赤い鱗と白い花
――綺麗な花ですね。何という花ですか。
「夜顔といいます」
――何処で買ったんですか。
「人に、種を貰いました」
私の生まれるずっと前から、世界の調子は悪いままだ。
オゾン層の破壊は納まったけど、まだまだ層は薄い。
原子力発電は世界中でストップしたけど、漏れた放射能のせいで、生物はおかしくなった。
異常気象も、昔ほどではないが続いている。
世界はきちんとしたものを、生み出すことが下手になった。
だから、私がその子を見た時、「そう」なのかな、と思った。
「変異体」そう呼ばれる人たちは多い。世界の調子が悪いせいで、人間以外の(魚類や両生類、爬虫類などの)生物の特徴が、体に現れた人たちはそう呼ばれている。彼らは半世紀ほど前から数を増やし、今や、世界人口の三分の一を占めている。
カシャッ カシャッ
まだ暑さを残した風が、赤く色づいた木々を揺らしている。
人気の無い、静かな森の中でカメラのシャッター音を響かせていると、静寂を壊しているようで何だか申し訳ない。
そして、薄いカーディガンから伸びる腕に、赤を見つける度ひどく不思議な気持ちになる。
一週間前、左の腕と右の太腿、腰に金魚のような、赤い鱗があるのを見つけた。
「魚の変異体ですね」
専門病院で言われた言葉だ。
「大体、分かってはいたけどね(カシャッ)」
変異体は、私の周りにも沢山いたから大して珍しくは無いけれど、いざ自分がなってみると、それはひどく奇妙な感覚だった。彼らも、なったばかりの頃はこんな感じだったのだろうか。
森の奥へ進んでいくと、より一層、静寂が濃くなった。此処には何回か来たことがあって、前に来たとき、湧き水が水溜りのような、小さな池を作っているのを見つけた。きっと今の季節なら、水が赤く染められているだろう。
カシャッ カシャ
池に降り注ぐ木漏れ日を撮りたくて、池から少し離れた木々の隙間から写真を撮った。
いいでき。カメラの、小さな画面に映ったものを見て心の中で呟く。
けど二枚目を見て、少し疑問を感じた。
この色何?
画面の隅に、「白」が写っていた。
ゴミかな、そう思い、それがあるはずのところに近づいていく。こんなところまで人が来て捨てていったのか、風で運ばれたのか、とりあえず持ち帰って捨てようと思った。
けれど違った。
それはゴミなんかじゃなくて、「花」、正確には花の蕾だった。
初めて見た花だった。
花屋にあるような、食いつくような色ではなく、もっと淡い・・・夕日が沈むときの、橙と白のグラデーションの境目みたいな、そんな色。
ゴミだと思ってごめんなさいと言いたい。
それにしても、花というのは・・・
「人に咲くの?」
その花は人に咲いていた。「人」といっても、小さな女の子だ。大きな木の幹にもたれかかり、小さく寝息を立てている。
きっと、彼女も変異体なのだろう。植物の変異体なんて聞いたことが無いけど。
彼女の右腕と左の太腿から伸びている蔓には、いくつもの葉と、蕾がついている。そして、あたりにはひどく甘い匂いが漂っていた。
撮りたいな。この子を。
起きたら聞いてみよう。
* * *
目を開けると、女の人が池の写真を撮っていた。
空には橙と白のグラデーションがかかっていて、木のシルエットが浮かんでいる。
しばらくボーっとしていると、女の人がこっちに来て、服が汚れるのも構わずに地面に座った。
「おはよう。はじめまして」
――おはよう。
唇だけ動かしてそう言う。それを見た女の人は、喋れないの?と聞いた。
私は、花を傷つけないようにゆっくりと頷く。
その人は、「そう」と言うと暫く黙っていた。
「蕾、一つ開いたよ。これは、夜に咲くんだね」
私の腕を見て言った。見ると、昨日までは閉じていたものが一つ、開いている。
「あなたは明日もここにいるの?」
――・・・いる。
「じゃあ、明日また来るね」
そう言って、森の外に消えていった。
その人は、本当に次の日も来た。
「写真を撮りたいの。あなたの写真を」
昨日と同じように、私の前に座って言う。
――何で?
「さあ。撮っちゃだめかな」
――・・・だめ。
「そう」
その人の眉が悲しげに、少し歪められた。
「ねえ。あなたはいつ、ここにいるの」
いつ、と聞かれても困る。だって私は、多分ずっとここにいるから。
――ずっと。
「じゃあ、また来るね」
それだけ言うと、また森の外に消えていった。
* * *
少女について、分かったことは五つある。
日中は絶対に目を覚まさないこと。
食べ物は一切口にしないが、水はきちんと飲むこと。(気まぐれに、私が池の水をかけてやるとひどく喜んだ)
少女に咲いている花は、成長していること。
花の名前は、「夜顔」ということ。
植物の変異体は、他に例が無いということ。
これらの事が分かる頃には、風はだいぶ冷たくなっていた。
「おはよう」
彼女の唇が、おはよう、という言葉を形作る。
花はだいぶ成長し、左目と右脚、口を残して、その小さな体の殆どを覆っていた。
蕾、一つ開いたよ。起きたときにそう言うと、彼女はいつも喜ぶ。けど、今日は何の反応も無かった。かわりに、パクパクと唇を動かし続けた。
「何?」
ヒューヒューと、彼女の口から空気が漏れる。
「とっテ」
初めて聞いた彼女の声は、ひどく上擦っていた。
「撮って、いいの?」
そう聞くと、「いいよ」と言うように、ゆっくりと瞬きをした。
カシャッ カシャッ
写真を撮っている間、彼女は眠ったように動かなかった。
夕顔は、薄暗い中で光を放っているように、誇らしげに咲いている。
沢山のシャッター音を響かせた後、私は、また来るね、と言って森を出た。
* * *
あの人、とても驚いた顔をしていた。当たり前だろう。ずっと、写真は撮らせなかったんだから。
あの人は、いい人だったのかな。変わった人だったのかな。
多分、両方だったのだろう。
私が起きる前からそこにいて、いつも「おはよう」と言ってくれた。
こんな、変な状況の私をまったく気にしなかった。
あの人の鱗、綺麗だったな。
きっとこれが最後だから、種をあげよう。
さようなら。
* * *
いつもの場所に、彼女はいなかった。かわりに、「種をあげる。鱗を頂戴」という文字があった。そして、茶色に枯れた夜顔の葉と、親指より少し大きい種が、沢山転がっていた。
夜顔は夏から秋に咲く、一年草の花だ。
ひょっとしたら彼女は、夜顔と同じように秋までしか生きられなかったのかもしれない。
「いいよ。鱗をあげる。種、貰っていくね」
太腿の鱗を、一枚一枚、種と同じ数だけ剥がしていく。鱗以外の赤が滲んだ。
「さようなら」
私は鱗を、彼女がいつも座っていた場所に埋めた。
来年、夜顔の種を一つ、此処に埋めよう。