【短編版】姉に突き落とされて記憶喪失になった私が幸せになるまで
「随分道の悪いところを通るのね、お姉様」
ベアトリスは姉のデボラに尋ねた。
「仕方ないわ。所詮、男爵家の別荘なんだから、そんなにいい場所には建てられないでしょう」
「酷いなあ、デビー。まあ確かに、我がリンジー男爵家は貧乏貴族ですがね」
クックっとドナルドが楽しそうに笑った。ドナルドの肩にしなだれかかっているデボラも一緒に。
(何が可笑しいのかしら。まったくわからないわ)
ベアトリスは心の中でため息をつきながら馬車の窓から外を眺めた。
ベアトリスとデボラはアランソン伯爵家の姉妹だ。父は一年前に亡くなり、母と三人で暮らしていた。
ところが最近、デボラに恋人が出来た。リンジー男爵家の三男、ドナルドである。彼はいつの間にかアランソン家に入り浸るようになった。ベアトリスは嫌だったが、姉に押し切られる形で同居を認めざるを得なかった。
そして今日は、リンジー男爵家の別荘にベアトリスを招待すると言われ、こんな険しい山道を通っているのである。
(別に来たくもなかったんだけど。将来の妹と仲良くしたいってせっかくドナルドが言ってくれてるのに! とデボラが癇癪を起こしたから仕方なく来たのよね)
来年には学園を卒業するベアトリスは、上位貴族の屋敷でメイドになることを決意していた。
(この二人と一緒に暮らすなんてまっぴら。住み込みで働けるメイドなら家を出られるわ。それまでの我慢、我慢)
やがて、馬車が止まった。
「ちょっと一休みしようぜ」
そう言ってドナルドとデボラが馬車から降りた。
「ビー、あなたも降りなさいよ」
確かに、悪い道をずっと通ってきたので身体があちこち痛い。外で伸びをした方がいいだろうとベアトリスも外に出たのだが、思わず目を疑った。
「何これ……?」
目の前には断崖絶壁が広がっていた。吹き抜ける風は強く、今にも吹き飛ばされそうだ。
「お姉様、何でこんな所で止まったの? 危ないわ」
「まあ、見てご覧なさいよビー。この下、大きな川が流れているのよ。しかもね、その先は滝になっているの」
断崖の端から下を覗いているデボラに呼ばれ、渋々近寄って行った。
「ほら、ビー」
デボラはベアトリスの手首を掴んで引っ張ると、そのまま背後に回りこんで背中をドンと押した。
「きゃっ……!」
次の瞬間、ベアトリスの足の下に地面は無かった。
かろうじて崖下に生えていた捻れた木を掴み、ぶら下がることは出来たが。
今にも折れそうな細い木を掴んだまま、ベアトリスは叫んだ。
「お姉様、何するの!」
するとデボラとドナルドがひょこっと顔を出してこちらを見下ろした。
「ふふ、ビー、ごめんなさいね」
「お姉様、私を殺そうとしているの?!」
「人聞きの悪いこと言わないで。あなたが勝手に落ちたのよ。私は何もしていないわ」
「だって、背中を押したじゃない……早く、助けて!」
「悪いなあ、ベアトリスちゃんよ。お前がいると、デビーが今すぐに伯爵位を継ぐことが出来ないんだよ。俺たちの幸せのため、川底に沈んでくれ」
ドナルドはそう言うと剣でベアトリスが掴んでいた木を切り落とした。
「いやぁっ……!」
落ちていくベアトリスの目に最後に映ったのは、高笑いをしているデボラとドナルドの悪魔のような顔だった。
「ごめんなさい、お母様。私がちょっと目を離した間に……」
デボラは泣き崩れ、ドナルドがその身体を心配そうに支えた。
「デボラ、それでベアトリスは……本当に川に落ちてしまったの?」
「ええ。お姉様助けて、と私を呼びながら落ちていったあの子の声が耳に残って離れないわ。私が、ずっとそばにいたならこんなことには……」
「お義母様、僕がついていながら本当に申し訳ございません。ベアトリスは馬車に酔ってしまって、吐こうとしていたのです。恥ずかしいから見ないでくれと言われ僕は後ろを向いていました。そのため、足を滑らせたベアトリスを助けることが出来なかった、自分の不甲斐なさが許せません」
「ああドナルド、あなたは悪くないわ。責められるべきは私なのよ。私がしっかりとあの子を掴んでいれば。私が代わりに落ちれば良かったんだわ。私が死んでお詫びします」
そう言ってデボラはどこからか短剣を取り出し、自分の胸に突き立てようとした。
母の悲鳴が上がったその瞬間、ドナルドが短剣を払い除けた。
「やめるんだ、デビー。君まで死んでしまったらアランソン家はどうなるんだ」
「だって、ドナルド、私なんか生きていたって……」
デボラの元に駆け寄ってきた母は泣きながら娘を抱き締めた。
「デビー、おやめなさい! あなたまで失ったらこの母はどうやって生きていったらいいのですか。気をしっかり持って、ベアトリスの分まで生きてちょうだい」
「お母様……」
親子は抱き合って泣き続けた。使用人やメイド達は皆、ベアトリスの死を悼むとともにデボラ母子の親子愛に感動して涙を流した。
一方その頃。
激しい身体の痛みでベアトリスは目覚めた。
(痛っ……)
目を開けたが、頭がグルグル回る。熱が出ているようだ。
(ここはどこなのかしら……)
誰かに落とされて、真っ直ぐに落ちて行った。水面に落ちた瞬間のことはもう覚えていない。
(まさかあの高さから落ちて無事だったなんて。自分の強運に驚くわ)
目だけをキョロキョロと動かしてみる。どうやら、木造りの小さな小屋のベッドに寝かされているようだ。
(親切な人が助けてくれたのかもしれない)
小さなストーブがパチパチと燃えていて、その上に鍋がかけられている。スープでも煮込んでいるのか、いい匂いが部屋中に漂っていた。
(お腹……空いてきたかも)
お腹が空くくらいなら元気だろう。そう思って身体を動かそうとしたが、
「痛たたたっ……」
思わず声が出てしまった。
「起きたのか」
その時、ドアが開いて一人の青年が入って来た。歳の頃は二十二、三だろうか。艶のある黒髪に切長の瞳。瞳の色は深い紺で、シュッとした瓜実顔は一瞬女性と見紛う程、綺麗であった。
青年はベッドに近寄ってくるとベアトリスの顔を覗き込んだ。
「瞳に生気が戻っているな。熱はだいぶ下がったようだし」
額に手を当てて熱を測りながら言った。柔らかな声とひんやりした手がとても心地良い。
「あの、貴方が私を助けてくれたのですか?」
青年は鍋の蓋を開けてスープを器に注ぎながら頷いた。
「水音が聞こえたので見に行ったら、ちょうど君が浮かび上がってきたところだった。滝に流される前に引き上げなくてはと、少し焦ったよ」
スープをテーブルに置くと、ベアトリスの背中とベッドの間に手を入れ、そっと起こしてくれた。
「あっ、痛い……」
「痛いだろうな、あの高さから落ちたんだ。しかし、打ち身だけで骨折はしていないようだ。綺麗に落ちたようで運が良かったな」
痛みをこらえてなんとかベッドの上で身体を起こすと、スープを手に持たせてくれた。
「キノコのスープだ。これを食べて薬を飲んだらまた休め」
「ありがとうございます……」
ベアトリスはフーフーと冷ましてからゆっくりと口に運んだ。ミルク色のスープはキノコの出汁が出て、とても美味しかった。
綺麗に食べてしまうと青年は解熱の作用があるという薬とお茶を渡してくれた。それを飲んでひと心地ついたベアトリスは、改めてお礼を言った。
「本当に、ありがとうございました。こんなに良くしていただいて、何とお礼を言ったらいいか」
「礼など別に構わない。森の中ではお互い様だ」
ベアトリスは部屋を見回しながら質問してみた。
「貴方は、ここに一人で住んでらっしゃるの?」
「アーニーだ。アーニーと呼んでくれていい」
そう言ってから、
「ここだけに住んでいる訳ではないんだ。ここは、そうだな、気分転換したくなった時に来る所だ。一人になりたい時とか」
「あらっ、じゃあ私、お邪魔してしまったんですね。ごめんなさい!」
「そうだな、せっかくのんびりしていたのに、とんだハプニングだったな」
笑って冗談で返してくれて、嫌がっているのではなさそうでホッとした。
「ところで、どうしてあんな所から落ちてしまったんだ? 差し支えなければ聞かせてくれないか」
「ええ、そうなんですけど、実は……私、何故落ちたのか覚えていないんです」
「どういうことだ?」
「誰かに落とされたのは覚えているんです。二人いました。彼らの笑い声も覚えています。でも、彼らの顔も名前も思い出せない。それどころか、自分の名前もわからないんです」
そう、さっきからそこだけが靄がかかったように思い出せないのだ。
「おそらく精神的なショックだろうな。そうだ、君の着ていた服に何か手掛かりがあるかもしれない。びしょ濡れだったから外で干してあるんだが」
(ん? という事は、今着ているこの服は)
「ああ、私の寝間着を着せておいた。大き過ぎるが我慢してくれ」
「ちょ、ちょっと待って! という事は貴方が着替えさせてくれたと……」
「そうだが?」
(きゃーっ、は、裸を見られちゃったの?)
ショックで真っ赤になっているベアトリスに、アーニーのトドメの一言が飛んで来た。
「心配するな、私はもう少し肉付きのいい方が好みだ」
(肉付きって! そりゃあ確かに、胸とかまだ未発達だけども! )
「そ、それはそれで失礼ですっ!」
あまりの恥ずかしさに急いで布団に潜り込んだが、身体が痛いのを忘れていた。急な動きで全身に激痛が走ってしまった。
「アイタタ……! 」
「こら、無理するな」
アーニーは愉快そうに笑うと、
「今日はもう眠れ。私は床で寝ているから、何かあったら起こせよ」
「ありがとうございます……」
ベアトリスは布団に隠れたまま小さな声で言った。自分の名前も忘れてしまったというのに、アーニーのおかげであまり不安に襲われることもなく眠りに落ちていった。
翌朝、目覚めると熱は下がっており、身体の痛みも幾分良くなっていた。
(薬のおかげかしら。ちょっと身体を起こしてみよう)
全く痛まないとは言えないが、なんとか動けている。
(良かったわ……あら、アーニーは? 出掛けたのかしら)
そっとベッドから降り、窓辺に立って外を覗いてみた。すると、剣で一心不乱に素振りしているアーニーが見えた。
(何のお仕事をしている人なんだろう。軍人さんにしては物腰が柔らかいし)
美しい素振りに思わず見惚れてしまっていたベアトリスは、アーニーの向こう側の木にドレスが吊り下げられているのを見つけた。
(そうだ。あのドレスを調べてみなくちゃ)
ゆっくりとドアまで歩いて行き、開けようとした。しかし、ドアは案外重たく、少しだけ開いたがまた閉まってしまった。
(うーん、まだ力が入らないみたいね)
すると勢いよくドアが開き、目の前にアーニーが立っていた。
「あ、おはようございます、アーニーさん」
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで。身体もだいぶ楽になりました」
「外に出るつもりだったのか?」
「ええ、アーニーさんを見ていたらドレスが目に入ったので」
アーニーは首に掛けていたタオルで汗をゴシゴシと拭うと、ベアトリスをいきなり抱き上げた。
「な、何するんですか!」
いきなりのお姫様抱っこに驚いたベアトリスは声を上げたが、アーニーは気にする様子もなく庭をつっきって行く。
「靴も流されてしまってるのだから、あそこまで歩いて行けないだろう?」
「あ、ああ、そうですよね。ありがとう、ございます」
木に吊るされたドレスは、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。というか、夜露に濡れて全然乾いていなかった。
「まだ干しておかないとダメですね。それに私を抱き上げるんじゃなくて、ドレスを部屋に持ってきた方が軽いし早かったのでは」
「あ。確かにそうだな」
二人は目を合わせて笑った。
「じゃあ朝食にしよう。もう川で魚を釣ってきてあるんだ」
「ええっ、すごいですねえ。アーニーさん、なんでも出来ますね」
ふふん、とちょっと得意げに笑ってアーニーはベアトリスを抱いたまま小屋へと戻って行った。
昨日のスープの残りと、焼いた川魚を食べながらアーニーはベアトリスが何を覚えていて何を忘れているのかを確認していった。
名前、家族、友人、住んでいた場所。それらはまったくわからない。しかし物の名前や使い方は覚えているので、日常生活を送るにはまったく困らないことがわかった。
「着ていたドレスからして、貴族だろうと思う」
アーニーは言った。
「言葉使いも庶民とは違うしな。貴族の令嬢が行方不明になっているのだとしたら、調べればすぐわかるとは思うのだが」
「この場所って、エルニアン王国とガードナー王国の国境の辺りですよね? 私、どちらの国の人間なのかしら」
「他の国の可能性もあるが、まずはそこから調べていくのが早いだろうな。ガードナーならすぐに調べがつくから、まずはそこからにしよう」
「どこに行けば調べられるのでしょうか? 」
「まあ任せておけ。ドレスが乾いたら、着替えて出発しよう」
「はい、よろしくお願いします」
「そういえば、君の名前を決めないとダメだな。仮の名前、何がいい?」
「名前、ですか」
考え込んでしまったベアトリスに、アーニーが言った。
「じゃあ、メアリでどうだ? 我がガードナー王国の守り神、母なる聖女メアリの名前は、子供の名付けで一番人気なんだ」
(そうね、記憶を取り戻すまでの仮の名前なんだし、ありふれている方がいいかも)
「ではメアリでお願いします」
「よし、じゃあメアリ。出発まで休んでいろ。私は用事を済ませるから」
少し疲れてきていたのでありがたくベッドに横たわった。一部屋しかない小さな小屋なので、アーニーが片付けや火の始末をしているのがよく見える。
(とてもマメに動く人なのね。手際もいいわ。どこかのお屋敷の執事かも。うん、すごく似合いそう)
やがて食後の薬が効いてきたのかベアトリスはまた眠っていた。
「メアリ。そろそろ起きられるか?」
アーニーの声で目が覚めた。
「あ……私、寝てしまっていたんですね。ごめんなさい」
「もう少し寝かせてやりたいんだが、出発が遅くなると寒くなるからな。これ、乾いているから着替えるといい」
渡されたドレスをじっくりと眺めてみたが、イニシャルや紋章の刺繍などもついておらず、手掛かりになるようなものは無かった。
着替えてみると、裾の長さがふくらはぎまでのミモレ丈だ。
「あら、ということは私、まだ成人前なのですね」
「メアリの国では成人前の女子はその丈のドレスなのか?」
「ええ、今、自然にそう思ったんです。十八で成人を迎えると長いドレスになるって」
「そうか。ガードナーでもそれは同じだ。それだけではまだ手掛かりにならないな」
そう言いながらアーニーはベアトリスの背後に回ると、背中のホックを留めるのを手伝ってくれた。
「あっ、すみません、ありがとうございます。腕が痛くて届かなくって……」
ベアトリスが四苦八苦しているのに気がついてくれたのだ。
(絶対モテる人ね、アーニーって。全てがさりげなくスマートだもの)
着替え終わるとベアトリスを大きな毛布でスッポリと包み、馬に横向きで乗せてくれた。
「道が細くて馬車は通れないんだ。しばらくは馬で我慢してくれ」
アーニーはベアトリスの後ろから手綱を取り、ゆっくりと進み始めた。その腕は硬く筋張っていて、男らしさを感じさせた。
(朝も思ったけど、華奢に見えて随分逞しいのね。顔も綺麗だし女性に見えるなんて思っちゃったけど、やっぱり男の人だわ)
やがて、馬は森を抜けて広い道に出てきた。
「ここに馬車を待たせてある」
見ると、大きな紋章のついた立派な馬車が待機していた。アーニーが馬車に近寄って行くとたくさんの兵士が現れて敬礼した。
「アーネスト殿下、お迎えに上がりました」
「ああ、ありがとう。急に呼び立てて済まなかったな」
「とんでもございません! 光栄です!」
アーニーは馬を降り、ベアトリスを毛布ごと抱き上げて下ろした。
「私はメアリと馬車に乗る。サムを頼むぞ」
「はっ」
サムとはさっきまで乗っていた馬の名前のようだ。兵士が引き綱を持って連れて行くのが見えた。ベアトリスを抱いたまま、アーニーは馬車に乗り込んだ。
「アーネスト殿下、失礼いたします」
馬車のドアを恭しく開けていた眼鏡の青年が、一緒に乗ってきた。
「行き先は王宮でよろしいですか?」
「ああ、頼む、イーサン」
そして馬車は静かに動き始めた。
ベアトリスは何がなんだかわからなくなっていた。
(えっ、アーニーってもしかしてすごい身分の方なの? この馬車も凄く乗り心地がいいし、まるで振動を感じないわ。外装も美しくて、そう、まるで王族の乗る馬車のような。ていうかさっき殿下とか王宮とか言っていたわよね? )
情報量過多で挙動不審になっているベアトリスを一瞥した眼鏡の青年は、
「殿下、この方は」
明らかに怪しんでいる様子で尋ねてきた。それはそうだろう、毛布で包まれた裸足の女を連れているのだから。
「川で拾った」
「はい?」
「崖から川に落ちてきたんだ。滝に流されそうになっていたから引き上げて介抱していた」
「どこの誰ともわからない人間を拾うとは! 殿下に害をなす者かもしれないじゃないですか! 」
「まあそう怒るな。目の前で溺れそうな人がいたら、お前だって助けるだろう」
「それはそうですが、あまりにも不用意過ぎです。心配している私の身にもなって下さい……」
イーサンは不機嫌な顔でブツブツ言っていた。アーニーはイーサンの頭をポンポンと叩き、
「すまん、許してくれイーサン。心配かけたな」
そう言うとイーサンは顔を真っ赤にして横を向いた。
「別に、それが仕事ですから」
(うわあ、イーサンってアーニーのこと大好きなのね。すごくわかりやすいわ)
イーサンは一つ二つアーニーより年下だろうか。鳶色の巻毛が少し幼く見せているのかもしれない。
「ところでイーサン、頼みがあるんだが」
アーニーは、ベアトリスを拾った経緯を詳しく話し始めた。
「成る程。ではこの方が我が国の貴族かどうか、調べて欲しいということですね」
「ああ、頼む。身元がわかるまでメアリは王宮に住まわせておく」
イーサンはあからさまにため息をついて言った。
「まったく、また面倒な仕事を増やしてくれましたねえ」
「ごめんなさい、イーサンさん。私のせいで」
ベアトリスは恐縮して謝ったが、アーニーは平気だった。
「気にしなくていい、メアリ。イーサンは優秀な側近だからこれくらいの仕事朝飯前さ」
イーサンは得意そうに口の端をちょっと上げると、
「そうですね、公爵・侯爵家の令嬢の中にはこの方はいらっしゃいませんね」
と言った。
「覚えているのか、イーサン」
「上位貴族の令息・令嬢は顔と名前を認識しております。下位貴族でも王都にお住まいの方はわかりますが、地方在住の方々になるとさすがにわかりかねますので少々お時間を頂きます」
「さすがだなあ。じゃあ、任せたぞ」
「承知致しました」
言いながらイーサンは紙と鉛筆を取り出し、ベアトリスの顔を見ながらサラサラと何か描き始めた。
「ストロベリーブロンドのウェーブヘアにエメラルドグリーンの瞳、色白、中背、痩せ型、年齢は十五から十七。この特徴でよろしいですね」
出来上がった似顔絵はベアトリスによく似ていた。
「凄い、お上手です」
「このくらい、当たり前です」
心から感嘆したベアトリスに少し気を良くしたイーサンは、やっと笑顔を向けてくれた。
「メアリ、そろそろ王都だ。見覚えはあるか?」
アーニーに促されて外の景色を見たベアトリスは、広い大通りに整然と並んだ美しい建物に驚きを隠せなかった。
「見覚えは全くないです! こんなに綺麗な街並みは見た事ないんじゃないかしら? 凄くワクワクします!」
どこもかしこも美しく、行き交う人々も明るく幸せそうに見えた。
やがて馬車は広い王宮の門をくぐり、長く続く並木道と前庭を通り過ぎてようやく、馬車止めに着いた。
外から侍従長らしき人がドアを開け、アーニーが降りると皆並んで礼をした。
その中を、毛布に包まれたままベアトリスは抱き上げて連れて行かれた。
「アーニーさん、下ろして下さい! 私、歩けますから!」
ジタバタしながら抵抗したベアトリスだが、アーニーは聞く耳を持たなかった。
「裸足なんだから大人しくしておけ。大理石の床は冷たいぞ」
(それはそうだけど。うう、皆さんの好奇の視線が痛い……)
その後は医師に診てもらい、薬草の浮かんだお風呂に入ってから、用意されたフカフカのベッドで休んだ。
(ふぅ、アーニーが王子様だったなんて。私、いろいろ失礼なことをやらかしてるわ。明日からちゃんと殿下って呼ばなくちゃ)
目まぐるしく変わる環境に気疲れしたのだろうか、程なく眠りに落ちていった。
そして、ベアトリスは夢を見た。
また、あの崖で木に掴まってぶら下がっている。空は暗雲が立ち込め、恐ろしい風が吹き荒んでいる。
ぶら下がって風に揺られているベアトリスを上から見ている二つの顔は、真っ黒なのっぺらぼうだ。
「あなた達は誰なの? なぜ私を殺そうとするの?!」
だが彼らは答えない。やがて黒い顔に赤い目と口が現れ、ニヤリと笑った。この世のものとは思えない不気味さに、ベアトリスは悲鳴を上げた。
「やめて! 誰か助けてーーー」
「大丈夫か、メアリ」
アーニーに身体を揺すられ、ベアトリスはハッと目覚めた。
「大丈夫か。かなりうなされていたぞ」
「ああ、夢だったのね……良かった……」
起き上がってみたが身体の震えが止まらない。涙で濡れた頬を拭おうとする手がガクガクと震え続ける。
「私、どうしちゃったんだろう……涙が止まらないわ」
震えながら俯くベアトリスをアーニーは胸にグッと抱き締め、頭を撫でた。
「落ち着け。ここにはお前を殺そうとした奴はいない。安心しろ」
ベアトリスは目を瞑り、アーニーの背に腕を回してしがみついた。
「もう大丈夫なの……?」
「ああ。大丈夫だからゆっくり眠れ」
アーニーはベアトリスの背中に手を当てて優しくベッドに寝かせた。ベッドから離れようとしたアーニーの手を、ベアトリスがそっと握った。
「そばにいて……」
そして、ベアトリスはアーニーの手を握ったまま眠ってしまった。
眠ったことを確かめたアーニーはふっと微笑んで繋いだ手を優しく外し、ベアトリスの頭を撫でると、お休みと呟いて部屋を出て行った。
次の朝目覚めると、もう身体の痛みはほとんどなかった。
(良かった。これなら自分の足で動けるわ)
「おはようございます、メアリ様」
カーテンを開けて伸びをしていると、メイドが起こしに来てくれた。
「あ、おはようございます!」
「メアリ様、こちらにお召し物を用意いたしました。お着替え、お手伝いいたします」
「そ、そんな。大丈夫です、一人で出来ますから」
手伝いを断り、一人で着替えを済ませた。
(うん、もう腕も痛くない。靴も用意してくれてありがたいわ)
「朝食がご用意出来ました。食堂へご案内いたします」
別のメイドがやって来て案内してくれた食堂には、アーニーが既にテーブルについていた。
「おはようメアリ。よく眠れたか?」
アーニーの顔を見た途端、昨夜のことを思い出して、ベアトリスは真っ赤になった。
(あっ! そうだ、ゆうべ私怖い夢を見てアーニーに抱きついてしまったんだわ。なんて畏れ多いことを)
「お、おはようございます、アーネスト殿下。昨夜は大変ご迷惑をお掛けしました」
「疲れていたんだろう。気にするな。それより急にかしこまってどうした。アーニーでいい」
「でも……じゃあ、アーニー殿下とお呼びします」
アーニーは微笑んだ。小屋にいた時と違って王宮で見る彼は高貴なオーラが溢れ出て、顔の美しさが十倍増しになっている。
(なんてこと、こんな綺麗な人に抱き上げられたり抱きついたりしてたなんて。今更ながら恥ずかし過ぎる)
ベアトリスは胸が早鐘を打ったようにドキドキしているのを感じた。
「ところでメアリ、イーサンの調査結果は明日には出てくるが、それまで暇だろう。王都見物でも行ってみるか?」
「えっ、いいんですか? ぜひ、行ってみたいです」
「では、手配しておくから、楽しんでくるといい」
アーニーは一緒じゃないのね、とベアトリスは少し残念に思ったが顔には出さなかった。
朝食後、部屋に戻っていたベアトリスのところにディランという青年将校がやって来た。
「アーネスト殿下の命により、お迎えに参りました」
「ありがとうございます、ディランさん。よろしくお願いします」
「これから馬車で市街地へ向かいます。一番栄えている聖メアリ通りでは、馬車を降りて店などを訪れてみましょう。万が一にも襲われることの無いよう、私がしっかりと護衛を務めさせていただきます」
(襲われる……そうよね、まだ気を抜いてはいけないんだわ)
馬車の中でディランはいろいろな話をしてくれた。と言っても、アーニーの話がほとんどだった。
「アーネスト殿下は文武両道に長けた素晴らしい方です。しかもお姿も美しく、気配りも完璧で、そのカリスマ性といったら。殿下を好きにならない人などいないと言っても過言ではありません」
「ディランさんもそうでいらっしゃるのね」
「もちろんです。殿下から直々の命を受けることは大変な名誉なのです」
と、胸を張った。
イーサンといい、このディランといい、本当にアーニーに心酔しているようだ。
(でも当のアーニーは、一人になりたい時があるってあの小屋で言っていたわね。皆に好かれる彼にも、きっと苦悩や孤独があるのだわ)
「あ、聖メアリ通りに着きました。外を歩いてみましょう」
降りてみると、通りの美しさに見惚れてしまった。石畳は模様を描きながら敷き詰められ、街路樹も整備されている。馬車の通る道と人の通る道はきちんと分けられ、安全に散策出来るようになっているのだ。
「素晴らしいですね。やはり、私はガードナー王国の者ではないのかもしれません。とても新鮮な驚きを感じますもの」
「そうですか。何か、思い出せばいいと殿下は仰っていましたが」
その時、前から歩いてきた小さな娘に、母親が後ろから声を掛けた。
「ビー、お待ちなさい。一人で行くと危ないわ」
その時、ベアトリスは電気に撃たれたように身震いがして歩みを止めた。
「メアリ様? どうしましたか?」
「いえ、急に寒気が……どうしたのかしら」
ベアトリスの身体が震え呼吸が荒くなり、心配したディランは市街見物を切り上げすぐに王宮に戻ることにした。
「何か思い当たる事はあったか?」
一部始終を報告したディランにアーニーは質問した。
「はい、ビーという呼び名に反応したように思います」
「そうか。本人の名か、それとも犯人の名か……いずれにせよ手掛かりの一つにはなりそうだな」
そこへ、イーサンがノックをして入ってきた。
「アーネスト殿下、調査結果が出揃いました。我がガードナー王国の貴族にはメアリ様らしき方はいませんでした」
「となると、やはりエルニアンだな」
「はい。早速、調査に行って参ります」
「イーサン、『ビー』という呼び名が関係あるかもしれない。それも頭に入れておいてくれ」
「わかりました。では」
イーサンとディランは部屋から退出して行った。
(あの時、川から引き上げて水を吐かせた時。メアリは「やめて、殺さないで」と怯えていた。その後気を失い、目覚めた時には記憶を無くしていた。よほどの事があったのだろう。力になってやりたいし、犯人を捕まえてやりたい)
アーニーはベアトリスの眠る部屋に入り、ベッドの横に座った。
ベアトリスは青い顔をして眠っている。医師の薬が効いているのだろう。
(昨日、夢を見て怖がっていたな……)
そっと、手を握った。
(恐らくエルニアンで真実が分かるだろう。もしかしたら、メアリにとって知りたくない真実かもしれないな)
アーニーは一晩中、ベアトリスに寄り添っていた。
一方、エルニアン王国、アランソン伯爵家にて。
「待ってデボラ。そんなにすぐに書類を出さなくてもいいんじゃないの?」
ホールの階段上の踊り場でデボラに追いついた母は、彼女の袖に縋り付いて言った。
「だってお母様。あれから一週間が過ぎたのよ。死亡届を出して、正式に私が伯爵位を継がなくては。いつまでも空位のままじゃいられないでしょう?」
掴まれた袖を振り払い、デボラは怒鳴った。
「でも、もしかしたら運良く生きていて、戻って来られないだけかもしれないわ。せめて、一年くらいは待ってあげて頂戴」
するとドナルドがニヤニヤしながら前に出て来た。
「いや、お義母様。あの滝に落ちて無事ではいられませんよ。今頃は魚の餌になってますって」
「やめて! そんな事言わないで頂戴」
あまりの恐ろしさに母は耳を塞いだ。
「それにベアトリスがいなくなったというのにあなた達は連日パーティー三昧。どうして我慢出来ないの?」
「お母様、辛気臭くしていたからってビーが喜ぶわけではないわ。明るく楽しく見送ってあげなきゃ」
「そうそう。人生は楽しむのが一番だ」
二人の会話を聞いていた母は、何かを決意したように真剣な顔で言った。
「まさかあなた達、ベアトリスをわざと落としたのではないの? 姉妹は共同相続人だから一人占めにしようとして!」
「ひどいわ、お母様! 実の娘を疑うつもり?」
「疑いたくはないわ、デボラ。でも貴女はこの男と出会って変わってしまった。享楽的な人間に変わってしまった」
それを聞いたドナルドの顔が怒りに満ちた。
「何だとこのババア。大人しくしてりゃあずっとここに住まわせてやったが、もう我慢出来ねえ。出て行ってもらうぜ」
「な、何を言うの。ここはあなたの家ではないわ」
「もう俺の物も同然だ。俺の女の物なんだからな」
そう言ってドナルドは母を小突きながら追いやって行った。
「ちょっと、そのくらいにしなさいよドナルド、ここは階段ホールだわ」
だがドナルドの耳には入らなかった。どんどん押して行き、ついに階段の端まで追い詰められた母はバランスを崩した。
「ひいい……!」
引き攣った悲鳴と共に母の身体が宙に浮いた。そしてそのまま、長い階段を転げ落ちていった。
「お母様!」
デボラも悲鳴を上げた。その声に、使用人達が駆け付けてきた。
「奥様! どうなさったのですか!」
その場に座り込むデボラの代わりにドナルドが答えた。
「奥様が足を滑らせて落ちてしまった! 早く医者を呼んで来い!」
慌てて走って行く使用人達。そしてドナルドはデボラの耳に小さな声で言った。
「一人も二人も同じだろう。邪魔する者は消してしまえばいいんだ。これで、うるさいババアもいなくなったし、俺達の天下だ」
茫然としているデボラはそれでも頷いた。
「そ、そうね……これで私達、結婚出来る……」
そしてその日のうちにアランソン伯爵家から二枚の死亡届が提出され、受理された。
あの日、街で発作を起こしてからベアトリスはずっと王宮で過ごしていた。
アーネストの客人として扱われていたのだが、ずっとこのままでは申し訳ないと思い、王宮でメイドとして働きたいと申し出た。
「私、メイドになる勉強をしていた気がするんです」
ベアトリスはアーニーに言った。
「それに、もしかしたら一生記憶が戻らないかもしれないし、だったら働いて自活しないといけませんものね」
「なあメアリ。結婚して家にいるという選択肢は無いのか?」
「うーん。そうですねえ。上位貴族ならそうなるんでしょうけど、私、絶対違うと思うんです。メイドになる、ならねば! みたいな気持ちがずっとあって」
「じゃあ、まずは見習いとしてやってみるか?」
「いいんですか? 」
「ただし、私の部屋付きメイドとしてだ。夜は私の部屋の隣で寝てもらう。わかったな」
「はい! よろしくお願いします」
そういうわけで、ベアトリスはアーニーの部屋の清掃及び世話係として働き始めていた。
夜は、アーニーの寝室の隣の小さい部屋を与えられて、そこで寝ることになった。
(メアリが悪夢を見た時には寄り添ってやりたい)
というアーニーの希望があったのである。
ベアトリスは実によく働いた。メイドになる勉強をしていたと思われ、洗濯も料理もこなし、家庭教師が出来るほどの学力も備えていた。
「即戦力でいけそうですよ」
というメイド長のお墨付きをいただく程であった。
アーニーは毎朝ベアトリスに起こされ、着替えをする間にいろいろな話をする。彼女が機知に富み、話が弾むことが楽しかった。
また二人は折に触れあの小屋での暮らしの話をした。
あの小屋は、アーニーの我儘で作ったものなのだそうだ。
「ずっと王宮にいると、自分をちゃんと見せなくてはというプレッシャーに押し潰されそうになることがあるんだ。だから十六の頃にあの土地を自分で切り開き、小屋を立てて、公務の時間が空いたらサムを走らせてあそこで過ごすようにしていた。自分の手で全てのことをこなすのはとても楽しい。人間らしく生きている実感があるんだ」
「アーニー殿下は、調理も片付けも、何でも楽しそうにやっていましたね。あの時のスープ、本当に美味しかったですわ。また、あそこに行きたいです」
にっこり笑うベアトリスに、アーニーは安らぎを感じ始めていた。
(最初は川で助けた見ず知らずのただの少女だったのに。出来ればこのままずっとガードナーにいて欲しいと思っている自分がいる。もしこのまま記憶が戻らず、身元もわからなければ……)
そんな風に感じ始めた頃、イーサンはガードナー王宮に戻って来た。
「アーネスト殿下、ご報告致します」
「イーサン、ご苦労だった。何かわかったか?」
「はい。メアリ様は、エルニアン王国のアランソン伯爵家次女、ベアトリス・アランソン様に違いありません」
「ビーというのは本人の愛称だったんだな」
「そのようです。ベアトリス嬢は足を滑らせて崖から落下、死亡したとの届が行方不明から一週間後に出されていました」
「一週間とは、死体も上がっていないのに随分と早過ぎるな」
「しかも、その時に母親の死亡届も一緒に提出されております」
「なんだと?」
「死因は、屋敷内の階段で足を滑らせて転落したためだそうです。葬儀はすぐに執り行われ、現在はアランソン家は喪に服している状態ですが、屋敷内では連日パーティーを開いているという情報も入っております」
「伯爵家には誰が残っているのだ?」
「長女のデボラ嬢と情夫のドナルド・リンジーです。リンジー男爵家の三男で、いい噂は聞かない男です」
「どう考えてもその二人が怪しいな」
「はい。次女が死亡したことにより、相続人がデボラ嬢のみとなったため、すぐに伯爵位はデボラ嬢へと引き継がれました。手続きをかなり急いだ様子です」
「何か証拠は上がりそうか」
「ベアトリス嬢が川に落ちた時に馬車を御していたリンジー家の男が、その日以来行方不明になっております。金を握らせて逃したか、または口封じに殺されたか……。生きているなら証人として使えるでしょう。今、部下に捜索させております」
「わかった。実の姉に殺されかけたというのはかなりショックだろうな」
「はい。記憶を無くすのも無理はないかと」
「しかも、母親まで亡くなっているとなると、記憶を取り戻しても辛い結果が待っているだろうな」
「そうですね。メアリ様にとっては忘れたままの方が幸せなのかもしれません」
それから三ヶ月が過ぎた。ベアトリスの記憶は未だ戻らず、メイドとしての技能がぐんぐんと向上していった。そして明るく働くベアトリスは他のメイドや使用人達とも打ち解け、好かれていた。
そんな時、イーサンが報告してきた。
「殿下、リンジー家の消えた御者の居場所が掴めました」
「何? 本当か」
「はい。ベアトリス嬢が行方不明になった直後にリンジー家から姿を消していたのですが、『金が入った』と言って酒場で豪遊していたのを目撃されています。その後の足取りを丁寧に追った結果、なんとガードナーの辺境で土地を買って暮らしているのがわかりました」
「そうか! それは好都合だな。我が国にいたなら
連行しやすい」
「では早速事情聴取いたします」
「頼んだぞ。その結果いかんでメアリに全てを言わねばならないだろう」
(姉が犯人である事、母が亡くなっている事。メアリにとってどんなにか辛い事であろう。だが、私が必ず支えてみせる)
そのまた三ヶ月後、アランソン伯爵家では大騒ぎをしていた。
「王宮パーティーの招待状が来たわ! 国王陛下の誕生日をお祝いするパーティーですって。初めて王宮に行けるわね!」
「俺は三男だから王宮のパーティーになんて出たことないぜ。親父がたまに呼ばれるくらいで、兄貴だって行ったことはない。兄弟の中で俺が一番乗りだぜ、ざまあみろ」
「若く美しいうちに伯爵位を継げて良かったわ。着飾る甲斐もあるってものよ」
「俺の計画のおかげだろ? 伯爵の夫として、大事にしてくれよ?」
「わかってるわよ、ドナルド。愛してるわ」
二人はキスをして、また祝杯を上げた。
「新しいドレスを作らなきゃ。帽子も、ネックレスも手袋も!」
「俺の燕尾服も新調してくれよ。女伯爵様の夫君に相応しく飾りのいっぱいついたやつをな。モーガンで作ってくれよ」
するとデボラはキッと睨みつけて言った。
「何言ってるのよ。モーガンなんて王室御用達のテーラーよ。値段の桁が違うのよ。あんな所で作れる訳ないじゃない! 私だって、ドレスは上流貴族が通うリンメルで作りたいのを我慢してるのに!」
キーキー怒り始めたデボラを、ドナルドは下手に出てひたすら宥めた。
(まったく、癇癪持ちの女は困るぜ。もう少し経って俺の自由な金が増えたら、すぐに可愛い愛人を囲ってやる)
ドナルドはそれを妄想しながらデボラの怒りが収まるまでひたすら耐えていた。
そして、いよいよパーティーの日がやってきた。新しく仕立てた服でデボラとドナルドは意気揚々と出掛けた。
初めて訪れる王宮に二人は圧倒されていた。親から何も学んでいない二人はあちらこちらでマナー違反をやらかしながらも、なんとか上手くやっている気になっていた。
「凄いぜ、食べ物の豪華さは」
皿いっぱいに食べ物を盛って戻って来たドナルドが、口をモグモグさせながら喋った。
「ちょっと、食べながら喋るのは流石にマナー違反よ」
と言いながらデボラはウエイターが持っていたシャンパンを何杯も飲み干していた。
「王宮のシャンパンは美味しいわ。ワインも楽しみね」
その時、ラッパが鳴り、王族の入場となった。
談笑していた貴族達は皆壁に沿って整列し、王族が中央を通って入って来た。
エルニアン王国国王夫妻、そして王太子夫妻。その後に成年王族が続々と入場した。
王族のドレスに興味津々のデボラは、じっくりと全員を見つめていた。
(やっぱり、生地やデザインが一味違うわね。よく覚えておいて、似たようなデザインを次のドレスで作りましょう)
「それでは本日、ガードナー王国よりお祝いに駆けつけて下さった王太子アーネスト殿下、及び婚約者メアリ・ペンブルック様のご入場です」
ひときわ美しい王太子と婚約者の女性が入って来た。観衆も思わずほうっと声を上げるほどに、絵になるカップルだった。
女性の着ているドレスは華奢な身体のラインを出しつつ腰から下はふんだんにフリルとレースを使い後ろにボリュームを出していた。宝石は瞳と同じ色の大きなエメラルドをたくさんのダイヤモンドで飾りつけた贅沢なものであった。
ドレスと宝石に目が釘付けになっていたデボラは、ドナルドに肘でつつかれて、苛立ったように言った。
「何よ?! うるさいわね」
ドナルドは青い顔をしていた。
「見ろよ……ベアトリスだ」
「何ですって?」
顔を見ると、確かに妹だった。ストロベリーブロンドに緑の瞳。あの時、崖から突き落とした妹。
「ひっ」
声を出したデボラはその場から二、三歩後ずさった。周りにいた貴族達は顔をしかめて彼女を見た。
「どういうことなの。なんであの子がここにいるの」
「知るかよ。まさか助かっていたのか?」
「でも、違う名前だったわよね。他人の空似よ。きっとそうだわ」
二人は怯えながらもあれは他人だと思うことにした。
パーティーは進行していき、乾杯や祝賀の挨拶など行われ、やがてダンスの時間となった。
アーネスト王太子と婚約者が踊ると皆がその優雅さ、美しさに感嘆していた。だが、一部の貴族達はヒソヒソと話していた。
「あの婚約者の女性は死んだはずのアランソン伯爵家の令嬢に似ている」
その噂はさざ波のように広がっていった。
ダンスが終わり、談笑の時間となった。生きた心地のしていなかったデボラとドナルドは、広間の隅っこで小さくなっていた。
そこへ、煌びやかなオーラをまとったガードナーの王太子がやって来た。
「これはこれは、アランソン伯爵どの。この度は伯爵位を継がれたそうで、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……」
(なぜ? なぜ私の顔と名前を知っているのかしら)
「私の婚約者を紹介させて下さい。メアリ、こちらへ」
「はい、アーニー殿下」
王太子の後ろから現れたのは、美しく着飾っているが、確かにベアトリスだった。声もそっくり同じである。
「あ、あなた、ビー……?」
「いえ、私はメアリ・ペンブルックでございます」
「ビーとはどなたのことですか、アランソン伯爵どの? 」
「わ、私の死んだ妹の名前です。あまりにもそっくりなので」
「そうですか。彼女は私の愛しい婚約者です。実は、半年ほど前に国境近くの川で溺れているのを発見しましてね」
それを聞いたデボラの肩はビクッと動いた。
「私が助けたのだが、すっかり記憶を失って、自分の名前すら忘れてしまっていたのですよ。それで王宮で預かることになり、先日ペンブルック公爵に養子として引き取られ、私と婚約を結びました」
「な……公爵家ですって……?」
「ところでマイクという男をご存知ですか? リンジー家で御者をしていた男なんですが、随分と興味深い話をしてくれましてね。今回、一緒に連れて来てエルニアン王宮に引き渡したので、近々動きがあると思いますよ」
「マイク? まさかそんな……」
二人は青い顔をして口をポカンと開けたまま動かなかった。
「では、私はメアリともう少し踊ってこよう」
王太子がそう言って肘を曲げると、ベアトリスは
「はい、アーニー殿下」
と言って、その肘に手を入れた。そして、去り際に
「ごきげんよう、デボラお姉様。私、ガードナー王国で幸せになります」
そう言い残してデボラとドナルドに背を向けるとフロアの中央に去って行った。
「やっぱり……ベアトリスだったの……」
デボラは足の力が抜けて床に座り込んだ。ドナルドは、焦ってデボラの腕を掴んで立たせると、
「やばいぞ、早く帰って金目の物を持ち出して遠くへ逃げよう」
そこへ王宮付きの兵士がやって来た。
「デボラ・アランソン伯爵、およびドナルド・リンジー。ベアトリス・アランソン殺害未遂とマリアンヌ・アランソン殺害容疑で身柄を拘束する」
「違うわ、私はやってない。やったのはこの男よ!」
「何だと? ベアトリスの背中を押したのはお前だろう!」
「違う違う! こんなはずじゃなかった! 私よりあの子が幸せになるなんて!」
叫び声を上げて二人が連行されて行くのを背中で感じながら、ベアトリスはアーニーの腕をギュッと掴んだ。
「大丈夫か? メアリ」
「ええ、アーニー。大丈夫よ。あなたから話を聞いた時はまだ記憶が戻っていなかったけれど……顔を見て全て思い出したわ。私を崖から突き落としたのは、あの二人です」
アーニーは立ち止まり、ベアトリスの顔を見つめた。
「たった一人の姉だけれど、母を殺したことは許せない。私は今日限り、ベアトリス・アランソンとしての人生を捨てます。これからはメアリ・ペンブルックとして、そしてあなたの妻としてガードナー王国で精一杯生きていきます」
「メアリ。君が幸せに生きることがお母様の何よりの喜びだろう。私が必ず幸せにする」
「アーニー、ありがとう……愛してるわ」
後に、ガードナー王国史上一番の名君と謳われたアーネスト王とメアリ王妃は、一生を仲睦まじく幸せに暮らしたという。
お読みいただきありがとうございました!
番外編「プロポーズ、そして。」も投稿しておりますので、よろしければそちらもお読み下さい!