017 コメディも好きだ、けれど私は血が見たい
メイルを連れてネキスタの宿に到着した一行。
無事にペアの部屋が二つ確保できると、ウィリアは一人建物外に出て、暗がりに身を潜めた。
そして懐から取り出した石に話しかける。
「もしもーし、プロフェッサー、聞こえるー?」
『聞こえてるよ、報告だね。そっちの調子はどうだった?』
「無事調査対象と合流できたわ」
『そうか、良かった良かった、合流……って合流したらダメだよウィリア!』
早々に慌てるプロフェッサー。
よもや彼も、ウィリアが調査対象と直接接触するとは想像すらしていなかっただろう。
『何をやってるんだい、イレギュラーとの不用意な接触は危険だとあれほど!』
「仕方ないじゃない、あの子はアーシャだったんだから!」
『……本人だったってことかい?』
「いいえ、でも本人だった」
『何を言っているんだ、まさかイレギュラーと接触して言語障害でも起きたんじゃないだろうね』
危険度の高いイレギュラーであれば、ただ触れただけで異常が生じることも珍しくはない。
だがウィリアは「違うわ」と即座に否定する。
「私ね、以前からアーシャの中に別の誰かがいるような気がしていたのよ。いえ、そこまではっきりとした認識ではなかったのだけれど……本当に、感覚レベルのもので」
『そんな話をしていたのは知っているよ』
「おそらく、蠱毒内で頭を打ったときに、そちらの人格が出てきたんだと思うわ」
『つまり生まれつきイレギュラーが体内に潜んでいた……ということだね』
「それはどうかしら。確かに彼女は、以前のアーシャにない不思議な能力を手に入れていたわ」
ウィリアはプロフェッサーに、モミジの持つ能力を簡単に説明した。
それを聞けば誰もが、『彼女はイレギュラーだ、それもSランクの』と即答するだろう。
実際、プロフェッサーは一語一句違わず、それと同じセリフをウィリアに伝えた。
だが彼女はそうは思わない。
『その“モミジ”がイレギュラーでないと言うのなら、その根拠を教えてほしいな』
「15年前、この世界である悲劇が起きたことを知ってる?」
『“勇者消失”かい?』
「そう、かつて世界を滅ぼそうとした魔王……その圧倒的な力から人々を守った男がいたわ。勇者と呼ばれた彼は、15年前のある日、忽然と姿を消した」
その時点で、すでに世界は平和を取り戻していた。
平和な世界に強大すぎる力は必要ない。
だから彼が姿を消したのは僥倖だった――そう語る人間もいるが、往々にして勇者喪失と呼ばれるその出来事は、悲劇として語られることが多い。
「私ね、思うのよ。その勇者と、アーシャ……モミジの持っている能力がよく似てるんじゃないか、って」
『……確かに、言われてみればそれもそうだね。けれどそれとモミジがどう関係あるって言うんだい? そもそも彼女は現在11歳だ、15年前の出来事とは何ら関係がない』
「そこまで詳しいことは私にはわからないわよ! でも、同じ能力を持つ人間が、かつてこの世界に存在していたとするのなら――彼女は、イレギュラーの定義から離れるんじゃないかしら」
『なるほど、モミジはそもそもイレギュラーではないと。だから排除しなくていいって、ウィリアはそう言いたいんだね?』
「端的に言うとそうなるわね。何よ、悪い!?」
『開き直られてもなあ……』
通信水晶で相手の表情を見ることはできないが、プロフェッサーが苦笑いしている顔がウィリアの頭にははっきりと浮かんでいた。
『君がそこまで言うってことは、ひとまずモミジに危険性は無いと考えていいんだろう。どう考えてもSランクだけどね』
Sランクが意味するところは――“世界の理を変える可能性有り”。
本来ならば最優先排除対象に指定され、全執行者が全力を以て撃破しなければならない存在である。
だがプロフェッサーはこうも考える。
『Sランクイレギュラーが“善性”――つまり僕ら側に付いてくれれば、今後の作戦に大きな益をもたらしてくれる可能性はある』
「だからイレギュラーじゃないって言ってるじゃない!」
『あはは……そうだったね。ところで、キルシュの方はどうだい? 人畜無害なランクだから問題は無いと思うけど』
「ええ、モミジともうまくやってるみたいよ。嫉妬するぐらいにね! あと、他のイレギュラーも発見したわ。しかも2体の可能性有り」
『また別の? しかも2体って……応援は必要ない?』
「1体は人魚。本人はEランクね、虫も殺せなさそうな顔をしてるわ。けれど彼女の肉が、不老不死作用を与える効果を持っているかもしれない」
『なるほど人魚の肉ね。それはまたとんでもない……そっちもSランクだよ、不老不死が事実なら』
「そう、そこなの。本人曰く、人魚の肉には不老不死を与える力なんて無いそうよ。それに、実際に不老不死になった人間の特徴がただ肉を食べただけにしてはどうもおかしいわ」
『だから別のイレギュラーの可能性、か……でもその話が事実だとすると、2体目のイレギュラーはかなり危険じゃないかな。やっぱり応援が……』
「必要ないわ。応援になんて来たら、あいつら絶対にアーシャまで殺すじゃない!」
声を荒らげるウィリア。
プロフェッサーも、そればかりは否定できなかった。
確かに、命令だろうが何だろうが、イレギュラーなら根こそぎ殺してしまいそうな狂戦士が、執行者にはちらほらいる。
場合によっては、排除対象のイレギュラーより人を殺してしまうことも珍しくはない程に。
「というわけで、こっちは善性イレギュラーの監視を続けつつ、ネキスタに潜んでいる可能性の高い“敵性”イレギュラーの排除を続けるわ」
『一応言っておくけど、その区分はまだ暫定だからね? 履行者にもまだ了承は得てないんだ』
「事後承諾でなんとかするのがあなたの仕事よ」
『無茶が過ぎるよ!』
「よく言うわ、元を正せばその“地潜艦アールマティ”だってイレギュラーじゃない」
『こっちは無機物だから……』
「ブラックボックスだらけで解明もできてないくせにうだうだ言わない! それじゃあ報告終わりっ! もう切るわね!」
『あ、待った、僕にはまだ言いたいことが――』
水晶が微かに光を放ったかと思うと、通信はぶつっと切れる。
ウィリアは会話を終えると、ため息をついた。
「あの状態になると面倒なのよね、プロフェッサーって。にしても、応援なんて呼ばれてたまるもんですか! 特にティンクルなんて来た日には、アーシャを巻き込んで虐殺が起きるのは目に見えてるって言うのに!」
一通り愚痴ると、彼女は水晶を胸元に仕舞い、宿に戻っていった。
◇◇◇
一方その頃、王国の地中を及ぶ地潜艦アールマティにある、ラボ内。
通信を切られたプロフェッサーは、背もたれに体を預けて「はあぁ……」と、ウィリアに負けないぐらい大きなため息をついた。
「お疲れですね、プロフェッサー。はいお茶です」
「ありがとう、アシスタント、いつも助かるよ」
アシスタントと呼ばれた女性は「ふふっ」と微笑んだ。
彼女はその名の通り、プロフェッサーの助手をしている。
いい雰囲気の二人ではあるが、断じて男女の関係ではない。
「執行者には困ったもんだ。能力は申し分ないんだけどね、どうにも性格が……」
「仕方ありませんよ、正しい形による輪廻ではありませんから、どうしても人格に偏りが出てしまいます」
「そこを修正するのが、サンサーラ・アルゴリズムを管理する僕の仕事なんでね。今のところは自業自得としか言えない」
「自分に厳しいんですね、プロフェッサーは」
「ふふ……自分を責めておかないと、あの人たちを説教したところで届かないだろう?」
「あら、自虐的の間違いでしたか」
「そういうこと」
プロフェッサーは笑って、お茶を一口飲み込む。
食道を通り、胃袋で広がる温かさに、少しだけ心が落ち着いたような気がした。
「ふうぅ、アシスタントの淹れてくれたお茶は落ち着く……」
「邪魔するぞー」
彼の安息はいつもそう長くは続かない。
ノックすらせずにラボに入ってきたのは、クラスⅫ執行者の剣豪、クレナイ・シウンだ。
「クレナイ、君がラボに来るなんて珍しいね。何か用事でもあるのかい?」
「あぁ、ティンクルからこのメモ渡してくれって頼まれたんだ。ふぁ……あ。じゃ、ちゃんと渡したからな。俺はもう一眠りしてくるわー」
手をひらひら振って、去っていくクレナイ。
「ティンクルからメモって……何だろう」
プロフェッサーは受け取った二つ折りのメモを広げ、書かれていた文章を読み上げる。
全てを読み終えたとき――彼の口の端は、ウィリアとの通話直後以上に引きつっていた。
◇◇◇
宿の部屋割りは、自然に私とキルシュ、ウィリアとメイルに分かれることになった。
けど、私を“王子様”って呼んでキスまでしたメイルが、そう簡単に部屋割りを受け入れるはずもなく――というかメイル、どうも助けてくれた私にがっつり惚れちゃったみたいで。
なんでも、人魚はとても惚れっぽい種族らしいんだけど、一度惚れると惚れた相手に一途で……うん、他人事だったら『可愛らしい種族だなぁ』で済むんだけども。
そんなわけで彼女は現在、私たちの部屋のお風呂場にいる。
キスで人の下半身が手に入るとは言え、やっぱり水の中が一番楽らしい。
そしてキルシュはあの騒動以降、なぜかやけに不機嫌だった。
「ねえ、キルシュ」
「つーん」
口で言っちゃうぐらい不機嫌だった。
「なんでそこまで怒ってるの?」
「……それは、私にもわからないわ」
テーブル越しに、向かいのソファにちょこんと座るキルシュの姿は、いつもよりも小さく見える。
しかし、それは困った。
どっからどう見ても嫉妬なんだけど、それもそれで困る気がする。
私たち、あくまでお友達……だよね?
「モミジとは友達のはずなのに、どうしてこんな風になってしまうのか、本当にわからなくて」
キルシュも同じ悩みをお抱えのようで。
「私が、メイルとキスしたのが、そんなに嫌だったの?」
「そこは……いや、確かに“いきなりキスは大胆すぎない!?”とは思ったし……“私の方がモミジと知り合ったのは先なのに”とも思ったわ」
それはたぶん、独占欲だ。
しかも、普通は友達に抱かないタイプの。
「キルシュ、私さ……正直言うとね、そこまで好かれる理由がよくわからないんだ」
「待って、モミジ! そこまで好きっていうのは……」
「だって、キスするとこ見て嫉妬したんでしょ?」
「嫉妬ぉ!? ち、ち、違うわよっ、嫉妬ではなく、これはその……キスを先に取られてもやっとしただけで」
「それが嫉妬だよ!?」
キルシュは混乱している。
いや、私もどっこいの状態だけども。
「ううぅ……そうね、そう言われるともう反論できないわ。そうよ、嫉妬よ、確かに私はメイルに嫉妬していたわ」
「そう、それでさ、確かに私もキルシュはすっごく可愛くて、私も好きだし、むしろ私なんかがお友達になっちゃっていいの? っていうぐらい上品で、素敵だと思うよ」
「……ありがとう」
そこで恥ずかしがられると私も恥ずかしい。
でも続けるしか無い。
「でも、まあ出会ってからそんなに長くは経ってないわけじゃん? 助けたのも二回ぐらいで、あとは蜘蛛の姿になったのを喜んだぐらい……」
「待って、モミジ」
おっとキルシュさん、ここで二度目のストップだ。
「“ぐらい”っていうのは、おかしいわ。あれは私にとって、人生観を変えるぐらい大きな出来事だったの」
薄々そんな気はしてた。
でも私は、ただフェチをこじらせただけなんで、それで『人生観を変えた』って言われると微妙に申し訳ない。
「ええ、とにかくあれが一番のきっかけだったわ。あの姿を受け入れてくれた時点で、私にとってモミジは、他の誰よりも大きな存在になってしまった」
「キスしたら嫉妬するぐらい?」
「そう、ね」
「友達じゃ、足りないぐらい?」
「……そう、かもしれないわね」
キルシュの顔はもう真っ赤だった。
まるで好きな人に告白する女の子みたいに。
私の顔も真っ赤だった。
空間に流れるこっ恥ずかしい空気に耐えられなくて。
「友達じゃ足りないとなると……恋人?」
「そ、そそ、それは早急すぎるんじゃないかしらっ! メイルのことだってあるし……」
「メイルは、えっと……まだ出会ったばっかりで」
「でもモミジ、キスされたとき少し嬉しそうだったわよ?」
「へっ!?」
そんな顔を……いや、してたかもしれない。
だって、メイルってこう、スタイルいいし、可愛いし、そこは……なんていうかな、欲望に素直になってしまったというか。
美少女から好意をぶつけられて喜ばない人間はいないというか。
「それが余計に……妬ましくて」
キルシュは、物憂げに目を伏せた。
私の胸が、きゅうっと締め付けられる。
そんな顔をさせてしまった罪悪感が、苦しい。
どうにかして笑顔を取り戻したい私は、とっさに思いついた言葉を口にした。
「じゃあ、私たちもキスしてみる?」
おい、何言ってんだ私。
とっさに何を思いついちゃってんだ!
「……して、みる?」
そして承諾しちゃうキルシュさーん!
ストップ、ストップストップ、これ、マジのやつだ。マジでキスしちゃうやつだ!
しかもメイルのときと違って、お互いに承諾しちゃったやつ!
部屋に甘ったるい空気が流れて、ちらちらと私たちの視線が絡む。
心臓がバクバク高鳴って、膝の上に置いた手のひらが汗ばんできた。
私よ、早く『ジョークでしたー』と誤魔化すんだ、じゃなきゃ本当にキスしちゃうぞ、いいのか?
……。
……。
しまった、思った以上に嬉しい!
これはダメだ、このままだと……あーっ、キルシュが立った! キルシュが立っちゃったよ!
そして私も釣られるように立つ! なんで? なんで理性と別方向に体が動いちゃうの?
歩み寄る私たち、近づくとキルシュの方が身長が高いから私は見上げる形になる。
キルシュの顔は、下から見たって上から見たって全方向美人だ。
しかも今は目が潤んで肌が赤くなってるから、余計に美人に見える。
そのせいでさらに胸のときめきが倍、ハートがパンクしそうになってる。
バクバク言いすぎて、もはや痛いぐらいだった。
「モミジ……」
キルシュの手が、私の手を握る。
そして指と指を絡めた。
もう片方の手も同じように。
いわゆる、恋人つなぎってやつだ。
「全ての“本当”がどこにあるのかはわからないわ。でも、私はわかっているから」
「……なに、を?」
「私を大事にしてくれていること。化物になっても嫌いにならなかったこと。他にも……私にとって大切な、あなたのいくつかの破片。それが、紛れもなく本物だったってことを」
「キルシュ……?」
よくわからない。
よくわからないまま――キルシュの顔が、私に近づいてくる。
あ、わかったぞこれ、ラブコメでよくあるあれだ。
いい雰囲気になって、キスの直前まで行って、くっつく寸前で邪魔が入るやつ。
このタイミングだと、メイルが声をあげるか、ウィリア――もといお姉ちゃんが帰ってくるか、で――
あ、あれ?
帰ってこない、ぞ?
おーい、ふたりともー、もうキスしちゃうよ?
私とキルシュ、友達の一線越えちゃうよー?
私は……私としては……嫌では、ないし、まるで恋でもしたみたいに、心臓ドキドキしてるから、たぶん……キスしたら、そういうことに、なっちゃうと、思うんだけど……。
……あ。
ふにゅりと、唇に体温と柔らかさ。
押し付けられている、触れ合っている、唇と、唇が。
私と、キルシュの。
キスだ。これは紛れもなく、キスの感触だ。
マックスだと思ってた心音が、さらに高鳴る。
全身の血が沸騰したみたいに熱くなって、まるで体が浮かんでいるような気分だった。
体だけじゃない、心も熱を帯びている。
奥底の方でくすぶっていた正体不明の感情が、『今こそ好機だ!』と言わんばかりに一斉に外に飛び出してくる。
あぁ、ダメだ、これ。
こんなの知っちゃったら……友達なんて、越えるに決まってるじゃん。
「ん……ふっ……」
キルシュの鼻息が色っぽい。
気づけば、私も似たような声を出していた。
まるで自分の声じゃないような、というか10歳が出していい声じゃない、いわゆる“濡れた声”ってやつを。
キルシュの腕が私の背中に回される。
私もキルシュの背中に腕を回す。
でも彼女はかがんでるから、うまい具合に腕が回らない。だからしがみつくような形になった。
ぎゅっと体は密着度を増して、さらに唇を押し付け方も強くなって、より近くにキルシュを感じる。
だけど――それ以上を、私たちは知らなかった。
いや、私は知識としては知ってるけど、さらに踏み込む勇気は、まだ流石にない。
でも離れたくないと思った。
できるだけ長い時間、こうしていたいと。
だって……どうせ次にやるときは、またうだうだと理由を付けて避けようとするはずだから。
一線を越えてしまえば楽なのに、そこまでが面倒だ。
だから、越えて、麻痺して、くらくらしている今のうちに、もらえるもの全部、もらっておきたい。
「はふ……ん……」
「ふ……ふ、は……ぷ……んうぅっ……」
自然と腰がくねる。
ただのキスで、私たちの体は信じられないほど高ぶっていた。
そして――
「ただいまー、お姉ちゃん戻ってきたわ……」
おそすぎるストッパー、ようやく帰還。
「……よ?」
部屋の入り口で、お姉ちゃんは私たちの姿を見たまま止まる。
さーっと熱情が冷めて、私は現実に引き戻された。
キルシュもウィリアの姿を横目でちらりと見たけれど……彼女の陶酔っぷりはかなりのものみたいで、元には戻らない。
即座にお姉ちゃんの存在を脳内から消し去り、再び唇を押し付けてくる。
もちろん、そんな状態を見て黙っているお姉ちゃんではなく――
「あ、あ、あっ、あなたたち、私を差し置いて何をしているのよぉおおおおおっ!」
怒号が鳴り響く。
……いや、でも怒るポイントおかしくない?
その後、声にいざなわれたメイルが風呂場からビチビチと現れたり、それでもなおキルシュが顔を離そうとしなかったり、隙を見てメイルが私の唇を奪おうとしていたけど、私は放心状態でよく覚えていない。
◇◇◇
私がようやく正常な状態を取り戻したのは、就寝直前。
暗い部屋の中でベッドに横になり、天井の木目を眺めていたときであった。
蘇る記憶と、唇の感触。
当のキルシュは、私の隣でぐーすか寝ている。
あんなことしたあとによく寝れたな!
でも、前からキルシュってやたら寝付きが良くて、朝は弱いんだよね。
デミイレギュラーの副作用だったりするんだろうか。
因子を埋め込まれたことで常に体力を消耗する状態となり、普通の人間よりも多くの睡眠時間が必要になる、とか。
……うん、現実逃避だよね、わかってる。
「明日から、どんな顔してキルシュと話せばいいんだろ……」
まともに顔が見れる気がしない。
キルシュも、どうするんだろう。
あんなことやっておいて、今さらただの友達とか言えるはずもないし、かといって恋人かと言われると……いや、いっそそれでいいのかな。
ううむ、わからん!
悩んだってたぶん答えはでない、直接キルシュと話してみるしかない。
だから今は寝よう、寝て英気を養おう。
うん、それがいい!
私は決心を硬め、隣にいるのはキルシュじゃない、超美人なかかしだ……! と自分に言い聞かせて、半ば強引に眠りにつくのだった。
◆◆◆
人は、夜の帳に紛れて悪さをするものです。
悪というのは、決まって闇を好むもの。
でしたら、人魚の肉を売りさばくマルス・ジェノスという悪党について探るのも、この時間の方が都合がいいというもの。
どうせモミジでは尻尾を掴むのは無理でしょうし、ワタシが頑張らないといけませんね。
ワタシはキルシュが目を覚まさないようこっそりと布団から抜け出すと、音を立てず窓をあけ、外に飛び降りました。
向かう先は、例のサディスティック・バーがあった裏路地。
思った通り、このストリートは夜になっても眠っていません。
悪趣味な色の明かりがあたりをサイケデリックに照らし、頭のイかれた男や女がスワップスナッフドラッグにと、好き放題狂気に酔っていました。
ワタシはその様子を楽しそうに眺める、露店商に近づきました。
地面に敷かれた布の上に並ぶのは、袋に入れられた白い粉。
ワタシがそれを見ていると、店主はケラケラ笑います。
「お嬢ちゃん、その体なら、こんなイカれたパーティ会場に来るより、金で買ってくれるおじさまを探した方が――」
ワタシは無言でダガーを抜くと、男の肩に突き刺します。
「がっ――」
大声で喚かれる前に、膝で顔面を潰しておきました。
そして痛みに悶え体に力が入れない彼を、ずるずる引きずって誰も居ない暗がりに連れていきます。
「な、なんだてめぇ……!」
「人魚の肉を知ってますか?」
「あぁ? なにわけわかんねぇこと――」
刃を振って、右耳をさくり。
「っ――!?」
声にならない悲鳴をあげたあと、彼は大きく開いた目で、地面に落ちた自分の右耳を目撃しました。
恐怖に歪む顔。
とても愉快で、私は思わず「くすくす」と笑ってしまいました。
「人魚の肉を知っていますか?」
そして繰り返し尋ねます。
彼は必死に首を横に振りました。
どうやらこれは、本当に知らないようです。
でしたら次の質問を。
「マルス・ジェノスは知っていますか?」
「し、知ってる……」
「その方について詳しく聞かせてもらえませんか?」
「いや、それは――」
ワタシは刃を頬にさくり。
外と口内にトンネルを開通させて、ずるりと引き抜きました。
「ひ……ひへ……っ!?」
「その方について詳しく聞かせてもらえませんか?」
舌には傷をつけていないので、ギリギリ話せるはずです。
すると彼はこくこくと頷いて、ぽつぽつと語り始めました。
「ひょ、ひょうにんだ……裏社会にも精ふう、ひへ……くひゅりっ! おれが売っへるこのくひゅりもっ、まるふ様……が、売っへりゅもにょ、ら……」
商人とは聞いていましたが、薬の流通まで握っているんですね。
これはまさに、この街の裏の支配者とも呼ぶべき存在です。
「もっと詳しく聞かせてもらえませんか? 例えば、最近起きた変化とか」
ワタシがにこりと笑ってそう言うと、彼は素直に答えてくれました。
「ほ、ほれは、ひょくせふあっひゃ、こひょ、ないから……くわひくは、わからないひ、が……さいひん、あひゃらしいくひゅり、が……」
「新しい薬?」
「ひゅげえ、あひゃま、ぶっほんへ……れも、かりゃら、溶けて……死ぬ。れも、すげー、きもひいい……らひい」
「使うと気持ちいいけど、体が溶けて死ぬ薬、ですか……麻薬の類にしてはリスキーですね」
元からリスクのある薬ではありますが、それにしたってです。
ですが破滅願望を持っている人間にとっては、打って付けの商品なのでしょうね。
なにせ、くそったれたこの世からサヨナラした上に、最高に気持ちよくなれるんですから。
「ほ、ほかは……にゃにも、ひらない……ほんろうらっ!」
情報は出尽くしたようです。
ならこの人にもう用はありませんね。
「ありがとうございました、参考になりました」
ワタシはにっこりと笑ってそう言うと、彼の下顎の柔らかい部分にダガーを突き刺しました。
【EXP400 武器EXP400 を得ました】
即死のようです。
にしてもシケた経験値ですね、つまらない男でした。
例のごとく死体が見つかると厄介なので、ひとまずインベントリに仕舞っておきます。
処理はモミジに任せておきましょう。
ワタシは立ち上がり、次の情報提供者を探すべく歩きはじめました。
すると、道を塞ぐようにして、空から黒い死神が降ってきます。
巨大な鎌を片手に、ワタシの前に立ちはだかるのは――しつこく“お姉ちゃん”を名乗るクラスⅩ執行者、ウィリア・フロリヴィンダ。
「さっきの、はっきりと見たわよ!」
彼女はいつものように、説教っぽく、けれど優しくワタシに話しかけてきます。
「明らかにモミジとは違う……あなたは誰なの?」
聞かれたのなら名乗るしかありません。
「アーシャ・アデュレア、クラスⅡの執行者です。蠱毒に入る直前以来ですね、お姉ちゃん」
ワタシは丁寧に、頭を下げて告げました。
けれどお姉ちゃんは、不快そうに眉間に皺を寄せています。
「……違うわ。あなたは、アーシャじゃない」
ワタシはそれを聞いて、『それはそうでしょうね』という意味合いで、「くすくす」と肩を震わせ笑いました。