千の小鳥
ここは月の主、ツクヨミ様の統べる夜の月。
そしてお側には、銀毛と星空色の瞳、十二兎の月兎たちが仕えています。
くん、くんくん、くんくんくん……
その朝、銀兎は目よりも鼻が先に起きました。
「ふあぁ、いいによい」
ふわふわした心地のまま、寝床を後にします。うっとりする香りは、下に行くほど濃くなるようでした。
広間の扉を開けると、そこはとろりとした甘やかな香りが充満していました。
「白兎、白兎、どうしたの? 」
大きな食卓で突っ伏した白兎は、いくら揺すっても目が覚めませんでした。体もふにゃりとして、銀兎が揺すった勢いで、だらりと椅子から滑ってしまいました。
銀兎はいつもと違う白兎を心配して、他の月兎たちを呼びました。
「ほーい、みんな朝だよ、目を覚まして! 」
月兎の呼びかけで、みんなを呼ばわりました。しかし、一向に返事がありません。
あわてて十六夜の塔の部屋という部屋を、探し回りました。
すると、どうでしょう。月兎たちはそれぞれの部屋で、白兎と同じように、力なく倒れていました。
何が起きているのか、銀兎には分かりませんでした。
いつもと違うと言えば、この香りでしょうか。
まるで水の中にいるように、まったりと濃厚な香りが銀毛に染み込みます。銀兎が何気なく腕をなめると、ビックリしました。
「……、あまい! 」
鼻から抜ける香りは、熟した果物のそれでした。
「なんだろ、ぼく知ってる」
そして胸のあたりが、ほわーと熱くなって、気分がふわりと軽くなりました。
くん、くんくん、くん。
銀兎はまた鼻を鳴らして、香りのする方へ、濃い香りの中へ、魅かれていきました。
十六夜の塔を出て、月の原の月光草を掻き分け、月待ちの丘を越えて、どんどん進んでいきました。
ふんふんふん、ふん、ふん。
甘い甘い香りが、ますます深くなり、周囲に目をやれば、見知らぬ森の中にいました。
鼻を鳴らしながら奥へと進むと、大きな梅の木が新緑をまとっていました。
花の時期はとうに過ぎてしまったのに、どうしてこんなに良い香りがするのだろう。
その梅の木の根元には、黄金色に熟した実が、たくさん落ちていました。銀兎がその実をひとつ拾うと、くちゃりと崩れました。そして甘い香りが立ち昇りました。
チチチ、チ、チチチチチ……!
遠くから小鳥のさえずりが聞こえます。それは近づくにつれて、十羽、五十羽、百……、いえ千羽の鳥、千鳥になりました。
群れはぐるぐる周りながら、高く低く梅の大木の上を跳び回りました。小鳥のはばたきに、辺りには小さな旋風が生まれ、芳醇な香りを空に撹拌しています。
香りの中を旋回する千鳥が、一羽、また一羽と梅の木の根元に降りました。パタパタと次から次へ、梅の大木は落果した実の代わりに、千鳥が鈴なりです。
銀兎は千羽の千鳥が、同じ動きをするのが不思議でなりません。
チチチチチ、ピチチチ……
好き勝手な会話のような大騒ぎ。そして梢から数羽転がり落ちると、後を追って残りの千鳥も続く。そして甘い香りに足を取られ、ヨチヨチと地面を走り回った。
黄金色の梅の実は、千鳥に踏まれ、とろりとした果肉から滴る水分が、いくつもの水たまりを作りました。
そして、その水たまりに嘴をつけ、一心不乱に味わっています。
ピチュピチュピチュ…… チュピピピ!
千鳥の声も陽気に、軽やかに、歌い始めました。
その声があまりにも楽しそうで、銀兎は思わず群れに続きました。銀兎も浮かれていましたので、千鳥の歌をまねました。
「ちゅぴ、ちゅぴ。ちゅちゅ…… ぴーーッ! 」
バサバサバササササーーーーっ!!
急に現れた侵入者に、千鳥は一斉に飛び立ってしまいました。
ぽつんと取り残された銀兎は、夢から覚めたように目をしばたかせました。
「あれ……、ぼく、なんか間違えた? 」
銀兎の足元は、熟れた果実の水たまりに浸かっています。
くん、くん、ふんふんふんふん…… ああ、いいによい。
それは程よく熟した梅の果実酒の香りでした。
銀兎は、ひとすくいの果実酒を、美味しそうに飲み干しました。