二枚目
診断を受けてから季節は容赦なく移り変わり、一年二ヶ月が経ち紅葉は黄色から夕焼け色に染まり上がった。その色は、母の手にしていた冊子を容易に思い起こさせた。あの日から変わっていった日常は、目まぐるしいものだった。付き纏う不安からも逃れることができない、そう確信していた。
母の認知症は確実に進行していた。僕は勤務時間を減らしてもらい、ヘルパーさんの力も借りながら介護をすることができた。小説ばかりが並んでいた本棚には、介護食のレシピ本がずらっと並んでいる。土曜日の十一時五分。リズム感のない包丁とまな板の手拍子がキッチンに響き渡る。母は心配そうな顔をして僕の手元を覗いた。
「大丈夫? 気をつけてね」
親にとったらおじさんになりつつある僕もいつまでも子供なのだろう。
「大丈夫だよ。もうすぐできるから座って待ってて?」
僕がそういうと母は渋々と言った表情で椅子に腰を下ろしていた。徐々に手際の良くなる自分に、心の中で頷いた。テーブルには今にも崩れそうな豆腐ハンバーグ。柔らかく茹で、カットしたほうれん草のお浸し。ご飯と味噌汁が整列している。お腹の唸り声を鳴らしながら、エプロンをしたまま僕は母の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、いただきます」
僕がそういうと母は手のひらを綺麗に揃え、「いただきます」と言って味噌汁を口にした。僕はじっと母の口元を見つめる。
「おいしいねぇ」
母は毎日のように美味しいと言ってくれる。母の昔からよく褒めてくれるところは変わらなかった。僕はニコニコとしながら箸を進めた。三分の二程食べ終わった頃、母は「ごちそうさまでした」と言って箸を置いた。残したものを見つめ、よく食べたものを後から記録するように頭の中で反復させる。食器をシンクに置き、薬缶を手にして母の薬用のお湯を湯呑みに注ぐ。父と母の結婚記念日にプレゼントしたものだ。深緑色の凸凹とした形をした湯呑みはお洒落だと思い選んだが、母は微笑みながら持ちやすいと言っていたのを覚えている。そうじゃないんだけどな、と心の中でつっこんだが母の嬉しそうな顔を見たら何も言えなかった。
「はい、お湯もう少し冷めたらこれで薬飲んでね」
母の前に湯呑みを置き、キッチンで食器を洗おうとスポンジに洗剤を垂らした時、母の声がした。
「ご飯、まだできないの?」
湯飲みを両の手で包みながら僕の顔をまっすぐ見て母は尋ねてきた。その瞳は残酷なほどに陰りがないものだった。窒息するほどの不安が僕の首を絞める。僕はすぐに声を出すことができなかった。手元を見ると確かに僕と母、2人分の食べ終わった証がごたごたと重ねられている。僕は一瞬考えるフリをして、洗われることなくじっと水に当てられるそれを見つめる。下を向いていると重力に負けて目から涙が溢れそうだった。ぐっと歯を食いしばり勢いよく顔を上げた。
「……ごめんね。今日はうまくできなくて、今日……は、パンでもいい?」
僕がそういうと母は少しだけ目を見開いた。
「あら、そうなの珍しいねぇ。大丈夫だよ」
僕はキッチンのカゴにある、細長の袋を掴んだ。母のお気に入りの小さなあんぱんが横並びに入っている。ぎゅっとあんぱんを潰さないように握り僕は母の向かいに力なく腰を下ろした。袋から一つ取り出し、母に差し出した。
「あんたは、食べないの?」
「僕はいいよ、お腹空いてないんだ」
そういうと母は不服そうな顔をして、あんぱんを半分にちぎり僕へと差し出した。
「ほら、食欲なくても食べないと力出ないよ」
「……ありがとう」
僕はちぎられて少し潰れたあんぱんを受け取った。母はお湯をすすりながら、あんぱんを美味しそうに頬張っていた。僕は隣でしょっぱい味がするあんぱんを一口で食べ終えた。母が食べ終わったのを確認し、僕はトイレに行くと声をかけた。母を背にした瞬間、頬に大量の涙が伝った。もう、もう忘れてしまうのか。認知症患者さんの情報をよく目にしていた僕だったがこんなにも早いとは思わなかった。どの情報メディアにも症状や進行には個人差があると書かれていた。でも、心のどこかで母は大丈夫と不安感を麻痺させていた。ふらふらと壁で体を削りながら洗面台へ行った。鏡に映るぐしゃぐしゃに涙で歪んだ顔は、紛れもなく認知症の進行を認めている表情でしかなかった。震える手で蛇口を捻り、冷たい水を顔に叩きつける。鏡の中の目を真っ赤にしている自分に悟すように呟く。
「大丈夫、大丈夫。しっかりするんだ」
また涙が出てしまう前に僕は踵を返した。
リビングに入ると椅子に座っている母の姿がなかった。全身から焦りが、どっと湧き出る。
「まさか、外に……」
そう言葉にした途端、さーっと血の気が引くのを感じた。同時に全身からぶわっと嫌な汗が吹き出す。まずは家の中を探さなければと部屋を回ろうとしていたところだった。キッチンの方でガタッと音がした。音の方向に視線を向けると立ちすくんでいる母が見えた。
「よかった……」
一瞬で緊張状態になった体は母の姿を目にした途端力が抜けた。テーブルにあった母の湯呑みがないことに気づき、母が自分で湯飲みをシンクへさげたのだと読み取れた。僕はゆっくりと湯呑みを提げてもなお、キッチンにいる母へ歩んだ。
「さげてくれてありがとうね。あとは僕がやるから…」
母は僕の言葉に反応しなかった。両の手はぎゅっとシャツの裾を握りしめていた。そして視線は斜め下へと注がれていた。僕も母と同じように視線の先に目をやる。
そこには洗っていない二人分の水が張ってある食器があった。さっきまでかいていた汗が一瞬にして冷え切るのを感じた。
「もう、食べてたんだね。そうなんだね…」
悲しみに歪む母の顔を見て、涙で喉が塞がりそうだった。僕はキッチン台に手をついている母の右手にそっと手を添えた。母が子供の頃に怪我をした膝や顔に手を当ててくれたように、そっと優しく。母の症状は確実に進行している。覚悟をしなければならない。僕は添えた手にぎゅっと力を込め母の手を握った。
「大丈夫。母さんのこと、一人になんてしないから。そばにいるからね」
声に出して言った言葉を何度も心の中で繰り返す。そばにいる。決めたんだ。