こひねがう
故郷から遠く離れてしまった。
もう二度と、彼の地を踏むことは叶わない。
残してきたものはたくさんある。
名誉、財力、権力、そして大切な―――女。
もう帰ることの叶わぬ庭で、私は毎年愛でた梅の木のために歌を詠んだ。
こちふかば・・・
あの梅の木は息災だろうか?
数日離れただけなのに、あの梅の木を恋しく思う。
なぜなら、あの木は・・・
物思いをしながら眠ると、夢の中に恋しい女が出てきてくれた。
「道真様。もうすぐわたくしが参ります。あなたの御元に参ります」
女は嬉しそうにそう言って、消えた。
日が照り始めて、屋敷が騒がしくなり始める。
「殿! 殿!」
従者が私を呼ぶ声がする。
起きてみると、必死の形相の従者が立っていた。
「どうしたのだ」
声をかけると、
「梅が参りました」
と一言。何のことだと、庭に目を向けると、そこにはあの梅の木が植わっていた。
「殿恋しさで、みやこから飛んできたのでしょう」
従者は感涙している。
私も涙にむせび泣くかと思った。
あの梅の木が笑っている。
その夜。
人払いをして、酒だけを共に咲いてもいない梅の木を愛でていると、どこからともなく恋しい女がやってきた。
「みちざねさま」
愛おしそうに、老いた私の名前を呼ぶ。
女の容貌は初めて会った時と変わらない。
人あらざるものの、不思議の力に目を奪われる。
「飛んできてくれたのだな」
私が言うと、女はコクンと頷いた。
「みやこで失脚した、こんなおいぼれのために」
私が自虐心で言えば、女は私の手を握った。
「あなたはおいぼれではありません。わたくしに素晴らしいお歌をくれました」
女は美しい花の顔をほころばせる。
女は梅の木の精であった。私は幼いころより、この女を見ることができた。
遊び相手で、初恋の人で、新枕の人で、絶対に結ばれない人。
「あなたの女遊びの激しさに、泣きたくなる夜もありましたが、それもすべて人にあらざるわたくしの罪。人であらざるにもかかわらず、貴方を愛してしまいました。あさましいほど。こうしてこの地に飛んできてしまうほど」
私は女の手を握り返す。
「この地ならば、人のうわさなどどうでもよい。そなたをようやく妻とできるなら、それだけで私はこの地に流された甲斐があった」
私の言葉に女は目を見開き、その後その顔をほころばせた。
梅の花の匂いがする。
この匂いに包まれて、私はようやく逝けるのだろう。
あなたはここで、見守っておくれ。あなたと夫婦として過ごせた短い時を与えてくれた、この地に、幸多からんことを。
あなたの美しさが永遠でありますように、と願う。