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 皆藤照美。今年50歳の元小学校教師。

 俺の妻だ。結婚して早25年、子供は二人。もう二人とも成人していて俺と照美はいわゆる熟年夫婦と呼ばれる歳になった。下の子が就職してからは照美との会話もきっぱり途絶え、つい最近、離婚を切り出された。

 妻は良くやってくれたと思う。結婚して10年経ち、マンネリ化した夫婦生活に耐えきれず自分から離婚してくれ、と頼んだが、子供が二人とも独り立ちしてから、と言われて俺もそれに従った。そして宣言通り、下の子が一人暮らしを始めてから彼女も離婚の準備を始めたのだ。

 最初に離婚を切り出した翌年からパートに行きだした妻は、表向きは子供の学費を稼ぐため、と言っていたが、今思えば来るべき時に備えてすでにあの時から準備を進めていたのかもしれない。

 そして昨夜、25年前の嫁入り道具を含め全ての荷物をまとめ終えた照美は離婚届とハンコを持って俺の前に座った。



「あとはあなたが押すだけよ」



 非常に淡々と、すでに乾ききった態度でそう告げられた。もう未練すらないのだろう。その証拠に左手の薬指にあるはずの金の指輪も、それをはめていた跡ですらも残ってはいなかった。

 自分から切り出した事とはいえ、25年間連れ添った妻と別れて全くの他人になると言うことに対して多少の淋しさを感じた。

 だがそれもほんの一瞬のことで、何の抵抗もなく印を押すと、照美の手が伸びてきて離婚届(それ)を回収していった。



「ありがとう」



 礼を言われて目線をあげるとそこには目に涙を溜め、必死に泣くのを堪えている元妻の顔があった。その事に驚くのと同時に、最後に目を合わせたのはいつだったかな、と思い返してみる。

 確か長男が成人式を迎えた時かな、とぼんやり思い返していると、照美が懐から小さな封筒を取り出した。そのままおもむろに俺の前に突き出すと照美は赤く腫れた目でこちらを見ながらゆっくりと口を開いた。



「中身を取り出して」



 言われたままに封を切り、中に入っていたものを取り出す。



「これは?」

「見たまんまのものよ」



 手紙か何かだと思っていた封筒の中には、何かの問題用紙と解答用紙が約5枚ずつ入っていた。



「読んでみて」



 氏名、年齢、性別など普通の項目に目を通してから下に読み進めていくにつれて、段々と問題に不可解な点と一定の共通点があることに気づく。



「私とあなたが初めて出会った場所を答えよ、とかプロポーズの言葉は?とか何?何のつもり?」

「答えてほしいの。私が明日、離婚届を市役所に提出する前に」

「何で俺がそんな事…」

「お願い。もう二度とあなたにお願いすることはないんだから。ね?」



 これからは他人なんだから、と言われた気がして渋々引き下がった俺は彼女に頼まれた通り問題を解くことにした。



 問1. 私の名前は?

 問2. 私の年齢は?

 問3. 私の職業は?



 皆藤照美。今年50歳の元小学校教師。

 ここまで書いたところでふと彼女の旧姓は何だったかと考える。



「そういえば安藤だったな」



 結婚する前は安藤で、出会っていた当初は安藤先生と呼ばれていた記憶がある。いつから名前を呼ばなくなっただろうかと思いながら俺はまた問題用紙に向かった。



 問4. 私の性別は?

 問5. 私と初めて出会った場所を答えよ

 問6. 初めて交わした言葉は?



 女、職場、そして何だったかな?確か彼女が最初に担任を受け持った頃、彼女のクラスの生徒が職員室に来た時に俺が彼女を呼んだのが最初だった気がする。



「生徒さん、呼んでますよ」

「あ、ありがとうございます」



 あの時の彼女の慌てっぷりは傑作だった。俺に突然呼ばれたものだから飲みかけていたコーヒーをあろうことか生徒の答案用紙にこぼして後で教頭にこっぴどく怒られていた。

 あの時は俺も思わず吹き出してしまって、周囲に驚かれた気がする。俺が笑ったくらいで騒ぐなんてと思ったが、普段笑みをこぼさない俺の笑い声は当時の同僚にとっては貴重なものだったのかもしれない。



 問7. 私とお近づきになるきっかけになった出来事は?



「研修の時か?」

「ブッブー。違うわよ、初めて同じ学年を受け持った時よ」



 そういえばそんなこともあった。確か小学二年生の担任になった時だ。一年生ではなく初めて二年生を受け持つということで張り切っていた妻はあろうことか俺にアドバイスを求めてきたのだ。ただでさえ生徒の数がバカにならないほど多いのに彼女の教育係なんていう面倒を正直引き受けたくなかったが、妻はそれでもしつこく俺に尋ねてきた。他にも若い教師にアドバイスをくれるベテランな教師はいっぱいいただろうにあの時は本当に迷惑だった。



「何よ、もう。ほら早く次の問にいって」



 問8. 私のことをいつ好きになった?



「そんなこと覚えてるわけないだろ」

「いいから思い出して」



 多分あれだ。仕事に対する姿勢とかそんなだった気がする。



「明日離婚するのになんで誤魔化そうとするの?素直に性欲とか身体目的だったって言ったら?」



 あー本当に面倒くさい。確かに妻はいいプロポーションをしていた。それとあれだ。妻が髪型を変えて思わず綺麗だ、と思ってしまったのだ。



 問9. 私とどうして付き合いたいと思った?



 何でだろうな。だが今思うにおそらくちょうど良かったのだと思う。

 二人ともいい歳した大人で、当時はお互いにパートナーもおらず自然とそうなった。俺も当時30近くで親に早く結婚しろだの言われていたからまぁ結婚とまでは言わなくても真剣に交際している相手がいる、と言えば親も黙るだろうと思った。つまり誰でもよかったのだが、それがたまたま妻だったのだ。



 問10. 私と初めてデートをした場所は?



 これは鮮明に覚えている。どこで聞いたのか分からないが妻が動物好きだということを小耳に挟んで誘ってみたら妻が了承したのだ。同じ職場の先輩で断れなかったのだろう。という事は今考えれば分かるのだが、当時何も知らなかった俺は彼女にも気があるのだと思って浮かれていた。幸いにもあまり無駄遣いをする方ではなく久々のデートということもあって張り切っていた俺は彼女を連れ回した。

 朝から動物園にランチ、帰りにドライブをして家に送る。もちろん全部自分のおごりで。



 問11. 私の好きな食べ物は?



 デートを繰り返すうちに妻が意外にもイタリアンが好きなことが発覚した。それからはバカの一つ覚えみたいにデートに誘う時はイタリアンを食べにいった。

 自分はどちらかというよりイタリアンより中華の方が好きだったが、似合わない口紅をつけた口元を汚してあんまりにも嬉しそうに食べるものだからつい何度も連れていった。



 問12. 私の誕生日は?



「そういえば明後日だったな」

「本当、その一日前に離婚しようとか正気かどうかを疑っちゃうわ」

「お前が離婚届を今日持ってきたんだろう」

「はいはい、すみません。もうそんな怒らないでよ。早く続きを解いて」



 問13. 初めてケンカした日は?



 もう何回目かも分からないデートの日。俺はその日は珍しく遅刻をした。生徒たちの授業参観が近かったのとそのための準備に追われて数日間寝る時間を削ったのが良くなかった。爆睡していた俺は目覚ましの音に気づかず寝過ごしてしまったのだ。

 約束の時間まであと一時間。しかもその日は映画を観に行こうということで映画館の前で待ち合わせをしていた。俺は慌てて映画館に向かうも上映時間には当然間に合わず結局妻を1時間近く待たせてしまった。それに怒った彼女はしばらく口を聞いてくれなかった。



 問14. 私と結婚をしようと思ったきっかけは?



 なかなか仲直りが出来ずに別れそうになったある時、妻は何を思ったのか俺の住むアパートの部屋の前に現れた。話がある、と真剣な表情で俺を見つめる彼女を部屋に招き入れようとしたが、



「嫁入り前に男の人の家に入るのはいやだ」



 という彼女の願いを聞き入れてどこか二人きりになれる場所を探した。結局近くの公園のベンチに腰を下ろした俺と妻は日が暮れるまで話しあった。

 二人共休みだったとはいえ、休日にやることもあっただろうに、彼女は時間を惜しまずに俺と話した。

 この間のデートのこと。遅刻してきた俺に感情的になったことへの謝罪に対しては俺もそもそも遅れたことに対して謝り、その後は時間に対する考え方や仕事に対する意識、そして今後どうしたいかなど事細かに話し合った。

 女なんて化粧や体重のことしか考えてない生き物だと勝手に思い込んでいたが、色々なことに考えを巡らせる妻によってその先入観は崩れていった。

 そんなことを考えながら話を聞いていたら、突然妻が泣き出した。なんでも自分が怒りすぎたり話しすぎたりしたから俺に嫌われたと思ったらしい。意味が分からない。



「こんな私の話を長々と聞いてくれて申し訳ない、あなたに私はふさわしくない」



 などよく分からないことを口走りメイクが崩れることさえお構いなしに泣き喚く。

 今思えば別れ話に持っていこうとしていた、と思えるのだが、そういうものに馴染みの無かった俺はこの状況に困り果てていた。

 あーもううるさい。早く黙らないだろうか?このまま泣かれると俺がいじめていると見ている人に通報されないだろうか?何か打開策はないか。

 そう思った俺は少し考えを巡らした後に名案を思いついた。彼女の口を塞げばいいのだ。そう思った俺は彼女の口を自分の口で塞いだ。あれが多分妻との初めてのキスだった。妻は泣くのをやめると赤く腫れた目でこちらを見つめてきた。



「やっぱりあなたの部屋に行っていい?」



 と妻に聞かれる。正直これまでの自分であれば願ったり叶ったりな展開だったが今思えばあの瞬間から明確に意識が変わった気がする。



「嫁入り前に泊まるのはダメなんだろ?今日は家に送るから。な?」



 そう言った俺は彼女を家まで送った。いつもは彼女の家から少し離れたとこで下ろしてお別れするのだがその日は玄関先まで送った。



「じゃあな」



 と短く告げて去ろうとした俺の服の裾が妻に掴まれる。また泣き出しそうな目で俺を見上げる妻に俺は、



「さっきの事だけどそういうのはちゃんとしたいから」



 と告げると妻はどこかホッとした様子で家の中に入って行った。

 あの時の状況を振り返ると、俺は単に泣かした女を部屋に連れ込むなんてカッコ悪いと思っていたし、掃除とか仕事の準備とか誰かを部屋に入れる前にやる事が山ほどあったし何よりも事前に連絡がない状態で人を家にいれるのがあまり好きではなかったからちゃんと予定を決めて会いたいと思って解散したのだが、後日妻に聞いた時は大事にされている、と感じていたらしい。

 それはさておき。帰り際、安心そうな妻の顔をおもいだしながら、流石に今すぐこの人と結婚したい、とは思わなかったが確かにあの時、前よりももっと真剣に付き合いたいと思うようになった。



 問15. プロポーズの言葉は?



「普通に、結婚してくれ、だろ?」

「違うわ、そっちじゃない。覚えてないの?」



 俺達二人の正式な婚約はイタリアンレストランでプロポーズをした時と記憶しているのだが、妻はどうやら違うらしい。

 その時期俺は親の結婚への圧力が最高潮にまで達していて今すぐ結婚しなければお見合いに出すとまで言われていた。そもそも知りもしない見合い相手との結婚か今付き合っている妻との結婚か。二つを天秤にかけた時に後者の方が楽そうだと思った俺は見合い話に発展する前に行動を起こすことにした。特に理由もなく貯めていた貯金を持って近くの百貨店にまで出向いて婚約指輪の購入を試みたのだ。宝石店のスタッフに相談して手頃な価格の指輪を探そうと思ったが、ここで俺は致命的な事実に気がついた。



「お客様、失礼しますがお相手の方の指輪のサイズをうかがってもよろしいですか?」

「あ、いや分かりません」



 そう、俺は妻の指輪のサイズを知らなかったのだ。仕方なく後日また来ますと礼を告げ帰る俺。

 その翌日、妻と会う約束をしていた俺はデートを済ませた帰り際に妻に尋ねた。



「なあ、照美。婚約指輪を買いたいんだが照美の指のサイズが分からない。教えてくれ」

「ええ!!えっと…ええ?!」

「ほら言わないとプロポーズ出来ないだろ?」

「そんなの分かんないし、え、婚約って、え、どういうこと?」

「分かんないのか?まあいいや。じゃあちょっと来い」



 聞いても埒があかないと悟った俺はずっと困惑している妻を連れて宝石店に向かうと、そのまま店員に妻の指輪のサイズを測ってもらった。



「今測った左手の薬指のサイズは8号ですが、もしきついようであれば少し大きなサイズもありますがいかがなさいますか?」

「いや、それでいいです」

「そうですか。宝石はダイヤモンドでよろしいですか?カラット数は指定出来ますがいかがなさいますか?」

「はいダイヤモンドでいいです。カラットとかはよく分からないんでこの予算内で済む範囲で最大の物をお願いします」

「かしこまりました。では少々お待ちください」



 店員が去り妻と二人きりになる。すると妻はようやく事態を飲み込んだのか俺の裾を引っ張って俺の視線を自分に向けると恐る恐る聞いてきた。



「ねえ、婚約ってどういうこと?私、まだプロポーズとかされてないけど」

「???だってまだしてないからな」

「えっとこれからプロポーズするの?」

「いや、次のデートの時にイタリアン行くだろ?その時にしようと思ってる」

「じゃあなんで今指輪のサイズを測ってるの?」

「??いやだからプロポーズする時に指輪がないと出来ないだろ?照美の指のサイズ知らないから今測ったんだよ」



 何やら頭を抱えている妻。こんなに分かりやすく説明したにも関わらずやはり現状が把握出来ていないのかそれとも。俺はその時、ある可能性に思い当たると妻の肩に手を置きながら彼女の目を見つめた。



「もしかして俺との結婚は考えられないか?」

「いや、結婚したいとは思ってたけどそうじゃなくてね」

「照美」



 雰囲気とかが、とよく分からないことを口にする妻の口を遮り彼女の名前を呼ぶ。俺はそのまま彼女に向き合いながら語りかけた。



「俺は次のデートで照美にプロポーズしようと思ってる」

「うん」

「もしこれまで俺がしてきたことで照美を傷つけたりしていたら謝る。そのせいで俺と結婚したくないなと思っても構わない。照美が俺との将来が想像出来ない、とかやっていく自信はないとか思うんだったら断ったっていい。ただ俺は照美と結婚したいと思っていて今のこの状態を変えたいからプロポーズしたいと思っている。だから俺がプロポーズをするまでにそこんところを考えておいてほしい」



 見合いをするか照美と結婚するか、全ては照美次第だ。そう続けようと思っていたのだが、運悪くそのタイミングで顔を赤面させた店員が戻ってきた。



「こちらが指輪になります。クレジットカードでのお支払いでよろしいですか?」

「はい、よろしくお願いします」

「お会計ありがとうございました」



 妻も店員も周りの客も赤面しながらこちらを見ていたが、どうしたのだろうか?そのままそこら中から視線を浴びながら店の外へ出る。その際、別にプロポーズをした訳でもないのに突然わっとざわつく周りと恥ずかしそうに俯く妻の横顔が印象的だった。



「あれは本当にひどいプロポーズだったわ」



 妻が懐かしそうに笑う。あれはプロポーズではないと思うのだが、妻の中では違うらしい。俺はそんな妻を視界に収めながら次の質問に取り掛かった。



 問16. 親に結婚のあいさつに行った時の印象は?



 怖かった。



「それだけ?」



 お義父さんはその昔剣道部の主将も務めていた武道派の方で職業は警察官。とてもではないがふざけた事を言ったり出来る相手ではなかった。お義母さんも優しそうな方だったが、育ちがいい良家のお嬢様だったのか目の前にいると自然と背筋が伸びるような雰囲気を醸し出していた。

 怖かった。



「それだけ?」



 実家へ結婚のあいさつをしに行った時はうちの次女をよろしく、と快く歓迎された。てっきりうちの娘はやらん、とかそういう展開があるんじゃないかとヒヤヒヤしていたがそれは長女でやり飽きたそうだ。そもそもお付き合いしている段階で妻の両親とは何度か会ったことがあり、そんなことが起こるわけがなかった。

 妻の実家は富山県にあり、その日は泊めてもらうことになったのだが、せっかく富山に来たのだからと名産品であるますの寿司をいただくことになった。



「どうだい、味の方は?」

「美味しいです、ありがとうございます」

「そんなに固くならなくていい。もう身内になるんだし遠慮なく食べなさい」



 実は俺は魚が苦手だったのだが、こんなに勧めていただいたのに完食もせずに残したら失礼にあたる上に悪印象を持たれかねないので頑張って食べた。少し経つと酒を飲んでいたお義父さんに酒が回ったのか彼の口数が増えていった。



「いやあ、君が公務員で良かった。長女は碌な男を連れてこないし息子は地方の公務員なんてごめんだって言って上京してサラリーマンをしているし、一番下の娘に至っては海外に嫁ぐんだと言って英語の勉強してるし。一体公務員の何がいけないんだ、全く」

「のみすぎですよ、あなた」



 その後もお義父さんの愚痴は続き、酔い潰れるまで飲んだお義父さんはテーブルに突っ伏した状態でいびきをかきだした。お義父さんを介抱して布団まで運ぶことになったのだがその時だった。お義父さんが寝ぼけて竹刀がない状態で素振りをしだしたのだ。先ほどまで千鳥足でふらついていたのに急にしっかりした足取りでめーん!、と叫ぶお義父さん。それをもろ頭にくらった俺はびっくりして腰を抜かしていると、お義父さんは呂律の回ってない口調で俺に告げた。



「ん照美ぅをん大事んにしなかったら斬る」

「はい、あなたそこまでですよ」



 それを背後から手刀で黙らせるお義母さん。俺に謝りながらお義父さんの肩を支えたお義母さんとそれを手伝う照美を見た俺は真の怖い人はお義父さんではなくお義母さんだということに気づいた。

 その後、お義父さんを運び終えたお義母さんが俺のところに来てこう言った。



「ごめんなさいね、あの人が迷惑をかけて」



 優しく微笑みながら語りかけるお義母さんに、なんださっきのは思い違いかと思い直す。するとお義母さんは急に真顔で俺に告げた。



「私も実は魚が苦手なんです。気遣いは嬉しいけれど、あの人は嘘が嫌いなので今後は気をつけてくださいね」


 お義母さんには俺が魚が苦手だということがばれていた。後で妻がますの寿司を食べている途中でお義母さんに伝えていたのだと知ったのだが、その時はお義母さんは全て見透かしているのだと思ってヒヤヒヤした。正直言ってあの時ほど背筋が凍ったことはなかったと思う。

 本当に怖かった。



「それだけ?」

「もう勘弁して」



 怖かった。



 問. 17 結婚式の思い出は?



 式は教会で挙げ、披露宴はホテルの会場を借りて盛大に祝うことにした。当時はバブル崩壊後で日本全体で不景気が続いていて式は中止しようという意見も出たが、両家の両親とも結婚式は派手に祝うものだというすりこみから大掛かりにやることになった。

 式の参加者への招待状から引き出物まで全て手配したり準備したがあれは二度とやりたくない。妻は逆に一世一代のイベントだからと楽しんでウエディングドレスを選んでいた。以前婚約指輪を買った宝石店で結婚指輪を買い、披露宴当日の料理なども決めたあと、妻が真面目な顔で俺に聞いた。



「私でいいの?」

「何言ってんだ?当たり前だろ?」

「違うの。ちゃんと答えて。私でいいの?」



 嘘も誤魔化しもきかないまっすぐな眼差し。俺は二人の出会いやデート、彼女の両親などを振り返ったり思い浮かべながら彼女の目を真っ直ぐ見つめ返した。



「照美がいいに決まってるだろ?」



 手を握りしめながらそう答える。



「…そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」



 一瞬不安そうな表情を浮かべたが、すぐにニコリと微笑んだ妻は準備に戻った。

 式と披露宴は結果から言うと大成功だった。親族総出で涙を流し、地元の親友、高校からの付き合いの友達や職場の人も心から祝ってくれた。正直ずっと働きながら式の準備もしてへとへとだったが、ウエディングドレスに身を包む妻の姿は今とは比べ物にならないほど綺麗だったから頑張ったかいはあったのだろう。



「皆藤さん。照美。結婚おめでとう」



 披露宴にて妻の幼なじみのスピーチが始まった。意外と知らなかった妻の幼少期の話は聞いていてなかなか面白かったが、それよりもコロコロと表情が変わる妻の顔が見ていて一番面白かった。

 他にも妻より20個も歳下の彼女の従兄弟の五歳の男の子がおねーちゃんは僕のものだ、と言って妻を披露宴会場から連れ去る茶番があったり、ケーキ入刀の際にケーキの中から飛び出す俺の同級生にお前はかぐや姫か!、とツッコミを入れたりして楽しい時間を過ごした。引き出物は妻が好きなディズニーキャラのスープ皿にしたのだが、俺が集めてたやつだ!と叫びながら、俺の高校からの同級生の友達が誰よりも気にいっていたのが印象的だった。

 その後大成功に終わった披露宴や友人達主催の二次会から抜け出して俺の部屋に来た妻が俺に寄りかかりながら見上げてくる。



「ねえ」



 化粧も落としドレスなどの着飾るものも着ていないのにも関わらずなんだかいつもより色っぽい気がする。



「今日はあなたの部屋に泊まっていい?」



 何も言わずに電気を消した俺は妻にキスをした。そしてその日は俺たちは正式に夫婦としてめでたく結ばれたのだ。



 問. 18 ハネムーンの思い出は?



 ハネムーンはあまり行き先としてはポピュラーではなかったが、妻が大学時代第二外国語で選択していたドイツ語が出来るからという理由と俺が高校時代サッカー部に所属していた影響で一度ブンデスリーガを観てみたいという思いからドイツにした。当時のドイツはベルリンの壁が崩壊してまだ10年も経っておらず、俺と妻はアメリカやイギリス側が関与していた西側のドイツで、具体的はデュッセルドルフやケルン、ドルトムントなどの街で観光にサッカー観戦やオペラ鑑賞を楽しんでいた。食事で言うと、ドイツ料理は味付けが大胆なのかソーセージは塩味が濃く、ビールも大半が苦味が強かった。妻は本場のソーセージの味や本物のオペラが観れて大満足だったようで俺もサッカーの盛り上がりがすごくて感動した。本当はヨーロッパ全体を周ってみたかったのだが、予算的にも時間的にも余裕がなかった俺と妻はハネムーンの最後にケルン大聖堂に向かった。



「あれ?照美?」



 旅行中ははぐれるといけないので特別な理由がない限りずっと手を繋いでいたのだが、俺が使い捨てカメラの準備をしている最中にそれは起こった。最終日はツアーで旅行していた事もあって安全だと思い込んでいたのも原因の一つだろう。その日は快晴だったこともあってか観光客が多くて人の波に飲まれるようにして妻がどこかに行ってしまったのだ。外国人で出来た人の波は背があまり高くない妻を簡単に隠し、実際は短かったのだが体感的には長い時間、妻を探した。ツアーガイドに少し待つように頼み、もしかしたらと思い大聖堂の方に向かうと妻は入り口ではない大聖堂の横で泣きべそをかきながらドイツ人に話しかけていた。



「イッヒズーへマインマン」



 パニックになりながらも必死に泣くのを堪えて俺を探す妻を見つけた俺は安心よりも勝手にいなくなった妻に怒りを覚えて近くによると人目も憚らずに怒鳴った。



「あれほど離れるなってガイドさんに言われただろ!」

「だって…」

「だってじゃない!他の人達も待たせて人に迷惑もかけてどうするつもりだ」

「ごめん」

「ふざけるな!大体カメラを用意してるのにふらつくなんてどうかしてる。危機感のかけらもないのか!」

「ごめんって言ってるじゃない!それになんでそんなに怒るの?少しは心配してくれたっていいじゃない!」

「うるさい!」



 思わず肩に掴みかかろうとするところをガイドさんに止められた。



「皆藤さん、落ち着いてください。奥様が見つかって良かったじゃないですか?」

「あ、すみません。取り乱して」

「すみません、私がはぐれたばっかりに」

「いえいえ。それでは気を取り直して皆さん。記念写真を撮りましょう!」



 ガイドさんが間に入っていなかったら妻に殴りかかっていたかもしれない。けれど、ここは外国という意識があったから思いの外早く冷静さを取り戻した俺と妻はそのままツアーグループに戻っていった。



「ひどい仏頂面ね」

「うるさい、誰のせいだ」



 問題にプリントされてた記念写真を見ながら妻が笑う。俺はあの時の感情を思い出して腹が立っていた。

 思えばあの後のホテルでも飛行機でも喧嘩していて、妻が、心配かけてごめんなさいと言ってから仲直りをしたのだ。


「結局あなたは謝らなかったわね」

「なんで俺が謝る必要があるんだ?」

「…そうね。ごめん、忘れて」

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