019 そう、その調子だ、あと少しで私までたどり着く
瓦礫の嵐が、ワタシの体を粉々に砕かんと迫る中、時間はゆっくりと進んでいきます。
死を前に猶予を与えてくれているのでしょうか、景色がスローモーションで見えます。
しかし体は等倍速、音速で接近する岩の塊を避けることはできそうにありません。
お姉ちゃんは必死で『逃げて』と叫びましたが、ティンクルなる女性との距離は遠くシャドウステップで背後を取ることもできず。
だったらお姉ちゃんの背後に移動すれば――と思っていると、彼女はあろうことかワタシの前に立ち、鎌を両手に握りました。
庇うつもりなのでしょうか。
組織の幹部が、ワタシなんかのためにそこまで……なんて、どうもまだ執行者のことを甘く見ていたようです。
「アーシャはやらせないっ、おぉぉおおおおおおおおッ!」
お姉ちゃんは自分の目の前で鎌を高速回転させました。
その勢いは、周囲の風をかき乱し、近づいてくる瓦礫を衝撃はだけで砕くほどです。
あっさりとティンクルの攻撃を防ぎ切ると、すかさず彼女に斬りかかりました。
「づぅっ……★ どういうつもりぃ?★★ イレギュラーを守るとかー★ 執行者にあるまじき行為なんですけどー★★★」
「ティンクルだって話は聞いていたでしょう! あの子は善性イレギュラーよ、敵じゃないわ!」
「そんなものティンクルどうだっていいしー★★★ 大体、なに“善性”って。イレギュラーなんて無条件で悪だと思いまーす★★★」
「だったらアールマティも使うなっての、このわからずやっ!」
ガゴンッ、ガゴンッ、ズガガガガァッ――
槌と鎌が打ち合うと、冗談のように重く大きい音が、夜の街に繰り返し響き渡りました。
一撃の威力もさることながら、その動きの素早さもかなりのものです。
正直、夜で視界が悪いのも原因かもしれませんが、お姉ちゃんの刃の動きを目で追うことすらできません。
一方でティンクルのステッキも、お姉ちゃんには速度で劣るものの、あの巨大さからは考えられない速さで周囲の大気をかき混ぜながらぶん回されています。
しかしうるさすぎて、暗殺もへったくれもあったものではありません。
じきに異変に気づいた街の人たちが集まってくることでしょう。
「この街にはっ、別にやばいイレギュラーがっ、いんのよっ!」
振り下ろし、なぎ払い、切り上げ――お姉ちゃんの鎌の恐ろしさは、単に斬撃の鋭さだけではありません。
刃が空を切ることで一時的に生じるカマイタチにより、さらに威力が上乗せされるのです。
そんなの物理学的にありえないと言われても、実際にティンクルの背後の地面には斬られたような痕が付いているのですから、否定しようが無いでしょう。
スキルなど使わずに、技と力で超常現象を引き起こす――それが執行者の恐ろしさでもありました。
「ティンクルはぁっ★ そんなことどうでもいいからー★★ イレギュラーを殺したいんですー★★★」
「そろそろ戦闘狂を気取ってないで、年相応に落ち着きなさい、二十代後半っ!」
「はははっ★★ ちょっと若いからって調子に乗るなよぶち殺すッ!!」
今度はティンクルが攻勢に出る番です。
彼女の振るう槌――もといマジカルステッキによる攻撃も、ただの殴打ではありません。
鎌の刃にインパクトする瞬間、その速度と威力を前に逃げ場を失った空気が押しつぶされ、終いには弾けて、相手にさらなる衝撃を与えるんです。
それによって受け止めるお姉ちゃんの腕に負荷がかかるのはもちろん、爆ぜた空気は細かい刃となって飛散し、服や肌を傷つけていきます。
「おらおらおらおらァッ☆ 押されてるよぉ?☆ 弱っちいよぉ?☆」
「強い……これが年の功ってやつね!」
「そう何度も似たような挑発を繰り返して通用――するんだよねー★★★ 叩き潰ぅぅぅぅぅすッ! マジカルッ、エクスプロォォォォジョン!★★★」
ティンクルの両腕に血管が浮き上がり、強烈な一撃が再び地面を叩きました。
ゴバアァァァッ! 地面が数メートルの深さまでえぐられ、大地を構成するあらゆる物体が天高く舞い上がっていきます。
まるで天地がひっくり返ったかのような光景です。
戦いを眺めながら少しずつ距離を取っていたワタシも、吹きすさぶ風に思わず足を止めました。
巻き込まれたお姉ちゃんは、既の所で後ろに跳躍し回避しましたが、しかしあの距離では被害は免れません。
生み出された爆風が、飛来する小さな石片が、彼女の体にいくつもの傷を刻んでいきます。
「アダマント――」
ですが彼女も防戦一方を受け入れるほど往生際はよくありません。
空中で、体のひねりを加えて鎌を振りかぶります。
無論、無防備になった体には無数の傷が刻まれますが、そんなことはお構いなしです。
「スティグマッ!」
それはまさに、必殺の一撃。
月の形に湾曲した刃が空間を切り裂くと、あまりの切れ味に音すらせず、地面に横一文字の大きな傷が刻まれます。
それは大通りのみならず、そこに面する建物にまで被害を及ぼし、いくつかの民家を真っ二つに両断しました。
「おっとぉ★ 危ないんですけどー★★」
バックステップで避けたティンクルですが、お姉ちゃんの斬撃は彼女の足元ギリギリまで迫っていて、あとコンマ1秒でも動きが遅れていれば命を落としていたでしょう。
「お互い様じゃないっ! 街中であんな大技を使うなんて、どうかしてるわよ! ここに住んでる人たちのことも考えなさい!」
「民家を破壊した人に言われたくはないかな★」
着地したお姉ちゃんとティンクルの距離は5メートルほど。
仕切り直しと言わんばかりに二人はにらみ合いますが――ぼちぼちと、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが近づいてきつつあるようです。
「見つかったらまずいわ、ここはお互いに矛を収めるわよ!」
「うんわかった、武器は収めるね★」
鎌の刃を収めたお姉ちゃん。
同じようにティンクルもステッキを元の形に戻して――ワタシの方を見ました。
この暗がり、この距離でもはっきりわかるほどに、ばっちりと目が合います。
彼女は白いを歯を見せ楽しそうに笑うと、身軽になった体でお姉ちゃんの頭上を飛び越えました。
「あっ……あんたまだっ!」
ワタシを追いかけるつもりのようです。
あれだけ巨大なステッキを振り回せるのですから、人を殺すだけなら、素手でも十分すぎるほどの威力があるのでしょう。
ですが今のところ距離はそれなりに離れています。
ワタシは可能な限り角を多く曲がり撹乱しながら、ティンクルの追跡からの逃走をはじめました。
◇◇◇
逃げ場所はどこにもありません。
キルシュとメイルの休む宿屋に向かえば、彼女たちが巻き添えになるのは必至。
かと言って適当な建物に隠れても――
「ティンクルさー☆ すっごく鼻が利くんだよね☆ ここらへん、すっごくイレギュラー臭いんですけどー★★★」
超人的な嗅覚で、すぐに探し当てられます。
不安になって思わず自分の体を嗅いでしまいましたが、特に変な匂いはしませんでした。
あれの鼻がおかしいだけです。
「だからいい加減に私の話を聞きなさいっての!」
「ティンクル難しいことわかんなーい★」
お姉ちゃんが足止めをしている間に、ワタシはそこから逃げ出し、また別の隠れ場所を探しにいきます。
ティンクルのレベルは153。
136のお姉ちゃんに比べると明らかに格上の相手です。
とはいえ、その領域まで達すれば18程度の差は技量で補えます。
ですがティンクルもやはり執行者、技術の面でもお姉ちゃんに決して劣るということはありません。
目立つことを避けてか、二人は素手による戦闘を繰り広げていましたが、繰り出した拳の風圧で壁に穴が空き、振り払った足の衝撃で街路樹が真っ二つに裂けていました。
もはや人間のそれとは到底思えません。
あれの方がよっぽどイレギュラーよりイレギュラーらしいと思えるのはワタシだけでしょうか。
しかし、ここからどこに逃げればいいのでしょうか。
街の外に出ても撒ける気がしませんし、かといって宿に近づくわけにもいかない。
逃げ場――いえ、そんなものを見つける必要があるんでしょうか。
ワタシの目的は、夜の間にモミジでは探れない場所で情報を集めること。
無論、人殺しがしたいのは事実ですが、この状況では目立った行動はできませんし、ならばせめてマルス・ジェノスに関する最低限の手がかりは持ち帰りたい。
「いっそ突っ込んでみますか……」
逃げるのが無理なら、攻める。
ワタシたちの敵はティンクルだけではありません。
今はお姉ちゃんと潰しあいをしていますが、本気で相手の命を奪うとも思えません。
それに、本当にヤバいイレギュラーが現れたら、彼女も共闘してくれるはず。
その後どうなるかは知りませんが――今、考えるべきは、現状をいかに打破するか。
「決まりです、行きましょうか」
誰に言うでもなく、ワタシは自分に言い聞かせます。
方向転換。
ティンクルの位置に注意しつつ、向かうは本来の目的地であったマルスの屋敷。
もちろん表から入るなんてことはしません。
屋敷の裏手に移動すると、建物をぐるりと囲む数メートルの塀を見上げました。
上の縁の部分にはワイヤーのようなものが張り巡らされており、等間隔で魔石が配置されています。
おそらく、触れた瞬間に警告が鳴る、あるいはそのものが爆発する類のものでしょう。
今のワタシの跳躍力では突破は不可能。
一旦そこから離れ、周囲の建物の様子を窺います。
さすがに気を使ってか、屋根から飛び移れそうな高い建物はありません。
裏門からの強行突破という手段も考えましたが――そういえば、誰も警備に付いていませんね。
案外行けるかもしれません。
ワタシは木造の門に近づくと、まずは扉に耳を当てて中の様子を探ります。
足音――有り。
しかし人間のものではありません、四足歩行の何か……番犬でも飼っているのでしょうか。
しかも一匹二匹ではなく、複数。
とはいえただの犬なら恐るるに足らずです。
次は扉のわずかに開いた隙間から中を覗きます。
やはり……犬、みたいですね。
視界は不自由でその全体像を見ることはできませんが、確かに普通の犬よりは大きいようで、ただのコソ泥なら食い殺せる程度の力はあるのでしょう。
問題は、ここからどうやって侵入するか……ですが、見えてさえいれば悩む必要もありません。
ターゲットセット。
呼吸を整え、アサシンダガーを鞘から引き抜き、握る。
発動――シャドウステップ。
それは移動ではなく、ワープ。
ならば敵さえ見えていれば、障害物があろうとも問題なく背後に移動できるのです。
「……ふっ!」
犬がワタシに気づく前にアサシンスティングで攻撃、刃をその後頭部に突き刺しました。
【EXP3000 武器EXP3500 を得ました】
あら美味しい。
ですがワタシは、そこで初めて気づくのです。
相手が、犬などではないことを。
「これは……」
半人半獣。
頭は完全に犬で、しかし目だけがまるで人間のような形をしている。
手足は完全に犬化、かろうじて左手の指に人だった形跡が見られるぐらい。
胴体はまばらに、マーブル模様に毛むくじゃらになっている部分と、肌色の部分とが混ざり合っていました。
「ぐるうぅぅぅ……ワフッ!」
他の番犬が異変に気づき、ワタシに吠えてきます。
その姿は先ほど殺した彼と同じく、半分が人、半分が犬。
鳴き声も、犬そのものではなく、まるで人間が犬の真似をしたときのような不自然さがありました。
まだ声帯までは完全に変態していないのでしょう。
にしても――あの魚女もそうでしたが、生きた状態のを見ると、死体とはまた違う気持ち悪さがありますね。
完全に成り果てたのではなく、半端に犬になっているあたりが特に。
「グガァァアアッ!」
どこかで見た犬型クリーチャーのように飛びかかってくるヒトイヌ。
まずはイリュージョンダガーで打ち落とし、
「キャウウゥンッ!」
落ちたところに接近、短剣を突き刺します。
しかし相手はくるりと体を回し避けてしまいました。
さらにその勢いを利用して四足直立の体勢に戻り、バックステップで距離をとって、再び跳躍。
今度は真正面から、ダブルスラッシュで顔面を十字に切り裂きました。
「キャフッ!」
失速、墜落。
ですが普通の人間よりも丈夫なのか、ダブルスラッシュだけでは表面の傷を刻む程度のダメージしか与えられません。
ワタシはさらに落ちてきたところにつま先で蹴りを打ち込み、その体を吹き飛ばします。
「グギャウゥッ!」
口から涎を吐き出しながら苦しげに地面を転がるヒトイヌ。
今度こそ接近し、首に一突き。
急所は人間とさほど変わっていません。
刃を引き抜くとぶじゃっ、と大量の血液が溢れ出し、体毛と地面を濡らしました。
【EXP4000 武器EXP4200 を得ました】
【キャラクターレベルアップ! 54→55】
ワタシはすかさず振り返り、後方から音もなく接近していた別個体を視認。
気づかれた相手は慌てて襲いかかろうとしますがもう遅い。
ターゲットセット、シャドウステップ発動。
アサシンスティングはクールタイム継続中、ここはダブルスラッシュで仕留めます。
背後からの攻撃はやはり目に見えて威力が高く、相手の体は見事に四つ裂きになります。
【EXP3400 武器EXP3700 を得ました】
ひとまず三体撃破。
これではっきりしましたね、イレギュラーを囲っているのが誰なのか。
マルス・ジェノスはクロです。
そして今日を逃せば、おそらく彼はさらに警戒を強めるでしょう。
潜入してしまったからには、可能な限りの情報を集めなければ。
ザッザッザッと地面を蹴る音が聞こえてきます。
それも4つ。
それぞれ別の方向から、異変を察知したヒトイヌが近づいてきているようでした。
ワタシは素早く死体を回収し――ようとするも、なぜかできません。
よく見ると、すでに彼らの傷は癒え始め、呼吸を再開しています。
死体でないからアイテムではない、ゆえに回収できない。
「こいつらも不老不死ってことですか、一匹しかいないんなら磔にして何百回も殺してやれるのに」
ただ獣になっただけでなく、永遠の命まで手に入れたというのでしょうか。
ここで囲まれては多勢に無勢、ワタシは近くにあった窓に接近しました。
そしてアサシンスティングの鋭い一撃で、なるべく音をたてずにガラスを割り、中の鍵を開きます。
足音を殺し、窓から屋内に侵入。
外から見えないよう膝をつき、あたりに敵がいないかを確認します。
そこは長い廊下のちょうど真ん中。
ワタシから見て正面にある壁には、いくつものドアが並んでいました。
等間隔で並ぶ台座の上には様々な芸術作品が置かれており、壁にも絵画が無数に飾ってあります。
ただの商人とは思えないリッチさ。
これら全ては、裏社会で、人の人生を破壊しながら得たお金で集められたものなのでしょう。
つまり殺すだけの理由はある。
またそんな主を許容する手下も同罪、要するにこの屋敷の中は殺し放題ということです。
相応の危険はありますが、加害者になりたいワタシとしては楽しみでなりません。
化物との戦いも、あんなに経験値が入るのなら悪くはないですしね。
外のヒトイヌは中には入ってこないようですし、早速探索を始めましょう。
まずは目の前の扉から。
開くとそこは、どうやら客室のようでした。
高級ホテルを思わせる小奇麗な内装ですが、少しホコリ臭いです、あまり使っていないのでしょうか。
それにしても、これだけの広さなら掃除をする使用人ぐらいいそうなものですが。
ここに手がかりは無し。
次は隣の部屋――と思い扉に手をかけると、足音が聞こえてきます。
ぺたり、ぺたりと、犬とはまた違う音です。
「……魚?」
ワタシがその音から想像したのは、いわゆる半魚人でした。
あの店で見た女性よりもさらに症状が進行していると思われます。
正直、少しがっかりです。
せっかく普通の人間を殺せると思ったのに。
足音が通り過ぎるのを待ち、扉を開きます。
突き当りの角を曲がったその半魚人は、ランプでも手に持っていたのか、道の向こう側はぼんやりと光っていました。
今度は予定通り、隣の部屋に侵入します。
そこは先ほどと似たような客室でした。
ここにも手がかりがないかと思ったのですが、部屋中に異様な匂いが充満しています。
その元をたどると、備え付けられた浴室に着きました。
中には――腐敗し、スープ状になった人間の姿がありました。
もはや生前が男性なのか、女性であったのかすら判別できません。
浴槽に入れっぱなしの水は茶色く濁っており、ハエがたかり、表面には無数のウジが湧いています。
「こんなものまで放置してるなんて。すでに長期間、この屋敷はまともな状態ではないようですね」
薬が出回り始めたのが一ヶ月前ですから、少なくともその前からだったのかもしれません。
でなければ、ここまで腐敗しないはずですし。
死体を観察してみると、首元に噛みちぎられたような傷がありました。
おそらく、あのヒトイヌに食い殺されたのでしょう。
……あまりじろじろ見ていて気分がよくなるものではありません。
ワタシはそっと扉を閉め、部屋から出ます。
そしてまた隣の部屋へ。
今度の死体は、ベッドに横たわっていました。
こちらは顔の肉を尽く食いちぎられ、骨がむき出しになっています。
眼球を失った目のくぼみを蟲が這いずる様は、どこかのホラーゲームを想起させます。
次の部屋も同様に、死体がベッドに寝ています。
しかし今度は微妙に事情が違っていて、骨ごとどろどろに、半液体状になってかろうじて人の形を保っているような状態です。
明らかに普通の死に方ではない。
何らかの薬品、あるいは溶液をかけられ命を落としたか。
この調子だと、実は最初の部屋にも死体があったのかもしれませんね。
つまりここは、悪趣味な棺桶。
死を展示する、誰かさんのアトリエ――ワタシはそんな風に感じました。
そして今度の部屋には、前衛的なアートが用意されていました。
解体された人間の手足が壁に貼り付けられ、日本語を描いているのです――『よおこそ』と。
まるで外国人シンガーが日本でライブをしたとき、パフォーマンスとして日本語で挨拶をするような拙さ。
ここまで来るとイレギュラーの正体もモミジにはわかっていそうなものですが。
扉の外から再びぺたぺたという足音が。
そのまま通り過ぎるのを待とうかと思いましたが、音はぴたりと部屋の前で止まります。
――気づかれた?
いや、そういうわけではなさそうです。
しかし怪しまれているのに間違いはありません。
ワタシは素早く、滑り込むようにベッドの下に潜ります。
そして息を潜め、見回りが終わるのを待ちました。
見える視界に移るのは、やはり人のものではない脚部。
ぺたり、ぺたりと叩くように地面を叩くその足には、“ヒレ”と呼ぶべき部位がありました。
ついでに生臭いです。
あと、足を覆っている鱗は分厚く、あれが全身を守っているのだとしたら、ヒトイヌのように簡単に仕留められそうにはありません。
こうして隠れたのは正解と言えるでしょう。
屋敷内の狭い空間で、複数の敵と対峙するのは得策ではありませんから。
本当は殺したいですけど。
それにしても、こうして一定のルートを見回っているということは、誰かの指示に従っているということになるわけですよね。
肉体がこの状態になった時点で支配されるのでしょうか。
だとすれば――不老不死は餌とも考えられます。
永遠の命が手に入ると聞けば、誰もが食いつくもの。
その場合、多少の副作用は許容するでしょうから。
「イナイ……」
半魚人はそう言い残すと、部屋を出ていきました。
声は人間のものでしたが、発音は怪しく、声も掠れています。
ああはなりたくないものですね。
ベッドの下から這い出ると、今度こそ足音が遠ざかるのを確認して、部屋から出ました。
客間はこれで網羅したわけですが、手がかりらしい手がかりは見つかりません。
お姉ちゃんとティンクルの戦闘はどうなったんでしょうか、まだ素手でやりあってるんでしょうか。
できればお姉ちゃんだけでも来てくれると心強いのですが――ここにいることすら伝わっていないのですから、期待するだけ無駄ですね。
先に進みましょう。
突き当りの角を右に。
奥は行き止まりで、扉が一つあるだけのようです。
半魚人はあちらに向かったはずですから、使用人に与えられた部屋ということでしょうか。
近づいて、耳を当て、中の音を聞き取ってみます。
『ゲッ……ゲッ、ゲッ』
『ギャアァウッ』
『アー……ア、アォ、ゥ、ア』
それが会話なのかは定かではありませんが、動物の鳴き声のような音が響いていました。
となるとやはり、化物たちが集っている可能性が高い。
殺す手段があるならともかく、今は相手にしたくありません。
ですが、ここに集まっているとわかったことは幸いだったかもしれません。
他の場所は手薄になっているということですから。
見回りに出てくる前に、他の場所を調べてしまいましょう。
――屋敷は2階建てで、各フロアはざっくり3つのブロックに分割されています。
今いる客間がずらりと並んだ東ブロック、各種倉庫やマルスの扱っていた商品の置かれた部屋が存在する西ブロック、そしてエントランスや食堂、2階への階段が配置された中央ブロックです。
2階にはマルスの寝室もあります、それだけ警備は厳しくなっているでしょう。
なのでまずは1階の他のブロック――西側の探索を行うことにしました。
商品部屋と、最初に見た倉庫は何の変哲もない、想像した通りの部屋でした。
異変が起きたのは2つ目の倉庫から。
入った瞬間に内側から冷気がぶわっと溢れ出してきます。
肌寒さを感じたワタシは、思わず自分の体を抱くように二の腕を掴みます。
「霊安室……?」
ワタシの頭に真っ先に浮かんだのはその言葉でした。
低い室温に、灰色の無機質なロッカー、そして独特のケミカルな匂い。
室内に踏み込むと、さらに寒さは増しました。
なぜか急に扉が閉められそうな気がして振り向きましたが、人の気配はありません。
しかしそこで気づきました。
外から見ると木の扉だったはずなのに、内側からは鉄製の、しっかりした扉に見えるのです。
部屋も石造りだと思っていましたが、うちっぱなしの壁は世界観とそぐわないような気もします。
何より、一番私の目を引いたのは――部屋の高い場所に飾られた、その旗でした。
「ハーケンクロイツ……世界観もへったくれもありませんね」
要するに、ナチスやらヒトラーやらのあれです。
もっとも、イレギュラー自体が“世界観を壊すもの”なわけで、こういったものが存在していてもおかしくないのですが。
ですがこれで、不老不死をばら撒いているイレギュラーがモミジの世界と関わりのある“何か”だということがはっきりしました。
ロッカーを引き出してみると、そこには透明のカプセルの中で眠る女性の裸体がありました。
内部には緑色の液体が満ちており、これが独特の匂いを発していると考えられます。
「似ているわけではなく、正しくここは霊安室だったわけですか」
死体を何に使うつもりかは知りませんが。
かと思うと、カプセル内の女性はぱっちりと瞼を開きました。
ワタシとばっちり目が合います、これで死んでなかったんですか。
女性は口をパクパクさせて、どうもワタシに助けを求めているようでした。
柄ではありませんが、何か話を聞き出せるかもしれません。
ワタシはカプセルに短剣を突き立て――ですが思った以上に硬かったので、アサシンスティングを発動して穴を開けます。
まだ完全に破壊はできていませんが、全体にヒビが入りました。
ここから少しずつ壊していけば、じきに助けられるでしょう。
穴が開くと、当然緑の液体も流れ出てしまいます。
微妙に粘度のあるそれは、びちゃびちゃと地面を濡らしました。
それにできるだけ触らないようにしつつ、繰り返し、何度も何度も刃を打ち付けます。
穴は次第に広くなり、液体の流出速度も上がり、やがて全てが外に吐き出されました。
これで打ち止めかと思いきや、今度はどこから出てきたのか、赤い液体が足元を濡らしているではありませんか。
「……血?」
匂いも、感触も、紛れもなく血そのものです。
カプセル内の女性の様子を見てみると、目を見開き、先ほどとは別の意味で口をパクパクさせています。
さらに、体はまるでしぼんだように細くなり、皮に皺が寄り、骨格がくっきりと浮き出してきました。
終いには皮すらも剥がれ、骨だけになってしまいました。
「誰かが彼女を助けることを期待してこんな仕掛けを? だとしたら無駄の極みですね、殺すならもっと簡単な方法があるのに」
助けられず悲嘆する誰かの姿が見たかったのでしょうか。
生憎、ワタシはそんなタイプじゃないですからね。
最初から、情報を聞きだしたら殺すつもりだったわけですし。
その後、他のケースに入れられた人々にも同じことを試してみたんですが、全員が骨になって絶命してしまいました。
しかも経験値すら入らないんですよ? 殺し損じゃないですか、まったく。
ワタシは少し不機嫌に退室、隣の倉庫に足を踏み入れます。
先ほどは霊安室、お次は……研究室。
血生臭いその部屋には、さまざまな実験器具や拷問器具、本が置かれ、壁にはお約束のようにハーケンクロイツのペナントが貼り付けられています。
部屋の隅に置かれたベッドの上には、血肉の海に沈みながらも蠢く何かの姿がありました。
近づいて見てみると、それもまた人間。
しかも20代の男性のようです。
腹を開かれ、内臓をくり抜かれながらも、かろうじて生き残っています。
傷跡は生々しく新鮮で、あたかもつい先ほどまで拷問を受けていたかのようです。
「あ……ぁ……たふ……へ、え……」
彼は歯のない口で、必死にワタシに助けを求めます。
ポーションを使えば傷は癒えるでしょう。
ですが――はて、傷口の新しさの割に、彼のそばに置かれた拷問器具にこびりついた血は、すでに酸化し黒ずんでいるようです。
どうにも怪しい。
先ほどの霊安室の件といい、このイレギュラーはとびきり悪趣味で、しかも人の命をおもちゃにするのが趣味のようです。
そこに関してはウマが合いそうではありますが、美意識の乖離が致命的ですから、わかり合うことはないでしょう。
まあつまり、要するに……この男性を助ける義理など無い、と。
ワタシは無言で、むき出しの心臓に刃を突き刺しました。
「ご……ぷ……ど……して……ひと、ごろ、し……」
恨み言を吐いて命を落とす男。
ですが……その割には経験値が入らないですね。
かといって、死んだふりというわけでもなさそうです。
「……もしかして、これ作り物ですか?」
ここを訪れた人間に罪悪感を与えるためだけの、ネガティヴエンタメアトラクション。
こんな阿呆なものに全力を投じる馬鹿がここにはいると。
真面目に探索していたのがバカバカしくなってきました。
もしかしてここにいるイレギュラー、ワタシのことどこかから見てるんじゃないですか?
天井を見上げてみても監視カメラらしきものはありませんが、そんな予感がしてなりません。
つまり――その誰かは、ワタシを待ち受けているということ。
前座の相手をするのは面倒です、ここは手早く、本命と思われる部屋に向かってみましょうか。
ワタシは西ブロックから中央ブロック、吹き抜けのエントランスに移動。
赤カーペットの階段を上り、二階を探っていきます。
目当ての部屋はマルスの寝室。
このフロアからは物音がせず、まるで嵐の前の静けさのようです。
いつからこうだったのか、なぜこうなったのか……本人に聞けばわかるのでしょうか。
一つ一つ扉を開き、引き当てたのは三番目、別に特別豪華というわけでもない、普通の扉の向こうに寝室はありました。
ベッドが、わざとらしく盛り上がっています。
ワタシは大股でそれに近づき、勢いよく布団を投げ捨てました。
そこには――マルスと思われる男の体が横たわっています。
そう、体だけが。
首から上はありません。
視線を感じて振り返ると、棚の上にずらりと、男の頭が並んでいます。
マネキン……と言うには精巧すぎて。
ベッドの隣という位置関係は、ワタシに“予備”という言葉を想像させました。
まさか、あんこを頭に詰めたヒーローでもあるまいし。
ただの悪趣味なオブジェでしょう。
そう判断し、ならば本物はどこかと探し始めたワタシは、
「何を探しに来たんだよ、お前」
どこからともなく聞こえてくる声に、足を止めました。
360度見回しても、誰の姿も見えません。
「ここだよ、ここ」
その男の声がする方を見てみると、一枚の絵が飾られていました。
肖像画です。
しかしそれにしては、やけに立体感があります。
「絵じゃねえぞ、ここで生きてんだよ、俺は」
その口は3DCGのように動き始めます。
「ベッドに縛り付けられたかと思えば、下顎のあたりからメスを入れられて、頭の前半分だけ綺麗に切り取られて、気づけばこの有様だ。笑っちまうよなあ、従えてるつもりが、あいつの手のひらの上で踊らされてたなんてよ」
「あなたは、マルス・ジェノスですか?」
またアトラクションかもしれません。
あるいは罠である可能性も。
しかし彼は、紛れもなくそこに“絶望”という名の、作り物には出せない感情を込めて返事をしました。
「ああ、そうだ。間違いなく、俺がマルス・ジェノス本人だよ」
おそらく彼は、この人外しか存在しない屋敷の中で、最後に残った唯一まともな人間なのでしょう。
面白い、次が気になる! と思っていただけたら下のボタンから評価をお願いします。
感想やレビューもお待ちしてます。
なお作者多忙につき、9月末ごろまでは更新の間があくことをご了承ください。