魔女が絶望した日
深い、深い森の奥に一人の魔女が住んでいました。
長く、艶のある黒髪に、白雪のような肌。真っすぐ、すらりと伸びた体。魔女はとても美しい外見をしていました。
そして、魔女はとても強い魔女でした。魔女はどんな魔法でも使えます。魔女は、自分にできないことは何もないと思っていました。
魔女はいつも、自分のやりたいことだけをやっていました。時に傷ついた動物を癒し、時に森を焼きました。人間は嫌いでしたから、森に入ってきた人間は殺していましたし、近くの村や、遠くの国を理由もなく滅ぼすこともありました。
そんな魔女でしたから、魔女のいる森に、何度も戦士や魔法使いが送り込まれました。ですが、誰も魔女には敵いません。みんな、魔女の魔法の前に屈し、殺されました。
魔女は、彼女を知る人々に“森の魔女”と呼ばれ、永い間、恐れられていました。
*
魔女は退屈していました。何をやっても面白くないのです。森はずっと昔から変わらないし、退屈しのぎに人間を襲おうにも、魔女の顔を見ただけで、諦めて、神とやらに祈るのです。
魔女は不老不死でした。だから、森をいじくりまわしたり、人間を殺したりするのにも、もう飽きてしまっていたのです。
ですがある日、森に一人の青年が入ってきました。何百年かぶりの侵入者でした。久しぶりのことに、魔女は驚き、喜びました。森に恐ろしい魔女がいることは、赤ん坊でも知っています。それでもなお入ってくるということは、きっと、魔女を倒しにきたということです。
さぁ、どのようにして殺してくれよう。動物に変えていたぶってくれようか。それとも魔法で四肢をゆっくりと焼き消してあげようか。
魔女は残酷なことばかり考えながら、青年が魔女の家の前に来るのを待ち、青年が扉の近くまで来た時、家の扉を開け放ちました。
「よくぞ来たな、男よ。ここが“森の魔女”の住処と知ってのことか!」
魔女が言いました。すると、魔女は不思議なものを見ました。
これまで魔女と相対した人間たちは、魔女を見て怯えるか、にらみつけるかでした。けれど、目の前の青年は違ったのです。
「あぁ、貴女が、魔女か」
青年は魔女の顔を見て、怯えるでもなく、にらみつけるでもなく、ほっとしたような、笑みを含んだ顔をしたのです。そんな顔をされたことが初めてで、魔女はひどく戸惑いました。
「なんだその顔は」
魔女は言いました。
「男。お前は私が恐ろしい魔女であると知っているのか。出会った者全てを殺す“森の魔女”だと」
「知っているさ」
青年は言いました。
「魔物よりも、魔王よりも恐ろしい魔女。俺は君に会うために、ここまで来たのだから」
「そうか。ならばよい」
変わらず笑みを浮かべる青年は、いっそ気味が悪くありましたが、魔女は虚空から杖を取り出して言いました。
「死ぬがよい」
「俺は死なないよ」
青年は、腰に差した剣を抜いて言いました。
「俺にはまだきっと、やらねばならないことがあるのだから」
青年の剣は、黄金色に輝いていました。魔女はある噂を思い出しました。黄金色に輝く剣を持った“勇者”の話を。
数年前に突如として現れた魔王。魔王は魔物と呼ばれる異形の化け物を産み出して、たくさんの人間を殺したそうです。
そして、その魔王を殺したのが黄金の剣を持った勇者だったという話です。
少しは楽しめそうだ。魔女は数百年ぶりに、顔に笑みを浮かべていました。
*
戦いは三日三晩続きました。勇者は魔女の魔法をことごとく剣で切り捨てて、魔女の勇者の剣をことごとく魔法で防ぎました。荒れ狂う炎の嵐と、空を覆う絶壁の大地と、光を喰らう漆黒の闇と――全てを斬る黄金色の剣。激しい戦いは、森を消し、それどころか離れた場所にあった大きな街にまで広がりました。
長い、長い戦いの末に、決着はつきませんでした。魔女と勇者は焼け焦げた大地の上で、肩を震わせて息をしていました。
「お前は強いな」
魔女が言いました。
「こんなに強い人間は初めてだ」
「俺も」
勇者が言いました。
「魔女がこんなに強いとは思わなかった。魔王よりも、ずっと強い」
「名前は何という」
魔女は尋ねました。魔女は、名前を尋ねた自分に驚きました。名前を聞くなんて、今まで一度もしたことがなかったからです。
「名乗る名前はない」
勇者が言いました。
「俺はただの勇者でいい。それに――」
勇者は言葉を続けようとして、首を横に振りました。魔女はその様子に首を傾げましたが、勇者の唇は固く結ばれていました。
魔女は言いました。
「これは提案なんだが、勇者よ。私と一緒に暮らさないか」
勇者はとても驚いた顔をしました。
「お前はとても強い。私とこれほどまでに対等に戦える人間は初めてだ。私はお前に興味がある」
魔女は杖で地面をたたきました。すると、二人の戦いで焼け野原になっていた大地に潤いが満ち、木々が生えてきました。
あっという間に、森が元通りになり、魔女の後ろには、三日前にあった家よりいくつか部屋の増えた家がありました。
「どうだろう」
魔女は少しだけ緊張していました。魔女は今まで、人間から受け入れられたことはありません。魔女は今まで、人間を受け入れたことはありません。魔女はずっと一人で生きてきたのです。
もし、勇者が魔女の提案を断ったなら。それを思うと、魔女は怖くてたまりませんでした。
「いいよ」
けれど、勇者は言いました。
「俺も貴女に興味がある。俺なんかでよければ、一緒に暮らそう」
こうして、二人は一緒に森で暮らすことになりました。
*
それからの日々は、魔女にとって何もかもが初めてのものでした。
一人で気ままに、孤独に過ごすのではない、誰かが隣にいる日々。それは、魔女が思っていた以上に満ち足りていました。
始めは決して仲がよかったわけではありませんでした。勇者は優しくもありましたが、わがままで、小意地なところがありました。魔女も偏屈で、何より人間の心というものを分かっていませんでした。
くだらないことで何度もケンカをして、何度も仲直りをしました。ケンカが過ぎて、魔法と剣を交え、殺し合うこともありました。何度森が消えたか分かりません。しかし最後には二人で笑い合いました。最初はただ同じところに住んでいるだけの二人は、いつしか手をつなぐようになり、心すらもつながるようになりました。
誰かとともにあることは、とても幸福なことであると、ようやく魔女は知ったのです。
いつしか、魔女と勇者は殺し合うことがなくなり、剣と魔法ではなく、言葉と言葉ばかりを交えるようになりました。森の中に生きる動物たちをベランダから眺めていると、穏やかな気持ちになれました。勇者の冒険の話を聞けば、心がときめき、魔法の話を勇者にすると、誇らしげな気分になりました。
魔女は満ち足りた日々を送りました。これまでにないほど、あっという間に、時は流れます。そして、魔女は気づくのです。
人は老い、死ぬということに。
魔女は不老不死でした。いつ生まれたかは覚えていません。どのくらい生きたかも、覚えていません。気の遠くなるような長い時間を生きてきました。
勇者は不老不死ではありませんでした。黄金色の剣を持ち、魔女と同じくらいの力をもつ彼でしたが、寿命までは同じではありませんでした。
勇者の髪はやがて白くなり、顔にはしわが増え、気が付くと、ベッドで横になっていることが増えていました。起きているより、眠っている時間が増え、言葉も減り、剣を握ることすらなくなりました。
魔女はいつまでも若く美しいままです。美しいまま、ともに老いることができませんでした。
いずれ勇者は死に、魔女は一人になる。気が付いたのは、勇者が病に倒れ、何日も目を覚まさなかった時のことです。
魔女はその事実に嘆き、悲しみました。勇者のベッドのそばで、生まれてこのかた、流したことなどなかった涙を流しました。
その時、勇者が目を覚ましました。勇者は、涙を流す魔女の頭に、しわくちゃの手を乗せ、ゆっくりと言いました。
「悲しまなくていいんだよ。俺たちはまた出会う。永い、永い時の果て、最期の、最期の時に、また。だから」
またね。そう言って、勇者は息を引き取りました。
魔女は嘆きました。勇者を失ったことを知り、絶望したのです。
これが、魔女が絶望した、最初の日でした。
*
勇者を亡くした魔女は、三日三晩泣きました。泣いて、泣いて、魔女は気づきました。魔女は、泣きすぎてしわがれた声で言いました。
「そうだ。勇者が死んでしまったのなら、勇者を生き返らせればいい。そうすれば、彼とまた会える。またあの幸福な日々を重ねられる」
魔女は杖を取り出して、呪文を唱えようとして、はたと止まりました。
いつもなら、自然と口からこぼれてくるはずの呪文が、出てこないのです。
どうして? 魔女は焦りました。三日たって、勇者の体は腐り始めていました。このままでは、勇者は本当に失われてしまう。
そこで、魔女は気づきました。魔女の魔法は何でもできるわけではないことに。
失われた命を取り戻す、そんな都合のいい魔法なんてありはしないことに。
魔女は苦しみました。勇者を知らなかった頃には、こんな苦しみは知りませんでした。幸福を知っているから、人間は苦しむのだと、魔女は知りました。ずっと一人だった頃の魔女は、自分が不幸であると気付いてはいませんでした。それが不幸であると知ったから、魔女は不幸になりました。
ならば、
涙を流す魔女は、勇者と共に親しんだ森を燃やしました。苦しみにあえぐ魔女は、勇者と共に暮らした家を燃やしました。絶望に浸る魔女は、勇者の亡骸を燃やしました。
そして最後に、自分以外の全てを燃やした魔女は、自分の記憶の全てを、消してしまいました。
勇者のことを覚えているから辛いのなら、思い出ごと無くなってしまえばいいのだと。
魔女の流した涙は、炎と共に消えてしまいました。
*
記憶を失くした魔女は、旅に出ました。自分が何者だったのかを探すためです。色々な村へ行き、色々な町を巡りました。
旅をする中で魔女は、困っている人を魔法で助けました。そうしなければならないと、魔女は忘れてしまった勇者から学んでいたのです。
旅の中で、魔女は色々な人間を見ました。他者のために自らを犠牲にする人間もいれば、他者をおもんばからない悪人もいました。平凡な人間もいましたし、天才と呼ばれる人間もいました。魔女は、旅で人間をいうものを知りました。
どれほどの月日を旅していたでしょう。“放浪の魔女”と呼ばれるようになった彼女は、恋をしました。恋の相手は畑を耕す何の変哲もない青年です。真面目なだけが取り柄の人間です。
けれど、魔女は青年の朴訥な性格に惹かれました。屈託ない笑顔が好きになりました。青年も、魔女が不老不死であることを知ってなお、魔女に惹かれました。二人は結婚し、小さな村の片隅で暮らし始めました。魔女は魔法で村を助け、青年は毎日毎日畑を耕しました。
時が経ち、青年は老人となり――死にました。魔女は魔女のまま、美しいままでした。深い悲しみの中、魔女は思い出しました。自分が“森の魔女”であったこと。勇者を失ったこと。全てを思い出した魔女は、再び絶望しました。魔女が絶望した、二度目の日です。
魔女は、自分の記憶を消して、また旅に出ました。
*
それから、幾度も魔女は人間を知って、恋をして、恋と別れて、思い出して、絶望して、忘れました。何度も、何度も何度も繰り返すうちに、魔女は全てを覚えたまま、恋をするようになりました。
いずれ来る悲しみを知りながら、魔女は、それでも人を愛したのです。
時代は流れ、文明は進み、人々は争い、彼女は、変わらず人を愛しました。愛し続けました。けれど、人々は彼女を愛し続けることはできませんでした。
争いの果てに、人々は滅んでしまったのです。
「たった、一人」
荒野の真ん中で、岩に腰掛けた彼女はつぶやきました。その声に応える人は誰もいません。風が砂を舞い上げました。砂が目に入り、彼女は目をつむりました。誰かがいることを期待して目を開けても、誰もいません。
「随分と、久しぶりね」
彼女の目に、そっと涙が浮かびました。ずっと人と共にあった彼女は、独りでいる不幸を思い出しました。独りは辛い。独りは寂しい。それがこれから永遠に続くなんて耐えられない。
不幸でなくなる方法を、彼女は知っています。彼女は人差し指を、こめかみに当てました。魔法で、全てを忘れてしまえばいい。幸福を知らなければ、不幸にならないのなら、忘れてしまえば不幸ではなくなる。
けれど、彼女は魔法を使うことができませんでした。人々を愛したことを、忘れることなんて、彼女にはできるはずがなかったのです。だって、
「私はもう、いろんなことを忘れてしまっている。初めて愛した人は誰だった? どうして私は人を愛するようになったの?」
勇者のことを、彼女は忘れてしまっていました。あれほど、忘れたいと願い、いくら記憶を消しても思い出した勇者のことを、彼女は忘れていたのです。
永い、永い時間は、色々なものを失わせるのに、十分すぎる時間でした。
「だけど覚えている。ほんのわずかにだけど、忘れていない。――永い、永い時の果て、最期に、また出会える」
いつ聞いたのか、どういう意味だったのか、彼女は覚えていないし、分かりません。しかし、と彼女は立ち上がり、真っ白な太陽を見ました。ポケットに入れた懐中時計を取り出し、蓋を開けました。
かつて愛した者の誰かからもらった時計の針は、人々が滅んでもなお、変わらず動き続けていました。
「この世界はもう終わり。だけど、私は人を愛したい……愛した人を、思い出したい」
だから、
彼女は懐中時計を胸に当て、呪文を口ずさみ始めました。長い長い呪文でした。何度も太陽が沈んで昇っても、呪文は終わりませんでした。
彼女は無限に思えた魔力を振り絞り、全霊を賭して唱えました。何度も気が遠くなり、苦しみのあまり、呪文が途切れそうになるのをこらえながら。
長い呪文を彼女が唱え終わった時は、月の昇る夜でした。しかし、呪文が終わるとともに、世界が白み始めました。
時計が逆向きに動き始めているのを見て、彼女はうっすらと微笑みました。
月が反対に沈んで、太陽は逆向きに廻り出し、どんどん、どんどん速くなっていきます。世界は光に包まれて、風は流れて、人の声がして――
彼女は、気を失いました。
*
目が覚めた時、彼女は薄暗い城の中にいることに気付きました。体を起こすと、近くに化け物がいることに気付きました。
「ナニモノダ。キサマ!」
「今は……」
いつだろうか。彼女は立ち上がると、体がひどく重いことに気付きました。視界の端に映る髪が真っ白になっていました。手から白雪のようだった手はわずかにしわが目立ち、体のあちこちが痛みます。
「あなたは……何」
「シツモンヲシテイルノハワレダ!」
人型に骸骨や角や獣を混ぜ合わせたような化け物は、いら立った様子で手にした剣を振りあげます。彼女は剣を久しぶりに見て、目を丸くします。
「モウヨイ! シネ! マオウタルワレノカテトシテヤル!」
「そっか。私は」
魔王。バチンと、記憶がはじけて、彼女は思い出しました。勇者のことを。彼と過ごした始まりの幸福な日々のことを。彼と交わした言葉の数々を。彼を失った悲しみを。
「俺たちはまた出会う。永い、永い時の果て、最期の、最期の時に、また。だから、か。つまり、そういうことだったのね」
振り下ろされた剣を、彼女は指先で止めました。指先から、ほんのわずかに血がこぼれました。口から短い呪文が唱えられます。出てきた魔法の炎は、魔女が思っていたよりもずっと弱々しいものでした。
「老いている。私が、ならば、ようやく」
彼女の胸に、じんわりと喜びが湧いてきました。魔王は、弱々しいと彼女が思った、強烈な炎で焼き尽くされました。
この時代で、多くの人々を殺した魔王は、あっけなく殺されました。
残ったのは、人を愛した女だけでした。
城の外から、物音がしました。誰かが城の中に入ってきます。黄金色に輝く剣を持ち、彼女をにらみつけている青年を見て、彼女は息を飲みました。
「お前が魔王か!」
青年は――勇者に、彼女は背を向けました。泣いていることに気がつかれたくなかったからです。
まずは名前を聞かないといけないな。勇者はずっと、名前を教えてくれなかったから。彼女――魔女は思いました。魔女はもう、絶望はしていませんでした。
絶望は絶たれ、希望が、目の前に立っていたのですから。
魔女はほっとしたような笑みを浮かべ、杖を虚空から取り出して言いました。涙をこっそりとぬぐい、まだ幼さすら感じさせる勇者に向かって、魔女は言いました。
「いかにも。よくぞ来たな勇者よ。ここが魔王の城であると知ってのことか?」
魔女が絶望した日 終わり
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