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問. 19 初めての結婚記念日の思い出は?
結婚して半年。妻が寿退社をして専業主婦に、とはならず子供が出来るまで共働きを続けることにしたのだが、この日俺と妻は二人で住む新しいアパートの内見に来ていた。結婚してからもお互いのところに通う半同棲生活を送っていたのだが、色々と不便だということで部屋探しをしていた。だがなかなか条件に合う場所が見つからないでいた。
「ここ、いいんじゃない?」
二人の職場からさほど遠くなく、かと言って生徒達と鉢合わせする危険性もない。駐車場もあるし、子供が出来た時に受け入れてくれそうな保育園や学校も充実している。かなりの好条件だった。
「でも値段がな…」
「大丈夫よ。ちゃんと貯金するし後で増える出費を考えたらここが一番だから」
結婚式やハネムーンで貯金をほとんど使い果たし、引越し代や家具を取り揃える事を考えるとお金が手元に残らない。値段で渋っていた俺の背中を押す形で部屋を借りた俺たちは正式に共同生活を始めた。
それから半年。幸いにも同じ職業柄、生活リズムは似通っていてあまりストレスを感じていなかったが、妻はそうではなかった。
「ちょっと、靴下脱ぎっぱなし」
「後で拾っとくよ」
「立っておしっこしないでって言ってるでしょ?」
「あー、座ってね、はいはい」
妻と俺との間では清潔感に大きな違いがあったのだ。食後すぐに食器を洗いたい妻とリビングでくつろぎたい俺。きちんとゴミの分別をする妻となんでも燃えるゴミに入れる俺。なんでもすぐに話し合いたい妻と週末に大事な事をまとめて話し合いたい俺と探せばいくらでも違いは見つかった。俺も家事自体に抵抗はないのでなんとかなっていたが流石に我慢の限界まできていたのか、ある日突然妻が話があると俺に話しかけてきた。その日はサッカー中継があり、見逃したくなかったのだが、妻は俺からリモコンを取り上げると俺の前に座った。
「いきなり消すことないだろ」
「ねえ、話し合おう」
「話し合うも何もちゃんとやってるだろ」
「まだ何を話し合うか言ってないじゃない」
「どうせまたあれが汚い、これが足りないって文句言うんだろ?トイレも座ってやるようになったし、靴下も脱ぎっぱなしにしなくなったしこれ以上何を望んでるわけ?」
「違うの。そうじゃないの」
「うるさい。いつも同じようなことを繰り返してさ、母親でもないくせに俺のやり方にケチつけるなよ」
「違うの。ちょっと聞いて」
俺の口を遮って妻が俺を見つめる。すると、妻はいつかみたいにまた泣きそうになりながら俺に告げた。
「私ね、あなたを好きになってね、結婚してね、幸せでね。でも結婚してから私が文句言ってあなたと喧嘩してあなたは怒ってもちゃんと変わろうとしてくれてるのに私はあれを直せこれを直せってね。全然変わってないの。だからごめんね」
ぶえーんと泣きじゃくる妻を撫でる。
「ほら泣くな。まだ話の途中だぞ」
なぜ25にもなった大人をあやさないといけないのか、と疑問に思ったがこのままでは話が進まないので泣く妻にティッシュ箱を渡す。それで鼻をかんだ妻は目を擦りながら俺を再度見つめると今度はゆっくりと俺に聞いた。
「怒ってる?」
「ずっと泣いてると本当に怒るぞ。早く話せ」
「うん、だから、私ばっかりあなたに変わってっていってごめんね」
「はあー。言いたいことははっきり言え」
イライラする。なんて幼稚なんだろうか。もしかしたらこんな事に腹を立てている俺も幼稚なのかもしれないが、全く要件に入らない妻にイライラした俺は自分の考えを述べる事にした。
「要は家事に対する姿勢とかを見直したいんだろ?時間作ってやるからまた今度にしろ」
「違うの。ちょっと待って」
「いいや、待たない。俺はサッカーが観たくてイライラしてるから簡潔に言うが、まずは清潔レベル?みたいな違いは一朝一夕で直せるもんじゃないから諦めろ」
「でもそれじゃ家が」
「トイレ掃除とかが大変なのは分かったから座っておしっこするし脱いだ靴下が無くなるのが嫌ならちゃんと洗濯かごに入れる。他にもいやな部分があるなら聞くが一度では無理だ」
「うん」
「お前が家を綺麗に保ちたいのはよく分かるし、感謝してる。別にお前が変わる必要はない、分かったか?」
「分かった」
妻がしょんぼりとした状態で俺にリモコンを返すとそのままトボトボとキッチンに戻っていった。サッカー中継をつけるも妻の様子が気になる。それに…。
俺は壁にかかったカレンダーを見つめながらため息をついた。明日は二人の結婚記念日だと言うのに少々怒りすぎたかもしれない。
「本当は明日渡すつもりだったけど…」
独り言でそう呟いた俺は明日、一年記念のディナーで渡すつもりだったプレゼントを持ってくるとキッチンにいる妻に渡しに行った。
時計の針は12時を指し示している。俺は俯いて後片付けをする妻の横に立つと彼女の顔の前にスッと手を伸ばした。
「これは?」
「一年記念おめでとう」
濡れた手を拭いて受け取る彼女の顔が徐々に明るくなる。やがてこの状況を理解した妻はありがとうと言いながら俺に笑いかけた。
「開けろよ」
「!!!うわ、ディズニーランドのチケットだ!!」
当時まだディズニーシーは無かったので比較は出来ないが、間違いなくとびっきりの子供じみた笑顔で妻は喜んでいた。
問. 20 初めて妊娠した時の思い出
結婚して2年半。妻が妊娠した。
親や医者に連絡して職場にも伝えた。当時世間的に男性の育休への理解が乏しく出産に専念したかった妻は数年前に宣言した通り教師を辞め専業主婦になることを決意した。おそらく当人にとっては大きな決断だっただろうが、俺にとってはある程度予想が出来た事だったので特に驚くことは無かった。
ドナー写真を撮ったりつわりを経験したり、正直男の俺にはよく分からなかったが妻は苦しみながらも必死に母親になろうと努力していた。
「あなた焼き芋が食べたい」
「でもまだ夏だぞ」
「でも焼き芋がたべたいの」
お前はしずかちゃんか、とツッコミを入れたいのを寸でのところでやめ、季節外れの焼き芋を買いにいったり。
「あなた背中をさすって」
「でも今は皿洗いの途中だぞ」
「いいからさすって」
カルシウム不足で背骨が痛む妻の背中を家事の途中でさすりに行ったり。
父親になるという実感があまり湧かないままそれでも大きくなり続けるお腹と妻を見守った。
妊娠10ヶ月目。母親やお義母さんの助けもあって無事にあとは出産するだけの状態になった妻は出産予定日の数日前から入院していた。当時どれくらいスタンダードだったかは知らないが立会い出産をする事にした俺は有給を取ると妻の病院まで向かった。マスクや手袋で重装備になりながらその時を待つ。俺の腕を力強く掴みながら呼吸をする妻を見ながら一時間。小さな産声と共に娘、アミが生まれた。
もちろん娘が生まれた事への喜びはあるしそれをやり遂げた妻にも感謝はあるのだが、やつれた妻と痛む腕を交互に見ながら俺は次は立会い出産はやめておこうと心に誓った。
「薄情ね」
「ああ、そうだな」
ちゃんとした父親なら自分の子が無事この世に生まれた事に飛んで喜んだのだろう。だが俺は何よりも10ヶ月の間苦しんだ妻が解放された事、それに付き合う必要がなくなったことに心の底からホッとしていた。
問. 21 二人目が生まれる時は何を考えていた?
アミが乳離れをし、言葉を覚え、立てるようになった。子育てに余裕が出てきたのか照美もまた笑うようになった。それまではアミが夜泣きやお腹が空いたり眠たかったりおむつ替えを求めて泣く度に妻は弱音を吐きながらもちゃんとした母親になろうと一生懸命に頑張っていた。
だが時々母親になりたくない時はディズニープリンセスになりきって歌ったり俺に子供のように八つ当たりをしたりときちんと息抜きをしていた。
そしてアミが二歳くらいになった時。妻は久しぶりにデートに行きたいとおねだりしてきた。
実家にアミを預けて二人の時間を過ごす。ようやく夫婦水入らずの時間を取れてはしゃいだ俺たちは久しぶりに盛り上がった。夫として、妻としてのひとときを堪能した束の間、妻が色目遣いでこちらを見ながら俺に告げた。
「あなた。私、二人目が欲しいの」
妻は単純に雰囲気を盛り上げようとしていたのかもしれない。別に全国の男の代弁者になったつもりはないが、普通は愛する妻が自分との子供を求めているのなら喜ぶべきなのだろう。
だが、妊娠期間中にずっと苦しんで、つい最近まで弱音や文句を吐いて辛そうにしていたのに二人目を欲しがる妻の気持ちが俺には分からなかった。
なぜ夫婦の時間に俺は父親だと意識しなければいけないのだろうか?
そう口にしようと思ったが、長年ご無沙汰で性欲が溜まりに溜まっていた俺に妻の誘いを断る理性は残っていなかった。この機会を逃せばいつそんな雰囲気になるか分からないし、俺も生でやりたい。
そういう訳で、一瞬浮かんだ迷いみたいなものを振り払い俺は妻との時間を謳歌した。
そして数ヶ月後。妻がまた妊娠した。
アミは弟か妹が出来るのを踊りながら喜んでいた。お姉ちゃんのダンス、といいながら踊る姿はなかなか可愛かった。ジャンプ、のつもりなのだろうが俺の目には小刻みな屈伸運動にしか見えない。その様子をビデオに撮る妻も、アミちゃんもお姉ちゃんだねー、と笑いながら踊っている。
はたから見ればジャングルブックのあの人間になりたい猿のような踊りに見えるかもしれない。いや、実際そう見えて思わず吹き出してしまったが娘と妻が一緒に踊る姿は不思議と目に焼きついた。
「ほら、妊娠してるんだからあんまり激しい動きをするな」
「はいはい。ほらアミ、パパが怒るからやめようね」
それ以降だったのかもう少し違う時期だったかは分からない。だが、これくらいの時から照美は段々と俺のことを家の中でパパと呼ぶようになった。
俺が仕事に行く間、まだ保育園に通っていないアミとずっと一緒に過ごしていたし娘の前であなた呼ばわりするのを避けたかったのもあるだろう。そうしていくうちにパパ、ママという呼び方が定着していった。
その後。俺が仕事をしている最中、出産予定日よりも早い10日ほど前に妻が破水し病院に搬送された。定期検診で出産が予定より早くなる可能性があると言われていたおかげで事前にスケジュールを開けていた母親がすぐに駆けつけ、俺も仕事を早めに切り上げて病院に向かった。
待合室で母親から妻の状態を聞いた俺はアミと一緒に子供が生まれるのを待っていると、しばらくして看護師の人が出てきて俺たちに告げた。
「少し時間がかかりそうです」
なんでもへその緒が首か頭かに引っかかって、このまま引っ張り出すと赤ん坊が窒息死する可能性があるとかなんとか。帝王切開をすれば赤ん坊は大丈夫だが、その場合照美が大量に出血し最悪のケースもある。当時はあまりの事態にパニックでもしかしたら俺の記憶違いの可能性もあるが、少なくとも簡単な出産にはならないということだけは理解した。正直俺も母親も不安で仕方なかったが、アミがいる手前、大人が慌てても仕方がないと自分に言い聞かせ、何も心配はないという風に振る舞っていた。
前回よりはるかに長いこと待たされる。
「ママ、だいじょーぶ?」
「大丈夫だよアミ。もうちょっとだからな」
永遠にも感じられる時間の後。
「無事に終わりました」
皆藤家に息子、タクミが生まれた。
急いで照美の様子を見に行くと、血を大量に失ったからか土色になった顔で嬉しそうにタクミを抱っこする照美の姿があった。一時はどうなるかとも思ったが、本当に良かった。
「ママ、頑張ったな」
「ありがとう」
途中から帝王切開に切り替えるまで相当声をあげたのだろう。妻の声は大分小さく掠れていた。
長時間頑張ったからか、妻がそのまま疲れて眠るまであまり時間はかからなかった。妻を病室まで送り、待合室に戻るとそこには母親の腕で眠るアミの姿が。
「赤ちゃんと照美さんはどうだった?」
「無事生まれたよ。照美は疲れてすぐ寝た」
「そう、良かった。アミちゃんと赤ちゃんの対面は明日になりそうね」
「ああ、そうだな」
俺は母親と寝ているアミを車まで運ぶと二人を自宅まで送った。
「じゃあ俺は必要なものを病院まで運んでくるよ」
「あんたも明日仕事なんだから早く終わらせてきなさい」
「分かってるよ」
急な破水だったから歯ブラシなどを持っていけなかったのだ。俺は必要なものを車に詰め込むとそのまま病院に向かった。
道中、俺は妙に冴えた頭で考え事をしていた。
「俺も二人の子供の父親か」
2回も出産を経験したはずなのに未だに父親である実感が湧かない。いっそ車の免許証のように父親にも資格証明書ぐらいあったら変わっていたのかもな、とも思う。だがもしそんなものがあったとしてはたして俺はそんな大層な資格を取得出来ていたのだろうか?
そんな疑問を抱きながら病院へ向かう。しかし俺の疑問は街の騒音とは違い通り越す車やバイクのエンジン音によって簡単にかき消されてしまった。
問. 22 私達家族4人での思い出は?
「一緒にディズニーシーに行ったことかな?」
「なんで疑問系なのよ」
「いや、正直いっぱいあって選べない。公園に行った時とか家族旅行で日光江戸村に行った時とか。タクミもアミも一緒に住んでた時は楽しかっただろ」
「そうね。楽しかったわね」
「覚えてるか?タクミが自転車に乗ろうとした時に急に雨が降って」
「笑い事じゃないわよ!もう帰ろうっていっても聞かなくて雨で滑って身体の半分が泥まみれになって、あの泥落とすの大変だったんだから」
「身体の下半分じゃなくて右半分だったのが面白かったな」
「すぐに泣くし」
「ママに似たんだろうな」
「うるさい、もー笑わないで」
それから俺と妻は会話をあまりしなくなった時間を取り戻すかのように思い出を語り合った。まるで昨日のことのように次から次へと何かを思い出す。
一通り話し終えた俺たちはしばし無言になった。
「ねぇ…………。15年前、なんで離婚しようって言い出したの?」
妻が沈黙を破ったのにも関わらずすぐにまた部屋が静かになる。
俺は何と答えればいいか分からずにいた。
「私のことが嫌いになったの?」
俺は問23の私の好きなところ・嫌いなところ、問24の離婚したい理由をチラリと見つめながら妻に告げた。
「別に嫌いになった訳じゃない」
結婚10年目。子供も順調に育ち紆余曲折もあったが幸せな家庭を築いていた。アミも小学校一年生になり順風満帆に毎日を過ごしていた。
何も知らない人が見ても理想的な家族だとお世辞抜きでも言ってくれそうな家族に対して不満は何一つなかった。
「パパ、宿題手伝って」
「パパ、抱っこして」
「パパ、ごめんね。醤油切らしたから買ってきてくれる?」
ただ俺は家の中ではずっと父親だった。
「皆藤先生、本日はクラブ活動の担当の代わりをお願いします」
「皆藤せんせー、田口君がずっとツバかけてきます」
「皆藤先生、うちの息子が学校で変なことをされたって言って困ってるんです。どういうことですか?」
そして職場では仕事が出来ない上司の尻拭い、自分の子供の管理も出来ない親のクレーム、普通の行動も出来ないクソガキの説教など俺は常に誰かしらの世話をしていた。文句も言わずに、問題も起こさずに。
父親として、模範的な教師としての仮面を被っている間に俺は本当の自分というものを忘れかけていた。元々そんなものは無かったかもしれないが、おそらく自分を蔑ろにするような心理状態が長く続きすぎたのだろう。
もうどれくらいサッカー中継を見なくなっただろうか。いつまで家族や生徒や他人のことを考えればいいのだろうか。いつになったら自分の時間を取れるのだろうか。
気づけばそんなことばかりが頭の中を過ぎって止められなくなっていた。
別に自分のことが好きだから、とかそういう訳ではない。もちろん本当の自分などというものはまやかしでそんなものは存在しないかもしれない。ただ俺はあまりにも自分の時間を取らなすぎた。
そしてある時、その反動がきた。
「ねえ、パパ。そろそろ三人目がほしいな、なんて」
妻がまた子供がほしい、そう言いだしたのだ。
自分たちの周りの上手くいっていない夫婦や子供を授かりたい夫婦の人達からしたらなんて贅沢で羨ましい悩みなんだ、とやじられるかもしれない。だが、正直父親という役にうんざりしていた俺は妻のその発言に対して素直に喜ぶということが出来なかった。そしてそのストレスは俺の心だけではなく身体にまで影響を及ぼした。
「ねえ、パパ。タクミ達がもう寝たわよ?」
「ごめん、ちょっと今日は仕事で疲れてて」
仕事に疲れている、というのもあながち間違いではなかったのだが、それよりも問題なものが身体に異変として現れたのだ。
「お前から連絡するなんて珍しいな皆藤、どうした?」
「悪いな、突然」
俺は高校時代からの付き合いの友達、田村と飲みに行くという体で、自分の身体に起きた異変について相談していた。俺の結婚式以降、あまりやりとりしなくなったりそもそも音沙汰もなくなったりした他の奴らと比べて、田村とは比較的頻繁に連絡を取り合っている。職種が近いというのも関係するのだろう。大学卒業後、通信教育の教材などを作る小さめな会社に営業マンとして雇われた田村は何か新しい教材や教則本などが出る度に現役教師側の意見を聞きたいという理由で俺を飲みに誘っていた。
教師をほとんど必要としない通信教育の教材に対して俺の意見など大して役に立たない、とも思ったが田村はいつも何かしらを得て帰っていった。
普段は田村から連絡がくるのだが、今回は珍しく俺から連絡がきたので何かを察したのだろう。
教材などは一切持ってこずにフランクな格好できた田村は着いて早々、さっそく話せと言わんばかりに聞きの姿勢に入った。
俺は最近の状況や心境を軽く説明し、いよいよ本題に入る、というところで声を落とした。
「たたなくなった」
「何?勃たなくなったってつまり勃起しなくなったって事か?」
「おい、声をあげるな」
他の客からは離れた席を選んでいたが、田村の声は営業マンだからかよく通る。声を落とせ、と言われた田村は周りの目を気にして俺の方に顔をよせると真剣な眼差しで俺にきいた。
「何でそうなったんだ?やりすぎか?ストレスか?」
「いや、よく分からないんだけど、子供ができるって考えたら萎えてさ」
「そっか。まぁ、子供は金かかるもんな。仕方ないよ。ちなみにそれ以外の時はまだ大丈夫なのか?」
「1人でする分には全然だな」
田村はこの時点で少し考える素振りを見せると俺に告げた。
「やっぱり病院で診てもらった方がいいんじゃないか?」
「いや、そうなんだけど。その場合照美になんて言えばいいんだよ?お前に勃たなくなったから病院行く、なんて言ったら変に責任感じたり私に女の魅力がないからなのねって言って泣きだすぜ、絶対」
「ああ、そうか。って何?奥さんにはまだ言ってないのか、それ?」
「言えるわけないだろ」
「でも、バレるのも時間の問題だろ、それ」
「そうなんだよ、そこなんだよな」
今のところは仕事で疲れている、という言い訳でなんとか誤魔化せているがそれが二ヶ月、三ヶ月と伸びる毎に妻は自分が避けられていると感じるはずだ。
なんなら勘がいい妻ならそんなにしないうちに気づくかもしれない。
この由々しき事態に思わず頭を抱える。すると、しばらく考えていた田村が名案を思いついたとばかりに俺に提案した。
「とりあえず、皆藤が病院に行くのは確定として、その時間は俺と一緒にいるってことにしたら怪しまれないんじゃないか?」
「いや、一回二回くらいならまだしもそんなに何回も使えないだろ、その手は。大体お前はその時間どうすんだよ。ずっと一緒にいる訳にもいかないだろう?」
「えっでも一回診てもらったら治るんじゃないの?」
「あー、まぁそっか」
当時EDに対する知識があまりなかった俺達は一回の診療で治るもんだ、という誤解をしていた。だがその認識は医者に診てもらった時に甘かったと思い知らされることになった。
田村の作戦で病院にアポを取り診察してもらう。
その後一通り調べてもらった結果、俺の身体の状態が明らかになった。
「身体的に何の異常も見られなかったのでおそらく心理的な要因からくる勃起不全ですね。一度精神科医か心理カウンセラーの方に診てもらうことをオススメします」
「そんな。えっと薬とかで何とかならないんですか?」
「一応、精力剤の類を処方出来ますけど、逆効果になることもありますし皆藤さんの問題の根本的な解決にはならないと思います」
「そうですか……。分かりました」
「こちらに信頼できる精神科医やカウンセラーの方々をリストアップしておきましたので受け取ってください。もし身体的に何か問題がある、気になることがありましたらまたお越しくださいね」
病院を出た俺は早速田村に電話をすると、田村は待ってましたとばかりにすぐに出た。
「どうだった?治った?」
「ごめんな、仕事中に電話して」
「いいよ、今休憩中だから。それで?」
「カウンセラーか精神科医に行けってさ」
「うわー、また病院行かないといけないのか。あー、じゃあもうこのまま行ったらどう?」
「いや、今日はまだ採点しないといけないテストがあるからもう無理だ」
「えーどうするんだ?」
「なんか渡されたリストの中にさ、田村の家の近くにある療養所?みたいなところがあるんだけどさ、今度お前の家に行くついでにさ、どう?」
「あー、オッケーオッケー。そうしよう。でもこんな頻繁に俺と会って勘付かれないか?」
「どうだろう……。でも、お前と会う時が一番バレにくいと思うんだよな」
「まぁ、そうか。まぁいいや。休憩終わるし、また連絡する」
「おう。ありがとな」
これで病院の方は片付いた。後は…。
「ねぇ、パパ。今日はタクミもアミも疲れて眠そうよ?」
「そっか。じゃあそろそろ寝かしつけるか」
午後8時。俺はタクミにパジャマを着せながらいざ妻に迫られた時にどう断るかを考えていた。また疲れた、では流石に厳しい。明日の仕事がとか、体調がとかそういう言い訳を考えることも出来るがそれでは俺のEDがバレる可能性がある。
やっぱり素直に打ち明けるべきだろうか?だけど妻の気持ちを思うととてもじゃないが言えない。
俺の中でそんな葛藤がある中、偶然観ていたバラエティー番組で夫婦間のマンネリの理由ランキングが紹介されていた。
その中の一つに妻の身体に魅力を感じなくなった、というものがあった。原因としては太ったりメイクをサボるようになったなど様々なものが紹介されている。
そんな時、洗面所の方から妻の悲鳴が上がった。
ゴキブリでも出たのかとスリッパを持って向かうと、そこには久しぶりに体重計に乗った妻が自分の体重に驚いている姿があった。
「増えてる」
アミの歯磨きを済ませ何ともなしに体重を測ったのだろう。
そういえば最近、アミとタクミがよく食べるようになり、それと同時に残り物が増えてきた。
ここ最近残り物が減っていると思ったがまさかな。
「最近作る量が増えて、残り物も増えたからかしら」
どうやら残り物は捨てられていた訳ではなく妻のお腹の中に消えていったようだ。
確かに首元のラインが見えなくなったような。
「ママ、おなかプニプニ〜」
そんな気で妻を見ているとタクミが抱っこを求めて妻のお腹に飛び込んだ。そして少し膨らんだお腹を触りながら遊んでいる。
「あなた。私最近太った?」
それにショックを受けた妻は藁にもすがる気持ちで俺に助け船を求めた。おそらく、現実を認めたくない気持ちに加えてフォローを期待していたのだろう。
ここで俺が一言、
「大丈夫、照美は痩せてる。キレイだよ」
とでも言えば機嫌を良くした妻と楽しい夜のひと時を過ごせたのだろう。だが、EDである事を隠したい事実など妻をその気にさせたくない欲の方が強かった俺は渡りに船と言わんばかりにこのチャンスを利用することにした。後で後悔するということも知らずに。
「太ったよ」
俺としては丸みを帯びた妻の今の体型が嫌いではなかったのだが、この時の俺はどうしても妻と寝たくなかった。だが、俺が太ったと告げた瞬間、妻はショックに少しよろめいた。
言い過ぎた、と思った反面今更引き返せないとも思った俺はあくまで保身のため、妻の気持ちを考えずに追撃した。
「痩せた方がいいよ。正直見てられない」
冗談っぽく、茶目っけのある声で言ってみたがそもそも俺の口からそんな言葉が出たのが信じられないのだろう。
「そんなに言う必要ないでしょ?」
妻は悲しみを通り越して怒りに声を震わせるとその場を去るようにアミやタクミを連れて寝室に向かった。
その後二人を寝かしつけた妻の背中に謝ったが、まだお冠だったようでその日は結局最悪のムードのまま終わってしまった。