四枚目
雪が積り始め、本格的な冬を迎えた。この頃から母は、自分で服を着ることが難しくなっていた。椅子に座っている母の痩せた腕にパジャマの袖を通す。眠たそうなどこか虚な目をする母を間近で見ると胸が締め付けられた。まだ六二歳という若い母の歩幅は、小さくなり安定しない。日々衰えていく母に僕は目を背けることはできなかった。そばにいると僕は決めたのだから。そう何度も言い聞かせた。母はベッドに入り、六回ほどゆっくり瞬きをしたと思ったらすぐに寝息を立てた。僕は布団をそっと整え夢の中にいる母に「おやすみ」と声をかけた。
早朝四時、ビクリと両足がベッドから離れ目が覚めた。嫌な夢でも見たのか心臓が激しく脈打つ。頭の中に悪い想像がよぎる。すぐに部屋を出て、母の元へ向かった。汗の滲む手でドアノブを回す。ギィという聴き慣れた音も、不安を煽る音に聴こえた。徐々に部屋の中が滲んでくる。寝息とともに布団がゆっくりと上下し、僕は止まっていた呼吸を再開させる。母の命を心配するのはもっと先の話だと思っていた。そっと母のベッドに寄りかかり、カーテンの隙間から見える空を見上げた。夜と朝が混じった綺麗な色をした空にはまだ一つ星が見えていた。何度も幾つもの願いを込めた夜が蘇った。どうして母が……。遠ざけていた問いが性懲りもなく湧いてきてしまう。問いを振り払うように母の方へ振り返った。母の顔は光に照らされ、元気な頃を思い起こさせた。ふっと口角が上がったように見えて、僕は布団越しに母の肩を優しくさすった。僕は空をもう一度見上げた。最後の星が朝に吸い込まれてしまう前に願いを込めた。毎日笑顔じゃなくても、毎日幸せじゃなくても、母の生きたいように過ごさせてください。僕の思いは届いたのか、星に負けないほどの輝きを放つ太陽が顔を出した。それは温かい母の色をしていた。すごく眩しくて眩しくて。
「あぁ、今日も、一日が始まる」
失望と覚悟の入り混じった声が部屋に吸い込まれた。
年が明け、寒さは和らぎ空気は暖かくなり始めていた三月下旬。ここ何日か母の症状は芳しくなく、ずっと家にいるのもよくないと思い、気分転換に出かけようと僕らは玄関にいた。僕は長袖のシャツにジーンズを履き、母には薄手のセーターと動きやすいスラックスを履いてもらった。
「はい、じゃあ次は右足ね」
母の足を持ち上げ、靴の中にしまう。気分が晴れるようにと三日前に新しくした靴は気に入ってもらえたかと、母の顔を見上げる。嬉しそうな、いつもよりは機嫌がいいように僕の目には映った。風邪をひかないように母の首にふわっとストールを巻いた。母の好きな黄色の花柄のストールは母の顔色を一層と明るく見せた。
「よし、じゃあ行こうか」
母の手を取り玄関を出た。外の空気はカラッと乾いていて、心地が良かった。頬を撫でる優しい風は春を予感させた。僕は深く息を吸った。
「風、気持ちいいね」
横にいる母の顔を覗いた。あっという間に白く、細くなった母の髪はひっそりと風を受け揺れていた。少し目を細めて風を受ける母の瞳は、太陽に照らされ輝いていた。僕たちはゆっくりとゆっくりと歩き、春を迎えに行った。十分ほど経ってから家に向かった。玄関に入り、母に靴を脱いでもらうと母はおもむろに口を開いた。
「また行きたいな」
僕は咄嗟に顔を上げた。見上げた母の顔には、既に色は残っていなかった。見逃してしまった母の喜びはとても惜しかった。それでも僕はすぐに母の顔を見つめ言った。
「また行こうね」
僕は繰り返した。また、もう一度。終わりが来ないように一瞬一瞬を大切に。