すぐそこにいるのに
「あの、アデリシア?起きていますか?」
再び、とんとんと控え目に扉が叩かれる音がする。
シルヴァールだ。
アデリシアは目を見開いた。強く抱きしめられて、ライアンの胸に顔を埋めている状態で動けない。
すぐそこにシルヴァールがいるというのに。
アデリシアは自分では動くことが出来ずに視線を泳がせた。
「アデリシア、まだ寝ていなければ少し話したい事があるのですが」
優しい響きを帯びたシルヴァールの声が、混乱するアデリシアの耳元に届く。
ああ……シルヴァール副団長。
寝てはいないんです。まだ寝てはいないけど、今ちょっと出られる状態ではないんです。
それもこれもライアン団長のせいで!
なんとか逃れようとするが、ライアンの力が強くて、やはり腕が振りほどけない。
アデリシアはライアンを押しやろうと手の平で胸を叩いた。何度か叩いたためか。ライアンは力を緩めてようやく身を引いた。
急に解放されてアデリシアは足元をふらつかせる。
「アデリシア。ここを開けてください」
シルヴァールの声が静かに届く。
ああ、そうだ。開けなければ。
言葉に誘われるように扉へとアデリシアは向かおうとする。その手をライアンは掴んだ。
「行くな」
「……でも」
「行かないでくれ」
手を引き、互いの指を絡める。
そのまま持ち上げて、ライアンは絡めたアデリシアの手を視線の高さまで持ち上げた。頬へとすり寄せる。
ライアンはそのまま白い手の甲を滑らせ、口元へ引き寄せて口づけた。
「……っ……」
アデリシアは茫然とライアンを仰ぎ見る。
対するライアンは彼女を視線を合わせたまま、唇を離さない。
そのまま愛おしむかのように合わせた指にぎゅっと力を込める。
それでもアデリシアが固まったままなのを見て、ふ、とライアンは薄く笑いを浮かべた。
ちゅ、とわざと音を立てて再び口づける。
「な……っ!」
その音に我に返ったアデリシアが羞恥に赤くなった。手を振ってなんとか指を引き剥がす。
アデリシアは今や感覚が鋭くなった手の甲を隠すようにもう一方の手で押さえた。
「ちょっ……何をするんですか!?」
「うん、手を取ったな」
ライアンはアデリシアの動揺する様子を見て、面白そうに嘯く。余裕の笑みだ。
「ちが……っ!それだけじゃ……ああもうっ!」
アデリシアは首をぶんぶんと横に振った。
信じられない。
こんなの……こんなのってない!
「そのままもっと大声を上げていいぞ。そうしたらシルヴァールに聞こえて、奴がここに踏み込んで来るかもしれない」
「えっ」
「まあ、それもいいな。そんなに動揺して……お前の様子を見たら説明が要らなくなるな」
「説明って」
思わずアデリシアは聞き返した。
「夜遅くに俺がお前の部屋にいる理由、とかな」
ライアンから発せられた聞き捨てならない言葉を遅れて理解して口を噤む。
そもそも動揺させたのは誰のせいだ。それは目の前の不埒な男のせいだそれは。十分過ぎるほどわかっている。
半眼で睨むと、ライアンは大仰に肩をすくめてみせた。そして、ライアンはにやりと笑った。
「なんだ、騒がないのか」
ライアンの言葉には残念そうな響きがあった。
全くこの人は!
自分から窮地を作り出すわけなどないに決まっているではないか。
沸々と怒りが湧き上がるのを感じながら、アデリシアはライアンを黙ったままで強く睨みつけた。
「……アデリシア?」
再びノックと共にシルヴァールの声が届く。
訝しげな雰囲気だ。
「あ……」
アデリシアは目に見えてびくりと震えた。
外に、シルヴァールに聞こえてしまったのだろうか。
「行くな」
「でも」
「ここにいてくれ」
ライアンはアデリシアを素早く抱き締めた。
今度は頭ごと腕の中に抱き込まれる。
心臓がさらに跳ねた。
アデリシアは、先程からどくどくと心臓が壊れそうなほど鳴るのを感じていた。
心音がやけに大きく聞こえる。このままでは壊れてしまいそうだ。身体は動けないのに心臓だけ別のもののよう。
「……また来ます」
しばらくして抑えられた言葉が聞こえ、シルヴァールの気配は遠ざかって行った。
足音が完全に聞こえなくなってから、どちらからともなく息を吐き出す。
「シルヴァールの奴……ここの場所は教えなかったのに」
油断ならないな、とライアンは呟く。
その言葉に再び我に返ったアデリシアは、ライアンの胸元を叩いた。
「だ、だから、離してください……っ!」
「はいはい」
渋々といった体でライアンは力を緩める。
ライアンの腕の中から解放されたアデリシアの顔はこの上もなく真っ赤に染まっていた。
そんなアデリシアの顔を覗き込んで、ライアンは破顔した。
「なんだ、可愛いな。顔が真っ赤だ」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げてアデリシアは聞き返した。
可愛い?自分が?
自分の耳が悪くなったと本気で疑う。
ライアンはこんな甘い台詞を吐く人じゃない。長く近くにいたから嫌と言う程知っている。自分が知っている団長じゃない。
高潔、堅物を地で行っていたライアンは何処に行ったのだ。
ライアンを見れば、熱い視線をこちらへと投げかけていた。慌ててアデリシアは視線を逸した。少し艶を帯びた瞳が直視出来なかった。居た堪れない。
不意に、ここは逃げなければ、いや逃げよう、という気分になった。
最早それ以外に良策はないとしか思えず、アデリシアは狼狽する。あたふたと腕から逃れて後退りしても背後は窓で、冷たく背中に当たる感触がある。
すぐに逃げられない。退路を断っている辺り周到だ。
さすがは団長、と感心する……わけない!
「こんな……」
「アデリシア?」
ライアンが問い返す。
「こんなの……私の知ってる団長じゃない……」
「おい、何を言ってるんだ?」
「いや……っ!」
ライアンが首を傾げながらも手を伸ばそうとしてきたため、アデリシアは仰け反って窓にへばりついた。後ろ手で開いていた窓を探る。
開いていた窓を確認して、身を翻して素早く部屋の中へと逃げる。
中に入ってから、アデリシアの口元が瞬時に引き攣った。
部屋に戻ったアデリシアの視界に飛び込んで来たのは先程まで自分が寝ていた寝台だった。
傍らのランプに照らし出されるのは、少しだけ乱れたシーツの波。
あれ、もしかして選択を誤ったんじゃ……?
アデリシアはごくりと息を呑んだ。
背後を伺えば、元堅物、今や別人のように甘い言葉を吐く新生ライアンの気配がばっちりある。後を追って部屋に入って来たようだった。
これはやばいと思いながら、辺りを見回すと部屋の傍らに置かれた化粧棚が視界に飛び込んでくる。
ーー紫。
香油も入っているんだっけ。
棚の一番上の引き出しをじっと見つめてから、はっと我に返る。
いやいや、どうして!使わないよ!?
アデリシアは自分自身に盛大に突っ込んで、セシリアを心の中で恨んだ。一瞬でも想像してしまったではないか。
頬が燃えるように熱い。
慌てるアデリシアの様子が相当可笑しかったのだろう。くすくすと忍び笑うライアンの声が耳に届く。
だから!一体、誰のせいだと思ってる!
アデリシアは地団駄を踏みそうになった。
「今まで知らなかったな。自分からは平然としてるくせに、逆だとお前は狼狽えるのか」
「………!」
聞こえて来る声が近い。アデリシアは恐る恐る後ろを振り返った。
「逃げる者は追いたくなるという気持ちがよくわかった。それがアデリシアなら尚更だな」
自分の顎に手を当てながら、納得したようにライアンは頷いていた。
全く同意できない。したくもない。
「も、元の団長を返してください!」
アデリシアは悲鳴混じりの声を上げた。
「は?」
「ライアン団長はとても生真面目な人で……だから、こんなことする人じゃないんです!」
「こんなことって?」
「だ、だから、いきなり抱き締めたり、て、手に……」
「手に口づけたりするわけないって?」
言い淀んだアデリシアの言葉をライアンが拾い上げる。
「そうです!その通りですっ」
アデリシアは全力で肯定した。
「それこそ買いかぶりだ。俺だって男だからな。そうしたくもなる」
「は……?」
男だから、と堂々と言い切られても困る。今までの団長なら有り得なかった。
「お前を何処かにやるくらいなら、とは思うぞ」
こんな人知らない。
アデリシアは目の前の見知らぬ男を唖然として見つめた。
投稿したつもりが消えてました。すみません。




