータウンにて、行方不明者が連続し、町を不安の影で覆っている。

八月ころから毎週のように行方不明者が続出、居場所が分からなくなり、現在では一〇名を超える人々の行方が分からない。

行方不明者の年齢は若き少年少女から四〇歳を超えている人までおり、男女もバラバラ、依然共通する点は見つかっていない。行方不明者たちが残したと思われる手紙や、身近な人々の証言などによると、行方をくらます直前に「怪人が怖い」「怪人になってしまった」などと言っていた模様。

「怪人」とは何なのか。身元もバラバラの行方不明者たち、その理由を見つけるための手がかりとなりうるのか。警察が調査を進めている。

――二〇三五年九月一五日ユートピア新聞より



 夕方の田舎道。オレンジ色に照らされたのどかなはずの道を、汗だくで走る者が三人。

「コラァ! 待て!」と追う男。

「待てって言われて待つヤツなんていねえよ!」と追われる少年。

 追う男の名はシュート。若手の刑事で、短い金髪と黒い瞳は、若手さながらの清潔感があるが、今日はいかんせん汗に濡れている。そのシュートの後を、同僚の女ルーリーが一所懸命ついて行く。

 追われているのはジャラジャラした上着を着た少年。いかにも、田舎の不良である。この少年が何をしたか。車の窓へ、傷をつけ落書きしたのである。その車が、まさか刑事の車などとは夢にも思っていなかったのだろう。

 車の持ち主であるシュートに目撃され、現行犯で絶賛追われ中なのだ。

 シュートは、右足を振り上げながら「でええ!」という掛け声とともに、靴をサッカーボールのごとく蹴り飛ばした。一足しか持っていない、仕事用の靴である。

 その靴は空中を一直線に進み、少年の後頭部に直撃した。

「うげっ!」

情けない声をあげ、少年はアスファルトの道の上へ倒れた。

 シュートは息を切らしながら少年に追いつくと、その肩をがっしり掴んで、立ち上がらせた。少年は、

「はなせ!」

と、シュートの胸ぐらを掴んで抵抗した。

 しかし、体格のいいシュートはびくともしない。少年のほっぺたをつねり、上へ引っ張り上げた。

「あだだ!」

少年が唸る。

「てめえ! 一人で刑事にケンカ売ったことは褒めてやる」

唾を散らす勢いでシュートが言う。どちらが不良か分からなくなるセリフである。

「へ、へへ」ほくそ笑む少年。「こりゃあ褒めてもらってどうも」

「クソが! 返事だけはいっちょ前にしやがる!」

「シュート君!」やっと追いついたルーリーは、息を切らせて立ち止まった。「捕まえたのね」


**


 少年を補導したのち、ルーリーと警察署へ向かったシュート。署と言っても、一階しかない狭い建物である。交番ではないかと思ってしまうほどだ。隣り合った机に座り、ルーリーと帰り支度をしていた。

「部長、お疲れ様です」

シュートとルーリーは声をそろえて、目の細い部長に挨拶した。そして署を後にし、二人して歩道を歩く。日は沈みかけ、歩道が赤く照らされていた。向こう側から、一〇歳にも満たないであろう男の子たちが三人、楽しそうに追いかけっこしながら、シュートたちとすれ違った。

「はあ、子どもは元気だねえ」

黒い瞳で子どもたちの背中を追いながら、シュートはため息をついた。小さい頃は、いくら遊んでも疲れなかった気がする。

「本当にね。願わくは、あなたの車に落書きするような悪ガキには育ってほしくないわね」

「全くだ」

ルーリーは「ふふふ」と言いながら、後ろ髪を縛っていたゴムを外した。

 ルーリーの美しい銀髪が、彼女の肩まで降りてきた。

「車の落書き、何て書かれてたの?」背が低いルーリーは、シュートと話すにはかなり顔を上げる必要がある。

「お前の車は傷だらけ、超つらい、超超つらい、蝶はパタパタ、バタフライ」

「ラップの才能は無いわね」

 歩く道の横には、家々が並んでおり、ふとすると同じところをぐるぐる回っているのではと思うほど、何の変哲もない景色が続く。

「本当はもっと、市民を守る仕事をしたかったよ。悪ガキを追いかけたかったわけじゃない」

 シュートは、上へいくほど暗くなる、グラデーションがかった空を見上げた。太陽が沈みかけているのだ。子どもの頃は、漠然とヒーローになりたかった。ふと、そんなことを思い出した。

 シュートが最近刑事としてやったこと、それは今日ガキを捕まえた他、近所のおばあさんの愚痴を聞いたり、信号無視の車を追いかけたくらいである。

 先週などは、「ベランダに青虫が出たから退治してほしい」などと一一〇番がきて、さすがにキレそうになった。だが、お人好しなシュートは、結局退治してあげたのであった。

「酒飲みてえ」

 シュートがバカみたいに呟くと、

「賛成!」

 とルーリーが跳ねた。

「実はね、私も最近、嫌なことがあったの。だから、お酒を飲みたい気分」

 ルーリーがそう言うので、シュートが聞く。

「へえ。どんな?」

「それは、飲んでから話しましょ?」

 言いながら、ルーリーはシュートの前へ躍り出て、バレエダンサーのようにくるくると回った。

「君、もう酔っ払ってるんじゃないのか」


**


 シュートたちは、川沿いのバー「ムーン」へ向かった。バー・ムーンは海へ流れる川のそばに、ひっそりと建っている。窓がない灰色のそれは、あたかも倉庫のように見える。

 しかし中へ入ると、キャンドルと弱い照明に照らされた穏やかなバーだと分かる。穴場的バーなのだ。シュートとルーリーは、このバーの常連である。

 シュートたちはドアを開け、店内へ入った。キャンドルに照らされた、オレンジ色の部屋が表れる。

「おお、ルーリーとシュートじゃん。好きなとこ座りな」

 カウンターの奥に、バーテンダーのミスター・バナグラスがいる。ミスター・バナグラスは童顔で小柄な男だが、実年齢は「おっさん」と言われる年齢らしい。常連客の間では、三五歳であるとか、四〇歳を超えているとか言われている。常日頃ニコニコしており、よく客に話しかけてくる。

 シュートは、カウンターに座った。その隣に、ルーリーも座る。ミスター・バナグラスが正面からメニューを見せてくれた。

「何を飲む?」

「ビールで」とシュート。

「白ワインかな」とルーリー。

 ミスター・バナグラスは快く返事をしてくれると、すぐにグラスを用意して持ってきてくれた。四葉のクローバーのコースターをシュートとルーリーの前に一枚ずつ置き、その上にグラスを置く。

 シュートたちは「ありがとうございます」と言うと、自分のグラスを手に持った。

「今日もお疲れさま」ルーリーが青い瞳でシュートを見つめる。「乾杯」

「乾杯」

 シュートも答え、グラスの端を合わせて乾杯する。グラスが当たり、その中の氷が揺れ、心地よい音を奏でる。

 お互いにお酒に口を付けたあと、シュートは話しかけた。

「ルーリー。そう言えば、最近あった嫌なことって言うのは、何?」

「ああ、なんだっけ、そうそう、ナンパされたのよ。昨日、買い物してたとき」

 シュートはどういうわけか、ドキッとした。まさか、男の話だとは思っていなかったのだ。

「な、なんだよ。嫌な話じゃなくて、自慢話じゃん」

「ううん。ほんとに嫌だったのよ。嫌と言うか、イラッときたわね」

「なんでだよ。それで……、その、デートでもしたのか?」

「いいえ、その場で断ったわ」

「もったいねえ。空前絶後のチャンスだったかもしれないよ」

 シュートは、心のどこかでホッとしながらも、このように茶化した。

 ルーリーがお酒で湿った唇を尖らせた。

「失礼ね。私だって、ナンパくらいされるのよ」

「どうだか。で、その男の何が気に食わなかったんだ?」

「ナンパの仕方よ」

「え?」

「その男、道を聞いて来たのよ。バリーステーションの場所はどこですか、ってね。それで、道を教えたら、今度はお礼に食事でもって言われてさ」

「それのどこがダメなの?」

「私ね、ナンパは別にいいのよ。でもね、道を聞くナンパだけは許せないの。せっかく教えてあげたのにさ。『え? なに? 元から知ってたの?』って思っちゃう。なんかこう、ひとの良心につけ込む精神がいけ好かない。地獄へ道案内してやろうか」

 ルーリーの口調から相当な怒りが伝わり、シュートは無言でうんうんと頷いた。

 そんな話をしていると、さっきまで奥でがさごぞしていたミスター・バナグラスが、二人の前へ戻ってきた。どうやら、自分で飲む用のお酒を用意していたらしい。グラスを持ち、シュートたちの前へ傾けた。

「ナンパされたルーリーの美しさに乾杯」

 ミスター・バナグラスがそう言うと、ルーリーはそのグラスへ乾杯した。遅れて、シュートも乾杯する。そのあと、ミスター・バナグラスはそれを飲んだ。ビールに似た、琥珀色の飲み物だ。

「もう、ミスター・バナグラスったら、いったい何が欲しいって言うんです?」

 と言うルーリーの顔を、シュートは横目で眺めた。

 この女、褒められたのがまんざらでもない様子。ニヤニヤしている。そしてそのニヤニヤ顔のまま、残りのワインを一気に口に含んだ。

 しかしミスター・バナグラスが真顔で「五〇兆ドル」などとアホみたいな要求をしたので、ルーリーは吹き出してしまった。

 ミスター・バナグラスは、盛大に吹き出したことにはツッコまず、ルーリーの空いたグラスを見ながら、

「おかわりいるかい?」

 と聞いた。

「うーん。次は、甘いものが良いです。甘くて、フルーツ系のものとかありますか?」

「そうだね、リンゴジュースは好きかい?」

「はい」

「じゃあ、カシスアップルにしよう」

 ミスター・バナグラスは少し二人から離れ、底の広いグラスに氷とお酒を入れて混ぜると、すぐに戻ってきた。慣れた手つきで、白ワインが入っていたグラスと、新たにカシスアップルを入れたグラスを交換した。

 カシスアップルはかなり紫っぽい色をしており、アルコールと混ざった果実っぽい甘い香りがしていた。

 ミスター・バナグラスは今度、シュートに話しかけてきた。

「シュート、最近はどうだい? 仕事も大変だろう」

「それがね、ミスター・バナグラス。ぶっちゃけた話、暇も暇、めちゃくちゃ退屈なんですよ」

「え、そうなの?」

「はい。見回りと称して散歩したり、報告書を書いたりはしますよ。けれど、最近なんて、クソガキを追いかけたり、虫を退治したり、地味なことばっかりですよ。俺は近所のお助けマンじゃない」

「いいじゃないか、お助けマン。俺なんて酒飲んでるおっさんだぞ」

 ミスター・バナグラスに続いて、ルーリーが「よ、お助けマン」などと合いの手を入れてきた。顔を見ると、少々頬が赤い。

「本当はもっと、大活躍がしたかった。事件を解決したり、悪党を捕まえたりするような」

「ふん。そう願えるのは、幸せってもんだ」

ミスター・バナグラスが穏やかな笑みを浮かべた。

「どういうことです?」

「もしもの話、シュートが大忙しだったとするだろ? それって、事件や犯罪者が多いってこと。すなわち、君の仕事が多いってことは、この町がそれだけ危険だってことになる。

 俺は、刑事があくせくしなきゃならないような、危ない町には住みたくないね」

「なるほどね、俺が退屈なのは、平和の証ってことですね」

「そうそう。毎日仕事に追われてたら、こうやってゆっくり酒も飲めやしないぞ」

「それは嫌です」ルーリーが口を開き、カシスアップルを飲み干した。「すみません、このお酒のおかわり貰えます?」

 これを聞いたミスター・バナグラスはゆっくり頷き、新たなカシスアップルを持ってきた。ルーリーは昨日のナンパがよっぽど気に食わなかったのか、お酒のペースがいつもより早い。

 ルーリーはグラスに口をつけ、半分ほどごくごく飲んだ。ルーリーが白い手に持ったグラスをカウンターに置くと、中の氷が音を立てて崩れた。

「シュート君。あんまり平和だとも言ってられないわ」

「何の話?」

「最近の新聞、読んでる?」

「いいや」

「あなたね、新聞はちゃんと読みなさいよ。刑事なんだから」

 ルーリーはそう言うと、シュートにもたれ掛かった。そして、手のひらをぺチぺチとシュートの頬に叩きつけた。ルーリーの近付いた口から、息がかかる。普通ならドキッとするかもしれないが、今日はその口からアルコールの匂いがする。

 シュートは「うっ」と言って、眉をひそめた。

「おい、口が酒臭いぞ」

 まずいな、こいつ酔っ払い始めたぞ。シュートはそう思った。「で、その新聞に何が書かれてるんだ?」

 ルーリーが姿勢を元に戻した。

「このバリータウンで、行方不明者が続出してるのよ」

「へえ。それは事件なのかな。それとも事故?」

「どちらの可能性のあるでしょうね。そもそも、行方不明者に共通性が見つかってないから、なんで行方不明になってるのか、誰かが糸を引いているのか、全く予想できないわ」

「そうか……何か手がかりでも掴めればいいけど……」

「全くないわけじゃないわ。行方不明者たちは、失踪前に『怪人』という言葉をよく使っていらしいのよ」

「怪人? 何のことだ? 共通の幻覚を見る病気とかかな」

「さあね。ミスター・バナグラスは、事件のこと知っていますか?」

ルーリーがミスター・バナグラスの方を向いた。

「ああ、知ってるよ。新聞で見た。次の不明者が出なければいいが」

「本当にね。ミスター・バナグラスは、怪人って何のことだと思いますか?」

「ええ? 難しい質問だな。なんだろう?」

ミスター・バナグラスは、腕を組んで首を傾げた。「とにかく、人間ではないんだろうな」

「悪魔とか? それとも天使かしら」

「どっちも同じもんだろ」

 シュートは頭の中で、ミスター・バナグラスの言葉を繰り返した。天使も悪魔も、どちらも同じなのだろうか。

「じゃあ、天使と悪魔は、どうして別々の名前がついてるんでしょうか?」

 シュートはなぜだか、どうしても聞いてみたくなったのである。

「そりゃあ、天国を追い出されたかどうかの違いさ」

 シュートは、黙って頷いた。その言葉の不思議な余韻を味わいながら、行方不明事件のことをぼんやりと考えていた。

 まさか、自身がこの事件の渦中に巻き込まれていくなど、このときのシュートには想像すらできなかった。行方不明者たちが味わったであろう苦悩を、シュートも味わう運命にあったのだ。


**


『連続行方不明者の遺体、発見される 自殺か』

バリータウンにて、山の中で二人の遺体が発見された。二人は先月辺りからの一連の行方不明事件の不明者であり、遺体の状況から、刃物で首を斬り自殺したものと思われる。

自殺者のひとりは、遺体発見の二日前に恋人や家族に対し「俺でなくなってしまった。もう見せられない。死ぬべきだと思う」と電話していた模様。

――二〇三五年九月二六日 ユートピア新聞


 ある日の勤務終わり、シュートは自宅へ戻った。シュートの自宅は、住宅地の一角に立つマンション、その三階にある。玄関を空けると、すぐ台所、その向こうにリビングとして使っている部屋がある。

「ただいま」

 シュートはそう言って、玄関の鍵を閉めた。シュートには、一緒に住んでいる女がいるのである。

「マーシュ。マーシュ、いるのか?」

 と言っても、恋人や妻ではなく、妹である。シュートは妹の名を呼びながら、リビングへ入った。しかし、人気はない。妹マーシュの部屋の戸をノックしたが、返事がなかった。


**


 やがて深夜になった。だが、マーシュは帰ってくる様子がない。部屋にずっとこもっているのだろうか。それにしても、声も聞こえず、物音も発しない。

 あまりに心配になったので、

「マーシュ。マーシュ。開けるぞ」

 と言って、その部屋のドアを開けた。ところが、妹の部屋はもぬけの殻、ずっとマーシュはいなかったのである。

 シュートは考えた。アルバイトは、こんなに遅くまでしてないはずだ。もしかしたら、友だちの家に泊まりに行っているのかもしれない。それにしても、連絡か置手紙のひとつでもしてくれればいいのに。

 シュートはドアを閉めると、リビングの隅にあるベッドに寝転がった。部屋が二つしかないのである。必然的に片方はリビングだ。そしてもう一つの部屋は、妹の部屋と言うわけだ。シュートが寝るところは、やむを得ずリビングしかないのである。


**


 次の日の夜。シュートは焦燥に駆られていた。マーシュの姿が見えないのである。恐ろしいほどしいんとした家の中に立ち尽くし、行方不明者事件のことを思い出していた。ルーリーやミスター・バナグラスと話した、行方不明者のことが頭をよぎる。

 シュートはまず、スマホを利用してマーシュに電話を掛けた。すると、軽快な着信音が間をおかず聞こえてきた。

 シュートは、予想を覆す展開に身をこわばらせた。同じ家の中から、着信音が聞こえるのである。だが、この空間にはシュートしかいない。

 まず、音のする方を恐る恐る眺めた。間違いなく、妹の部屋の中からだ。そのドアを見つめると、シュートの頬を、よく分からない気持ち悪い汗が伝った。ゆっくりと歩き、ドアの前へ立つ。唾を飲み込むと、自分でも嫌になるくらいはっきりと、喉の動く音が聞こえた。

 ドアノブを持ち、一気にドアを開けた! そこに見えるのは、何の変哲もない女性の部屋だ。勉強机と、ベッドがある。その、ぬいぐるみが置かれた女の子らしいベッドの上で、スマホが画面を光らせている。

 シュートは近付き、その画面を覗いた。

――シュート・ビートから着信中です――

と表示されている。そして、その着信音は鳴りやんでしまった。

 なんということであろうか。妹マーシュは、スマホを置いて出ていったのである。こうなれば、自力で探すしかない。

 家出かもしれない。それとも、俺に予想できない何かが起こっているのか? シュートは大急ぎで、部屋を飛び出した。


**


 黒いジャージ姿のまま、シュートは町中を探し回った。こういうときに限って、車がない。窓の修理に出したまま、取りに行っていなかったのである。海沿いの道を歩き、住宅地の間を縫って走った。

 夜の暗闇の中、シュートは商店街にたどり着いた。両手にはシャッターが閉まった店が並んでいる。

「マーシュ! マーシュ!」

きょろきょろと辺りを見回しながら、息を切らす。マーシュはどこに、なぜ向かったのだろうか。こんなところに、用があるはずはない。そう思いながらも、そろそろ会えるんじゃないかという期待を捨てきれない。

 冷たい夜の道の上を歩いていると、ふと、部屋着のまま立っている女を見つけた。あっちを向いているが、長い金髪と、太ってもなく痩せてもいない感じが、なんとなくマーシュっぽいと思った。

「マーシュ……?」

数歩後ろから、マーシュは声をかけた。

 女はビクッとしたあと、振り向いた。そのぱっちりした青い瞳は、間違いなくマーシュである。シュートは嬉しくなって、近付いた。

「マーシュ! やっと見つけたぞ。どうしたんだ、こんなところで」

「お兄ちゃん!」

「さ、早く帰ろう」

「ダメよ。私もう帰らない」

 マーシュは、その場から一歩も動こうとしない。

「え? なんかあったのか? こんな夜中に一人で出歩くなんて、危ないぞ」

 シュートは首を傾げた。マーシュとケンカをしたり、この子が帰りたくなくなるようなことはしていない。なぜマーシュが帰りたがらないのか、見当がつかなかった。

「私、もう人間じゃない……お兄ちゃんと一緒に暮らせないわ……」

 マーシュが涙目でそう言った。

 瞬時に、シュートの頭に、ルーリーやミスター・バナグラスとの話が思い浮かんだ。あの、行方不明者だとか、怪人だとかの話である。シュートの背中に、鳥肌がたつ。

「何言ってんだ。俺の妹だろ、人間だよ。さあ、帰ろう。帰って寝よう」

 なんとなく、このままここに居てはヤバいという気がした。シュートは、マーシュの肩に手をのせた。すると、反射的と言えるほど素早く、その手は払いのけられた。

「触らないで!」

 あまりの勢いに、シュートは驚いてしまった。マーシュの目が、相当に狂気的なのである。ちょっと嫌だったとか、そんな感じではない。もう二度と触れてほしくない、それほどの勢いなのである。

 シュートは、妹に嫌われているのかと思った。

「あ、ああ。悪かったよ。触らないよ」

「違うの。私の体が汚いの……」

「マーシュ……さっきからどうし……」シュートの言葉は、そこで遮られた。

 突然、マーシュが膝から崩れ落ち、頭を押さえたのだ。

「う……ウウ……!」

喉の奥から出るような低い声で唸っている。

「マーシュ! マーシュ! 大丈夫か!」

 シュートは妹へ駆け寄り、その肩に手をのせた。

「ダメよお兄ちゃん……! 私から離れて……お願い……!」

 次の瞬間マーシュはバッと顔を上げた。シュートはその目を見たとき、呼吸を忘れてしまった。マーシュの瞳は、白い部分を失っていたのである。その瞳は、青色一色に染まっており、それはあたかも、昆虫の単眼のような、無機質な瞳だったのである。

 マーシュは立ち上がると同時に、シュートの首を両手で絞めた。

「ぐっ……!」シュートは、自身の首を掴んでいるマーシュの両腕を、掴み返した。そして、引き離そうとした。普段なら、シュートにとってそんなことはたやすい。しかし、マーシュの腕は、びくともしないのである。

 一瞬驚いたが、今度は本気で腕を引き離そうとした。少しマーシュの腕をいためてしまうかもしれないが、やむを得ない。だが、シュートの全力をもってしても、マーシュの腕を離すことはできなかった。

 そのパワーはもはや、一般人とは思えないどころか、人間とは思えないほどなのである。そもそも、シュートの一七八センチ、六九キロの体は、完全に宙に浮いているのだ!

 シュートの胸のうちから、どんどん焦りが込み上げてきた。それは、このまま抵抗できず、絶命してしまうのではないかという、必死の焦りである。

 顔に青筋を立てながら、シュートは息を振り絞った。

「うっ……マ、マーシュ……」

 マーシュはその声を聞くと、ハッとしたような表情になり、両手をシュートの首から離した。解放されたシュートは地面に尻をつき、ゴホゴホと咳き込んだ。

 マーシュもぐったりと腰を下ろした。シュートは立ち上がり、マーシュの前で、その顔を確認した。マーシュは元通りの顔に戻ったようである。普通の人間の顔に。

そして、涙を静かに流しながら、シュートの首をさすった。

「このアザ……私がやったのね」

 どうやら、シュートの首には、先ほど絞められたアザがついているようである。まだ少し痛むが、シュートは笑顔をつくって見せた。

「大丈夫だよ。痛くないさ」

「……」マーシュは黙って泣いている。

「マーシュ、たぶん疲れてるんだよ。帰って休もう」

 安心したのもつかの間、またマーシュが頭を押さえ始めた。

「う!……キィーー!」今度は甲高い声だ。

 そしてマーシュの口元が、またもや昆虫のそれのような、ペンチのような口に変化したかと思うと、すぐに人間の、ピンクの唇がある口に戻った。

 シュートは唖然とした。

「お……おい……」

「ジェイニーが……ジェイニーが危ないわ」

マーシュは意識があるのかないのか分からないほど目をクルクルさせながらそう言った。

「ジェイニー? なんだ? 人の名前か?」

 シュートの質問に答える前に、マーシュは気を失った。倒れそうになった上半身を、シュートが支えた。

 マーシュの頭がうなだれ、あらわになった首から、赤黒く大きい斑点が、ひとつ見えた。シュートは、それを見て眉をひそめた。目立つアザだが、こんなものが、前々からついていただろうか。

 疑問であったが、とりあえず今は考えるのをやめた。マーシュの身の方が、大切だからだ。


**


 気絶したマーシュを病院に預けたあと、シュートは一人、家へ帰った。リビングの隅にあるベッドに仰向けになる。椅子や食事用の机がある部屋にベッドがあるのは、我ながらシュールだ。もう一つ部屋があれば、絶対にこんなところにベッドは置かないだろう。

 暗闇に目が慣れてきて、白い天井が見えるようになってきた。それでも、なかなか眠れない。病院にいるマーシュは、まだ気絶しているのだろうか? 明日、出勤前に病院へ寄ってみよう。そんなことを考えながら、シュートは目をつむった。

 マーシュはいつも、この部屋へ帰ってくると、「おかえり」と明るい笑顔で迎えてくれたものだった。それだけで、シュートの仕事の疲れは吹き飛んでいたのである。二日連続でおかえりがもらえないと、なんだか気分が沈むようだ。

 シュートは改めて、妹の回復を願うのであった。


**


 早朝四時頃、シュートは目を覚ました。自然に目が覚めたわけでも、目覚まし時計で目覚めたわけでもない。シュートを起こしたのは、スマホの着信音であった。それは、マーシュを預けた病院からの電話である。


**


『水死体見つかる 港町の不可解な悲劇』

九月三一日朝。穏やかな港町バリータウンにて、若い女性の水死体が発見された。発見したのは近隣の住民で、その遺体は、一緒に生活していた兄に引き取られた。

女性は数日前から、わけもなく丸一日以上外を徘徊するなど、不可解な行動をとっていたとのこと。最近の連続行方不明事件と関係があるとも考えられるが、その詳細は分かっていない。

――二〇三五年一〇月一日ユートピア新聞


 平日の昼間、シュートはベッドの布団にくるまっていた。部屋の中は異常に静かで、その静けさは時の経過を忘れさせるほどだ。ことは、二日前にさかのぼる。

 あの日、マーシュが死んだあの日、シュートは早朝の電話で目を覚ました。それは病院からの電話で、「マーシュがいつの間にか目覚めており、病院を脱走した」とのことであった。

 シュートはまたもやマーシュを探し回ったが、結局のところ、海のすぐそこに住んでいる住民が見つけてくれた。マーシュは、海の波に揺られて、浮いていたのである。そのときには、既に彼女の魂がこの世を離れていた。


**


 シュートはベッドの上で、ふと目を覚ました。窓の外から、オレンジ色の光が差し込んでいる。どうやら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。もう、夕方になってしまった。

 付けっぱなしのテレビが、CMを流している。「複合金融会社、グリーンコア・カンパニー。あなたの生活に潤いを」キャッチコピーとともに、カンパニーの社長、ボス・ボルカニックという金髪の男が、画面に映り込んだ。もっとも、精神が疲弊して抜け殻のようになった今のシュートには、そんなCMは全く耳に入らない。

 シュートは薄手のコートを着て、フラフラと外へ出た。別に行く当てがあるわけでもないが、散歩でもすれば、気が晴れるかもしれない。というよりは、何か体を動かしていないと、このまま石にでもなってしまいそうな気さえするのだ。マンションの階段を降り、外へ出た。住宅地を出て、道路沿いを歩く。

 シュートは狭い歩道を歩きながら、微妙に整えられた凹凸のある道路を見た。そのすぐ横を、車が追い越していく。この時間だから、会社帰りかもしれない。

 マーシュは散歩が好きだった。よく一緒に連れだされた。買い物も一緒に行って、晩御飯のメニューを二人で相談しながら歩いたものだった。

 そんなことを考えて意識が虚ろになっていたのか、向こうから来た人と肩をぶつけてしまった。

 シュートは最初、声を出さずにその女を見た。金の瞳の、ショートヘアの女だったが、細身の女とは思えないほど、ぶつかったときの衝撃が凄かったのだ。シュートの方が、むしろ倒れそうだった。

「すみません!」女がシュートの顔を見上げた。

 短い髪が良く似合う、小さい顔だ。

「あ、いえ、こちらこそすみません」答えるシュート。

「あれ? もしかして、マーシュのお兄さんですか?」

「え?」

 何か、マーシュと関係のある子なのだろうか。シュートは驚きを隠しきれなかった。こんなところで、バッタリ妹の知人に会うなど、思いもしなかったのだ。

 女は、シュートの驚きを察したようだった。

「あ、私、マーシュの友達なんです。ジェイニーと言って」

「そうなんだね。マーシュの兄の、シュートだよ」

 シュートは、マーシュのことを伝えようか、迷ってしまった。すると、ジェイニーの方から、

「マーシュの件、お気の毒に……」

 と話してきた。どうやら、マーシュのことは知っていたらしい。

「ああ、お気遣いありがとう……」

シュートはしんみりと、目を下に向けながらそう言った。

 そこでふと、マーシュとの最後の会話を思い出した。サンダー的に、頭の中をその記憶が走ったのである。そういえば、マーシュは『ジェイニーが危ない』と言っていた。もしかしたら、今目の前にいるジェイニーのことかもしれない。いや、シュートには、むしろそうとしか考えられなかった。直感的に、そう思ったのだ。

「ジェイニー。マーシュが亡くなる前、少しだけ、君の名前を言ったんだ」

「え!」

 ジェイニーがカッと目を見開いた。相当な驚き様だ。

「『ジェイニーが危ない』ってね。もしかしたら、次の犠牲者は、君なのかもしれない。気を付けてね」

「マーシュが、そんなことを……」

ジェイニーが目を泳がせた。いかにも、不安そうである。

「ああ。最初は何のことか分からなかったけど、今なら分かる。たぶん君のことだろう。俺は刑事なんだ。もしも何か、怪しいことや、怪しい人を見つけたら、いつでもバリータウンの小さい警察署においで。どんなささいなことでも、連絡するんだよ」

 シュートは、マーシュを守れなかった。だから、ジェイニーがもしも次の行方不明者になる運命ならば、守り抜きたいと思った。

 それで、マーシュの命が報われるわけではない。しかし、連続行方不明事件の最後の犠牲者を、マーシュにしたいのだ。これ以上、妹と同じ運命を辿る人を、見たくはない。

 そして、この事件に黒幕がいるというなら、なんとしても着き止めてやりたい。

「マーシュは、連続行方不明者の事件と何か関係があったのでしょうか?」

 ジェイニーが眉を寄せながら聞いてきた。

「おそらくね」

「そして、その次が私……。私、怖いです。今から家に帰るところなんですけど、良かったらついて来てくれませんか?」

「ああ、いいよ」

 シュートとしても、ジェイニーの身の安全のために、ぜひともそうしたいところだ。


 こうして、シュートとジェイニーは並んで歩いた。そのときには日が暮れかけ、空はほとんど暗くなっていた。

 ジェイニーの案内で角を曲がると、細い路地が見えた。街灯が少なく、田舎の夜道はかなり暗い。

「ジェイニー、よく俺がマーシュの兄だって分かったね」

歩きながら、シュートは口を開いた。

「なんとなく、似ているなと思ったので」

「へえ」確かに、顔は似ていると言われる方だった。

「目の色も一緒でしょ」

「え?」シュートの目の色は黒である。「いや、マーシュの目の色は青だよ」

「あれ、そうでしたっけ」

 シュートは疑念をもった。友達の目の色の記憶なんて、そんなものだろうか。忘れていたりするものだろうかと。

 まあ、もしかしたら、あまり関わりのない方の、顔と名前が一致する程度の友達だったのかもしれない。そう思った。

 ジェイニーにつられて歩いていると、やがてさびれたマンションとマンションの間の路地裏にたどり着いた。いつから回収されていないのか分からない、汚いゴミ袋の横を、シュートは通り過ぎた。

「ずいぶんと、へんぴなところに住んでるんだね」

「ええ」

シュートはさすがに、話していないと気味が悪くなってきた。

「マーシュとは、何の友達だったんだ?」

「会社の同期で」

「え、会社? マーシュはアルバイトだぞ。アルバイトで一緒だったってことか?」

 シュートはだんだん、ジェイニーがてきとうに話しているような気がして、イライラしてきた。

「うーん」

 ジェイニーがふと、あごに手を当てて立ち止まった。シュートも立ち止まり、ジェイニーの方を向いた。

「どうしたんだ?」とシュート。

「迷ってるんです」

「何を?」

「あなたを生かしておくか……始末するかを。ジェイニー、変身」

 シュートは「どういう意味?」と聞くところだったが、ジェイニーの姿を見たとたん、喋ることなど忘れ、ただあごが外れたかのように口を開けていた。

 ジェイニーは服を着た女性の姿から、異形へと変化したのだ。金の瞳は白い部分を失い、巨大な複眼となった。頭からは触角が左右に生え、鼻は平たくなったと思うとやがて消失した。腕や足が、太く筋肉質なものへと変化し、服は体表の黒い甲殻のようなものと一体化した。両腕からは五〇センチほどの針が生え、背中からは二枚の虫のような羽根が出現する。

「な、な、何が起こった?」

 シュートは目を見開き、その怪人を凝視したが、何の意味もない。

「ふっふっふ。昔から、ひとに聞くよりも自分で経験してみた方が早いって言うじゃない」

怪人へと変身したジェイニーはそう言うと、シュートに歩み寄った。

 元から近くにいたため、簡単に目の前に詰め寄られる。

「く、来るな!」

 シュートの叫び。それを無視するジェイニー。ジェイニーは左腕の針を、容赦なくシュートの右腕に突き刺した。深々と得体の知れない針が腕に刺さり、

「ぐわ!」

 と声を出すシュート。そのまま、ものすごい勢いで何かが腕から入り込んできて、それは素早く肩にのぼり、胸から、腹の中や脳天までいきわたったような気がした。何かが、シュートの体内を駆け巡っている!

 酒を浴びるほど飲ませられたあとにジェットコースターに乗せられ、その状態のままハンマーで腹を何度も叩かれたかのような意味不明の地獄じみた気持ち悪さを味わいながら、シュートは絶叫した。

「ア! ア! ア! ア! ア!」

 悶絶。苦しいが、体のどの部分が苦しいのかも分からない。

 ジェイニーが満足げな様子で針を引き抜いた。その先端から、得体の知れない緑色の液が、が垂れている。

「お、俺に何をした……! うっ……ウウ!」

シュートは痛む頭を押さえながら、よちよちと足を動かした。だが、ほとんど前に進めていない。

「合言葉は『変身』よ。覚えておいてね! フフ!」

ジェイニーはそう言うと、羽根を羽ばたかせ、星がきらめく夜空へと飛んでいった。

「う……!」

シュートは唸りながら、秋の夜の冷たい路地裏に倒れた。

 そして、気を失った。

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