三枚目
雪がチラつき冬を迎えたある日の夜。一つの音で僕は眠りから引き剥がされた。その音の出所が母なのだと、起きたばかりの脳が察知した。ベッドから飛び起き、すぐに母の部屋に向かった。部屋に行く途中、真っ暗な廊下の中で母はしゃがみ込んでいた。
「どうしたの! 大丈夫?!」
僕が駆け寄ると母は長い髪を顔に沿わせながら言った、虚な瞳を向けて。
「……たい。……たい」
「…? うん? どうしたの母さん」
「帰りたい、帰りたい」
『帰りたい』確かにそう言った母の顔は、迷子になった幼子のようだった。帰るって、ここが母さんの家じゃないか! そう叫び出してしまいたかった。母の頬にある大きな哀しみの滴は、新たな滴と重なり流れ落ちていった。受け止めきれずにいる心の音を押し殺し、僕は優しく母を包んだ。
「……一人で怖かったよね、ごめんね……もう、大丈夫だよ」
声をかけてもなお、母は腕の中で帰りたい家に帰りたいとすすり泣いていた。僕は以前より軽くなってしまった母の体を、そっと起こした。
「一緒に母さんの帰る場所、探してみよう」
涙で揺れる声が口から滲んだ。母はゆっくりと歩き出した。家の中を一周二周、何度も歩き回った。母は歩き疲れたのか話しかけても反応が薄くなった。
「今日は、もう休もうか」
「そうだねぇ……」
母は眠そうな顔をしてコクリと頷いた。僕は力なく足を進める母の背中に手を当て、明るい廊下を歩いた。母の部屋の前まで着き、扉が開いているのに気付いた。以前は部屋の扉を開けっぱなしにすることなんてなかった。変わっていく母に気づくまいと光の滲む廊下から、紺色に包まれた部屋に足を進めた。眠そうにベッドに横たわる母に、そっと布団をかけた。すぐに眠りにつくかと思っていたが、少し時間が経つと母の瞳はしっかりと僕を捕らえていた。
「どうしたの?」
そう尋ねると、母の乾いたばかりの瞳はあっという間に涙でいっぱいになった。
「ごめんね、ごめんね迷惑かけて…」
「迷惑なんかじゃないよ!」
咄嗟に出てしまった大きな声は、母の肩をびくりと上下させた。僕は母の肩に静かに手を当てる。
「迷惑なんかじゃない…大丈夫だよ」
大丈夫。自分にも言い聞かせるように繰り返した声は、徐々に震えていく。母は泣き疲れたのか、何度か瞬きをしているうちに、呼吸が深くなり夢の中へ足を進めていた。起こさないように母の肩に当てた手をそっと離した。僕はベッドにもたれかかり、窓を見つめた。夜空にはきらきらにひかる星が輝いていた。ふと母のほうを振り返ると、顔には流した涙がまだ生きていた。それは星明かりにきらきらに照らされていた。そっと指の背で涙を拭き、僕は星に願う。
「どうか、母を元気にしてください」
願いを聞いてくれているのか、いないのか判別なんてできなかった。ただ星は、動くことなくじっとそこで輝いていた。
起こさないようにそっと立ち上がり、母の部屋の扉を開ける。ギィっと悲鳴を上げて開くドアをなだめ、眠れないと感じた僕はリビングへ向かった。ため息を洩らしながらパチパチと電気をつけ、ソファに腰を下ろしテレビをつけた。昼間につけたままの音量はリビングに響き渡る。急いで音量を半分以下に下げる。静寂の中で、ニュース原稿を読みあげるアナウンサーの声がリビングにそっと響いた。テレビの真上にある丸い形をした掛け時計は午後の十一時を指していた。ふと喉が乾いているのに気がつき、座ったばかりの重い腰を起こす。自然とため息が口から吐き出される。その時、疲労する体と心を自覚した。蛇口をひねりコップに水を注ぐ。ジャーっという水の音とともに、アナウンサーの声が聞こえてきた。
「○○県〇〇町で午前11時ごろ、閑静な住宅街の一室で遺体が発見されました」
人を殺めてしまうなんて理解できないと心の中で呟き、僕は勢いよく水を喉に流し込む。生き返るような穏やかな感覚が喉に渡った。リビングに立ったまま、横目にニュースの画面を眺めていた。
「容疑者はこの家に住む五十二歳の男性。被害者は男性の八十二歳の母親とみられ、警察の事情聴取によると介護疲れで犯行に及んだと供述しているようです。では次のニュースです」
ザワザワと胸の中で黒いものが動き出すのを感じた。健康な心臓が走り回り、コップを握りしめる手は気を抜いたら落ちてあっという間に粉々になりそうだった。今はもう動物園で生まれたばかりの小さなパンダが画面を埋めていた。僕はガンっと荒々しくコップを置き、ドタドタと足音をたてリモコンを掴み取った。プツッという音とともに白黒のパンダは真っ黒な四角に変わる。リモコンを握る手は汗ばみ、震えていた。自分にもいつか起こり得るのだと、誰かが囁いた。
「大丈夫、大丈夫」
今度は自分のためだけに唱える。震える声がリビングにひっそりと響き渡る。
翌朝、寝不足のためかいつもは怒ることのないようなことに僕は声を荒げた。
「だから、何度も言わせないで…!」
「教えてくれたっていいじゃない、そんなに大きな声を出さないでよ」
「もう……いい加減にしてくれよ!!」
ガシャンという音とともに、持っていた皿が床に散る。怒りで上下する視界の中で、足元の皿を見つめる。鋭利な破片。一瞬で昨夜のニュースがフラッシュバックする。介護疲れで犯行に……。ドッドッドッドと心臓が脈打つ。背筋に嫌な汗がツーっと伝う。先ほどよりも呼吸は苦しくなる。僕は正気を取り戻そうと後ろを向き、キッチン台に寄りかかる。息を整えようとゆっくりと呼吸する。視界には食器や調理器具の入っている棚が広がる。調理用のハサミ、鋭利な刃物。ガラスの灰皿、鈍器。目に映るもの全てが凶器として認識される。治りつつある動悸がさらに激しさを増す。極度の緊張で握り締めた右手に鈍い痛みが広がる。そっと手を広げると、その中には真っ白だったはずの皿の破片が赤黒く染まっていた。咄嗟に母の方へ振り返る。こちらを心配そうな面持ちで見つめる母の瞳。足元から手、頭と確認する。母の体には血はついていなかった。ほっとしたからか、腰はズズッと棚を伝い崩れ落ちた。頬に伝う大量の安堵とともに、治ることの知らない震えが体を纏った。ぼやけた視界に母の買ったばかりのポロシャツが見えた。
「大丈夫?」
心配そうな顔をして覗き込む母の顔には先ほどまでの怒りは見られない。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
定まらない足取りで足元の破片を踏まないように気をつけながら歩み、母を抱きしめた。
「怒鳴ったりしてごめんね。もう大丈夫だから」
母の頭越しに見える赤に染まった手をきつく握った。僕は痛みとともに、誤謬に揺れた自分を刻んだ。