七.草の女神カヤノヒメ
幼き女神チルは大声で叫んだ。
「つっちー、はしるぞ! おにーさんたち、いそいで、ついてきて!」
彼女の言葉が終わるや否や、彼女の乗るツチノコは凄まじい速度で山野を駆け巡っていく!
「なッ…………!?」
スサノオは驚愕した。
先刻までのゆっくりした動きからは想像もつかない素早さだ。
「……驚いたね、スサノオ。あのツチノコ、足があったぞ」
「なん……だと……」
「蛇じゃなく、蜥蜴だったようだ。草に紛れて、足が見えなかっただけだ」
何にせよ、急いでチルを追わなければならない。
彼女から事前に、気配を隠すフキの葉を貰っておいたのが幸いした。
今の状態であれば、全速力で山を駆けたところで、虫人たちには気づかれまい。
ツクヨミとスサノオは息せき切って、ツチノコに乗ったチルの後を追った。
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どれぐらい走っただろうか。
辺りの景色は緑が深くなり、獣道ですらなくなっている。
ツクヨミとスサノオは、チルの背中を追いすがり、いつの間にか──空すら見えぬ、草むらの中に入り込んでいた。
ツチノコの動きが止まり、チルが振り返り、にぱっと笑顔を向ける。
「ついたよ! スサノオ! ツクヨミ!
かかさまー! つれてきたよー!」
チルが元気な声で呼ばわると、草の一本が少女の姿をした神に変わった。
萌える草木の如く瑞々しい、暖かな雰囲気を持つ女神であった。
「──我が娘チルよ。よう連れてきたの」
母親に褒められ、チルは誇らしげに微笑んだ。
「そしてよく来たの、三貴子ツクヨミ、そしてスサノオ。
ワシの名はカヤノヒメ──草を司る女神にして、偉大なる山の神、オオヤマツミの妻じゃ」
古事記に曰く、カヤノヒメは神産みの際に夫オオヤマツミと共に産まれ、数多くの神々を産んだ母として知られる。
しかし今カヤノヒメと名乗った女神は、言葉こそ時代がかっているが、声の調子は少女の姿に相応しい、若々しいものであった。
「貴女が──カヤノヒメ?」
スサノオは間抜けな声を上げてしまった。
無理もない。クシナダヒメの村の社で見たアシナヅチ達は、今のカヤノヒメよりもずっと年老いた姿であった。
今目の前にいる若い女神が、あの老夫婦の土地神を産んだ母親というのだから、面食らうのも当然だろう。
「意外か? 済まぬな、かような色気のない姿で。
この山はの、叢雲のせいで長らく陽の当たる事がなくてな……草の育ちも悪いのじゃ。
それ故ワシもこのような、中途半端な小娘の姿しか取れなくての。我が良神は、もっと肉感的な姿が好みなのじゃが」
カヤノヒメは悪戯っぽく微笑み、品定めするような上目遣いで、二柱の顔をまじまじと覗き込んだ。
「ふふ、そう身構えずとも良いぞ。ヌシらに敵意がない事は分かっておる。
邪心がある者ならば、チルの姿に気づく筈がないからの。
しかもヌシら、チルからフキの葉まで貰っておるな?
随分と気に入られたようではないか」
「かかさま! スサノオたち、チルのこと、てつだってくれるって!
いいかみさま、みつけたら……かかさまのところ、つれてくるってはなしだったよね!」
「うむ、ありがとうな。チル」
「えへへー」
ツクヨミ達はカヤノヒメに、今までの経緯を話した。
八稚女村の人々が毎年、ヤマタノオロチという名の災厄に襲われ、甚大な被害を受けている事。
オロチによる被害は、この山で製鉄を営むオロチを奉ずる一族によって、人為的に行われているであろうと推察し、それを確かめるために山に入った事。
「ヤマタノオロチは、肥川の氾濫と同時に現れます。
氾濫による水害は、毎年拡大する一方です。すでに八つある村の七つが飲み込まれてしまった。
それはオロチの一族が、製鉄に使う原料である砂鉄を採集し、火を燃やすために木々を切り倒してしまっているから……違いますか?」
「確かに……オロチの一族の鉄作りは、尋常ではない量となりつつある」
カヤノヒメは沈痛な面持ちで頷いた。
「我が良神オオヤマツミは、オロチの一族にこの山を乗っ取られ、ヤマタノオロチの『身体』と化してしもうた。
今では余所者をワザと招き入れ、罠に嵌めて迷わせ、オロチの一族の片棒を担ぐような真似までしておる。
その為、山に住む虫たちは、虫人の命令しか聞かぬようになってしもうた──」
「……あのこたち、あたいの、あそびあいてだったの。
でもいまは、はなしかけても、しらんぷり……チル、さびしい……」
やはり山に棲む蛇や蜥蜴たちは、オロチの一族によって操られてしまっているようだ。
「木の神ククノチは本来、荒ぶる雨水を受け、己の糧とする力を持っておった。
しかし今は、オロチの一族に切り倒され、水を御する力を著しく欠いておる。
その結果、今までは問題なかった量の雨水ですら、下流での氾濫に繋がるほどになってしまったのじゃ」
ツクヨミの推測通り、カヤノヒメの言葉通り。
このままオロチ一族の暴走を放置しておけば、山の力は弱まり、肥川周辺の農村は壊滅的な打撃を被る事になるだろう。
そしてそれは──八稚女村の全滅を意味する。
「このカヤノヒメとて草の女神。多少なりとも水を鎮める力はあるが……夫とククノチ、三柱の力を合わせてこそ、山の均衡は保たれておった。
ワシ一柱のみでは、昨今の荒ぶる雨雲を受け入れるにはとても、足りぬ」
草の女神の表情からは、悔しさが滲み出ていた。
彼女の心情を察したのか、チルがとてとてと近づき、心配そうに声をかける。
「……かかさま。どこかいたいの?」
「チル。心配は要らぬ……ヌシは心優しき娘じゃの」
カヤノヒメは微笑んで、チルの頭を撫で──そして抱きしめた。
「しかし……腑に落ちない事があります」とツクヨミ。
「オロチの一族は、近くの農村である八稚女の住民を敵に回して、どうやって食糧調達をしているのですか?
それにこの地で採れる砂鉄の量は、たかが知れている。その割には凄まじい量の木々を切り倒し、消費している。
……考えられるのは、どこか別の場所から食糧や金属資源を取引している可能性です」
カヤノヒメは沈黙した。
その表情が微妙に変化したのを、ツクヨミは見逃さなかった。
(彼女は何か、知っているな……知っていて、話すのを躊躇っている様子だ)
「……カヤノヒメさん。心当たりが、あるのか?」
どうやらスサノオも察したらしい。クシナダヒメの時といい、記憶を読まずとも相手の核心を突く直感は相変わらずのようだ。
「……ないと言えば、嘘になるの」
「だったら頼む。教えてくれ! オロチの一族を放置したままじゃ、不味いって事くらい分かってるんだろう?
クシナダヒメの村も、あんた達の住む山も、困ってるならオレ、何とかしたいんだよ」
「言葉は勇ましいの、スサノオ。
だがヌシ……ヤマタノオロチと直に戦うつもりか?
ヌシらに邪心が無いのはチルが証明しておる。だが勝算はあるのか?」
「それはッ…………」
「…………あります」ツクヨミがスサノオに代わって、言葉を重ねた。
「ですが、その為には。オロチの一族と、奴らの使役する怪物・ヤマタノオロチを退けるには。
八稚女の村人たちや、カヤノヒメ。チルちゃん……皆の協力と、情報提供が必要なのです。
もし、オロチの一族が取引をしている者たちを存じ上げているのなら……どうかお教え下さい」
カヤノヒメは目を閉じ、フウッと大きく息を吐いた。そして覚悟を決めたのか、大きく頷いた。
「……分かった、ツクヨミ。ヌシの申し出に応じ、教えよう。
オロチの一族と取引をしておる者。
それはワシの娘である、オオイチヒメじゃ──」
オオイチヒメ。古事記に曰く、五穀と市場を司る女神の名である。
* 登場神物 *
ツクヨミ/月読
三貴子の一柱にして月の神。時を操る神力を持つ。
スサノオ/須佐之男
三貴子の一柱にして疫病神。高天原を追放される。
チルヒメ/知流比売
オオヤマツミの娘で、花の女神。生後間もなく、ツチノコに乗っている。
カヤノヒメ/鹿屋野比売
草の女神。オオヤマツミの妻。ツチノコや草葉を操る。