便器妻ともえ
築35年、今は巣立った息子が酷く汚した長年のトイレも、ついに黄ばみや黒ずみが際立つようになってきた。
そろそろ交換時期かもしれない。ともえはブラシを持つ手を緩め、腰に手を当てた。
家の掃除を終えたともえは一息ついた。お隣さんから貰ったばかりのルイボスティー。それと賞味期限間近の抹茶クッキー。ともえは引き出しから取り出した写真を見て渋々とクッキーを口に入れた。
「結局、男って若い女じゃないとダメなのね……」
あかぎれ固くなった指先に、ルイボスティーの熱がじわりと伝わってゆく。夫の隣には、若い女が事も楽しげに写っていた。聞いたことも無いボウリング場で肩を組む二人は、とても親密そうに見えた。
「なあ」
割り箸でぶつ切りにした冷や奴に箸を刺しながら、夫がぶしつけに切り出した。扇風機の風に揺られ、鰹節が一欠飛んだ。
「トイレ、そろそろ交換しないか? 流石に夏は臭いがきついって。古いからさ、新しいのにしようよ」
「……そうね」
冷やし中華をすすり終え、ともえは一言ポツリ。賛同の声を漏らしテレビに目をやった。さして興味も無い、どこの誰だかすら判らない野球選手がセンター前にボールを飛ばしていた。
「おっ、おっ!」
まるで夫の前にアクリルの板でもあるかのような、会話は出来るが無関係のような、同居人以上夫婦未満のような、それでいて無関心で、どことなく馴れ馴れしい。
熟年夫婦なんてこんなものか。
ともえは食べ終えた食器を持ち、キッチンへ向かった。
翌日、ともえは趣味でやっている家庭菜園で採れたトマトの袋を片手に、隣家へと足を向けた。ルイボスティーのお返しだ。
「昨日はどうも。あれ? 美紀子さんは留守かい?」
「……はい」
どうやら本人は不在のようで、代わりに高校生の孫が顔を出した。
孫娘は不格好なトマトの数々を見て、渋い顔をした。
「それじゃあ美紀子さんに渡して置いてくれないかしら? 昨日のお返しって」
「……はい」
孫娘は口を手で押さえながら、トマトの袋を左手で受け取った。その瞬間逃げるように距離を取った孫娘を見て一瞬不思議に思ったが、その場では特に気にも止めなかった。
「この御時世だから……かな」
家に戻り、ともえはテレビを付けた。
テレビ画面は今日もコロナ患者の人数を伝えている。悲しいニュース、嬉しいニュース、日常と化したニュース。様々な情報がともえの耳の右から左へと流れてゆく。
やがてニュースが終わると、通販番組が始まった。
──最近、口の臭い、体の臭い、気になりませんか?
ともえの中に不穏な何かが覆い被さった。
まるで晴れ間に急に現れた黒い雨雲のように、それはあっという間にともえの心の中をぐしゃぐしゃに乱していった。
「……え、もしかして……私、臭いの?」
確かめようにも自分の臭いが分からないともえは、途端に不安に襲われ押し潰されそうになった。
誰にも聞けない。
もし万が一、そうであったとしたら。
陰でずっと言われてたとしたら。
そう思うと、もう確認することすら恐ろしい事のように思えて仕方なかった。
「落ち着くの、そう……落ち着いて」
子どもを宥めるかのように、胸に手を当て自分に言い聞かせた。しばらくして少し落ち着きが戻ったが、それでもまだ心の中はザワついていた。
ともえはトイレの黒ずみを見て、夫の言葉を思い出した。
──古いからさ、新しいのにしようよ。
ともえは便器の前で立ち尽くしたまま泣いていた。
黄ばみ黒ずみ、そして立ち篭める異臭に、自分を重ね始めた。
この便器は自分と同じだ。古くなって臭くなって、新しい若い物と交換される、と。
便器と自分が完全に重なりきった時、ともえの頭の中には便器に対する親近感のような愛着が沸いていた。
「次の休み、リフォーム会社に行かないか? トイレの見積もりとか、さ」
ぶつ切りの冷や奴に箸を刺しながら、夫が話を切り出すと、ともえは静かに箸を置いた。アクリル板越しに見える同居人は、ともえの事などまるで興味が無いように、テレビに視線を注いでいる。
「……トイレは交換しません」
「え? あ! あーあ……」
一瞬ともえに向けられた注目も、あっという間にテレビに奪われ、次の冷や奴を刺しながら、夫は「え、何で?」と言った。
「ちゃんと掃除すればまだ使えそうだし、臭いは消臭剤を置きますから」
「ふーん……」
夫はそれ以来興味を失ったのか、テレビから視線が動くことは無かった。
翌日、ともえは便器の汚れと格闘した。
業務用の強い洗剤も試してみた。
「まあまあ落ちたかな」
ともえの顔に笑みがこぼれる。
しかし、それも束の間。
三日後には外まで異臭が届き始めた。気が付いたのは仕事から帰宅した夫だった。
「なんか外がトイレ臭いぞおい」
「え?」
言われ外へと出てみると、確かにそんな臭いがした。このままでは近隣にご迷惑がかかると、ともえは次の日の朝、浄化槽業者を呼んだ。原因は強力な薬剤による浄化槽内の微生物の死滅だった。
「素直に交換したらどうだ?」
「でも……」
ともえは言葉を濁した。
夫はまるで聞き分けのない子どもをたしなめるが如く、優しい言葉遣いで「交換したらスッキリするから、な?」と、笑う。
ともえはまるで、自分が悪いと言われているような気がして、より一層嫌悪した。
「……そうやって古くなったらすぐ交換、ですか」
「その方が早いだろ」
「私の事もそうやって捨てるんですね」
「何の話だ?」
冷や奴に箸を刺したまま、顔をともえに向けた。
「私が古くなったから、新しい若い女と交換するんですね」
「なんか話が飛躍してないか、おい」
「いい歳して若い女と隠れてイチャイチャして! どうせ私は便器と同じで汚くなったら用済みですからいいですよ!!」
「何の話だサッパリ分からんぞ!?」
ともえは、ついに覚悟を決めて、例の写真を机に叩き付けた。
「友達がたまたまアナタを見つけて撮った写真よ!!」
「……」
眼鏡を外し、写真を見る。そして夫はリモコン立てに置いてあるスマホを抜き取り電話をかけ始めた。
「──ああ。夜にゴメン。こないだ行ったボウリングな、たまたま母さんの知り合いが隣に居たみたいでさ、母さんにバレちゃったよ……話してもいいか?」
夫はテレビを消し、返事を待った。
静かなる沈黙がリビングを満たしていく。
「……そうか。待ってる……あ、ただ母さんお前が来るまでモヤモヤしたままなのもなんだし、軽くは説明するぞ。いいな?」
そう言って電話を切ると、夫はスマホを戻してテレビを付けた。音量を少し下げ、チャンネルを国営放送へと切り替える。
「この女は……哲治だ」
「えっ!?」
ともえの顔に驚きと困惑が入り交じった。
哲治はともえの一人息子で、大学卒業後は実家を出て一人暮らしをしていた。
その哲治が何故女性の姿で……。
ともえは酷く狼狽え思考が滞り始めた。
「アイツ……昔からそうだったみたいでさ。俺達には言えなかったんだ」
「……アナタはいつから知ってたの?」
「出先で偶然。最初は分からなかったけど、向こうから。来週休み取ってこっちに来るって言うから、優しく迎えてやってくれ」
「……ええ」
その日、一人息子の哲治はありのままの姿でともえの前に姿を見せた。
最初こそともえは困惑したが、次第に哲治の想いを受け止め、出来る限りその考えに賛同しようと哲治に向かった。
哲治はずっと言えなかった事を二人に詫び、二人はずっと気が付けなくて申し訳ないと、哲治に頭を下げた。
今では旅館の若女将として、住み込みで日々奮闘している哲治。ともえは真面目に働いていることを知り、安堵した。
帰り際、ともえは成長した息子……いや、娘の後ろ姿にそっと涙を流した。
「来たときも思ったけど、なんか臭くないかい?」
「……そうね」
娘の一言で、長年使い続けたトイレはあっという間に交換され臭い問題は解決した。
ともえの加齢臭は解決しなかったが、夫は「別に何も臭わないけど……」と、気にも留めなかった。