一枚目
梅雨の残骸を消し去るほどの暑さの八月末、僕は六十二歳になったばかりの母を助手席に乗せ自宅へ向かっている途中だった。まだぬるい空気に耐えられず、冷房の強さを二から四へと上げる。スピーカーから溢れるラジオのパーソナリティの陽気な声が、車内に漂う。ちょうど聴取者からの質問を読み上げているところだった。
「今度、僕たちも応募してみようか?」
声を弾ませ問いかけたが、母からの返事はない。赤信号になり僕は頭を左に向ける。よく笑う母の目元には、くっきりとした笑い皺が刻まれていた。母は目を瞑ったまま右手にはガーゼのハンカチを握っている。僕が幼少期のときから母はガーゼのハンカチを持ち歩いていた。転んだ僕の膝に当てたり、泣いて帰ってきた僕の頬の涙をそっと拭いてくれた。全国各地に出張で家を空けることの多かった父の代わりに、母はいつでも一緒にいてくれた。そのおかげで僕は生粋のお母さんっ子になった。今でも一緒に実家に住んでいるのがその証拠だ。五年前まで父と母と僕の三人暮らしだったが、父は癌で亡くなってしまった。よく喋る父がいない家はとても静かで冷たく感じた。それでも僕らは仕事の話やテレビの話をして賑やかに暮らしていた。
そして母の左手には、つい三十分程前に病院でもらった冊子が握られていた。夕焼け色に染めゆく階調が広がっている。そこには確かに『認知症患者様、ご家族様へ』と書かれていた。その文字を目が拾い、脳まで伝達した時に僕は不安に侵されそうだった。まだ受け止めきれずにいる僕は、ハンドルを握る両の手に力を込めた。
どこにも止まることなく小さな商店街を通り抜け、十字路を右に曲がる。郵便局を左手に見て、煉瓦色をした家から数えて六個目に二階建ての昔ながらの瓦屋根の家が見えた。カチッカチとウィンカーの音を鳴らしゆっくりとハンドルを左にきる。車内からは母の好きなガーデニングの小さな花壇を目にすることができる。愛情を注がれて、空へ向かって背筋を伸ばす花たちを目にするといつも安心した。この家で僕らの新しい生活が始まる。そう心を決めるようにエンジンを切った。
「母さん、着いたよ」
僕の声に母は眉間に皺を寄せながら、瞼をゆっくりと離す。
「ありがとう」
そうお礼を言う母の口角は上がっていた。だが同時に眉尻がぐっと下がる母の顔を目にした僕は思わず母の手を握った。何年かぶりに触れた母の手には皺が増えていた。皮膚の表面は乾燥し、少し硬くなっていた。何か言葉を発そうと考えていたが、母の手はするっと離れていった。母は微笑むと、車を降り玄関へと向かった。僕も荷物を手にし、車を降りた。玄関に入る前に小さな段差があった。母は慣れたように軽々と段差を越え玄関に入っていった。この段差も越えられなくなる日が来るのか…。何を見ても不安要素になってしまう。僕は不安を外に吐き捨て、母の背中を追って玄関へと入った。家の中は影になりひんやりとしていた。先に靴を脱ぎ廊下に立っていた母はゆっくりとこちらを振り向いた。
「少し疲れたから休むね」
六十歳までスーパーで働いていた母はせかせかと動いていたが、今日ばかりは、ゆっくりとした足取りで歩んだ。僕は靴を脱ぐこともせず、母の背中を見つめていた。胸元まで伸び、一本に綺麗に結われた母の白髪混じりの髪の毛は、左右に悲しげに揺れていた。突き当たりを左に曲がり母の姿は見えなくなった。僕はリビングに行き、珈琲を淹れた。珈琲カップを手にし、ソファへと腰を下ろす。カップからは湯気が天井に伸びていた。一口、口に含み体を後ろに預ける。ソファがぐーっと僕の重みで沈んでいく。
「どうして……」
認知症と告げられてから我慢していた言葉は、閉め切った部屋から出ることもできずにリビングを彷徨った。同時に頬に温かな涙が伝う。顔に当てる手の隙間からさえも、容赦なく涙が溢れていった。窓からさす日差しは既に橙色になろうとしていた。テーブルに忘れられた珈琲カップからは、もう湯気は出ていなかった。それを飲み干し、僕は母の様子を見に行った。
部屋の前までいき、扉を叩く。
「母さん、入るよ」
そっと開けるとベッドの上で窓を向いて座っている母の背中があった。見慣れているはずの母の背中は急激に小さくなったように見えた。僕は拳を握りしめ、ゆっくり母の隣へ座った。そして母の顔を覗き込むと母の頬には涙が伝っていた。皺に入りこむ涙は様々な方向へと伝う。
「母さん……」
僕は自分のことばかりだった。母は一人で、悲しみの中で溺れていた。僕はそっと母を抱き寄せる。思っていた以上に母の体は細いものだった。一緒に暮らしているというのに僕は、何も気付けなかった。後悔ばかりが僕の中で充満する。
「ごめんね……」
腕の中で揺れる母の声が聞こえた。僕は首を左右に振る。母は僕のシャツの背中をギュッと握りしめた。体温が互いの悲しみを飽和した。