一.オロチの暴虐
空に叢雲が立ち込め、村全体を影が覆っていた。
ここは出雲国・肥川の上流にある農村。八稚女と呼ばれる村郡、その第七の村である。
村を代表する巫女率いる男衆が、踏鞴を生業とする一族、羽々の住処とされる鳥髪峯の山に分け入り、すでに三辰刻(註:約6時間)が過ぎた。
だがまったく音沙汰はなく、誰一人として村に戻って来ない。
残った村人たちが、口々に不安の声を上げ始めた。
「おい……やばいんじゃあねえか? いくら何でも遅すぎる。
もう日が暮れちまったぞ」
「うちの巫女様は、山の神オオヤマツミ様のお声を聞ける方だ。
信じて、待つしか……」
微かな希望に縋ろうとする村人たちの前に、傷だらけの青年が息せき切って戻ってきた。彼一人だけだった。巫女すらいない。
この状況が全てを物語っていた。
失敗したのだ。「オロチの心臓」を貫く事に。
「おいッ! ヒノ……お前ひとりだけで戻ってきてどうするッ?
巫女様はどうしたァ!?」
村人たちは恐怖と怒りで、金切り声を上げて傷だらけの青年を非難した。
「ダメだった……もうおしまいだッ。
巫女様は……峯の半ばでいきなり『山神様の声が聞こえなくなった』と取り乱しちまってッ……!
道に迷っている間に、襲われたんだッ! 化け物に!
あの『虫人』どもにッ!!」
虫人。オロチの下僕どもだ。
巫女が混乱している隙を襲われたのだ。男衆はヒノを除いて全滅したのだろう。
「それにッ……来る! 音がしたんだッ!
『オロチの身体を動かす』音がッ……ほら! 鳥髪峯からッ……!」
ヒノが半狂乱で山を指すと、そびえ立つ巨大な山から、メキメキと恐ろしい音がして、木々が次々と倒れていくのが見えた。
山を覆い尽くす不吉な叢雲から、雨がしとしとと降り注いでいる。
凶兆はさらに続いた。
「……おっ母! 肥川が……真っ赤に染まってる……!」
村の子供が怯えて母親に縋る。彼らに恵みをもたらすはずの肥川が、今や血の川と化していた。
「『オロチの腹』だ……」
「化け物が動いて……血でただれた腹が川に浸かったんだッ……!」
「やべえ……やべえぞ! 他の六つの村みたいに、この村も……!」
「逃げろッ! 『オロチの牙』が来るぞォ! もう村は終わりだァッ!?」
村人たちは完全に恐慌状態だった。先祖伝来の田圃と住まいを捨て、我先にと川から遠ざかろうと逃げ惑った。
肥川の上流から、凄まじい勢いで迫る赤い奔流が見えた。
血のような色をした鉄砲水は、普段の川面を嘲笑うように軽々と飛び越え、辺りの平野や丘をも包み込むように広がり、第七の村そのものを瞬く間に飲み込んだ!
果たしてどれだけの者が、逃れ得たであろうか。
村人たちの大半は突然の災厄の前に、蹂躙される家屋や田圃と運命を共にした。
彼らは死の間際に見た。赤い血のような濁流の中に浮かぶ、恐るべき大蛇の群れの姿を。
赤加賀智(註:ホオズキの古語)に似た不気味に紅く光る瞳を持ち、荒ぶる魂魄の赴くまま、朱に染まった蛇たちは目の前の全てを喰らい尽くした。
**********
災厄の名は、ヤマタノオロチ。
古事記に曰く、赤い目をした八つの頭と尾を持ち、八つの谷と峰に及ぶ巨体には日蔭鬘や檜、杉などが繁茂し、その腹は常に血で赤く爛れているという。
このような怪物に、一体どんな人が、いや神が、太刀打ちできるというのか──
* 登場神物 *
ヤマタノオロチ/八俣遠呂智
八頭八尾の大蛇。高志国(越国)から来たという。