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マングロ族  作者: 富田洋和
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連載①

自分ではジャンルレスなエンタメ小説のつもりですが、選択できるジャンルから選ぶならホラーだと思いました。ジャンルのことは考えず、誰が読んでも面白い作品を目指しました。ある出版社の文学賞で2次選考を通過しましたが、最終には残れなかった作品です。よろしくお願いします。

□ 十二月十八日 奥山勇太


 その日の空は一日中、厚い雲に覆われていた。十二月十八日。三十八歳で市長選に初当選した奥山勇太にとっては、就任から一ヶ月を迎えた節目の日だった。

 日曜日なので、自宅近くの駅から二十分ほど電車に乗った繁華街で、高校時代の友人たちが、ささやかな祝いの会を開いてくれた。選挙戦の最中、ビラ配りやスケジュールの調整などボランティアとして東奔西走してくれた男三人。立候補する前、まだ会社員だった頃、「市長選に出馬したい」と打ち明けたときは、家族を含む周囲からことごとく反対されたが、この三人だけは前向きに受け止め、応援してくれた。どれだけ勇気づけられたことか。彼らの信頼を裏切るようなことがあれば、たとえ市長としてどんな功績を残せたとしても、幸せな死に方はできないだろう。ごく自然に、奥山はそう思う。

 繁華街では焼肉をほおばったが、翌日が仕事なこともあり、一次会で解散となった。「市長なら遅刻しても怒られないからいいじゃねぇか。もう一軒行こうぜ」と冗談交じりに提案するメンバーもいたが、「ダメダメ。勇太は若造なんだから。隙見せたら終わりよ。あっという間に職員が言うこと聞いてくれなくなるから」という良識派の声を背中に受け、奥山は家路についた。

 自宅近くの駅を降り、携帯電話を見ると、時刻は午後十一時を過ぎていた。天気予報によると、今日の最低気温は零下のはず。耳を切り落としそうな冷たい風が、奥山の両側を絶えず通り過ぎていた。

 奥山は腕時計を付けない。三十歳を過ぎた頃から、重くて邪魔に感じるようになった。時刻を知りたいなら、携帯電話で十分だ。駅から自宅までは、住宅街を歩いて二十分ほど。同じ駅で降りた数人の乗客は、あっという間に夜の闇に吸い込まれ、見えなくなった。無人の風景のなかでは、奥山のスニーカーがたてる小さな足音さえ、耳につく。

 家へ帰る途中には、長さ四十メートルほどの橋を渡る。片側二車線の車道と一体になったアスファルトの橋だ。橋の欄干には「三太橋」という少年のような名前の看板が取り付けられていた。橋の下には、「雪野川」という名前の川が、ゆるやかな速さで流れる。

 三太橋を渡るとすぐ左側に公園がある。遊具は滑り台、ブランコと砂場。日本全国、どこにでもあるような公園は、中を通り抜けて雪野川へ出ることもできた。川は浅く、夏には涼をとる親子連れや少年たちの姿をよく目にした。しかし当然ながら、真冬の夜中には誰もいない。

 公園を管理しているのは市役所だった。市長の奥山がその気になれば、更地にして土地を売却することもできる。そんな理不尽な考えが頭をよぎるたび、奥山は優越感で表情が緩むのを感じ、すぐに気を引き締めた。

 三太橋を渡り、公園の前を通り過ぎようとしたときだ。入り口から突然、一人の少女が飛び出してきた。

「オオッ」

 驚きのあまり、奥山は喉の奥から声とも言えない音を発した。夜中の住宅街で、少女が飛び出してくる予兆は全く感じられなかった。足音くらい聞こえてもよさそうなものだが。

 少女は五歳くらい。自宅の茶の間でテレビを見るような、くつろいだジャージ姿だった。真冬の夜中に外へ出るには、いかにも寒そうだ。突然現われると、まず目の前の車道に目をやり、続いて顔を左右に動かした。奥山と目が合うと「発見した」というような安堵の表情を浮かべる。しかし、表情はすぐに険しくなり、奥山の目をまっすぐ見つめると言った。

「すいません、お母さんが大変で、助けてくれませんか」

「えっ、お母さん?」

 奥山は素っ頓狂な声を上げた。三秒ほど沈黙し、頭の中を整理してから聞き直す。

「お母さんがどうしたの?」

「星を見ていたら、急に気分が悪くなっちゃって」

「星?」

 夜空を見上げる。雲に覆われて黒一色だ。目をこらしても星など一つも見えない。突然、左手が冷たく柔らかいもので包まれ、奥山の背中に緊張が走った。少女が奥山の左手を強く握り、公園内に引っ張りながら言う。

「今日は流れ星が見える日なの。おじさん、知らないの?百年に一度の流れ星だよ」

「百年に一度?」

「うん。でも今日は曇りでしょ。だからたぶん見えないだろうけど一応行ってみる、ってお母さんが言い張って。この近くでは雪野川のほとりが一番暗くて、星がよく見えるの」

 奥山は少女の手に導かれるまま、公園内に入っていった。もつれそうな足を必死に動かしながら、少女の後頭部に向かって尋ねる。

「あのさ。行くのは、行くけどさ。お母さんって、どんな状態なのかな。意識はある?会話はできるの?」

 頭の中で「冷静に、冷静に」と繰り返しながら、奥山は「流れ星よりも母親だ」と考え直した。いざとなれば、一一九番通報すればいい。市長であるからには適切に対応しないと、後になって予期せぬ災難に発展しかねない。たった一つの言動で辞職に追い込まれる政治家の例は、山のようにあった。他人の失敗から学ばなければならない。

「ううん、急に倒れちゃったの。でね、動かないの」

 少女は奥山の方を振り向こうともせず、白い息を小刻みに吐きながら答えた。

「動かない?」

 奥山は自由になる右手で、ダウンジャケットのポケットに入れた携帯電話を確認した。幸か不幸か、自分の手に負える範疇を超えているようだ。

 奥山の左手を力強く引っ張りながら、少女は公園内を横切ると、雪野川へ向かった。公園と川の間に柵はなく、代わりに高さ五センチほどの白いブロックが並べられているだけだ。子供でも簡単に乗り越えられる。ブロックを乗り越えると二十メートルほどの距離が、川と公園の間の緩衝地帯のようになっていた。木が何十本も立ち並び、足元には雑草が生い茂っている。

 少女は奥山を連れて、緩衝地帯を抜けきろうとしていた。この先にあるのは川だけだ。

「こんな・・・ところでっ」

 奥山は息を切らしながら、つぶやいた。「こんなところで星を見てたの?」と言いたかったのだ。しかし少女は全く気にかけない。

 ついに川のほとりまで来た。

「どこ、お母さんは?」

 ようやく立ち止まった少女に、奥山は肩で息をしながら聞いた。流れ出た鼻水が、唇で冷たくなるのを感じる。

「あそこ」

 少女は緩衝地帯にある一本の木を指差した。二人の立つ場所からわずか三メートルほどの距離にあるが、公園に数本立つ街灯の光が全く届かず、周囲は限りなく暗闇に近い。全体像が把握できないため、奥山は目を凝らした。

 やがて暗闇に目が慣れると、その木に対し、漠然とした居心地の悪さを感じた。何かが普通の木と違う。理由はすぐに分かった。木は緩衝地帯と川の境目、いや、むしろ川の中に立っていたのだ。幹の下部が、タコの足のように枝分かれし、川の水に浸かっている。周囲には川から幹を伸ばす同様の木が数本、立っていた。奥山が川に中に立つ木を目にしたのは初めてのことだ。

 しかし、感心する余裕は無い。

「あそこって?川の中だよ」

 少女が指差した木は、冷たい川の中に立っていて、近くに人影は見えない。少女は何も答えず、その木を見つめていた。奥山の存在など忘れてしまったかのようだ。奥山は放っておいて、木に向かって歩き出した。木の高さは五メートルほどだろうか。幹はあまり太くないが、裏側へまわれば、何か分かるかもしれない。

 あまり考えたくないが、母親が川の中へ倒れこんでしまった可能性もある。何も無ければ何も無いで、少女に事情を聴きなおすだけだった。

 とにかく体を動かさないと、事態の収拾につながらない。早くこの問題を片付けて家に帰り、熱い風呂に入りたかった。

 突然、目指す先の木の枝が一本だけ、大きく上下に揺れた。

 風が原因では無い。現実ではあり得ない揺れ方だった。堅い木の枝が、ムチのようにしなり、ビュンッと空間を切り裂く音がする。

 なんだ、これは?

 奥山は自分の目を疑った。酔いが急速にさめていく。

 奥山の周囲が淡い光に照らされた。夜空の雲が途切れ、月が顔を出したのだ。

「早くしろっ」

 少女が叫んだ次の瞬間、緑の葉をまとった枝が、奥山をめがけて勢いよく伸びた。

 枝はダウンジャケットの上から奥山の胸を突き、まるで障子に指で穴を開けるように、あっけなく貫通した。

 奥山は背中のリュックサックが、枝に押されて浮き上がるのを感じた。両腕から急速に力が抜ける。口の中に血の味が広がった。意識が遠のき、膝から崩れ落ちる。五月のような新緑の、みずみずしい香りがした。


 気が付くと、奥山は雪野川の中にいた。数メートル先に、奥山をここまで連れてきた少女と、さっきまではいなかった大人が一人いる。直前の記憶が、ぼんやりと頭の中で再生を始めた。少女の手に引かれ、川のほとりまで来た。そして、少女が指差した木を調べようとした。すると、枝がグニャッと曲がって伸び、奥山の胸に刺さった。

 そうだった、木の枝がテレビアニメのように曲がりくねったのだ。

 奥山は反射的に、自分の胸に手をやった。やろうとした。

 しかし、感覚が無かった。

 腕が動き筋肉が伸縮したり、手のひらに空気の抵抗を感じたり。そういった慣れ親しんだ感覚を、奥山は全く感じることができなかった。思わず、自分の手に目をやった。やろうとした。

 手が無かった。

 あるはずの場所には、流れる川の水が見えるだけだ。規則正しい水音が、聴覚の奥でこだまする。奥山は激しく手と足を動かした。動かそうとした。

 しかし、足も無かった。

 あるはずの場所には、タコの足のように枝分かれした木の幹が、川の水にさらされているだけだった。

 混乱しているんだ、相当混乱している。

 奥山は自分に言い聞かせた。「冷静に、冷静に」。混乱は、問題解決を妨げる最大の障壁だ。市長当選を目指した選挙戦でも、身内の仲間割れや対立候補の嫌がらせなど度重なる問題を、冷静さで乗り越えてきた。おかげで毎回、適切な対策をとれた。奥山はいつも通り、大きく深呼吸しようとした。

 しかし、口も無かった。

 奥山は考え直した。

 なるほど、夢を見ているんだ。

 それ以外に考えられない。奥山は朝、起きた時に、夢の内容を覚えていることが滅多にないので、この意味不明な状況も、すぐに忘れてしまうだろう。

 早く起きたい。起きたいなぁ。呪文のように頭の中でとなえながら、奥山は目を閉じた。十秒ほどして、開けた。状況に変わりは無い。しょせん夢の中の話なので、考える必要もないことだが、どうやら今、奥山は木になっているようだった。

 何の絵本だったか忘れたが、幹のところに目と口が書いてある木のイラストを思い出した。もちろん笑顔。木の上を覆う緑の葉が、アフロヘアーを連想させた。

 いくら夢とはいえ、冗談きついぜ。奥山はつぶやいた。つぶやこうとした。しかし、言葉は発せられない。

 そのとき、奥山は頭を金づちで殴られたような衝撃を受けた。

 目の前の少女と一緒にいる男の顔が見えたのだ。

 それは、奥山自身だった。

 黒いダウンジャケットに濃い青のジーパン。無表情で少女と何かを話すその男は、慣れ親しんだ自分自身の姿だった。

 川辺を吹く風が、急に強くなる。顔に当たる風は冷たいはずだが、奥山は冷たさを全く感じない。ただ、自分に強く空気が当たるのを感じた。

 それは夢ではなく、現実の感覚として感じた。

「おい、君、女の子」。奥山は、少女に呼びかけた。言葉は出てこない。

「おい」。奥山は声を大きくした。大きくしようとした。

 しかし、少女の様子は全く変わらない。男に何か水色の小さなものを渡しながら、身振り手振りをまじえて話している。

 なんだろう?

 よく見ると、携帯音楽プレーヤーだった。

「おい、そんなもんいらねぇぞ。こっちを向け。その男は誰だ」。奥山がいくら声を大きくして呼びかけても、少女には全く届いていないようだった。

 不安感が津波のように奥山の心を襲う。

 この状況は一体何なのか、自分の身に何が起きているのか、きちんと少女に聞かなければならない。奥山は直感的にそう確信した。もちろん奥山は、今でも夢だと思っている。夢に違いない。しかし、だからといって少女に話しかけられるこの機会をみすみす逃すと、ものすごく後悔しそうだった。

「どういうことなんだ。聞こえてるんだろ。反応しろ」。相変わらず少女に変化は無い。自分の存在が、まるで世界からかき消されてしまったかのような孤独を感じた。

「おい、ガキ。こら、お前だよ。返事をしろ。おい、おい、おいーーーーーー」。奥山は怒鳴った。これ以上の大声は出せないくらい、力の限り叫んだ、つもりだ。「なんなんだよ、これはーーー。なんなんだ、なんなんだ、なんなんなん」。言葉が頭の中でつまずく。自分でも何を言っているのか分からない。ただ、とにかく大きな声を出し、相手を反応させたい。その一心だった。

 しかし、奥山の絶叫は、露ほども外へ発せられなかった。

 苦悶する奥山の視線の先で、男は携帯音楽プレーヤーをダウンジャケットの内ポケットに入れ、イヤホンを両耳に装着した。足元に置いていたリュックサックを手に取り、土ぼこりをはらう。奥山が昨年、ジャスコで買った二九八〇円のリュックサック。市長に当選するため、少しでも庶民性をアピールできればという下心もあった、ナイロン製で深緑色のリュックサック。使ってみると、軽くて丈夫で、意外にも愛用品になってしまった。

 男は、奥山が慣れ親しんだリュックサックを背負うと、両腕を数回、ラジオ体操のように大きく回し、少女と目を合わせると、軽くうなずき合った。

 二人は奥山に背中を向け、公園の入り口へと歩き出す。後ろから見ると親子のように見えた。「おい、ちょっと待てよ、俺はどうなるんだ、こら、お前ら、お前らーーーー」。奥山の叫び声は、相変わらず奥山にしか聞こえなかった。二人の姿は、雪野川と公園との緩衝地帯を抜け、どんどん小さくなる。「嘘だろ、おい」。見えなくなろうとしている二人に、今度は消え入るような声でつぶやいた。やっぱり夢だよ、こんなこと、あり得ない。あるはずない。自分に言い聞かせる奥山の顔に、また強い風が吹きつけた。今度はほんの少し、冷たく感じた。


 □十二月十八日 響子


「今年も、もう終わりかぁ。しめ縄、買わなくっちゃねぇ」

 壁にかけたカレンダーを見ながら、三十六歳の奥山響子は、五歳の一人娘、香奈に話しかけた。今日は十二月十八日、日曜日。二週間後の日曜日は、もう新年だ。

「しめ縄って何?」

 こたつでファッション雑誌をめくる響子の隣で、香奈が聞く。

「何って、言ったじゃん、この前ぇ。お正月になったら、玄関に飾るやつだよぉ」

 響子は答えながら、香奈の髪の毛を両手でかきむしった。

「えぇー、そうだっけぇ。香奈ね、すぐ忘れるの」

 おどける香奈を、今度は抱きしめながら、響子は言った。

「いいよ、忘れても。香奈は賢い子っ」

 香奈の髪の毛を頬に感じながら、響子は居間の壁に取り付けた掛け時計に目をやった。ちょうど午前零時になろうとしていた。響子の視線に気づいて香奈が言う。

「お父さん、遅いねぇ」

「うん。仲の良い人たちとご飯を食べているから、ついつい話が盛り上がってるんだろうねぇ」

 響子は夫、勇太の顔を思い浮かべながら、香奈に答えた。


 響子と勇太が出会ったのは、大学時代にさかのぼる。勇太が所属していた軽音楽サークルに、二歳年下の響子が入り、先輩後輩の関係になった。同じサークルだが、バンドや音楽の趣味が違うこともあり、当時は親しくならなかった。勇太が好きなのは、レッド・ツェッペリンやクリームなどイギリスのロック。響子は、日本のガールズバンドの先駆けで、一九八〇年代から九〇年代にかけて圧倒的な人気を誇ったプリンセス・プリンセス一筋だった。

 関係が前進したのは、勇太が大学を卒業してから五年後に開かれたサークルの同窓会だ。二十人ほどが集まり、響子は偶然、勇太の向かいの席に座った。響子から見た勇太は、大学時代、ロックバンドで髪を肩まで伸ばし、ベースを弾いていたイメージとはガラリと変わり、短髪で、安売りスーツのチラシから飛び出してきたサラリーマン・モデルのようだった。見た目は、どこにでもいそうな型通りの会社員。でも、話の中身には着飾った部分がなく、響子は好感を持てた。結婚するなら会社員か公務員、とにかくきちんと働いて毎月の収入が見込める人に限る、と響子は学生時代から心がけていた。「普通が一番よ。賢いかどうかは、勉強ができるかどうかじゃなくて、普通がいかに素敵なことか、分かるかどうかで決まるの」と口癖のように言っていた母の影響を、響子は強く受けていた。

 勇太は当時、大手のスポーツ用品会社に勤め、野球用具全般、特にボールの営業を担当していた。高校、大学などの学校関係はもちろん、地域の草野球チーム、社会人、果てはプロ野球まで、ボールを大量に使いそうな場所なら、どこへでも出かけた。久しぶりに再会した同窓会で、勇太は響子に「ボールは縫い目によって、変化球の曲がり方が違う」「重要なのは公式戦で使ってもらえる公式球になることなんだ」などと、ひとしきり仕事の話をした。しかし、響子の印象に残っているのは、そのあとに勇太がつぶやいた一言だった。「でも本当は、ボールが何個売れようが、どうでもいいんだ。営業しながら、心のどこかでそう思ってしまう。モノを売って利益を稼ぐより、何かもっと違う、社会的なことをしたいんだ」。

 同窓会をきっかけに二人は一年半ほど付き合い、結婚した。勇太はスポーツ用品の営業で好成績を残し、生活は順調だった。

 一方、勇太の「何か社会的なことをしたい」という情熱は、表面から見えないところでマグマのように生き続けた。勇太の言葉の端々から、響子は、その情熱に気づいていた。ただ、それは、あくまでも夢や希望の範疇で、人間なら誰でも抱えるものだと思っていた。香奈が生まれ、幸せが増したこともあり、勇太の情熱は、響子にとって、もはやどうでも良かった。

 しかし、響子の知らないうちに、勇太のマグマは静かに沸点に達したのだろう。今年三月に突然「どうしても市長選に出馬したい。今が絶好のチャンスなんだ」と言い出した。


「去年の今頃は、まさか一年後にお父さんが市長になるなんて、考えもしなかったよねぇ。ホント人生って分らない。私、今でも信じられないもん」

 響子は、香奈に話しかけるというより、独り言のように口にした。

「信じられなーい」

 赤ちゃんほどのアンパンマンのぬいぐるみを抱きしめた香奈が、相槌を打ってくれた。

 午前零時十分。

 帰宅が日付をまたぐときは、いつも携帯電話にメールで連絡してくれるのに。酔っぱらっているのだろうか。

「香奈、もういい加減寝なくちゃダメだね。夜更かしは健康に悪いよ。それにしても、私は香奈と一緒に残り物で夕食を済ませているのに、お父さんは外食して午前様だよ、マッタク」

 響子は少し腹が立ち、つぶやいた。

 ピンポーン

 玄関のベルが鳴る。

「あっ、お父さん、帰ってきたー」

 香奈がアンパンマンのぬいぐるみを放り出し、3LDKのマンション一室の廊下を玄関に向かって駆け抜けた。

「ちょっと香奈、インターホンに出てからって約束でしょ」

 響子の声が香奈の背中を追いかける。玄関のベルが鳴った時は、時間帯などからして家族だと分かっていても、必ずインターホンに出てからドアを開ける。家族の安全のため、新婚当時から勇太は響子に口酸っぱくそう言い聞かせ、それは響子から香奈へと引き継がれている。実際、疑問心を持たずにドアを開けてしまったため、家人が殺されるような凶悪な事件が起きていた。

 しかし、香奈は響子の声が聞こえなかったかのように、躊躇せずドアを開けた。

「あーあ、香奈、叱られるよ」

 響子の声に呼応するように、開いたドアから、勇太が顔を出した。

「ただいまぁ。ごめんね、遅くなっちゃって」

 勇太はそう言いながら、いつも通り、足元まで迎えに来ていた香奈を笑顔で抱きかかえた。

「おかえり。メール、無かったねぇ」

 響子がチクリと嫌味を言うと、勇太は一瞬、眉をひそめたが、すぐ元に戻して聞いた。

「メール?誰の?」

「誰のって、あなたのです。帰りが遅くなるときは、いつもくれるじゃん」

「ああっ、俺のね。そういうことか。ごめんごめん、ちょっと余裕なくて」

「余裕って。まぁいいや。あのさ、香奈がまたインターホン、出なかったんだよ」

 響子が愚痴を続けると、勇太はまた一瞬、今度は表情と動きを止めてから、すぐに香奈の顔を見つめた。

「インターホン、そうだっ。香奈、ドアを開ける前にはインターホンに出ないとダメだって、父さん、いつも言ってるだろ」

 勇太の腕の中で、香奈がペロリと舌を出した。

「ごめんなさい。でも香奈にはパパだって分かるんだもん」

「こらー、言い訳して」

 響子は冗談半分で、勇太の腕に抱かれた香奈の髪の毛を触ろうとした。そのとき、勇太のダウンジャケットが、砂のようなもので汚れていることに気が付いた。

「ん?ねぇ、ダウンジャケットさ、ちょっと汚れてない。何これ、土?砂ぼこり?黄砂飛んでたっけ?」

 手で払おうとする響子に、足だけで靴を脱いでいる勇太は落ち着いて答えた。

「ほこりだよ。店でハンガーにかけてたんだけど、気づいたら床に落ちてたんだ。見つけたときは、もう結構汚れててさ。参るよ」

「何それ。ひどい店だね。普通、お客様の上着が床に落ちてたら、店員がすぐに拾ってくれるでしょ」

 響子は腹が立った。このダウンジャケットは、勇太の持ち物の中では珍しくブランド物で、五万円ほどしたのだ。

「仕方ないよ。今度、クリーニングに出しとくわ」。

 心の広さをアピールする勇太が、香奈を抱きながら廊下を歩き、リビングに通じるドアを開けた。

「寛大だねぇ。さすが市長様。ちなみに店はどこなの?」

 響子は、勇太に続いてリビングに入りながら尋ねた。

「店はね、えっと、焼き肉の八角亭」

「八角亭かぁ。やっぱりダメだね、安いところは」

 八角亭は、学生でも利用できる焼き肉チェーン店だ。市長になっても行き先が八角亭とは市民に笑われそうだが、それが勇太の良いところかもしれない。

 それにしても、と響子は感じた。ダウンジャケットは背中から両腕にかけての広範囲が、うっすらと汚れていた。汚れの度合いは低いが、元が黒色なので、照明の下ではよく目立つ。ハンガーから落ちただけで、こんなに万遍なく汚れるものだろうか。ひょっとしたら、床に落ちたダウンジャケットを、誰かが蹴って転がしたのかもしれない。ダウンジャケットだけではなく、背中に背負ったリュックサックもほこりで汚れていた。

「あんまり言いたくないけど、もうちょっと良い店で食べなさいよ。いくら安くても、こんなことされたんじゃ、台無しだよ」

 響子がぼやくのと同時に、リビングに入った勇太の足が止まった。腕に抱えた香奈をゆっくり床に下ろすと、窓際に置いてある植物に目を向ける。

「これは」

 ゆっくりとつぶやきながら、勇太は植物に近づいた。

「へっ」

 響子は驚いて、思わず間の抜けな音を発した。


 植物は、半年前の今年六月、響子が香奈、大学時代の女性友達の計三人でマレーシアへ観光旅行をしたとき、現地のツアーガイドから種をもらったマングローブだった。旅行では首都クアラルンプールから北西へ数百キロ離れた島でリゾート気分を楽しみながら、そのうち半日を、友達の発案で「海に生える森」と呼ばれるマングローブの見学ツアーへあてることにした。

 マングローブの最大の特徴は、海水に浸かっても育つことだ。陸地で育つ通常の植物に塩水をかけると、早ければ数日で枯れてしまうが、マングローブなら意に介せず育つ。現地では海水と淡水が交じり合う河口の両岸に、うっそうとした森林を形成していた。

 木々は川面に生え、流されないように「支柱根」というたこ足状の根が、太い幹を支えていた。空気中にも顔を出した支柱根は、光合成をする。二酸化炭素を吸って酸素を吐き出す光合成を、葉以外の根ですることも、マングローブの特徴だった。

 マレーシアの五十歳くらいのツアーガイドはガッシリとした体格の日本人で、小型ボートに乗って移動する途中、岸部のマングローブに近づき、川面にせり出した枝から何かをもぎとってくれた。長さ二十センチ、直径1センチほど。緑色で、細く堅い。一方の先が鋭く尖っていた。「それはね、マングローブの種です。お客様がお住まいの関東地方では売っていないでしょう」。ガイドは香奈を含めた三人に種を二つずつ渡し、続けた。「日本でも育つので、良ければ持って帰って植えてください。芽が出ていないので、帰国する際、空港で申告する必要はありません。ただ、寒さには弱いので、冬は必ず暖かな屋内に入れてください。育て方のガイドブックを、お渡ししておきます」。

 響子は、マングローブのことなど名前しか知らなかったが、見学ツアーを機に興味を持ち、せっかくなら育ててみようと思った。日本に帰るとバケツに土を入れ、尖った方を下にして種を刺す。後はたっぷり水を入れる。土の表面から2センチほど上が、水のラインの定位置だった。土に植えるというより、水に浸かっている状態だ。

 これに対する勇太の反応はどうだったか。響子と香奈の帰国とともに、部屋に突如現れた水色のバケツとマングローブだったが、勇太は全く関心を示さなかった。当時は十一月に予定されていた市長選の五カ月前。準備に追われ、真夜中に帰ってくると倒れこむように寝て、数時間後の早朝には家を出るような生活が続いていた。「期間限定だから頑張れるけど、これが仕事だったら確実に過労死してるな」。当時の勇太は、よくそう口にしていた。

 響子は、バケツの土に刺さった四本の鉛筆のような植物が何かを勇太に尋ねられたら、すぐ答えられるようにしていた。でも、実際に尋ねられたのは一度だけ。響子が運転する自家用車で、勇太を選挙事務所へ送る途中、思い出したように「響子が植物を育てるなんて珍しいなぁ」と言われた時だけだった。響子は堰を切るように「そうでしょ。マングローブって言う不思議な植物なの。海水に浸かっても育つんだよ。すごくない?熱帯植物だから、日本では奄美大島より南にしか生息していません。関東では貴重なのよ、超貴重」。響子なりの熱弁をふるったが、助手席の勇太は窓の外に目をやりながら、「ふーん」とつぶやいただけだった。それ以来、響子と勇太の間でマングローブが話題になったことはない。


 その勇太が、マングローブに興味を示している。香奈はからかうように言った。

「これは、ってマングローブじゃん。何よ、今さら。今さら大臣」

 勇太は返事をせず、バケツに刺さった四本のマングローブに近づくと、小さく叫び声をあげた。

「死にかけているじゃないか」

「えっ、そう?確かにちょっと茶色くなってるけど。死ぬだなんて、やめてよ。枯れるでしょ」

 マングローブを自宅で育て始めたのは初夏。夏には先端に小さい葉のようなものが生えてきたが、秋になると成長は止まった。冬になると気温は下がり、陽の当たる屋内で育てるようにしていたが、あいにく自宅は西向き。午後1時を過ぎないと日光が射さず、曇りの日も多かった。さらに最近は、雪がちらつく日もあり、響子は正直、熱帯の植物を育てるには限界の寒さだな、と思っていたところだった。仕方ない。枯れたら枯れたで、燃えるごみと一緒に捨てるだけだ。

 勇太が切羽詰まった声を出した。

「どうすればいいかな、暖かくないとダメなんだ。このままだと、あと一週間も持たない」。

響子は今さらと思いながらも、自分の世話しているものを心配してくれることが、少し嬉しかった。

「そうねぇ、どうすればいいかって、一番良いのは簡易型のビニールハウスじゃないかな。観葉植物用のものが、ホームセンターへ行けば売ってると思う。小さいやつね」

 響子も一時、買おうかどうか迷ったが、たかが植物のためにそこまで投資する必要は無いと思い、止めたのだった。勇太の顔から不安げな表情がみるみる引いていく。

「なるほど、ホームセンター。じゃ、今から行こうか」

「今から?」

 響子の口から、自分でも驚くほど高い声が出た。嬉しい気分が吹き飛ぶ。気持ちを落ち着けてから続けた。

「冗談でしょ。行けるわけないじゃん、もう十二時まわってるんだよ。ホームセンターなんて、どんなに遅くまでやっていたとしても九時でしょ。酔っぱらってるんじゃないの」

 響子の反論に、勇太は再び顔を曇らせると、申し訳なさそうに言った。

「あっ、そうか、九時までか。そうだよな。ごめん、非常識で。明日にしよう。明日、俺が買ってくるわ。仕事の帰りにでも」

 自分に言い聞かせるように言葉をつなぐ勇太に、響子は腹が立ち、追い討ちをかけた。

「だいたいさ、今まで完全に無視してたのに、急に死んじゃうだの、すぐホームセンター行くだの、おかしくない?何かあったの?」

 勇太は胸の前で両手を合わせ、小刻みに何度も頭を下げた。

「ごめん、謝る、響子ちゃん。悪かった」

 二人の会話を黙って聞いていた香奈が声を上げた。

「こらー、ケンカしないの、ケンカ駄目」

 香奈の言葉を援軍のように受け止めたのか、ホッとしたように勇太が続けた。

「ごめんな、香奈。お父さんが悪いんだ」

 急にボルテージが上がった響子も、香奈の声を聞き、みるみる熱が冷めた。意識的に肩で大きく息を吸い、吐き出す。

「はぁ、まぁいいよ、ごめん、私も。なんか、カッとなっちゃって。この話は終わりにしよう。でもさ、真夜中に閉まっているホームセンターへ行くなんて言うのは、もう止めてよね。市長が非常識じゃ、街が混乱するよ。税金払ってるんだから。ちゃんとしてよね」

 勇太は口元に笑みを浮かべて返した。

「俺は市長。分かった、もう言わない。ありがとう。風呂入って寝るわ」

 そう言うと、勇太は一瞬、マングローブの生えたバケツに目をやると、くるりと向きを変え、風呂場に歩いて行った。

 香奈と二人でリビングに残された響子は、改めてマングローブと向き合った。茎にはところどころ、節のように盛り上がっている部分があり、触ると指の腹にざらついた感触が残る。実際の自然界で、種から成木にまで成長するのは千個に一つもないと、マレーシアのガイドは言っていた。種が落下しても、満潮で水位が高ければ、その下の土に突き刺さることができず、流されてしまう。突き刺さったとしても、すぐそばには自分を産み落とした母樹があり、成長しても多くが二、三年で枯れるという。生き残るのは、ほんの数本、母樹と世代交代できる若木だけだ。

 熱帯での過酷な生存競争と、日本のマンションで寒さと戦うことを比べると、どちらがマングローブにとって過酷なのだろうか。分からないな、と思いながら響子は頭を左右に振ると、マングローブに話しかけた。

「頑張れよー、寒いけど」

 響子の隣で、香奈も真似をした。

「頑張れよー、マンちゃん」

 響子がマングローブに話しかけたのは、初めてだった。


 □翌年一月十日 松田耕介


「はー、いかんいかん、いかんなぁ」

 もうそろそろ正月気分から脱しないといけない。関東の地元紙で、地方支局の記者をする松田耕介は、自分に言い聞かせるように大声を上げた。松田が所属する支局は、県庁所在地の竹沢市から北へ二十キロほど離れた、人口十万人ほどの上浦市にある。元日から二週間が過ぎようとしているのに、松田が仕事を始める時間帯は、やっと昼ごろという日々が続いていた。

 年末年始に一週間の休みを取り毎日酒を飲んだ疲れが、まだ残っているのかもしれない。今年は四十三歳になるというのに、正月の過ごし方は大学生の頃と何も変わっていない。ただ、外観は変わった。九十キロを超えた体重は、学生時代に比べ三十キロほど増えている。体の奥深くに沈んだ疲れも、一日や二日では取れない。

 上浦支局の記者が担当するエリアは、上浦市とその周辺の二つの町。県都の竹沢市へ通勤する住民が多く、上浦市に目立った企業や観光地は無い。基本的には農業が中心の田舎だった。そのため、全国紙やテレビ局は取材拠点を置いておらず、事件などニュースがあるたびに竹沢市から駆け付けていた。地元紙とはいえ竹沢新聞上浦支局も記者は松田だけで、職場は住居と一帯になったマンションの一室だ。出勤の必要が無く、上司もいないので、その気になれば際限なく怠けてしまう。離婚歴一回で一人暮らしの松田にとって、上浦支局での勤務は自分との戦いだった。

 午前十一時。支局内のテレビ番組が、刑事ドラマの再放送から昼のワイドショーに変わる。

「まずい、そろそろ出るか」

 松田はつぶやきながら重い腰を上げ、カメラとノートパソコンの入ったビジネスバッグを持つと、玄関に向かった。支局を出る時間が昨日より一時間早い。淀んだ自己嫌悪が少しだけ解消された。


 自家用車の日産マーチに乗ると、松田は五キロほど離れた私立上浦山の手高校へ取材に向かった。これといったアピール点が無い上浦市にとって、中高一貫の上浦山の手は明るい要素だった。第一に偏差値が高く、高校から有名大学への進学率は市内の他校と比べ群を抜いている。県内でみてもトップクラスで、竹沢市から通う生徒も多かった。そのうえスポーツも強く、特に女子バスケットと男子サッカーは全国大会の常連校だ。山の手高校からJリーグのチームに入団する選手も毎年のように出ていた。文化系にも力を入れ、こちらは吹奏楽と書道が有名だった。

「今日は書道か。かわいい子、いるかなぁ」

 カーラジオを聞きながら、松田は一人、にやついた。山の手は事務局が広報に熱心で、何かイベントや行事をするときは、小さなことでも報道機関に案内文をファックスしていた。今日は、交換留学で山の手に在籍しているアメリカの高校生五人が、初めて書道にチャレンジする日だった。先生役は、全国大会常連の書道部メンバー。元日から一週間以上経過しているので正月関連の記事としては苦しいが、女子高生は華やかで、何をしても写真が映える。本日最初の取材としては、手堅い素材だった。


 山の手高校の駐車場に着くと、いつも通り来客用のスペースに車を止めた。運転席から降りると、同じ来客用のスペースに、見慣れた黒のフォルクスワーゲンが止めてあることに気が付いた。上浦タイムスの記者、小河隆司の愛車だ。運転席には、携帯電話で話す小河の姿が見える。小河は松田に気付くと笑顔を浮かべ、軽く手を振った。松田も会釈を返す。なんとなくだが、小河の通話はほどなく終わりそうな気がした。書道部のイベントが始まるまでには、まだ時間がある。松田は小河を待つことにした。

 小河が勤める上浦タイムスは、小規模ながら地元では誰もが知っている存在だ。毎週金曜日に発刊される新聞で、大きさは一般紙の半分ほど。ページ数も少ない。記者は小河を含む二人だけで、従業員もわずか四人だ。しかし、発刊からの歴史は七十数年になる。記事の内容も公平で、市役所や地元警察署に対し、評価すべき時は評価し、批判すべき時は批判する内容は、読者の共感と信頼を得ていた。毎週必ず、地元の話題をテーマにした社説も掲げる。松田も二年前、上浦支局に赴任するときは、過去の上浦タイムスを数年分、さかのぼって熟読した。

 上浦タイムスの二人の記者のうち、小河は先輩格で四十五歳。細身の短髪で清潔感があり、外観は松田と好対照だった。自家用車を比べても、松田の愛車がオレンジ色の日産マーチなのに対し、小河は黒のフォルクス・ワーゲン。ただ、外観や趣味の違いに関係なく、松田は上浦市のあらゆる事情に精通している小河を慕っていた。

 松田が待ち始めてから十秒ほどで、小河の通話は終わった。運転席のドアを勢いよく開け、颯爽と降りてくる小河に話しかける。

「小河さん、おはようございます」

 小河は、人懐っこい笑顔を浮かべながら返した。

「オウッ、松田君。すまんね、待っててもらったみたいで。今日は早いじゃねぇか」

 五日前、別の取材先で会ったときに、松田は「まだ四十過ぎなのに午前中から仕事を始めるのが億劫で、情けないですわ」と小河に漏らしていたのだ。

「ハハッ、女子高生のために早起きしました。もう今日からバリバリ頑張りますんで」

「いいよ、頑張らなくても。でもメタボ解消のためには、頑張らないといけないかもな。また太ったんじゃないの?」

「止めて下さいよ。この前、会ったとこじゃないっすか」

 二人は肩を並べて、駐車場から校舎へと続く階段を上った。

「去年の市長選は面白かったのになぁ。あれくらいのネタがありゃ、松田君も休む暇なくて、体重も多少軽くなって、良いことづくめなのに」

 階段を上り切り、校舎の入り口が見えたところで、小河が口を開いた。

「確かに。負けた田沼、最近、竹沢市の繁華街に出没しているみたいですよ」

 昨年十一月の上浦市長選で、新顔の奥山勇太に敗れた前市長、田沼陽三のことだ。松田が竹沢新聞本社の同僚記者から聞いた情報を提供すると、小河は小刻みにうなずいた。

「知ってる。上浦じゃ飲みにくいんだろう。四期十六年も務めた現職が、奥山みたいな若造に負けるなんて、田沼は夢にも思ってなかったからな。七十四歳という年齢は、本人の想像を遥かに上回るマイナス材料だって、俺も田沼に忠告したんだぜ。甘く見るとやばいですよ、って。でも田沼のじいさん、『バカ言っちゃいかんよ』って。『あんな、なんの行政経験も無い素人を市長にして何ができる。そんな人間を有権者が選ぶと思うのか。上浦市民を見くびっちゃイカン』って、逆に俺が切れられたからな。見くびってんのはお前だっちゅうの」

 東京の大学を卒業後、生まれ育った上浦市に帰り、約二十年間も上浦タイムスの記者をしている小河にとって、市役所との壁は限りなく低い。役所内の人間関係や次の人事異動にも精通していて、松田はいつも、秘密の裏話を独占して聞けるような贅沢感を味わっていた。松田が笑いながら言う。

「ホント、ホント。田沼の奥山への見方は、見くびっていたという表現がピッタリですよね。まさに油断大敵。でも僕も、あれ、去年の五月でしたっけ、奥山が立候補表明したの。あのとき、いい勝負するとは思ったけど、まさか本当に勝つとは思いませんでした」

「忘れもしない五月十五日。奥山陣営は、ゴールデンウィークには態勢をほぼ整えてたけど、立候補表明は少し遅れたんだ。でも、あそこは同級生がしっかりしていて、陣営の組織化がスムーズに進んだ。それと本人の資質。男前で腰が低い。しかも演説がどんどん上手になった。あれには俺も参ったなぁ。五月に初めてやった街頭演説と十一月の投開票日前日の街頭演説を比べると、別人だもん。適度にユーモアも入るし、堅い話が中心だけど、難しい言葉を使わないから分かりやすい。田沼も尻に火がついて、十月になって、ようやく街頭演説をやり始めたけど、立ち止まる人、ほとんどいなかったなぁ。かわいそうなくらい、みんな素通りしてさ。聞いているのは俺と松田君だけ、みたいなこともあったし」

 小河は、きれいにひげを剃ったツルツルの顎を左手で触りながら、さも面白そうにクックックッ、と声を上げて笑った。

「田沼の街頭演説はビックリするほど下手でしたよねぇ。ダラダラして話が全然まとまっていない。そもそも投開票日の一カ月前からようやく街頭演説をやり始めることじたい、奥山をみくびっていた証拠ですよね」

 松田は、上から目線で尊大な田沼の演説を思い出した。

「過去四回の選挙で田沼が勝てたのは、田沼が強かったからじゃなくて相手が弱かったからなんだ。だから演説だって、仲間の市議や県議が支持者を集めたホテルや集会所でチョロッとするだけ。街に出て新たな支持者を開拓することは全くしなかった。今から思うと、負けて当然だよ」

 小河の分析に、松田はうなずいた。

 階段から五十メートルほどの距離を歩いて校舎に入ると、二人は一階の事務局をノックし、対応した四十歳ほどの女性職員に、書道部の取材で来た旨を伝えた。女性は、松田と小河を交互に見ると、深々と頭を下げた。

「寒い中、ようこそいらっしゃいました。ちょっと今、事務局長の坂本が席を外しているのですが、お二人がいらっしゃったら待合室へお通しするよう承っておりますので、どうぞ、こちらへ、ご案内いたします」

 そう言うと、女性職員は事務局を出て、松田と小河の前を歩き始めた。体形は松田とよく似ている。ポッチャリとして笑顔が似合う、幸せそうな女性だった。

「職員会議室・小」と書かれたドアの前で立ち止まると、女性はドアの脇に表示された「空」という小窓の文字を横にスライドし、「使用中」に変えた。

「どうぞ、こちらでございます。少し前からストーブで暖めています。もし寒ければ、適当に火力を上げて下さい。書道部の件ですが、前の授業の関係で開始が若干、遅れるかもしれません。申し訳ありませんが、準備ができたらこちらから呼びに参りますので、しばらくこの部屋でお待ちになって下さい」

 女性はそう言うと、もう一度、深々と頭を下げ、出て行った。胸の部分に取り付けられた名札に「岡部」と書かれていた。

「気が利くねぇ。ありがたい」

 二人きりになると、小河はさっそく石油ストーブに近寄り、手袋を外して両手を暖気に当てた。それを見て、松田も真似をするように石油ストーブへ駆け寄った。

「山の手には何度か取材に来てますけど、今のおばちゃんは、初めて見ました」

 石油ストーブの上に両手をかざしながら松田が言うと、小河は間髪入れずに答えた。

「岡部だな、岡部順子。去年の年末に入ったんだよ。名字は違うけど、校長の親族だ。離婚して仕事が見つからないから特例で採用してくれ、って校長から事務局長の坂本さんに圧力があったんだって。坂本さん、ボヤいてたもん。今どき縁故採用なんてしてたら学生が集まらへんわぁ、って」

「別にいいじゃないですか、事務職員くらい縁故でも。そりゃもちろん、今は不況で仕事が全然無いから、公平に採用試験をして少しでも優秀な人材を取るべきだ、って考え方もあるでしょうけど。少なくとも、学生が集まるかどうかには関係ないでしょう。というか、山の手に限って、それは絶対無いですって。それにしても小河さん、今さらですけど、ホント、何でも知っていますよね」

 松田が感心すると、小河は首を左右に振った。

「そんなことないさ。俺なんか知らないことばかり。ちっぽけな上浦のことを多少、人より詳しく知っていたとしても、何の得にもなりゃしないよ」

「まぁまぁ、そんないじけないで。少なくとも僕はいつも、ものすごく感謝していますから」

 松田が持ち上げると、小河は頬と口元の両端を極端に上げ、ピエロのようなわざとらしい笑顔を作った。

「ありがとう。松田君にそう言われるだけで、俺は幸せだよ」

「またそんな顔して。でも縁故といっても、良さそうな人じゃないですか、第一印象だけですが。坂本さん、まだボヤき節なんですか?」

 小河は表情を元に戻した。

「いやいや。松田君の第一印象通り。縁故では珍しく良い人だったんだ。人当りは柔らかだし、仕事を覚えるのも早い。坂本さんにとっても予想外だったらしく、今は全然ボヤいてない。むしろ、さすが校長の親族でんな、くらいの勢いさ」

「相変わらず調子いいなぁ」

「ま、岡部はラッキーなレアケースだったってことさ」

 小河の説明を聞きながら、松田は岡部の幸せそうな笑顔を思い出した。実際は離婚したのだから、幸せとは言えないのかもしれない。でも、離婚を望んでいたとしたら、夫という重荷が無くなり、幸せになることもあるだろう。岡部のプライベートに興味がわく。小河なら知っているかもしれない。松田は立ち入った話を聞いてみた。

「でも岡部さんって見た感じ、離婚するようなキャラには見えませんよね。ということは、元旦那に何か問題があったんですか?」

 小河はゆっくりうなずいた。

「らしいな。俺も詳しくは知らないんだけど、別れた旦那が事業に失敗してアル中になったらしい。確か小さな子供が一人、いるんだよ。坂本さんによると、親権を岡部が持って二人で暮らしている。母子家庭だ。苦労も多いだろう。でも無職のアル中男と同居しているよりマシか」

 小河は言葉を切ると松田を見つめ、頬を緩めながら数回、瞬きをした。松田が言う。

「なんですか?変な顔して」

「いやいや、そういえば松田君もバツ一だったなと思ってさ。再婚相手にどうだい、岡部とか。だらしない生活が、少しは改善されるぞ」

 松田は慌てて右手を顔の前に出し、激しく左右に振った。

「駄目です、駄目です、僕もアル中みたいなもんですから」

 コンコン。

 ノックと同時に扉が開くと、岡部が入ってきた。同じ岡部とはいえ背景の事情を知ると、ただの事務員とは一線を画した存在になる。松田は自然に体がこわばった。

「温かいお茶をお持ちしました。どうぞお飲みになって下さい」

 岡部はそう言いながら、お盆にのせた二つの湯呑みを部屋中央の机に置くと、さっきと同じように松田と小河を交互に見て、軽く頭を下げると出て行った。何度も練習したかのように無駄のない動作だった。

 出されたお茶を飲むため、二人はストーブ付近から机へ移動し、向き合って座った。湯気の立つ緑茶をすすりながら、松田がポツリと言う。

「岡部さん、頑張ってほしいですね」

 小河も緑茶を飲み、口から白い息を吐き出した。

「全くだ。緑茶も旨い」

「正社員なんですかね」

「岡部が?違うだろ。アルバイトか契約じゃないか。今の日本じゃ、あの年から正社員になるのは至難の技だぜ」

「ですよねぇ。僕みたいなダメ人間が正社員だっていうのに。正社員にしてもらうよう坂本さんに頼んでおきましょう」

「坂本さんに頼んでもなぁ、意味無いんじゃないか。雇われ事務局長にそんな権限無いぜ。でも校長の縁故だから、大丈夫だろ。突然クビにされたりはしないさ」

 そう言うと、小河はいったん言葉を切り、窓の外に目をやった。松田もつられて視線を向ける。手入れの行き届いた植木が視界いっぱいに広がっていた。授業中なので、人影は見えない。

 小河は視線を松田に戻すと、急に声を潜めて続けた。

「ところで松田君さ。話は全然変わるんだけど、最近、奥山市長のことで何か聞いてない?気がかりな情報。奥山の動きというか方針について」

「奥山でですか」

 松田は心臓が一回、ドクンと波打つ音を聞いた。小河の問いかけは、小河が奥山の「気がかりな情報」を持っていることを示唆していた。記者魂が腹の底でうずく。

 しかし残念ながら、松田に即答できるような材料は無かった。手がかりを探るため、年明け以降の奥山の言動を思い出しながら口にした。

「仕事始めの日に職員の前でしゃべった新年のあいさつは、あまり面白くなかったですね。財政が厳しいから各部局が節約に努めて欲しいとか、農産物のブランド化を進めて付加価値を高めたいとか。田沼と言ってること変わらないじゃん、みたいな。最近は安全運転が目立って、フレッシュな奥山の魅力が薄れているような気がします。とはいうものの、まだ市長になって二カ月ですから、仕方ないかなって気もするんですよね。批判するのは時期尚早というか。田沼色に染まった職員を自分の味方にするのも、時間がかかるでしょうし。実際、市長になって何かを達成するとなったら大変ですから、一時的に安全運転へ舵を切るのもありなんじゃないかなと僕は思うんです。一年後もこのままじゃ、まずいですが、今は様子見っていうか。でも小河さんが言う気がかりな情報っていうのは、たぶんこのレベルの漠然としたものじゃないですよね。もっと精度が高い」

 頭に浮かんだことを、とりとめなく口に出すと、松田はお茶を少しすすった。小刻みにうなずきながら話を聞いていた小河が、低い声で答えた。

「あぁ、俺の言っている話は、精度が高いかどうかは別にして、もっと具体的だ」

 松田は、小河の言葉が脳に染み込むのを待った。もっと具体的、ときたか。さらに一呼吸置くと、思い切って頭を下げる。

「すいません、知りません。小河さんの許可なく記事にはしないんで、教えて下さい、奥山の気になる情報」

 松田はこれまでも何度か、ネタを教えてくれと小河に頭を下げたことがあるので、抵抗感は無かった。小河はそのたびに笑いながら、知っていることの全てではないが、全体像につながる足がかりを教えてくれた。教えてもらったからには、松田も義務を負う。全体像を把握できたら、記事にする前に小河へ伝えなければならないのだ。それはわざわざ口に出して確認するまでも無い、二人の間の暗黙のルールだった。

 ただ、これまで松田はそのルールを律儀に守ってきたし、苦になることも無かった。それどころか、むしろ喜びでさえあった。松田の報告に対し、小河は常に的確な助言を与えてくれた。二人で半ば協力しながら真実に迫る過程は、松田が新聞記者としての生きがいを感じられる貴重な時間だった。

 頭を下げる松田に、小河は声を潜めたまま答えた。

「いやいや、止めてくれって。そんな大層に頭を下げないでも教えるから。というか、奥山の話は、あくまで噂レベルなんだがな」

 そこで小河は一度、深く息を吸った。

「松田君は、上浦市の一部で五年前から始まった緑視率の話、知ってる?」

 松田は頭を上げると、力強くうなずいた。

「緑視率。知っています。路上に立った人から見て、視界に占める緑の割合が何パーセントかっていうやつですね。草木が多いほど緑視率が上がる。自治体は景観を守るため、一定割合以上の緑視率の確保を住民に義務づける。初めて聞いたときはずいぶん驚きました。役所がそんなことまでできるのかって。ただ、上浦市で導入されているのは、たしか城石地区だけですよね」

「その通り。ほぼ百点の答えだ。上浦市で導入されているのは城石の約五百世帯だけ。実は俺の実家が城石にあったので、この緑視率については色々と考えさせられた」

 松田は冗談交じりに人差し指を小河へ向けた。

「ヒュー。さすが小河さん、お坊ちゃんですね。緑視率の問題は、住民が負担を強いられること。そもそも高級住宅地の城石地区は、市の規制で一戸建てしか建てられないし、緑視率の導入で住民は庭にたくさんの草木を植えることが求められる。家の生け垣もコンクリートや鉄製はNGで、自然石や植物にしなくちゃならない。結局、相当な金持ちじゃないと、この新しいハードルをクリアできないんですよね」

「そうそう。さらに住民全体で、景観保護のため一定の負担を分かち合うという意識が共有されてないと、上手くいかない。緑視率は市が頭ごなしに導入するんじゃなくて、地元住民の自治会が決めて、市に『規制をかけてくれ』とお願いするんだ。ボトムアップの典型みたいな政策だよ。でもすべての住民が賛成するなんてこと、あり得ないよな」

「何パーセントでしたっけ?緑視率って」

「十五パーセント以上。大変な数字だよ」

 そう言うと、小河は再び会議室から窓の外へ目をやった。窓枠内は手前に植木、その向こうに校舎、残りは澄んだ冬の青空で占められている。

「この状況だと、緑視率は七十パーセント、ってとこですか」

 松田の言葉に、小河はうなずいた。

「そんなとこだな。でももちろん、建物の中から見た数字に意味は無い。ウチの実家は親父が普通の会社員で、金持ちというわけじゃ全く無いんだ。城石に家があったのは、たまたま祖父が土地を買っていたから。戦前は完全な山中で、購入したときは二束三文。そこが結果的に、昭和の終わりにかけて高級住宅地になった。祖父は生前、山中だった城石にこんなたくさんの住宅が建つとは思いもしなかった、と驚いていたよ」

「そういえば小河さんの言い方は、実家が城石にあった、って過去形でしたね。ご両親、今は住んでいないんですか?」

 小河はため息をついた。

「そう。今は住んでいない。この緑視率がとどめになった。五年前、十五パーセントを守るために、追加の植樹をする必要が出てきたんだ。そもそも築五十年以上が経過して、家の耐震化率は現代の基準を大幅に下回っていた。住所が城石といっても、年金生活だから家を建て直したり植樹をしたりするお金の余裕は無い。家が古いのは、慣れさえすれば生活できるけど、緑視率は守らないと罰金や氏名公表のペナルティがあるんだ。真面目に生きて七十歳を過ぎて、なんで悪者にならなくちゃいけないのってことさ」

 松田は同情し、指差して小河を冷やかしたことを反省した。

「そうだったんですか。それで、引っ越したんですか」

 小河はうなずいた。

「あぁ。家を丸ごと売り払って、上浦の中心部に分譲マンションを購入した。今は市役所の近くに住んでいるよ。高齢になって住み慣れた家を離れるのは普通、ダメージが大きいから、少し心配したんだけど、おかげさまで元気にやってる。マンションはすきま風が入らないから暖房や冷房がすぐに効くし、買い物も便利、病院も近い。自宅の売却金が残っているから生活に余裕もできた。結果オーライ。緑視率が出てきたときは参ったけど、結局は祖父に感謝しなくちゃってことだ」

「それは良かった」

 松田は相槌を打つと、わざとらしく姿勢をただし、遠慮がちに聞いた。

「で、その緑視率と奥山がどう関係しているんですか?」

 小河は、いつの間にか元の大きさに戻っていた声のボリュームを、もう一度絞りながら答えた。

「そうそう、本題はそれだったな。いや奥山がさ、この緑視率の対象地域を大幅に増やそうとしているらしいんだ」

「対象地域を増やす?城石地区以外でも導入するってことですか。ほかに高級住宅地っていったらどこがあるかな」

 松田が思い出そうとすると、小河は顔の前で右手を大きく左右に振った。

「違う違う、そんなレベルの話じゃない。市内の山側半分、約五万世帯を対象にするんだ」

「ご、五万世帯?半分?冗談でしょう」

 松田が素っ頓狂な大声を上げると、外の植木に止まっていた二羽の雀が驚いて飛び立った。小河が慌てて人差し指を口の前に立てる。

「松田君、声がでかい。小声で頼むよ」

 松田はうなずきながら緑茶を口にし、心を落ち着かせた。耳の奥で、緑茶を飲みこむ音が大きくゴクリと聞こえる。

「というか、嘘でしょ、それ」

 松田の問いかけに、小河は顔を左右に振りながら答えた。

「噂としては確実にある」

「でも山側半分って言ったら、この山の手高校は当然含まれるし、ウチの支局も小河さんの会社も対象ですよね。そんなことできるわけ無いじゃないですか」

「普通に考えたら、そうだよな」

「普通に考えたらって小河さん、冷静ですね。まさか、住民に強制的に木を植えさせるんですか?お金、無いですよ」

「補助金を出すらしい」

 小河の言葉が、松田には血の通っていない役所の対応に思えてきた。

「補助金と言っても、全額じゃないでしょ。財政難と言っておきながら、税金で木を買うんですか。城石地区でさえ、小河さんの両親みたいに自宅を手放さざるを得ない人が出たっていうのに。市民生活への影響、ものすごく大きいですよ」

「温暖化防止には二酸化炭素の削減が欠かせない。二酸化炭素を減らすには、森を増やすことだ。そもそも山を切り開いて住宅を建てたわけだから、少しでも元の姿に近づけるのは、むしろ住民の義務だ。さらに緑が増えて景観が良くなれば上浦市のブランド力が向上し、地価も上がる。人と森の共生都市として上浦市を全国へアピールするのだ」

 小河は声量に起伏をつけず、ロボットのように市の主張を代弁した。松田は小河の口から聞く市の言い分に、違和感を感じた。

「奥山って、そんなキャラでしたっけ?アイツの口から温暖化防止なんて言葉、聞いたことあったっけなぁ。言ってたとしても記憶にないから、大した内容じゃないですよ」

「俺も記憶にない」

 小河は首を振りながら、言葉を足した。

「ただ温暖化防止は大事なことで、国に対策を任せっきり、地方自治体は何もしなくて良いんですか、って議論は、あるにはあるんだ。でも、実際、できることとなるとなぁ。限られてくるんだよ。ノーマイカーデー作って職員に車で通勤させないとか、ゴミの分別回収とか。それで実際、二酸化炭素、どれだけ減るんですか?みたいな」

「そうですよね。ただ、繰り返しになりますが、奥山がそんなことに関心あったとは思えません。そもそも上浦市にはノーマイカーデーすら無いでしょ。そこにいきなり緑視率の導入拡大を言うのは順序が違うというか劇薬、いや、爆弾投下くらいのショックですよ。それに」

 松田は緑茶をすすってから、次に湧いた違和感を口に出した。

「緑が増えたら上浦市のブランド力が向上し、地価が上がるっていう論理も荒唐無稽です。僕から言わせたら、将来必ず値上がりすると言って売る投資信託詐欺と同じですよ。だいたい万が一、いや億が一、この大不況の時代に地価が上がったとしても、住民は売ったり貸したりしない限り、一円の得にもなりません。普通の住民は地価に関係なく、そこに住み続けるでしょ」

「確かにそれも一理あるよなぁ」

 松田の意見にうなずきながら、小河は不思議そうに首をひねった。

「小河さん、やっぱりそれ、嘘じゃないですか?エイプリルフールって訳でもないけど。奥山がそんなクレイジーなことを言い出すとは思えません」

 小河はスーツの胸ポケットからボールペンを取り出し、右手でクルクルと回しながら、さっきと同じ言葉を繰り返した。

「噂としては確実にある」

「噂というか嘘ですよ」

「いやいや松田君、それは、いかんね。決めつけは。松田君だって市役所を取材したら、その噂へはすぐにたどり着けるよ。首相が少女買春をしている時代だぜ。最初から嘘と決めつける話なんて、どこにも無いだろ」

 松田は笑って吹き出した。

「ブッ、それはイタリアじゃないですか」

「イタリアだろうが日本だろうが、民主主義で選ばれたならトップなんだから一緒だよ。先入観持っちゃいけないって話さ」

「いや、すいません。小河さんが冗談を言ってるのかと思ったんですけど、違うんですね」

「そんなつまらない冗談を言う男か?俺が」

「いえ、違います」

「だろ」

 小河は、アピールするように鼻から息を吐いた。

 ガラガラッ

 ノックも無しにドアが開き、事務局長の坂本直也が入ってきた。

「どうも、えらいお待たせして、すいませんでしたなぁ」

 小河が右手を挙げながら答える。

「いえいえ、松田君と世間話をしていたんで、全然問題ないですよ」

 寝ぐせの付いた柔らかい髪の毛を七三に分けた坂本は、眼鏡の奥の人懐こい目で小河と松田を順に見た。中肉中背で年齢は四十代後半。たしか小河より一歳年上だ。

「松田さんは今年会うの、初めてでしたね。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる坂本に、松田は恐縮して立ち上がった。

「いえいえ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 今年初めて聞く大阪弁だ、と松田は思った。坂本に言わすと、大阪府でも南部の出身のため、南河内弁と言うらしい。面白いエピソードがある。坂本は東京で過ごした大学時代、家庭教師のアルバイトをしようと試みたが、どのサービスへ登録しようとしても断られたという。ある日、思い切って相手に理由を尋ねると、「その言葉づかいでは、ちょっと」と返されたそうだ。小河が以前、松田にそのことを教えながら「ある意味、差別だよな。俺が生徒だったら、あんな大阪弁で教えてもらいたいよ」と言っていた。松田も坂本の言葉の柔らかさが気に入っていた。大阪弁は乱暴なイメージがあるが、坂本が話すと温かくなる。

 坂本は頭を上げると、松田を見て笑顔を浮かべた。

「小河さんとはね、先週、『福々』でバッタリ会ったんですよ。次はぜひ松田さんもご一緒に」

 福々は小河が常連の居酒屋だ。家庭料理が美味しく、女性店主は品があって話も飽きさせない。松田も小河に連れられて、何度か訪れたことがあった。

 坂本は胸の前で両手をパチンとたたくと、言った。

「ほな早速ですが、書道部の準備、出来てますんで行きましょか。アメリカの留学生はエリザベスっちゅう女王様みたいな名前の、顔も可愛らしいんですけど、この子とか、メアリーとか、あとちょっと名前が出てこんのですが、きれいな女子を前の方の席にしていますんで、写真はエェ具合に撮れると思います」

「さすが、坂本さん。助かります」

 鞄を持って立ち上がりながら、小河が礼を言った。

「いえいえ、感謝されることではありません。もう最近の女子高生は動きがトロくてねぇ、キビキビ、若々しいせなアカンて、言うてるんですけど、ノンビリしてますわ、日本もアメリカも変わりません。それで準備もなかなか進まなくて、ご迷惑をおかけしました」

 坂本が先導する形で会議室から廊下へ出ると、後ろから小河、松田の順に続いた。小河の背中を見ながら、松田は奥山のことを考えていた。書道部の取材が終わったら、調べてみよう。事実なら大きなニュースだ。もし、上浦市に取材拠点を置かない全国紙やテレビ局に早く報道されたら、松田の面目は丸つぶれになってしまう。

 松田は朝起きて全国紙を手に取ると、上浦市の緑視率拡大が大々的に報じられていて、うなだれる自分を想像した。と同時に、隣には制服姿の美少女エリザベスがいて、優しく松田の髪をなでてくれる様子も頭に浮かんだ。こんな中学生みたいな妄想をしてしまうなんて。俺は十代からの三十年間、まるで成長していないようだ。松田は自分の未熟さを恨みながらも、緩んだ表情を元へ戻すのに苦労した。


□一月十八日 奥山勇太


 今日も日が暮れた。あれから何日が過ぎたのだろうか。ハッキリしないが、月の満ち欠けでおよその目安はつく。自分が木に取り込まれた、あるいは木になってしまった。そのことを、今や奥山はハッキリと自覚していた。あの夜から数日後、奥山はこの木に名前を付けた。ジョニー。特に意味は無い。最初に頭に思い浮かんだのが、なぜかジョニーという名前だっただけだ。

 十二月十八日、焼き肉屋からの帰り道、突然現れた少女に連れられて公園に入った。そして、指で差された高さ五メートルほどのジョニーに近づくと、急に枝が伸び、奥山の胸に突き刺さった。まるでストローで吸われるように魂を抜かれた。空っぽになった奥山の体に、おそらくジョニーが入り込んだ。

 だからジョニーという名前は、この木の名前であると同時に、奥山の体を乗っ取ったモノの名前でもある。奥山の体は少女と一緒に、歩いてどこかへ立ち去った。どこへ行ったのだろう。少女と二人で行方不明になったか。それとも山中で自殺でもしたか。

 しかし、奥山は市長だ。突然いなくなれば騒ぎになる。市長が行方不明になった過去の例は知らないが、一定期間不在にすれば、次の市長を決める選挙が実施される。市長選になれば、候補者をPRする選挙カーが市内全域を走る。奥山が木として川辺から見渡す限り、市内にその様子は無かった。

 だから今、この瞬間も、ジョニーが奥山として動いている可能性が高い。要するに入れ替わってしまったのだ。俺が俺で無くなったことを、周囲は気づいているのだろうか。

 残念ながら知るすべは無かった。

 木になった奥山は、当たり前だが動けない。しかし、視点を変えることは出来た。これは大きな救いだった。自分の意思で右手を動かすように、ジョニーの頂上へも、逆に根元にも、奥山は目の位置を瞬時に移動できた。ジョニーの頂上はマンションの三階くらいだろうか。奥山が奥山として最後に歩いた三太橋や悠然と流れる雪野川のほか、公園で遊ぶ子供たちを鳥のように見下ろすことができた。

 これで自宅マンションも視界に入り、響子や香奈を目にすることができたら、どんなに勇気づけられるだろう。奥山は何度、そう思ったかわからない。

 しかし、奥山と自宅マンションの間には、十五階建ての巨大なマンションが立ちはだかっていた。夕方になると、外壁が灰色一色のマンションでは各部屋に明かりが灯り、カーテンの向こうでは人影が行き来した。この先、夏になると、カーテンやガラス窓が開け放たれ、幸せな家族を直接目にすることができるだろう。

 ただ、奥山は思う。

 そこに第二、第三のジョニーがいない保障はどこにある。人間と木の中身が入れ替わってしまう。口に出せば気が狂ったとしか思われない、しかし紛れもない事実は、奥山の知る限り世間に知られていない。

 では奥山が世界初のケースだったのだろうか。

 どうもそうは思えない。根拠はある。あの少女だ。


 四日前にさかのぼる。


 寒さが和らぎ、朝から雲一つない晴天だった。曜日の感覚がだいぶ薄れてきたが、おそらく週末だったのだろう。公園へ集まる家族連れに、いつもより多く父親が交じっていた。歓声を上げ懸命に遊ぶ子供たちの姿は、殺伐とした奥山の心に、わずかながら潤いを与えてくれた。奥山は視点をジョニーの頂点や枝の先へ小刻みに動かしながら、にぎやかな公園を眺めていた。子供たちが遊ぶのは滑り台や砂場などの遊具が中心で、奥山の立つ川辺まで来ることは無い。

 しかし昼過ぎ、公園の中から一人の少女が川辺へ走ってきた。

 忘れもしない、奥山をここまで連れてきた少女だった。

 ボンヤリしていた奥山の脳は猛烈に回転し始め、心臓が脈打つような感覚に襲われた。体が熱くなり、冷静さが瞬時に吹き飛ぶ。

「おい、お前、助けてくれ。なんで俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ。納得いかねぇぞ。早く出せ。木から出せ。俺を元に戻してくれー」

 気づいたら前回同様、奥山は力の限り叫んでいた。しかし予想通り、言葉は全く外へ発せられない。少女の行動にも、奥山の叫びに呼応したような変化は何一つ見られなかった。

 駄目だ、これでは駄目だ。冷静さを取り戻さなければならない。

 奥山は考えた。

 叫んで届かないなら、日常会話の音量で語りかけてみよう。失敗しても、失うものは無い。奥山は五秒ほど沈黙し、心を落ち着かせてから話し出した。

「なぁ、君。かわいい少女。君と会話をしたいんだ。頼むよ。返事をしてくれ。なぜ私がこんな目に合わなくちゃいけないんだい?悪い奴なら、ほかに山ほどいるだろう。私には家族がいるんだ。市長としての仕事もある。俺の、奥山勇太の体はどこにある?もう充分だろ。そろそろお互い、元の姿に戻ろうぜ。俺が何か、君の気に障ることをしたのなら謝るから。な、ごめん。悪かった。だから許してくれ」

 少女は、悪夢のきっかけだ。少女がいなければ、この危険極まりない川辺には来なかったし、枝に刺されて木と入れ替わることも無かった。今のところ、この事件の首謀者といえる。もちろん奥山がここに閉じ込められていることも知っている。

 だから、外に発せられず、普通の人には聞こえない声も、少女の耳になら入るかもしれない。奥山がそう期待するのは自然なことだった。せめて一瞬でも動きを止めたり、こちらを振り向いてくれたりしたら、猫なで声を出した甲斐があるというものだ。

 しかし、いくら音量を落としても少女の様子は何も変わらない。残念ながら聞こえていないとしか思えなかった。少女にとって、奥山は透明な存在だった。むなしさだけが募る。奥山はさらにしつこく謝ったり説得したりしたが、効果が無いと判断すると一転、黙ることにした。

 そもそも少女はここへ何をしに来たのだろうか。俺に用があるのでは無さそうだ。

 よし、観察してやろう。

 少女の服は前回のようなジャージと違い、紺色のジーパンにピンクのダウンジャケットを着ていた。着替えられるということは、どこかに自宅があるのだろう。

 公園から走ってきた少女は奥山から三メートルほど離れた隣の木まで、わき目も振らず一直線に駆け寄った。

 その木も奥山と同様に、川の中から幹を伸ばしていた。幹の下部がタコの足のように枝分かれしている点もそっくりだ。名前は知らないが、同じ種類なのは間違いない。

 十二月十八日、ジョニーに取り込まれたときは夜で視界が悪かったが、翌日の昼間に見渡すと、奥山の周囲には同様の木が立ち並び、さながら群落となっていた。暇を持て余していた奥山は、いくつかの枝の先へ視点を動かしながら本数を数えてみる。同様の木はジョニーを含めて三十四本だった。

 少女は靴が濡れるのも気にせず、駆け寄ったそのままの勢いで川へ入ると、慣れた様子で幹に右手を当てた。隣の木は、奥山より二メートルほど高かった。

 少女は右手を当てたまま、下を向き十秒ほど目をつぶる。やがて目を開けると視線を上げ、首を左右に振ったり、時にはうなずくように上下へ動かしたりした。そしてまた、下を向いて目をつぶる。

 直観だが、奥山は確信した。

 会話だ。少女は隣の木と会話をしている。

 なるほど通常なら声は空気中を伝わるが、相手が木の場合、触れ合って言葉を交わすのか。

 大きな発見だ。

 となると、隣の木は一体、何者なのか。

 少女の表情からは、誰に何を言われようが自分を貫き通すような、強い意志が感じられた。木に向けた視線の鋭さから、奥山は話の中身が深刻なのだろうと推測した。

 何を話しているのだろう。

 想像力を膨らまそうとしたとき、公園からもう一人、今度は大人の女性が川辺へ向かって走ってきた。小太りで、一生懸命、両腕を前後に振っている。足を踏み出すたび、上体が大きく左右へ揺れた。走るのが苦手そうで、運動不足の日常が見て取れた。

「ノリコー、またそこ行って。風邪ひくじゃない、バカー」

 茶色のズボンをはき、深緑のコートを着た四十歳ほどの女性は、叫びながら少女の背後に近づいた。

「ちょっとだけだよー」

 少女は右手を木に当てたまま、面倒臭そうに返事をした。一方、視線からは、みるみる鋭さが薄れていく。大人が子供へ戻るように、少女の表情は柔らかくなった。

 息を切らしながら走ってきた女性は川の寸前で足を止めると、少女の足元へ目をやった。女性から五十センチほど離れた川の中は、深さ十センチほどだろうか。少女は靴を含むくるぶしまで川の水に浸かっていた。女性は両手を伸ばし少女を抱きかかえようとしたが、腕が短く、指先でダウンジャケットに触れるのがやっとだった。

「ノリコッ、お母さん、濡れるの嫌だからね。こっち来なさい。早くっ。もう、アンタ、靴がびしょ濡れじゃん。信じられない」

 少女は右手を木から離すと、別れを告げるように一度だけ、幹をたたいた。そして後ろを向き、女性の元へ行くと、甘えた声を出す。

「ノリちゃん、木が好きなの」

 女性は岸に戻った少女を抱きかかえると、すぐに川辺へ座らせて靴と靴下を脱がした。

「好きなのは良いけどさぁ、真冬に川へ入るのはやり過ぎだって言ってんの。寒くない?ほら足、こんなに冷たいじゃない」

 女性は少女の裸足を両手で包み、温めた。次にコートのポケットからタオル地のハンカチを出し、ふき始める。少女は笑顔で女性を見つめ、返した。

「寒くないよ。ノリちゃん強いの」

「強くない。バカ言ってんじゃない。怒るよ。子供ってホント、何するか分からない。ノリコが風邪をひいたら、お母さんにうつる。お母さんが風邪をひいたら出勤できない。今の仕事をクビになったら、次は無いよ。そしたら、晩ご飯におかずが出なくなるんだよ。ノリコの大好きなイチゴなんて、絶対買えないんだから。困るでしょ」

「困るー。イチゴじゃなかったらミカンでも良いよ」

「ミカンも無理。いや、じゃ、ミカンだけね。一カ月に一個だけ、買ってあげる」

「ビンボッボー」

「そうだよ、貧乏貧乏、大貧乏。嫌なら、こんな無茶なことしないの。分かった?」

「はーい」

 何も知らずに眺めれば、微笑ましい親子の光景だった。しかし、木の視点で見つめる奥山の胸には、複雑な感情が渦巻く。この状況から、一体何を読み取れば良いのか。いくつもの考えが雪崩のように押し寄せ、頭の中を整理できなかった。

 そのとき、公園からもう一人、女性がこちらへ歩いてきた。

 小柄で痩せている。丸い眼鏡をかけていた。年齢は三十歳ほどか。

 痩せた女性は右手を大きく左右に振りながら、声を張り上げた。

「岡部さーん。みんな、先に行っとくってー」

 岡部と呼ばれた小太りの女性は、ハンカチで少女の裸足をふいていた手を止め、振り返った。

「あぁっ、高橋さーん。そうだった、すぐ行きまーす」

 岡部は腕時計に目をやると、しまった、という表情を浮かべ、少女に話しかけた。

「まずい、もう午後一時半じゃん。ユミちゃん達のピアノの発表会、二時からだったよね」

 うなずいた少女は不満げな顔をした。

「うん、そうだよ。ノリちゃん、別に行きたくない。ユミちゃんのこと、そんなに好きじゃないもん」

 岡部は肩に背負った小さなリュックサックから新しい靴下を出すと、少女にはかせながら言った。

「そういう訳にもいかないのよ。お母さん通しの付き合いってのがあるからさ。お友達の演奏だけ見たら、すぐ帰ろう。ね」

「ブッブッブー。ビンボッボッボー」

 少女が音階を付けて歌う。低くて暗いメロディーだった。岡部が慌てて注意する。

「ノリコ、ブッブッブーは良いけど、ビンボッボッボーは外の人の前で言わないでね。恥ずかしいから。高橋さんの前で言ったらダメよ」

「ブッブッブー」

「そう、それならオッケー。ねぇ、どうせならもっと明るいメロディーにしない?ブッブッブー」

 岡部がアップテンポな音階を付けて言い直す。

「ブッブッブー」

 真似をする少女の頭を、岡部は笑顔で撫でた。

「いいよいいよ、その調子」

 公園からゆっくり歩いて来た高橋が、岡部に追いついた。靴を脱いでいる少女に目をやると、クスクスと笑いながら声をかける。

「岡部さん、ノリちゃん、靴、どうしたんですか?まさか」

 岡部が眉をひそめて返す。

「そうなの、そのまさか。川の中に入ったの。バカでしょ」

 高橋はコートのポケットに突っ込んでいた両手を出し、顔の前で大きく左右に振った。

「いえいえ、バカだなんて、とんでもない。元気ねーっ、と思って。ウチのシンタロウなんかさ、水が苦手だからプールに通わせようとしてるんだけど嫌がって嫌がって。困ってるんです。ノリちゃんを見習うように言わなきゃ」

「ダメダメ、この子ったら突然、何するか分からないんだから。同級生の男の子よりヤンチャだなんて、もっとおしとやかにしないと、お嫁にいけないよ」

 少女は首を大きく左右に振った。

「じゃ、いかなーい」

「コラー」

 高橋は仲睦まじい親子から目を離し、何気ない様子で周囲を見渡した。ほどなく奥山や隣の木の根元に目の焦点が合い、表情から笑顔が薄まる。やがて、少し驚いたようにつぶやいた。

「岡部さん、私、ここ、初めて来たんですけど、この木、なんか変わってません?だって、川の中から生えてますよ」

 岡部は少女の濡れた靴下と靴を、持参したナイロン袋に入れながら答えた。

「えぇ、これはね、マ、マ、あれ、なんだっけ。ひどい、また物忘れだわ。ノリちゃん、なんだったっけ?この木の名前」

 少女は靴下姿で川辺に座ったまま、素っ気なく言った。

「知らない」

 岡部は立ち上がり、リュックサックを手に取ると、背中ではなく体の前面にかける。空いている背中に少女をおんぶしながら言った。

「そうだよね、ノリちゃん、木は好きだけど名前になんか興味無いんだもんね。ちょっと待ってよ。マリ、マカ、マラ、マコ・・・語呂が違うなぁ。一年くらい前、新聞に載ってたんですよ。マで始まるのは間違いないんだよね、違和感無いから。マセ、マニ、マン、マン」

 そこまで言うと、岡部は嬉しそうに目を輝かせた。おんぶした少女を下して再び川辺に座らせると、自由になった両手をパチンとたたく。

「思い出した、マングローブ。間違いない。ノリちゃん、マングローブだよ。あぁ良かった、スッキリしたー」

 川辺に座らされた少女が、両腕を岡部に向けて伸ばす。

「お母さん、おんぶー、おんぶー」

 岡部は慌てて少女を背負いなおした。

「ごめんごめん、今、どうしても手をたたきたかったの」

「ブッブッブー」

 先ほど岡部が口ずさんだメロディーと似ていたが、音階は少し低かった。

「すまぬ、すまぬ、ブッブッブー」

 岡部は再び少女をおんぶすると、少しずつ左右に揺らしながら明るく言い直した。一方、高橋は左手を顎に当て、何か考え事をしている。岡部が声をかけた。

「どうしたんですか、高橋さん。難しい顔しちゃって」

 高橋は、奥山の隣のマングローブを見つめて答えた。

「いえいえ、難しいことなんて何も考えていないんですけど、マングローブねぇ、なんか聞いたことあるなぁと思って、この響き。どこで聞いたのかな」

 岡部が答える。

「結構有名ですよ、ド忘れしていた私が言うのも何ですけど。例えば、長坂駅のホームに生命保険の大きな看板があって、『私達はマングローブを植樹しています』ってPRしていました。今、思い出したわ」

 岡部は話しながら顎を突き出し、川の対岸方向を差した。その先数百メートルにある長坂駅は昨年十二月十八日夜、奥山が奥山として帰宅するため、降り立った駅だった。岡部の背中で少女が言う。

「良いことだー」

「良いこと?」

 岡部が聞くと、少女は即答した。

「木を植えることがだよ」

「そっかそっか、そりゃそうだ。植林するのは良いことだ」

 岡部が相槌を打つ。高橋が独り言のようにつぶやいた。

「そうなんだ、あの駅はよく使うんだけどなぁ。全然記憶に無いっす。今度、見とこっと」

 岡部は少女をおんぶしたまま、公園へ戻るために歩き出した。後ろに続きながら、高橋が尋ねる。

「岡部さん、マングローブのこと、新聞に載っていたって。どういう記事だったんですか?」

 岡部は前を向いたまま答えた。

「えっと、竹沢新聞に載ってたんだけどね。マングローブは熱帯の植物だから、通常、日本では、せいぜい北は鹿児島までにしか生えないの。それなのに、冬は寒くなる上浦みたいな地域に生えるのは珍しいんだって。そういう記事。ほかにも色々書いてあった気がするけど、忘れちゃった」

 そこまで言うと岡部は一呼吸置き、急に笑い出した。

「そういえばさ、この前、書道部の取材で、ウチの学校に竹沢新聞の記者が来たの。松田さんっていう、私よりだいぶ太った人なんだけど、車がね、オレンジ色のマーチで、中が恐ろしく汚いの。後部座席や助手席にさ、長靴やカップラーメンや、たっくさんの新聞紙、週刊誌が散らばり放題。あとね、銭湯で使うためのお風呂セットや、何が入っているか分からない白いコンビニのナイロン袋、ボロボロの小型扇風機まであるのよ。冬だっていうのに。ひどすぎない?笑っちゃった。ごみ収集車ですか、みたいな」

 高橋も噴き出した。

「ブッ。もぉ、岡部さん、相変わらず人の車の中を見るの、好きですねぇ。わざわざ事務所から駐車場まで見に行ったんですか?」

 岡部は振り返ると、高橋を見てペロリと舌を出した。

「わざわざというより、ちょうど別のお客さんを迎えに行くため、駐車場まで行ったのよ。そしたら来客用スペースに、初めて見るマーチが止まっていたから、あっ、これはさっき来た新聞記者のだなと思って、のぞいたの。オッサンなのにオレンジ色のマーチというのも変だなと思ったけど、外観が汚れてたの。たぶん三カ月は洗車していない。で、中を見たら、ギャーッ、って感じよ。間違いなくアイツのだ、みたいな。ガラスはきちんと閉まってるんだけど、臭ってきそうだった。それに比べて上浦タイムスの小河さんって記者は打って変わって、バリッとした外車に乗っているのよ。黒のフォルクスワーゲン。車内もとても綺麗。助手席に読みかけの岩波新書が一冊、置いてあるだけ。もう、同じ新聞記者なのにこの違いは一体何?」

 高橋は腹を押さえてゲタゲタ笑った。

「ハーッ。岡部さん最高。確かに何なのかしらね、その違いは。新聞社の規模からすれば、竹沢新聞の方が圧倒的に大きいのに。ちゃんとお給料、もらっているはずよね、その松田さんって人。まぁ関係ないか、そんなの。性格ですもん。でも車を見ると、その人のことが結構分かりますよねー」

「分かる分かる。松田さんは絶対、だらしない生活。家族もいない、おそらく独身。さすがにあの車を許せる妻はいないと思うよ」

 少女を背負った岡部と高橋は、公園と川を隔てる長さ十メートルほどの緩衝帯を抜けようとしていた。木と雑草に覆われた緩衝帯と公園の間にある高さ約五センチの白いブロックをまたぐ。高橋が相槌を打った。

「確かに。私も旦那がそんなに車内を散らかしたら激怒します。あっ、私の車、公園の前に止めてるんですよ。ユミちゃん達のピアノの発表会、一緒に行きませんか。旦那とシンタロウは、家から直接行ってるんで」

 岡部は振り向くと、目を輝かせた。

「ホント?実はちょっと期待してたの。発表会をするのは上浦市文化ホールだから、ここから歩いて二十分ほどかかるでしょ。ノリコを背負ったまま行くのは、しんどいなぁと思って。かといってびしょ濡れの靴をノリコに履かす訳にもいかないし」

 岡部が肩越しにノリコを見ると、穏やかな寝息をたてていた。

「ノリちゃん、寝ちゃいましたね」

 高橋が微笑むと、岡部はため息をついた。

「いいよね、子供は自由で。うらやましい」

「本当。岡部さん、大変でしょう。私と違って専業主婦じゃないから。でも偉いわ。上浦山の手高校みたいな立派な仕事先、見つけて」

「ちょっと人脈を駆使してね。ラッキーだった。利用できるものは利用しなきゃ。私、たくましく生きることに決めたの」

 奥山は、岡部や高橋と同じ高さの目線で後ろ姿を見送っていたが、公園に戻った二人の背中はすべり台やジャングルジムなどの遊具に遮られ、視界から消えようとしていた。

 二人の会話をもっと聞きたい。

 奥山は、視点をジョニーの頂上に変えた。

 想定通り。三人の姿を、眼下に見下ろす形でとらえることができた。三人に意識を集中する。ジョニーと入れ替わってしまった翌日には気づいたことだが、木になった奥山は聴力、視力、嗅覚の三点が、人間だった時に比べ、何倍にも増加していた。口が無く、動くことも出来ない分、別の能力に割り振られているのだとしたら、細やかな心遣いだ。誰に礼を言えばよいのか。

 ライフル銃のスコープで狙うように三人へ焦点を合わすと、高橋や岡部の服のしわまでクッキリと把握できた。風の音に混じり、岡部の声が聞こえる。

「ピアノの発表会に、桃組のお母さんは何人くらい来るのかしら?」

 高橋は少し視線を宙に上げ、右手の指を折りながら人数を数えた。

「二十人くらいかしら」

 岡部がため息交じりに天を仰ぐ。

「二十人も。桃組の児童の三分の二じゃない。すごい出席率ね」

「白川幼稚園でも桃組くらいじゃないですか、そんなに団結心があるの。もちろん、私みたいに嫌々来ている人もいるでしょうけど。なんせ谷上さんが熱心だから、押されちゃいますよね。『ユミの発表会にぜひご参加下さいっ』なんて直接言われたら、行かざるを得ないというか」

 岡部が何度もうなずく。

「ホントホント。私もけっこう嫌々なの。でも先月、平田小学校の入学説明会に行ったら、高橋さんもそうよね、谷上さんから直接チラシを渡されて、『ぜひご参加下さい』攻撃。そんなに宣伝されちゃ、ユミちゃんもプレッシャーだと思うけど。あとさ、ノリコが触発されてピアノを習いたいとか言い出したら困っちゃうのよね。そんな経済的余裕、無いからさぁ」

 岡部の背中で熟睡するノリコを見ながら、高橋が目を細めた。

「大丈夫でしょう。ノリちゃんは、もっと活発系だと思います。たぶんピアノみたいな文化系には興味無いですよ」

「だといいけど。それも喜んで良いやら悪いやら。ハハハ」

岡部が自嘲気味に笑った。公園の出入り口に着くと、三人は道路上に駐車した車へ向かう。

高橋が遠慮がちに言った。

「私の車はたぶん綺麗ですけど、汚かったらごめんなさい」

 岡部は頭を大きく左右に振り、弁解した。

「違うの、違うの、こちらこそごめんなさい。高橋さんの車について、ジロジロ見たり評価したりする訳ないわ。私にとって、どうでもいい新聞記者だから、ちょっと面白おかしく言っただけ。それに高橋さんの車が綺麗なのは、よく知ってるから」

「良かったぁ」

 高橋はホッとした様子でコートのポケットから車の鍵を取り出すと、ボタンを押した。ドアロックが解除される乾いた音とともに、白いトヨタ・プリウスのハザードランプが点滅する。今度は岡部が遠慮がちに口を開いた。

「高橋さん、厚かましくて恐縮なんだけど、ノリコに乾いた靴を履かせたいから、途中、家に寄ってもらっても良いかしら?ダッシュで取りに行って、一分以内で戻ってくるから」

「もちろん。最初からそのつもりでした。ノリちゃん、いつ起きるか分かりませんもんね。一分以内なんて言わずに、ゆっくり行って下さいよ。発表会にはちょっとくらい遅れても大丈夫です。ユミちゃんの出番は、十一番目ですから。私、リサーチ済みなんです」

「そうなんだ。知らなかった。得した気分。本当に本当にありがとう。高橋さんが来てくれなかったら発表会、行けなかったかも」

 高橋は少女をおんぶしている岡部のため、後部座席のドアを開けた。

「そんなそんな、大したことないですよ。車だとすぐですし」

 岡部が背中のノリコを後部座席に座らせる。

「高橋さん、良い人ねぇ。じゃ、お邪魔しまーす」

 少女に続いて岡部の姿が後部座席に消えると、高橋はドアを閉めた。プリウスの後ろ側をまわり、高橋が運転席に乗り込む。十秒ほどしてから右ウィンカーが点滅し、プリウスは滑るように走り出した。奥山はさらに意識を集中する。しかし、車の中の会話までは聞き取れなかった。プリウスは道なりに右へカーブし、あっという間に奥山の視界から消えた。


 奥山は、今日までの四日間、この出来事を何度も思い返していた。岡部も高橋も知らない人物だが、二人の会話には、奥山の知りたい情報や考える材料がたくさん詰まっていた。

 まず少女の名前だ。オカベノリコ。オカベといえば漢字はおそらく岡部だが、ノリコは何通りも考えられる。仮に紀子としよう。岡部紀子。至って普通の名前じゃないか。白川幼稚園に通う桃組の園児。現在、香奈が通っている幼稚園とは違う。さらに、岡部は平田小の入学説明会へ行ったと話していた。香奈は今春、平田小から数キロ離れた井吹小学校へ入学する。学校は違うが、紀子と香奈は同級生ということだ。平田小も井吹小も上浦市立で、校区は隣同士。二人の会話から推測すると、岡部の家はこの公園から上浦文化ホールへ向かう途中にある。上浦文化ホールの周辺は平田小の校区だ。辻褄は合う。

 奥山は、得体の知れない紀子と愛する香奈が同級生ということに、少なからぬ嫌悪感を抱いたが、一緒の幼稚園や小学校に通うことは無いと確認でき、とりあえず安堵した。

 紀子の母親、岡部が勤める上浦山の手高校は、上浦市内で群を抜く文武両道のエリート校だった。上浦市では相当有名な存在だ。生まれてから高校を卒業するまで上浦市で過ごした奥山は中学生になってから、上浦山の手高校を目指したが、三年の夏に歯が立たない相手と悟り、あきらめた。

 その上浦山の手高校へ取材に来たという新聞記者コンビは、忘れようにも忘れられない存在だった。竹沢新聞上浦支局のメタボ記者、松田と上浦タイムスの切れ者、小河。奥山は市長という仕事柄、多くのマスコミと付き合っていたが、上浦市に拠点を置く二人とは他社より顔を合わす機会が多く、とりわけ親しかった。

 響子と大学の同窓会で再会した十年ほど前から、奥山は将来の選択肢として政治家を考えていた。テレビなどメディアを通して知る政治家の資質は、政治家以前に、一人の人間として信頼できない者が多かった。長期的視野を欠き、自分の主張を一方的に相手へ言うような、自己中心的な未熟さがつきまとっていた。どんなに控えめに考えても、自分や、勤め先のスポーツ用品会社で尊敬できるごく一部の先輩の方が、彼らよりましだと思った。

 当選とポスト自体が目的化している政治家たちに、この国の将来を任せ続けるわけにはいかない。それには行動で示さなければならない。憤りに支えられた義務感が、いつの間にか奥山の中でむくむくと頭をもたげていた。

 興味を持って勉強すると、政治家と言っても議員では、たとえ国会議員になれたとしても所詮、駒に過ぎないことが分かった。自分たちの上司にあたる政党幹部の言動で支持率は乱高下し、世間の目は様変わりする。その政党に所属するというだけで、有権者の目は直接、自分自身に向けられる。

 頭の悪い上司が繰り出す思いつきの言動を、行く先々で弁解しなくてはならない。そんな後ろ向きの仕事に時間を割かれるのは、まっぴら御免だった。そんな時間があるのなら、一冊でも二冊でも政策立案に役立つ本を読みたい。しかし、現実に議員を目指すなら、よほどの知名度でも無い限り、政党と無縁で当選するのは至難の技だった。

 そこで奥山は、知事や市長といった地方の首長に目を付けた。奥山が将来の選択肢として政治家を視野に入れだした十年ほど前、地元の上浦市では、田沼陽三という六十代前半の市長が二期目を務めていた。田沼は大学卒業後、二十代で上浦市の職員になり、五十代半ばで市長に次ぐ市役所の権力者、助役にまで上り詰めた。そのまま市長選に出馬し、当選。二回目の市長選では有力な相手候補が出ず、信任投票のような形で再選を果たした。

 上浦市民はどんな目で田沼市長を見ているのだろうか。当時、東京に住んでいた奥山が上浦市の両親や高校の同窓生らに話を聞くと、無駄な道路やダムを推進したり、飲酒運転や税金の横領など不正をした職員に甘い処分をしたりなど、おおむね評判は悪かった。

 もしもこのまま田沼が当選を重ねたら、フレッシュな自分の付け入るチャンスが生まれるのではないか。奥山のなかで将来の選択肢が、漠然とした政治家という存在から、具体的な上浦市長にスライドした。しかし、フレッシュというだけで当選できるほど甘い世界では無い。

 奥山は東京の自宅に、地元紙の竹沢新聞と上浦タイムスを郵送で取り寄せ始めた。日々、目を通すことで、地元の基礎知識を蓄えた。

 田沼はその後、二回の当選を重ね、七十代で四期十六年の長期政権を敷いた。二回とも有力な相手候補が出ず、投票率は三十パーセント台と低迷するものの、票数を見ると二位の候補に大差を付け、危なげない戦いぶりだった。

 一方、二十八歳の奥山は結婚し、長女が生まれ、三十八歳になった。頭の中には田沼市政の中身や課題が十二分に蓄えられ、上浦市の進むべき道が、新人候補の打ち出す政策として煮詰まっていた。

 もし田沼が五期目を目指すなら、迷わず出馬しよう。市民には、年老いた田沼へのストレスが溜まっている。変化を求める有権者の受け皿になれたら、若い候補でもベテランの現職を破れる。過去にあったいくつもの選挙が、その事実を証明していた。

 奥山は戦略を練り、ちょうど一年前の昨年一月から準備を始めた。地元の同窓生らと連絡を取り合い、陣営としての組織づくりを進めた。ただ、その動きを田沼サイドに悟られてはならなかった。田沼には、今回も楽勝だと思わせ、立候補してもらわなくては困る。奥山は準備活動を察知されないように、連絡を取り合う同窓生を三人に限定した。それが、昨年十二月十八日夜、ジョニーに取り込まれる直前に、焼き肉を食べたメンバーだった。

 自分が出馬することを妻にも打ち明けていなかった昨年二月のことだ。

 当時、勤めていた東京のスポーツ用品会社に、一本の電話があった。「竹沢新聞上浦支局の松田と言います。秋に予定されている市長選について電話をしました。東京へお伺いしますので、直接会って話を聞かせて頂けませんか」。あまりにも突然で、心臓が口から飛び出るとは、まさにこのことだった。なぜ気づかれたのか。新聞記者が知っているくらいなら、田沼の耳にも入っているのではないか。一時的に頭が混乱したが、取材を断るのはコソコソ逃げているようで嫌なので、了承した。

 数日後の夕方、東京・品川駅近くの喫茶店で松田と顔を合わせた。松田は大柄な体格でネクタイは緩み、スーツや鞄など身に付けているものは、どれも年季が入っていた。顔は終始にこやかで、名刺を交わし、向き合った席に座ると開口一番、「市長選に出馬されるのですか?」と聞いてきた。奥山は「そのつもりです」と答えたうえで、まだ準備が全然整っていないことや、田沼市長に知られたくない事情を説明。自分のことを記事にするなら、田沼市長の去就がハッキリしてからにして欲しい、と頼んだ。

 松田は「他のマスコミより先に書くことが目的なので、他社から取材されたら、すぐに教えて下さい。それさえ守って頂けるなら、今すぐ記事にはしません。威勢よく立候補するって言っといて、やっぱり止めたと言う人も過去にいましたから。別に奥山さんがそうなるかもしれないと思っているわけではありませんけど」と話したあと、「失礼ですが、奥さんには立候補する旨、伝えていますか?」と尋ねてきた。まだ言っていない、と松田が答えると、「早く言うにこしたこと、ありませんよ。すんなり了承してくれる奥さんなんて、私の経験上、百人に一人、いるかいないかです」と忠告してくれた。

 続いて「ところで」とつぶやくと、松田は、奥山がのどから手が出るほど欲している情報を明日の天気予報のようにあっさり口にした。「田沼が立候補するかどうか、ずいぶん気にしてらっしゃいますが、立候補しますよ。今月下旬に始まる市議会で表明します。奥山さんの動きは田沼も知っていますが、懸念は不要です。奥山さんが相当な有名人でもない限り、若い新顔が出てくるからといって、自分の出馬を取りやめるようなタマじゃありませんから」。

 取材が始まった当初、松田は奥山の言葉をノートに書きとっていたが、十分ほど経つと手を止め、残りはくつろいだ雑談に終始した。新聞には載らない地元の事情をいくつも仕入れることができ、思いもがけず実りの多い時間になった。最後に松田は「それじゃあ、次は上浦でお会いしましょう。お待ちしています」と言い、右手を差し出した。奥山も右手を差し出し、二人は握手を交わした。

 松田の本心は分からない。ただ、奥山が立候補することを悪くは思っていないようだ。それだけで奥山には十分、心強かった。

 昨年三月末で会社を退職し、四月に上浦市へ引っ越した。五月に立候補表明し、選挙事務所を構えると、最も頻繁に訪ねてきた記者が松田と上浦タイムスの小河だった。小河は松田以上に上浦市の事情に精通していた。夜遅く、事務所の片隅で上浦市の将来について、缶ビール片手に三人で語り合ったこともあった。議論がかみ合って、新しいアイディアが生まれることもあり、奥山にとって有意義な時間だった。

 奥山が市長に当選すると、松田は夜に自宅を訪ねてくることもあった。「マスコミ特有の夜回りというやつです」と笑って説明してくれた。奥山は自宅に招き入れ、響子も交えて雑談したり酒を飲んだりした。

 その松田と小河が、岡部の勤務する上浦山の手高校へ取材に来たという。奥山がジョニーに取り込まれてからも、二人はこれまで通りに仕事をし、平穏な日常を送っているのだろう。

 二人と話したい。でも話せない。心が折れそうだった。なんとしてでも、自分の体を取り戻さなければならない。奥山は必死に自分を奮い立たせた。

 岡部と高橋の会話には、さらにもう一点、発見があった。

 自分が取り込まれた、この木の名前だ。マングローブ。聞き覚えがあり、記憶の引き出しを開けてまわった。誰か身近な人が、マングローブと口にしていた気がする。程なく思い出した。それは響子だった。

 マレーシア旅行から響子が持ち帰り、自宅のバケツで育っている細長い奇妙な植物は、マングローブという名前ではなかったか。確かにバケツの中の植物は、下の部分が常に水中へ浸かっていた。

 あの鉛筆ほどの大きさが、成長したらこんな立派な木になるとは、想像もつかなかった。水に浸かっても育つという特徴は一緒なので、おそらくジョニーもマングローブだろう。岡部が読んだ新聞記事と同様、響子も熱帯の植物だと説明してくれた気がする。

 ただ、奥山も竹沢新聞は購読していたが、マングローブの記事は全く記憶に無かった。植物に興味が無いから気づかなかったのだろう。仕方ない。

 もしかして、響子がマングローブを育てていたことと、自分がジョニーに取り込まれたことは、関係しているのだろうか。

 そんな考えがフッと心中に沸いた。奥山は周囲に立ち並ぶマングローブを見渡しながら、ぼんやりと考えを巡らせたが、まるで見当がつかなかった。


 □一月二十日 響子


 ピンポーン

 夜七時、自宅玄関のベルが鳴った。居間のこたつで「ドラえもん」の塗り絵帳に夢中だった香奈が小さく叫ぶ。

「あっ、お父さんだ」

 香奈は台所にいる響子の近くへ駆け寄ると、床から高さ一・五メートルほどの高さに設置されたインターホンを取ろうとジャンプした。届かないのでもう一度ジャンプする。

「はいはい、分かったからおとなしくして。危ないよ」

 鍋料理の準備をしていた響子がインターホンの受話器を取り、香奈に手渡した。大事そうに両手で受け取った香奈が、響子に教えられている言葉を、いつも通り簡潔に言った。

「はい、奥山です」

 香奈は受話器の向こう側の声に耳をすまし、数秒間沈黙すると、再び響子が教育した通りの受け答えをした。

「少々、お待ちください」

 香奈は相手にこちらの声が聞こえないように受話器の口を手で押さえると、響子に差し出して、言い添えた。

「お父さんじゃなかった」

「誰?」

 響子が聞くと、香奈は一瞬宙を見て考える素振りを見せたが、すぐに諦めてつぶやいた。

「分からない。おじさん」

「惜しい。香奈、それが言えたら百点満点の対応だったのに。でも、よく出来ました」

 響子は、左手で受話器を受け取りながら、右手で香奈の頭をなでた。宅配便かな、などと考えながらインターホンに話しかける。

「奥山です。失礼ですが、どちらさまでしょうか」

 受話器の向こうから、聞き覚えのある声が返ってきた。

「あっ、どうも。竹沢新聞の記者の松田です。三日前もお伺いして、短い期間しか置いてないのに、また押しかけてしまい、すみません。市長の奥山さんはまだ帰られてないですよね」

「あっ、松田さん、こちらこそ三日前はごめんなさい。勇太には、怒っといたから」

 そう言いながら、響子は三日前の出来事を振り返った。


 そもそも響子の認識として、竹沢新聞の松田は、勇太にとって大切な存在だった。市長選への立候補を表明し、忙しい日々を送っていた勇太自身が昨年夏、響子に「松田さんは田沼市長を変えなければならないという意識を根底に持っている。マスコミという立場上、ハッキリとは言わないけれど、記事を読んでも話しても、それが分かる。有権者の印象なんて報道の仕方一つで何とでも変わるからね。理解ある人が地元の記者でラッキーだよ」と興奮気味に話していた。

 勇太が昨年十一月に当選すると、松田は自宅まで訪ねてくるようになった。松田によると、マスコミは警察や政治家、経済界などのキーパーソンに対して、夜、自宅まで行って、職場では聞き出せない情報を仕入れるのだという。

 響子の知らない世界だったが、自宅への来客は苦にならなかった。四国・愛媛に暮らす響子の父親は地域活動に熱心で、特に地元で夏祭りが開かれる前は、毎晩のように近所の人たちが実家へ出入りし、準備に明け暮れていた。幼い頃から知っている二軒隣のおじさんが、学生だった響子の部屋に上がってきて、頼んでもいないのに、勉強を教えてくれることもあった。鬱陶しく感じることもあったが、出入りする全員が半分家族のような雑多な雰囲気を、響子はけっこう気に入っていた。だから、来客で家の中がにぎやかになるのは、どこか懐かしい光景で、響子にとってはむしろ歓迎すべきことだった。

 昨年十一月下旬、初めて自宅に訪れた松田を、勇太は高校時代の親友のように温かく迎え入れた。松田を初めて見た響子の印象は「太っていて、笑顔が自然な人」だった。冷蔵庫の残り物で作った焼きそばをきれいに食べて、礼を言って帰ると、二週間後の十二月上旬、松田は再び訪れた。右手には香奈へのクリスマスプレゼントとして二冊の絵本、左手には焼きそばのお返しとして、有名ブランドのケーキを持っていた。勇太を交えた四人で食事をしてお酒を飲んだ。松田の話は具体的でテンポが良く、響子を飽きさせなかった。

 年が明け、初めて松田が自宅へ来たのが三日前の午後八時頃だった。

 しかし、インターホンに出た勇太は、よそよそしく「今日は話すことないから。またにして」とだけ言って、追い返してしまったのだ。響子はすぐに疑問を口にした。「なぜ、市長選のとき陰ながら応援してくれて、一緒に楽しく晩ご飯を食べた人を、そんなに冷たく扱うの?最初に来てくれた時は、あんなに優しく迎え入れたのに。松田さんとケンカでもしたの?」。勇太は一瞬、表情と動きを止めると、「いや、別にしてないけど」と消え入るようにつぶやいた。「じゃあ、なぜ?」。畳み掛ける響子に、勇太は「ちょっと、うっかり。いや、ごめん。よっし、次、松田さんが来てくれたら一緒に晩ご飯を食べよう。絶対食べよう」と、自分に言い聞かせるように声を大きくした。響子は疑問が解消されないもどかしさを感じつつ、勇太が一瞬、表情を一時停止させる仕草について、最近よく見るなと思った。


 受話器の向こうから、恐縮する松田の声が聞こえる。

「いやいや、奥山さんも忙しいですから。冷たく拒否されて、ちょっと傷つきましたが。なんて冗談です。もちろん」

「そうよね。私だってあんな態度されたら傷つく。でも、次、松田さんが来たら絶対一緒に晩ご飯食べようって言ってたから、今日は大丈夫だと思うわ」

「本当ですか。それはありがたい。じゃ、また一時間後に出直します」

「うん、分かった。伝えとく」

 受話器を置くと、響子は胸を撫でおろした。今日のメニューは豆乳鍋で、明日の昼も食べられるようにと、材料を多めに買っていたのだ。


 それから三十分ほどして帰ってきた勇太は、いつものように窓際へ行き、高さ一メートルほどの小さなビニールハウスを覗き込んだ。昨年十二月十八日、夜中に帰ると突然、マングローブに興味を持ち出した勇太は、翌十九日、仕事の帰りにホームセンターでビニールハウスと園芸用のヒーターを買ってきた。そのとき、バケツに植えた四本の鉛筆のようなマングローブは、先端部分が茶色になり始めていた。しかし、おそらく環境が温かくなったことが原因で、今は緑に戻っていた。ビニールハウスの設置以来、勇太は帰宅するとまず、マングローブの生育状況を確認していた。

「このあと、松田さん、来るよ。今日はみんなで豆乳鍋だからね」

 響子は、マングローブを覗き込む勇太の背中に声をかけた。

「そうなんだ。了解」

 勇太はマングローブから目を離さずに答えた。感情のこもっていない平坦な声だった。


 予告通りの時間に、有名ブランドのケーキを手にした松田が訪れた。響子と香奈が玄関へ迎えに行き、一緒にケーキを受け取る。

「ありがとう。ひそかに期待してたの」

 喜ぶ響子に、松田が恐縮した。

「いえいえ、たいしたものじゃありませんから」

 少し遅れて、勇太も玄関まで松田を迎えに来た。松田が軽く頭を下げる。

「奥山さん、どうもご無沙汰しています。お元気そうで」

 勇太は笑顔で右手を差し出し、松田と握手を交わしながら言った。

「おかげさまで。この前はすいませんでした。冷たくしちゃって」

「全然問題ないです。新聞記者は取材先で冷たくされるの、慣れてますから」

「そうですか、そりゃ良かった。というか、なんというか。まぁどうぞ、中へお入りください」

 そう言うと勇太は向きを変え、玄関を背にして歩き出した。松田、香奈、響子の順に続く。勇太に続いて居間へ入った松田は、窓際のビニールハウスに目をやると、驚いたように声をあげた。

「あれっ、何ですか?前はありませんでしたよね」

 響子がため息をついた。

「そうなの。忘れもしない十二月十八日。勇太が急に必要だって言い始めて、翌日、本当に買ってきたの。ビックリしたわよ、まったく」

 勇太は顔の前で両手を左右に振りながら、笑顔で反論した。

「いやいや、植物が枯れかけてたんだよ。だから仕方なく。人間がお金を出しさえすれば、こうやって温かい場所で生きられるわけだから」

 松田がビニールハウスを見つめて言った。

「この植物、ずいぶん細長いですね。しかも水の中に浸かっているなんて、珍しい。何という名前ですか?ひょっとしてマングローブだったりして」

 響子が目を輝かせる。

「さすが新聞記者さん、博学だわ。その通り、ご名答。これはマングローブです。というのもね」

 そう言って響子は、マレーシアでマングローブの種を手に入れた経緯を説明した。その間に四人は居間の食卓に座り、勇太が鍋の載ったカセットコンロに火を点けた。酒のつまみとして枝豆、イカの塩辛、マカロニサラダがテーブルに載る。

 香奈を除く三人がビールで乾杯をしたところで、響子の説明が終わった。うなずきながら聞いていた松田が口を開いた。

「なるほど。そういうことですか。僕はてっきり、クリスマス公園の奥に生えているマングローブの枝から種を取ってきたのかと思った」

 響子がきょとんとした表情を見せた。それを見て、松田は付け足す。

「雪野川沿いに、小さな群落があるんですよ」

 響子が尋ねた。

「雪野川って、上浦市の雪野川ですか?クリスマス公園なんて可愛い名前の公園、ありましたっけ?」

 松田は半分ほど無くなった勇太と響子のグラスにビールを注ぐと、自分のグラスは手酌で満たして答えた。

「クリスマス公園というのは、地元の人がそう呼んでいるだけなので、通称です。あの公園には元々、名前が無いんですよ。すぐそばにある三太橋はご存じですか?」

 三太橋は、自宅から最寄りの長坂駅へ向かう途中、雪野川にかかる長さ四十メートルほどの大きな橋だ。響子は力強くうなずいた。松田が続ける。

「三太橋はサンタクロース。雪野川は雪、スノウ。だからすぐ近くの公園はクリスマス公園なんです。名付けの親が誰かは、分かりませんが」

 響子は三太橋のある光景を記憶の中から掘り起こした。外出するときは車か徒歩が中心で、ときどき自転車も使う。三太橋を渡るときは、車が多かった。自宅から車を走らせ、三太橋の手前に差しかかると、確かに向かって右手に公園がある。ただ、入ったことは無い。響子が言う。

「なるほど。クリスマス公園の名前の由来は、よく分かったわ。でも、あんなところにマングローブが生えているというのが、ちょっと理解できないんだけれど。だって熱帯の生き物でしょう」

 松田は枝豆を食べながら答えた。

「それが、謎なんです。実は私、クリスマス公園のマングローブのことを取材して、記事にしたんですよ。昨年一月だから、ちょうど一年前ですね。奥山さんが、まだ東京におられた頃です。別の取材先で、クリスマス公園の奥にマングローブらしきものが生えているという話を聞きまして。もしそれが本当にマングローブで、植物の専門家が『非常に珍しい』とか言ってくれたら、それだけで地域ニュースとしては成立するので、取材したんです。結論から言うと、非常に珍しいけど、なぜだかよく分からない、ということでした。それは、そのまま、記事にしましたけれど」

 松田がそこまで話したところで、香奈が突然、声をあげた。

「お父さん、すごい汗かいてるよー。暑いのー?」

 響子と松田は反射的に勇太へ目を向けた。勇太は顔全体に大粒の汗を浮かべ、肌が露出している首や手の甲も汗で濡れ、うっすら光っていた。香奈を含めた三人の視線を受けると、ガタッと音を立てて椅子を後ろに下げ、立ち上がる。わずかに肩を上下させながら話した。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと体の温度調節がうまくいかなくて。何でも無いから心配しないで。タオルを取ってくる」

 居間を出て、寝室へ向かう勇太を追いかけながら、響子は言った。

「ホントに大丈夫?すごい汗だよ。お鍋の火、熱かった?ごめんね。強火だったから」

 勇太は首を左右に振り、寝室に入るとタンスからタオルを取り出した。両手に持ったタオルで顔の汗を拭きながら、勇太は言った。

「お鍋のせいじゃないんだ、たぶん。気にしないで。松田さんが待っているから、早く戻ろう。驚いているよ。たぶん。そうだ、もう一枚タオル、持って行こう」

 響子は勇太の着ているフリースを背中から少し上げ、Tシャツの上から手をあてた。温かく湿っている。

「背中もびっしょり。そんな拭き方じゃ全然足りないよ。私がやってあげる」

 勇太に声をかけながら、響子もタンスから新しいタオルを取り出した。タオルを手に持った響子が、勇太を急かす。

「上半身の服を捲り上げて、ほら、早く。松田さん、待ってるよ」

 勇太は言われた通りに、両手でフリースとTシャツを捲り上げ、響子に背中を見せた。響子は万遍なくタオルが当たるように、注意しながら勇太の背中を拭く。徐々に上へ移り、次は脇の下だわ、と思ったとき、勇太の背中の傷に気づいた。

 傷は、直径五センチほどの円形で茶色くなり、表面がざらついている。色は円の中心部から離れるほど薄くなっていた。印象としては、最近ついた新しい傷というより、治りかけの傷だ。響子は勇太の脇の下を拭きながら声をかけた。

「ねぇ、背中、なんかケガした?わりと立派な傷があるよ」

 勇太の体が、高圧電流を通したように、ビクッと震えた。響子が驚く。

「ワォッ、びっくりした。どうしたの?」

 勇太は両手で捲り上げていたフリースとTシャツを慌てて元に戻すと、振り向いて響子のタオルを奪い取った。

「な、何よ」

 戸惑う響子に、勇太は早口でまくし立てる。

「もういいよ、後は自分で拭くから。先に帰って松田さんと鍋、食べてて。俺もすぐに戻るから。傷は大した傷じゃ無いんだ。痛くもかゆくもない。心配無用。忘れてくれ」

 響子は納得できないので少し粘った。

「でも、もうすぐ全部拭けるよ。あとはお腹と胸だけ」

 唐突に勇太が声を荒げた。

「いいって言ってるだろ。早く戻れ。一人にさせろ」

 部屋の空気が振動し、静寂が訪れる。突然の激昂に響子は唖然としたが、勇太の迫力に気圧されて、何も言わずに寝室を出た。

 ガタンと音を立てて閉めた扉を見つめながら思う。

 何なの、あの言い方。腹が立つ。一体、私が何をしたっていうの。夫の汗を拭って、なぜこんなに怒鳴られなければならないのよ。

 響子は考える。百歩譲って、もし何か私に原因があるとすれば、背中の傷のことしかないんじゃないかしら。響子が傷について尋ねた途端、勇太の中で何かスイッチが入った。それは間違いない。

 響子はさらに考える。背中に傷ができる原因とは何があるだろう。転んでけがをするような場所ではない。ひょっとしたら、肌が荒れてイボが出来たのかもしれない。そこを「孫の手」でかきすぎたとか。勇太は百円ショップで買った竹製の孫の手を愛用していた。でも、勇太が孫の手を使っている光景は、最近見ていない。

 響子は寝室の扉に耳を付け、中の様子を探りたい衝動に駆られた。しかし、タイミング悪く勇太が出てきたら、次はどんな怒り方をするのか、まるで想像がつかない。お客様が来ているのに夫婦喧嘩をするのは、みっともないので避けたかった。そこまでの危険を冒すことではない。そう判断した響子は、おとなしく向きを変え、居間に帰った。

 居間に入ると、松田と香奈が楽しそうに話していた。松田が響子に話しかける。

「奥山さん、大丈夫ですか?サウナに入った後みたいでしたね」

 響子は、間の抜けた松田の感想に少し吹き出しながら、笑顔で答えた。

「そうね、サウナの後みたいね。よく分からないけど、大丈夫なんじゃない。ま、汗が出るくらい、病気でもケガでもないから、気にするような話じゃないわよ。さっ、食べましょ。お鍋、お鍋」

 松田が、卓上のカセットコンロに火を点けながら言う。

「お二人が出ている間に鍋が沸いたんで、火を止めたんですよ。奥山さんがいないけれど、食べ始めちゃっていいんですか?」

 鍋の蓋の小さな穴から、白い蒸気が一直線に上へ吐き出される。

「いいわよ、いいわよ。勇太も先に食べてて、って言ってたから」

 響子は答えると、躊躇せず鍋のふたを開けた。閉じ込められていた湯気が一気に立ちのぼり、先端が天井に届く。

「ワォー、なべなべー」

 香奈が歓声をあげた。松田の表情も自然と緩む。響子は手際よく松田、香奈の器に中身を取り分けると、自分の器も満たした。「いただきます」と手を合わせて食べ始めた松田が、小さく叫ぶ。

「うまい。最高です。今日、こんな美味しい料理を食べられるとは思ってもいませんでした。幸せです」

 口の中の白菜を飲み込んでから、響子が言う。

「大げさねぇ。料理なんて代物じゃないのよ、実は。レトルトの豆乳鍋の元が優秀なだけ。ミツカン様々よ」

「レトルトでもピンきりですから。美味しいものは美味しいですよね。バカにできません。私も独り者なので家で料理を作ることもありますが、一番の得意技はクックドゥーの麻婆茄子です。味の素様々」

「あら、麻婆茄子なら私は丸美屋派よ」

 松田は、あっという間に器を空にすると、響子に尋ねた。

「それにしても奥山さん、結構時間がかかってますね。何かしているんですか?」

 響子は首をかしげる。

「自分でもう一度、体を拭いていると思うんだけれど」

「ちなみに、これまでもよくあるんですか?あんなに大量の汗が、突然吹き出すこと」

 響子は再び首をかしげる。

「無いと思う。夏はもちろん汗をかくけど、普通の人より多いと感じたことは無いなぁ」

 松田は何かを考え込むように数秒間黙ると、一言ずつ確かめるように言った。

「そうですか。少なくとも奥さんの知る限り、初めての出来事なんですね」

 少し遠くから、寝室のドアを開ける音が聞こえた。

「あ、勇太が帰ってくる」

 響子は少し緊張した。足音が近づき、ガチャリと居間のドアが開く。勇太は上下とも新しい服に着替えていた。表情が笑顔なので、響子はホッとする。

「いやいや、どうも、長い間中座してしまい、すいませんでした。オッ、鍋、おいしそうだねぇ。俺も食べよっと」

 明るい勇太の言葉を受け、響子は新しい器に中身を取り分けた。食卓に座った勇太の前に置くと、勇太が小声でささやいた。

「さっきはゴメン。反省している」

「いいよ、別に」

 響子も小声でつぶやいた。急に涙が出そうになり、必死でこらえた。勇太に怒鳴られたのは、いつ以来だろう。前回のことを、まるで思い出せない。つい五分ほど前のことなのに、心の傷は、時間の経過と共にどんどん広がっていた。

 響子の本心に気づいているのかいないのか、勇太が豚肉やネギをほおばりながら口走った。

「うまい。最高」

 響子は、気を取り直し、自分自身を元気づけようと意識しながら明るく言った。夫に怒鳴られたくらいで落ち込むような、弱い女になりたくない。

「感想が松田さんと全く一緒。仲良しなのね」

 松田が自分の器に鍋料理を入れながら答える。

「ばれましたか。その通り、仲良しなんです。でも最近、奥山さんが忙しくて、市役所で全然相手をしてくれないんですよ。市長室に行っても会えなくて。だから今日は嬉しいです」

 勇太が笑った。

「ごめんごめん。ちょっと新年度の予算編成の時期で、毎日、各部署からの説明を聞いていると、あっという間に時間がたってしまうんですよ」

 松田がうなずく。

「奥山市政初の予算編成ですから、忙しいのも仕方ないですよね。ちなみに、緑視率の拡大というのはされるんですか?あ、奥さん、緑視率というのはですね」

 そう言って松田は、響子に緑視率の説明をした。香奈に温かい豆腐を食べさせながら響子が言う。

「へぇ、そんな考え方があるんだ、全然知らなかった。面白い」

 勇太が右手でボリボリと頭をかく。

「さすが松田さん。耳が早いですね。実は私も妻と同様、緑視率のことを全然知らなくて、一カ月くらい前の年末に、職員から初めて聞いたんです。いい政策だなぁと感動しました。ぜひ拡大し、上浦市を緑の都市として全国に発信したい。そう考えて、職員に制度設計をさせたのですが、実際、やるとなったら、今、松田さんの説明にあった通り、住民に負担がかかる。一定以上の緑視率を確保するためには、住民自らがお金を出して、新しく植物を購入する必要がありますからね。もちろん、所得が低い人には、市が補助金を出しますが、限度があるので全額と言う訳にはいかない」

 勇太は言葉を区切り、半分ほど残っていたグラスのビールを飲み干した。松田がテーブルの上の缶ビールを勇太に注ぐ。軽く頭を下げ、勇太は続けた。

「個人的には、それくらいの出費を住民へ課しても問題無い、むしろ当然だと思っているんです。人間は開発と称して森林を伐採し、恩恵を被ってきた。日本人の大好きなエビを養殖するために、東南アジアのマングローブ林がどれほど切られたか。マングローブの記事を書いた松田さんなら、よくご存知でしょう。そして毎年、日本の半分ほどの面積の熱帯雨林が、今なお人間の行いで地球上から喪失している。森と人間とのバランスが著しく破壊されています。元へ戻すためには、私たち人間が一人ひとり、できることをしなくちゃならない。緑視率の拡大には、そういった問題提起も含んでいるんです」

 熱っぽく語った勇太は早いテンポで、再びグラスのビールを飲み干した。今度は響子が勇太のグラスにビールを注ぐ。缶が途中で空になったので、響子は席を立ち、冷蔵庫へ新しい缶ビールを取りに行った。松田が念押しするように質問する。

「なるほど。それで結局、緑視率の拡大はされるんですか?」

 勇太は首を左右に振った。

「とりあえず今回は、あきらめる方向です。悔しいですが、準備期間が短すぎる。市民環境課長に、住民から大きな反発が出て市政が回らなくなる、今回は勘弁して欲しいと懇願されました。さらに議会事務局長には、非常識過ぎる、そんな提案を議会で通すのは絶対不可能だと怒られました。あの事務局長は今年三月に定年退職なので、怖いもの無しですね。言いたいことを何でも言ってくる。公僕の職員は、選挙で選ばれた市長の言うことを黙って実行すればいいくせに。僕にとって事務局長は目の上のタンコブですが、あと三カ月だから我慢します。四月以降もいるのなら、人事異動で支所の閑職に飛ばしてやるのに。残念です」

 勇太は無念そうに、右手の拳をギュッと握った。松田が笑いながら言う。

「あの事務局長は田沼さんの子飼いですから、奥山さんに遠慮は無いでしょう。お互いにとって目の上のタンコブなんでしょうね。目に浮かびます。ということは、春の異動で幹部クラスを一新して、緑視率については、また来年度に再トライというわけですか?」

 勇太が力強くうなずく。

「その通りです。改善すべき点は住民負担の解消だとハッキリしている。負担をかけずに、どうやって緑を増やすか。職員の尻をたたいてアイディアを出させ、じっくり考えます。といっても、あまり時間はありませんが」

 煮詰まった豆腐を頬張りながら、松田が言った。

「いいですね。それでこそ、市役所の空気が変わり、トップの交代を職員に実感させられる。役人なんてトップが何も言わなければ永遠に前例踏襲ですから。新しいことをするには、尻をたたきまくるくらいがちょうど良いんですよ。ところで奥山さんって、こう言うとなんですが、今の話を聞くと、環境意識が相当高いですよね。正直、知りませんでした。だって市長選の最中は、あまり環境政策に触れなかったじゃないですか。当選後、環境への意識が変わるような何かがあったんですか?それとも、元々興味はあったけれど、市長選のときは表に出さなかったとか」

 勇太は一瞬、表情を止め、松田から目線を外した。

 出た、またあの仕草だ、と響子は思った。

 響子の分析では、あの仕草をするときの勇太は、表情こそ止まっているものの、頭の中は猛烈に回転している。脳内の無数の引き出しにしまっている材料を、一つずつチェックしたうえで、必要なものをいくつか取り出す。それらを規則正しく構築し、結論を導き出す。膨大な作業を秒単位でこなしているので、表情のことまで頭が回らないのだ。

 勇太が口を開いた。

「いや、環境への意識が変わる特別なことなど何も無いです。松田さんの言葉で言うと、後者の方が近いですね。元々、興味はあった。それが緑視率をきっかけにして、一気に開花した。そんなとこですかねぇ」

 慎重に言葉を選ぶ勇太の回答に、松田は満足そうに何度もうなずいた。


 その夜、松田は夕食とデザートを食べ終えると、午後十時頃に奥山家を出て行った。響子は一人で洗い物をしながら、今度、暇があったらクリスマス公園にマングローブを見に行こうかしら、などと考えた。


 四日後の一月二十四日朝。出勤する勇太を玄関で見送ると、響子は家族の枕カバーを洗濯機にかけるため、寝室へ直行した。寝室のダブルベッドではいつも家族三人が川の字で寝ている。カバーを取り外すため、響子が勇太の枕に手を伸ばすと、下から水色の小さなものが出てきた。よく見ると携帯音楽プレーヤーの「i‐Pod」だ。響子は思わず声を挙げる。

「あっ、勇太め、いつの間に、こんなもの買ってんの」

 実は響子もi‐Podが欲しくて、インターネットのホームページでカタログを見たことがあった。香奈と二人で近くの家電量販店に行き、店頭の「お試し品」を自分で動かしたこともある。片手にのる本体へ数万曲も保存できるなんて、高校時代、カセットテープで好きな曲を聴いていた響子からすると、隔世の感があった。

「勇太は何を聴いているのかしら」

 機械を動かしたい衝動にも駆られ、響子はスイッチを入れた。二人が所属していた大学時代の軽音楽サークルでは、CDを自主制作したこともあった。

 ひょっとして、当時の曲が保存されていたりして。もしそうだったら、少し嬉しい。

 しかし、保存されている曲は「アーティスト不明」の五十七曲だけだった。

「何かしら、これは」

 響子はつぶやきながら、一曲目を再生した。

 イヤホンを耳に入れたが、メロディーは一切聞こえない。周波数の合わないラジオのような、小さな雑音が流れている。「香奈は大人になったら何になるの?」。突然、聞き覚えのある声が流れた。

「えっ」

 響子は思わず口にした。

 これ、私じゃない?

 いや、絶対私だ。

 イヤホンの奥で香奈が答える。「うーんとね、ケーキ屋さんか画家」。コトッ、コトトッ。何かを動かす音がして、響子が返す。「そっかそっか、全然違う二つだね。ケーキ屋さんはありがちだけど、五歳の女の子が画家になりたいと言うのは珍しいよ。お母さんは、なんとなく誇らしい」。再びコトッ、と音がする。

 響子は思わず停止ボタンを押した。

 頭が混乱し、得体の知れない寒気が背中を駆け上がる。

 この会話について、響子は記憶があった。昨年初夏、選挙運動で勇太がほとんど家にいなかった頃。暇なので、香奈に色んな質問をして遊んだのだ。場所は自宅の和室。途中で聞こえるコトッという音は、机の上で、市販の目薬を動かした時のものだろう。季節が変わるとこたつになる背の低い机には、いつも使いかけの目薬が置いてある。目薬を右手の指で回しながら机をコツコツ叩くのは、響子の癖だった。

 気味悪いのは、なぜ、その会話が、勇太のi‐Podに入っているのかということだ。

 まさか盗聴?

 肯定したくないが、冷静に考えて、それしか考えられなかった。響子の知らない間に、響子のプライベートの会話が録音されている。それを盗聴と呼ばずに何と言うのか。

 そこまで考えて、響子はハッと気が付いた。

 我が家に盗聴器が仕掛けられているとしたら、和室にだけ設置されているとは限らない。だから今、この瞬間に響子の発する言葉も録音されている恐れがある。

 響子は両方の手のひらを口にあて「独り言を言わないようにしよう」と自分に言い聞かせた。もう遅いかもしれない。しかし、過ぎてしまったことは、どうしようもない。

 3LDKの奥山家は和室、居間、寝室、ほぼ納戸と化した洋室の四つで構成される。残りは台所、風呂、洗面所、トイレだ。

 和室以外にも盗聴器が仕掛けられているのだろうか。

 答えへつながる手がかりは、目の前のi‐Podだけだ。

 無意識のうちに、響子は二曲目の再生ボタンを押していた。再び小さな雑音が流れる。「冷奴、美味いよ。どこで買ったの?この豆腐」。今度は勇太の声だ。「ふふふ、それはね、我が家から一キロくらい離れた水山豆腐店という店で買ったのよ。住宅街の真ん中にポツンとあるんだけど、すごい人気で、市外から車で買いに来る人も多いの。管理人さんに教えてもらったんだ」。盗聴器から少し離れた場所にいるのか、響子の声が勇太の半分ほどの音量で聞こえる。「へぇ、そんな店があるんだ。そういえば、ボランティアで俺を助けてくれている、松下さんだか誰だったかも、そんな話をしていたような気がする。辺ぴな場所にあるのに、すごい人気の豆腐店があるって。たぶん水山豆腐店のことだな。え、なに、響子は最近、管理人さんと仲良しなの?」。カチャカチャと箸を動かす音とともに、勇太が質問する。「うん、仲良し。普通のおばさんなんだけど、すごく色々、この辺りのことを知っているの。このマンションには週三日、月水金の午前中しか来なくて、一階のエントランスやゴミ置き場を一生懸命、掃除してくれているんだよ。気さくで話しやすくて、昨日はチーズケーキが美味しいカフェも教えてもらっちゃった」。響子の声の音量は、足音と共に大きくなったり小さくなったりする。食卓に隣接する台所で動いているのだ。「ハイハイ、掃除しているおばちゃんね、確かに見たことがある。俺も会ったらあいさつはしているけど、話したことは無いなぁ。よっし、そのおばちゃんをシャブリ尽くして美味しい店、全部ゲットしようぜ。この豆腐なら信頼できるわ」。勇太が嬉しそうに言った。「勇太のことも、管理人さんはちゃんと知ってるわよ。田沼さんの対抗馬だなんて大変でしょうけど、奥さんも健康第一で頑張ってねって先週、励まされたんだから」「おっ、それは隠れ支援者かも。一票もーらいっ。今度、会ったら、俺からも水山豆腐店のお礼を言っておこう。美味しいお店を教えて頂き、ありがとうございましたって」

 響子はその後、十分ほどかけて、二曲目を最後まで聞いた。終始、響子と勇太の会話だった。時期はおそらく一曲目より少し時間が経過した昨年夏、場所は食卓のある居間だ。

 なんとなく違和感がある。

 響子は原因を考えた。

 意識を集中すると、頭の中のもやもやした白い煙が、だんだん一つの形を帯びてくる。カメラのピントが合うように、見たいものの輪郭が明確になる。

 なるほど、分かった。

 自分の会話を録音して、自分で聞く。

 それって変じゃない?

 盗聴というのは通常、自分の知らないところで、どんなやり取りがされているのか、把握するのが目的だろう。

 自分の会話をわざわざもう一度聞く理由とは、何なのか。

 響子は続けて三曲目を聞いた。これも時期は昨年夏、場所は一曲目と同じ和室だった。「今日は珍しく早く帰れて、良かったね」とねぎらう響子に対し、勇太が答える。「先方の都合で午後十時からの予定がキャンセルになったんだ。事務所に帰って、する作業もあったけど、居合わせたメンバーの空気が、まぁ今日は家に帰って寝ましょうか、みたいになってね。みんな疲れているから、たまには、こういう日も必要だよ」。プシュッと缶ビールを空ける音がした。勇太が美味しそうに飲む光景が目に浮かぶ。響子が言った。「勇太のためにみんな、そんなに頑張ってくれているなんて、本当にありがたいことね。私もビラ配りくらいだったらできるのに」。

 当時、響子は選挙活動を手伝いたいと何度か申し出ていたが、勇太は頑として受け付けなかった。イヤホンから勇太の声がする。「響子の優しい気持ちだけ、もらっておくよ。ただ俺は、奥さんを選挙運動に利用する政治家が大嫌いなんだ。本人の代理で奥さんが支持者の会合に顔を出したり、大きなホールの演説会で、本人のすぐ隣のパイプ椅子にずっと座っていたり。そんな政治家が山ほどいるんだ。で、その奥さんが美人で明るい性格だった日には、奥さんのファンが出来て、固定化してくれる。あの美人な奥さんがこんなに一生懸命頑張っているなら、一票入れてやるか、という世界さ。政治家にとっては、好都合な状況だよね。あの国会議員の得票数は、三分の一が奥さんへの票だ、なんてこともあるんだぜ。例えば奥さんの名前が花子だったら、花子票と呼ばれるんだ。でも、その三分の一は奥さんの稼いだ票だから、本人の、国や地方を動かすリーダーとしての能力とは関係無い。そういうの、政界関係者にとっては常識だけど、一般人の感覚からすれば、やっぱりおかしいよ。響子もおかしいと思うだろ。今の政治はおかしなことばっかりで、だからこそ、俺は立候補したんだ。そういう旧来の政治風土そのものを、俺は変えたいんだ」。

 響子が少し不満げに言う。「分かったわよ。じゃ、香奈と一緒に遊んでおくね。ところで、田沼さんの奥さんは、選挙活動を手伝うのかしら」。勇太が間髪入れずに答える。「一回目の選挙の時は結構手伝っていたけど、二回目以降は楽勝だったから、ほとんど何もしていない。田沼の奥さんは趣味がアルゼンチンタンゴで、発表会も頻繁に開いているから、人前に出るのは慣れているんだ。一回目の選挙では役者ぶりを発揮して、嘘泣きもしたらしいぜ。だから、今回の俺の秘めたる目標は、田沼の尻に火を点けて、奥さんを表舞台に引きずり出すことなんだ。そうやって、例えば向こうが夫婦そろって市民や支持者に対し、お情け頂戴で頭を下げる。一方、こちらはボランティアを支えに、具体的な政策を前面に打ち出す。選挙戦終盤に、そういう好対照な状況へ持って行けたら、有権者はおそらく俺を選んでくれると思うんだ」

 響子は停止ボタンを押す。少し飛ばして十曲目、さらに二十曲目を聞いた。

 熱中し過ぎてバッテリーが無くなると、i‐podを聞いたことが、勇太にばれるかもしれない。気づかれる前に自分から打ち明けて、なぜ家族の会話を影で録音しているのか、問いただすことも可能だった。

 しかし、そんなことをすれば、夫婦の間に決定的な亀裂が入ってしまうかもしれない。勇太と対立することは避けたかった。両親の仲が悪いことは、香奈の成長にとって大きなマイナスだ。

 結局、響子は三十分ほどかけて、収録されている五十七曲のうち、十曲を聞いた。響子の聞く限り、曲順は、実際の日時の流れに沿っている。一曲目は昨年初夏、最後の五十七曲目は昨年十二月上旬だった。録音された場所は和室、居間の二カ所。

 内容はいずれも、響子からすれば録音するに値しない日常会話だった。勇太が大好きなカレーライスを食べるときの家族三人、ディズニーのアニメ「くまのプーさん」のDVDを見ながら話す香奈と響子、勇太が夜遅くに帰宅して喜ぶ香奈など。そのほか、昨年十一月下旬、松田が初めて奥山家を訪れた際の会話も収録されていた。

「ふー」

 響子は頭を左右に振りながら、小さな声でため息をつくと、i‐podの電源を切った。発見したときと同様に、勇太の枕の下へ入れる。

 迷ったすえ、枕カバーを洗うのは明日にした。

 とりあえず、このi‐podには気づいていないことにしよう。勇太が家族の会話を盗聴し、携帯音楽プレーヤーで聞いているという事実を頭の中に入れ、これからの生活を送る。そうすれば将来、勇太の真意に気づく場面が、訪れるかもしれない。

 問いただすことは、いつでも出来る。

 響子は、寝室を出ると和室に向かった。朝起きてから二時間ほどしか経っていないが、まるで一日の終わりのように疲れが溜まっている。

 和室の机では、香奈が塗り絵に熱中していた。今日はアンパンマンだ。同年代の娘を育てる母親友達には、「子供をおとなしくさせるにはテレビを見せるのが一番」という声が多いが、響子はできるだけ香奈にテレビを見せたくなかった。テレビは楽しむためのすべてを提示してくれるので考える力を奪う。バラエティ番組は下品な悪口に満ち、その言葉遣いは必ず香奈に伝染する。

 響子の教育方針を知ってか知らずか、香奈はテレビにほとんど興味を示さず、その代わりと言うべきか、塗り絵帳さえ与えておけば、いくらでも静かに時間をつぶしてくれた。塗り方も、塗り絵を始めた一年ほど前に比べ、ずいぶん上達した。ほとんど枠からはみ出さないし、色のバランスも調和がとれている。響子は香奈の隣にしゃがんで言った。

「香奈は塗り絵がうまいね。その調子で頑張れば、絶対画家になれるよ」

 響子に頭をなでられた香奈は、色鉛筆の動きを止めると、微笑みながら言った。

「そっかなー」

「そうだよー」

 香奈には本当に絵の才能があるのかもしれない、親バカかな、響子がそう思ったとき。

 ガタンッ

 突然、玄関のドアが開く音がして、響子は飛び上がりそうなほど驚いた。香奈が冷静に言う。

「誰か来たー」

 響子は香奈の頭をもう一度なでてから、玄関へ向かった。鍵はきちんとかけたはずだ。

 目に入ったのは、焦って靴を脱いでいる勇太だった。響子の姿を見た勇太は、息を切らしながら説明する。

「ごめん、ハッ、ちょっと忘れ物を取りに来ただけで、ハッ、すぐまた行くから」

「忘れ物?」

 響子は、勇太に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で言った。体がみるみる緊張する。心臓の鼓動が早くなった。

 靴を脱ぐと、勇太はドタドタと足音を鳴らしながら寝室に入り、ほんの数秒で出てきた。

「では、再び行ってまいります。ごめんね、驚かせちゃって。じゃ」

 そう言い残すと、勇太は靴の後ろをかかとで踏んだまま、風のように玄関から出て行った。

 ガタンッ

 さっきと同じ、相手を拒絶するような冷たいドアの音がした。

 あっという間に勇太がいなくなり、響子は急速に肩の力が抜けた。

 玄関へ続く廊下にへなへなと座り込むと、閉まったドアをぼんやり眺める。

 忘れ物って何だろう。あんなに焦って取りに帰るなんて。勇太と結婚して八年になるが、初めての経験だ。

 壁の掛け時計を見ると、時刻は午前九時十分を指していた。役場では通常業務の時間帯だ。仕事を途中で抜け出して、帰宅したのだろうか。

 響子は気を取り直して立ち上がると、寝室に入り、勇太の枕を持ち上げた。

 やっぱり。そういうことなのね。

 i‐podが無くなっていた。


 □さかのぼって一月十二日 松田耕介


 上浦山の手高校で、小河から緑視率の話を仕入れた二日後、松田は上浦市役所総務課の広報広聴係長、岩田哲也を晩ご飯に誘った。市長のことを直接担当しているのは同じ総務課の秘書係だが、あいにく飲みに誘えるほど親しい職員はいない。強引に連れ出しても、直接の担当だと言いにくいこともあるだろう。その点、松田にとって岩田は気楽な存在だった。記者に慣れているし、松田と同じく日本酒が好きだ。役所内の人間関係も平気で話してくれる。健康推進課長と市民環境課長は同期のライバル関係、今の総務部長は嫁が田沼の嫁に取り入ったから出世できたなど、記事にはならないが興味深い話を、これまでたくさん教えてくれた。

 二人は午後六時に、上浦タイムスの小河が愛用する居酒屋「福々」で待ち合わせをした。松田は約束の十分前に到着。店へ入ると四十歳くらいの女将、村井由佳里が笑顔で出迎えてくれた。

「あら松田さん、いらっしゃい。今日はずいぶんお早いですね」

「えぇ、ニュースが無くて暇なんです」

 松田が自嘲気味に言うと、由佳里は「平和が一番。マスコミの方が暇なのは良いことですよ」と返しながら、カウンターへと案内した。

 松田以外の客はまだいない。店内にはカウンター十席と、お座敷が四つ。お座敷のうち一つは障子の扉が付いた個室だが、料金は変わらない。

 カウンターに座ると、目の高さにおつまみの入った小鉢がずらりと並んでいた。枝豆、いかなごの丸干、ピリ辛こんにゃく、ポテトサラダ・・・。注文したい誘惑に駆られるが、とりあえず岩田を待つことにした。

 岩田は午後六時ちょうどに現れた。

「あら岩田さん、いらっしゃい。お久しぶりね、お元気でしたか」

 由佳里が親しげに声をかける。松田は福々に市職員が出入りしていることを知っていたが、岩田が名前を覚えられるほどの常連とは知らなかった。

 岩田の体格は松田と対照的でほっそりしている。眼鏡をかけ、第一印象ではまだ三十代前半に見えた。しかし実際は、松田より一歳年下の四十二歳だ。学生結婚をして三人の子供がいる。一番上の長男は昨年、大学に入学したらしい。岩田を見て、大学生の息子がいると想像できる人は稀だろう。

 岩田は由佳里に案内され、松田の隣へ座ると言った。

「珍しいですね、松田さんが約束の時間より早く来るなんて」

「いやいや、僕の方から誘ったんで、当然です。というか、女将さんにも言いましたが、最近、ニュースが無くて暇なんです。仕事が無いから時間には余裕があります」

 岩田が目を細める。

「それじゃあ僕がニュースを提供しましょうか。とか言っといて、当てはありませんが」

「おっ、是非よろしくお願いします」

 生ビールで乾杯し、おつまみを数点頼むと、岩田が言った。

「二人で飲むのは久しぶりですね。前回は確か、昨年の夏。でも、いつも僕の方から声をかけているから、松田さんが誘ってくれるのは初めてじゃないですか?」

「えっ、そんなこと無いですよぉ」

 松田はとりあえず反論したものの、岩田の方が正しいことは分かっていた。

「いえ、たぶんそうです。今日は松田さんに誘われて嬉しかったです。感覚的に初めての嬉しさでしたね。でも、わざわざ僕に声をかけるなんて、何か職場では聞きにくいことがあるんじゃないですか?」

 さすが岩田、話が早いと感心しながらも、松田は慎重に言葉を選んだ。

「いや別に、あるといえばあるし、無いといえば無いというか。大した話じゃないんですよ」

 物欲しそうな顔を岩田に見せるのは良くない。足元を見られ、知りたい情報を引き出せなくなってしまう。飲み会であっても記者と取材対象者。会話は自然と駆け引きになる。

 岩田の目が輝いた。

「いいですよ、つまらない話でも。酒のあてには、それくらいがピッタリです。広報広聴係ですから。広く聴く係。何でも聴きますよ」

「お待たせしました」。由佳里が、通常より多めの枝豆と刺身の盛り合わせを持ってきた。「一番乗りのお客様だからサービスよ」と笑いかける。

 岩田が「お、ラッキー、ラッキー」と喜びながら枝豆に手を伸ばした。

 松田は岩田の横顔を眺めながら、できるだけ軽い口調で言う。

「いやまぁ、社長のことなんですけどね」

「社長」

 岩田は、食べ終わった枝豆を空の器に捨てると、右手の親指を突き上げた。

 ここで言う社長とは市長のことだ。市長のことをそのまま市長と呼び、居酒屋など公の場で内輪話をしたり悪口を言ったりすると周囲の客に聞かれ、後で思いがけないトラブルに発展する恐れがある。それを防止するため、外で飲食するとき、役場の職員は市長を社長と言い換えることがあった。

「そうです、岩田さんトコの新人社長さん。最近どうですか?」

 まずは大雑把な質問で岩田の出方を伺った。

「社長のことなら、大した話ですよ。つまらなくなんか、全然無いです。でも、どうですかと言われてもねぇ。どうなんでしょう。記者さんの方が詳しいんじゃないですか。私の答えを聞く前に、松田さんから見ると、どうなんですか?バーター、バーター、情報はバーターですよ」

 こちらの魂胆を見透かされ、松田は苦笑いした。

「いや何か最近、変わった点は無いかなと思いまして。当選してまだ二ヶ月弱ですから、変わったも何も比べようが無いかもしれませんが」

 岩田は数秒、間を置き、意味を確かめるように松田の言葉を繰り返した。

「最近何か変わった点は無いですか、という質問ですね。なるほど」

 岩田はさらに、何度かうなずくと、続けた。

「ということは、松田さんは最近変わったと感じているんですね?」

「えぇ、まぁなんとなく」

 松田はマグロの刺身を食べながら、必要最小限の言葉で岩田の質問をかわした。

 岩田が、親指と人差し指に付いた枝豆の塩を舐めてから言う。

「分かりました。仕方ない、じゃあまず僕の見解を言いましょう。僕としてはですね、変わったと感じた時もありました。でも今は、なるほど、本来こういう人だったのかと分かってきた感じです。選挙戦の演説や就任時のあいさつを聞いて、社長の人間像をあれこれ想像しましたが、実際はちょっと違った。それは最近、特に感じますね」

 松田は岩田の回答に手ごたえを感じた。目標物との距離が縮まっている。興奮を抑えるため、生ビールをゴクリと飲んだ。空になったので、いつも愛飲している福島県の日本酒を注文し、岩田に尋ねた。

「具体的に、どの分野で感じます?なるほど、こういう人だったのかと」

 松田の質問に、岩田は「うーん」と言いながら、考え込んだ。

 答えはあるのだが、口に出すかどうか迷っている様子だ。

 松田は思い切って言葉を足した。

「それはズバリ、環境の分野ではないですか?」

 岩田が驚いたように目を丸くした。

「さすが松田さん、よく知っていますね」

 松田は首を左右に振りながら言う。

「いえ、断片情報です。ただ何か環境政策について、思い切ったことをしようとしているのではないかと」。緑視率というキーワードは、最後のカードとして残すことにした。

 「失礼します」と由佳里が日本酒の徳利と、色とりどりのおちょこを二十個ほどのせた盆を持ってきた。松田は話を中断し、形も様々なおちょこを眺めると「これを選ぶのが好きなんですよねぇ」と言いながら迷う。

「僕はこれにしよう」。岩田は濃紺でずんぐりしたものを手に取った。

「じゃ、僕はこれで」。松田は赤茶色で、円錐を逆さにした形のおちょこを選んだ。

「岩田さんのは佐賀県の有田焼、松田さんのは岡山県の備前焼です。ごゆっくり」。由佳里が完璧な笑顔を残して立ち去った。

 松田が話を元に戻す。

「で、さっきの続きなのですが、環境政策で社長が若干暴走しているんじゃないですか?」

 岩田は、松田の備前焼に日本酒を注ぎながら言った。

「暴走と言うのか、でもまぁ確かに、最初は暴走でしたね。間違いない。僕は自分で言うのも何ですが、他の職員に比べたら環境意識は高い方なんです。スーパーには必ずエコバッグを持って行くし、トイレットペーパーは古紙百%再利用のものしか買わない。二酸化炭素削減に向けて、地方の役場だってやれることはやらなくちゃいけないと思っている」

 松田も岩田の有田焼に日本酒を注いだ。

「そんな岩田さんから見ても、社長はやり過ぎだと感じたんですね」

 岩田が小刻みにうなずく。

「そうです。さっきも言いましたが、最初は無茶苦茶でした。でも最近は少し常識的になっている。市民環境課の松浦課長が頑張ってレクチャーをしているので、効果が出始めた」

「でも一体、どんな無茶ぶりだったんですか?」

 松田の質問に、岩田は天を仰いだ。

「いやぁ、とにかく無茶苦茶でした。そんなこと市民にどうやって説明するの?みたいな」

 ここだ、松田はカードを切った。

「緑視率の拡大のような?」

 岩田が、準備していたようにガックリと肩を落とす。

「そうです。でも緑視率の拡大は実現しないので、記事にしたらダメですよ。誤報になりますから」

 松田は、市長が緑視率の拡大を目指したが、職員の反対で頓挫したというトーンの記事なら成立すると思ったが、口に出すのは止めた。岩田の気分を損ね、口が重くなられては困る。

「なるほど。でも職員は驚いたでしょうね」

 岩田が少し興奮気味に言った。

「驚いたも何も突然でしたからね。今年の仕事始めは一月四日で、その二日後だから一月六日です。松浦課長を社長室に呼んで、緑視率の拡大をする、森の中に住んでいるような街にしたいと。しかも導入エリアは、とりあえず市の北側半分。絶対不可能です。市民環境課内は大騒ぎになったみたいですよ」

 松田は一月四日の奥山市長の様子を思い浮かべた。

「仕事始めの社長のあいさつは、ごくごく普通でしたよね。特に環境を重視するようなことも言っていない。むしろ選挙当時の熱意や歯切れの良さが薄れたような印象さえ受けました」

「そうなんです。社長は最近、気分の浮き沈みがあるようです。というか、元々そういう性質の方だったんですね。僕たち職員が知らなかっただけで」

 松田は首をかしげた。

「浮き沈み?」

「感じませんか?松田さんは」

 松田は眉をひそめた。

「うーん、毎日接しているわけでは無いので、あまり感じなかったんですが」

 由佳里がマグロのユッケ、子持ちシシャモ、牛もつ煮込みを持ってきた。松田は日本酒を追加する。岩田がさっそくシシャモを食べながら言った。

「そうですよね、すいません。いや松田さんは何でも知っているので、つい聞いてしまいました。僕は毎日接しているので、浮き沈みを感じるんですよ」

 岩田は急に声のトーンを落として続けた。気づけば店内の半分ほどが客で埋まっている。

「先月の下旬、年末ですね、社長の口数は極端に減りました。社長室に閉じこもって一日中、資料を読み込んでいる。おまけに昼休みも出てこない。それまでは庁舎内の食堂で食べるか、職員を誘って外へ食べに行っていたんです。でも外部から弁当を取って、社長室で食べるようになった。口の悪い同僚は、奥さんと大ゲンカでもして落ち込んでいるんじゃないかと言っていましたが、もしそれが本当でも筋が通るくらいの変わりようでした」

 そんなことがあったのか。松田は意外に感じると同時に、記者として守備範囲の異変をキャッチできなかったことを恥じた。

 大激戦の市長選が終わり、気の抜けたところがあった。さらに十二月という季節がいけない。なぜか心が浮ついて、仕事がおろそかになってしまうのだ。松田は自分の不手際を季節のせいにした。

 岩田に付き合って声を小さくしながら、松田が言う。

「実際、社長の身に何かあったんですかね?お母さんが亡くなったとか」

 岩田は二匹目のシシャモに手を伸ばした。

「松田さん、熱いうちに食べて下さいよ、焼き魚は冷めたら台無しだ。社長ですね、いや、分からないんですよ、何があったのか。でも何も無いでしょう。さっきも言いましたが、気分の浮き沈みが激しい人なんです。そう考えれば、話がスッキリする」

 松田は岩田に促されてシシャモを食べながら、これまで奥山と一緒に過ごした場面を思い浮かべた。初めて会ったのは昨年二月。出馬の意向を確かめるため、東京まで行ったときだ。奥山は松田の質問に対し、はぐらかすことなく正面から答え、自分の考えをハッキリ口に出した。松田は、久しぶりに見る良い候補者だと感じた。昨年春、上浦市で奥山が立候補表明してからは、事務所に何度も顔を出した。当選後は自宅へも行った。だから奥山との付き合いは一年ほどになる。松田の印象として、気分の浮き沈みがあるタイプとは思えなかった。

 しかし、岩田が嘘を付くはずもない。岩田の言葉を通して知る奥山の言動には、確かに気分の浮き沈みあった。

 俺もまだまだ人を見る目が足りないということか。松田はそう結論づけ、自分に言い聞かせると、一言ずつ確かめるように口にした。

「浮き沈みの底が、昼休みも社長室に閉じこもっていた先月下旬。逆に頂点が緑視率の導入を唐突に宣言した今月六日。それから一週間ほどたち、最近は少し落ち着いている。一体どういうことなのか、社長に直接、確かめなくちゃいけないですね」

 岩田は意味深に右手の人差し指を立てた。

「そうです。真実の追求こそ新聞記者の仕事。ぜひお願いします。ついでに、分かったら是非私に教えてください。でもね、松田さん、社長の波は下に振れ、上に跳ね、今は再び下がって中間点に戻りつつありますが、先月下旬から変わっていないこともあります。それは外部の人と会うのを嫌うようになったことです」

 松田は首を左右に振った。

「僕は大丈夫でしょう。かれこれ一年の付き合いですから」

「甘い。一昨日、非常に驚いたのですが、高校時代の同級生で三八本舗社長の佐倉さんを追い返したんです」

「えっ、佐倉さんをですか?まさか」

 松田の声は思わず大きくなった。松田の知る奥山では考えられない行動だ。

 奥山の選挙運動を支えた核には三人の同級生がいて、佐倉はその一人だった。

 三八本舗は明治三十八年に創業した和菓子店で、三八タルトなど有名な土産物を数多く発売していた。竹沢県の和菓子店としてはトップレベルの規模で、佐倉は親の後を継ぎ五年ほど前、社長に就任した。

 市長選当時、老舗社長の佐倉が新人候補を支援し、現職に反旗を翻すことは、松田から見ても勇気ある行動だった。佐倉によると、一時は無言電話や脅迫状のファックスなど複数の嫌がらせを受けたという。

 松田は奥山の選挙事務所で何度か佐倉と顔を合わせ、話したことがあった。「ウチは歴史ある和菓子屋だけど、保守的な考えでは生き残れないんだ。時代に合わせて変化しなくちゃ会社は続かない。政治も同じさ。時代に合わせて変わらなくちゃ」。選挙事務所で佐倉が熱っぽく語っていた姿を、松田は昨日のことのように覚えている。

 松田の印象では、奥山と選挙戦を支えた同級生三人は、固い絆で結ばれていた。奥山は同級生三人の名前を挙げ、「コイツらが居てくれるから充実した選挙活動を送れるし、政策にも磨きがかかる。劉備軍の諸葛孔明みたいな存在ですよ」と、三国志の天才軍師に例えて感謝していた。それを聞いた佐倉は「俺たちが諸葛孔明とは光栄だなぁ。でも勇太が劉備に値するかどうかは別だぜ、ハハハ」と笑った。

 佐倉は面倒見の良い性格で人望があり、地元の経済界にも慕う人は多かった。多くの市民にとってどこの馬の骨か分からない奥山を、佐倉が選挙戦当初から全面的に支えたことは、奥山が田沼に勝てた大きな原動力だった。

 その佐倉を、奥山が追い返した?信じられない。

 松田が聞いた。

「佐倉さんが来たとき、社長はものすごく忙しかったとか?」

 岩田は右手を顔の前で左右に振った。

「ぜんっぜん忙しくないです。一応、断った理由は来年度予算の打ち合わせですが、査定はまだ始まっていませんし、後付けの理由だということは、佐倉さんにも当然分かったはずです」

「佐倉さん、怒っていませんでしたか?」

「そんなことで怒るような器の小さい人ではありません。でも意外だという表情はされていました。おそらく心中では色んな思いがよぎったでしょう」

 松田は念のために聞いた。

「佐倉さんの要件は私用だったんですか?」

「いえいえ、以前から市が設置するまちづくり協議会の委員を務めているので、その関係の打ち合わせです。選挙前、田沼さんが佐倉さんの行動に怒って委員を解任したんですが、現社長が就任してすぐに復活した経緯は、松田さんもよくご存知でしょう」

 松田はうなずいた。奥山に面会を断られた佐倉の気持ちを想像すると、やるせない気分になり、手元のおちょこをグイッと飲み干した。


 翌十三日午後、松田はさっそく市長室へ奥山を訪ねに行ったが、受付で応対した総務課秘書係の職員にあっさり断られた。理由は岩田からの事前情報通り、来年度予算の打ち合わせだった。

 冷たい人間だな。当選したら態度が変わるような政治家は、信頼できない典型例だ。

 松田は心の中で毒づきながら、奥山の自宅へ行くことを決めた。こういう時こそ夜回りの出番だ。逃げられると思うなよ。奥山が面会を拒否したことは、眠っていた松田の記者魂を揺さぶり起こした。


 週が明けた十七日午後八時ごろ、松田はケーキを持参して奥山のマンションを訪れた。しかし奥山に「今日は話すことないから。またにして」と断られた。またしても拒絶か。

 松田は考える。

 なるほど、奥山が松田に会えないのは、来年度予算の打ち合わせが忙しいからでは無い。なぜだか分からないが、自分は嫌われてしまったのだ。しかし、嫌われたのは自分だけではない。岩田によると、奥山は佐倉を含む外部の人間全般を避けるようになった。

 一体、何が奥山をそうさせているのか。

 さらに、それ以上に気になるのが緑視率の行方だった。岩田は「実現しない」と断言していたが、現状認識が間違っている可能性はある。松田から見れば、役人は目の前の状況を無意識のうちに、自分にとって都合が良いようにとらえ、問題を先送りする生き物だった。緑視率拡大について、奥山が「どうしても実現する」と言い張ったら、この先、どう展開するか分からない。

 奥山が急に外部の人間を避け始めた件は、たとえ理由が分かっても、記事にはならないだろう。

 しかし、緑視率を拡大するとなったら記事に直結する。こればかりは奥山と話して、白黒ハッキリさせなければならない。

 松田は三日後、再び奥山の自宅へ行くことを決めた。

 今度は、作戦をたてる必要がある。もう一度行っても奥山がインターホンに出ると、前回の繰り返しになってしまうだろう。

 そこで思い浮かんだのが、奥山の妻、響子の存在だった。昨年十二月は一緒に晩ご飯を食べ、色々と話した。ある程度、仲良くなれた自信はある。松田の印象では、響子は年齢に関係なく幼さが残る美人で、頭の回転が早い女性だった。こちらの話について、最初の三割ほど聞けば言いたいことを理解してしまう。夫を支える一方で、譲れない思いはキチンと口に出す気骨も感じていた。

 よし、訪れる時間を前にずらそう。

 前回と同じ午後八時に行くと奥山が帰っているので一時間早めて、午後七時に行く。響子がインターホンに出たら、「最近、奥山さんと会えずに困っています。市役所の政策についてどうしても確認したいことがあるのですが」と、苦しい事情を率直に打ち明けよう。これは一か八かの賭けで、ひょっとしたら「そんなこと、私に言われても困ります」と嫌われてしまうかもしれないが、何かを変えなければ現状は打破できない。

 その後は出たとこ勝負だ。


 三日後の一月二十日。作戦といっても訪問を一時間早めるだけの単純なものだったが、響子のおかげで予想以上の成果を収めることができた。午後七時に奥山の自宅を訪れると、香奈に続いて響子がインターホンに出た。驚いたことに、響子は三日前の件について、奥山を叱責してくれたという。松田は、響子が目の前の状況を公平にとらえ、行動してくれたことに感激した。

 松田がこれまで会った男性の政治家は、首長や議員に限らず亭主関白な人間ばかりで、妻が夫の言動を正すようなことは考えられなかった。彼らは、言葉では「妻を大切にしている」「妻がいなければ何もできない」と言いつつ、夜は酒席続きで家に帰らず、女性が接客するスナックやクラブへ行くと平気で体に触れた。たまに同席した松田は、そんなことでいちいち腹を立てたりしないが、夫が政治家だと妻は苦労が多いだろうと感じていた。

 だから、インターホン越しに響子から「三日前はごめんなさい。勇太には、怒っといたから」と言われたときは、涙が出るほど嬉しかった。取材というのは何がきっかけで上手くいくか分からない。松田は興奮し、響子には何らかの形でこの借りを返さなければ、と胸に刻んだ。

 その夜は奥山の家族三人と夕食を共にし、午後十時ごろに帰った。


 帰り道、松田は、ほろ酔い気分で収穫の中身を確認した。

 まず、緑視率。奥山から「今回は拡大をあきらめる」という言葉を聞けた。当分は放置して良さそうだ。

 続いてマングローブ。昨年十一月と十二月に計二回、奥山の自宅を訪れた時は気づかなかったが、響子はマレーシアから種を持ち帰ったマングローブを育てていた。

 松田は一年前、雪野川の岸辺で育つマングローブの記事を書いた。響子はマングローブに興味を示していたから、記事を読みたいかもしれない。ただ、インターネットで検索しても見つからないだろう。掲載されたのは一年前なので、竹沢新聞のホームページからはすでに削除されている。松田は掲載記事をコピーして、響子へ渡そうと思った。

 奥山の気分が浮き沈みしている点についてはどうか。

 聞くつもりだったが質問の仕方が難しく、結局、断念してしまった。その代わりというべきか、気になる話を幾つか仕入れた。昨年末、奥山は突然、マングローブに興味を持ち始めたという。響子によると十二月十八日。さらに夕食の途中、突然、大量の汗をかき始めた。以前は無かったことらしい。

 汗を拭くために奥山と響子が席を立ち、香奈と二人きりになってから数分後、かすかに奥山の怒鳴り声が聞こえた。内容まではハッキリ聞き取れなかったが、「一人にさせろ」と言っていた気がする。

 食卓に戻った奥山が、響子に小声で謝っていた。

 単なる夫婦げんかだろう。そう考えるのが自然だ。しかし、何かが引っ掛かる。

 松田に聞かれるかもしれない状況で、奥山が響子を怒鳴ったりするだろうか。しかも、あんな大声で。松田の知る奥山は、そこまで冷静さを欠いた人間ではない。

 よほどの事があったのか。わずか数分で響子がそこまで奥山を怒らせる展開というのは想像しにくいが、夫婦には夫婦の事情がある。怒鳴り声は、「奥山の気分が浮き沈みする」という岩田説の補強材料かもしれない。


 夜道を三十分ほど歩き、職場を兼ねた自宅へ帰ると、松田はスクラップを探し、一年前に書いたマングローブの記事を読み直した。

 見出しは「熱帯の植物が上浦市に群落 マングローブ、川沿いに三十四本」。内容は以下の通り。


 熱帯にしか生息しない植物「マングローブ」が、上浦市今寺の雪野川沿いに群落をつくり、研究者らが注目している。日本でマングローブが生息するエリアはこれまで鹿児島市が北限だったが、上浦市は鹿児島市より約五百キロ北に位置し、冬の最低気温は十度ほど低い。研究者からは「進化の過程で寒さに強くなった特殊ケースではないか」(大沢雅彦・竹沢大学教授)との見方が出ている。

 雪野川の群落は三十四本のマングローブで構成され、高さはいずれも三~六メートル。マングローブは世界中に分布するが、生息域は熱帯と亜熱帯に限られる。海や川の水辺を好むことが特徴だ。不安定な泥で幹を支えるため、根がタコ足状に四方へ伸びている。この「支柱根」と呼ばれる太い根は、水面から上へ突き出し、光合成もする。

 雪野川に生えるマングローブは「メヒルギ」と呼ばれる種類とみられ、鹿児島市で生息するものと同じだ。三十四本はいずれもタコ足状の支柱根を持ち、雪野川沿いに群落を作っている。隣には公園があり、住宅街も近い。

 上浦市で小学生向けの植物観察会を実施する市民団体「かみうら自然隊」代表の小松邦夫さん(六三)は「群落には半年ほど前に気づいたが、上浦市にマングローブが生えるとは驚いた。現場の公園は何十年も前から知っているが、いつの間に、あんな大きなマングローブが育ったのか。全然気づかなかった」と首をかしげる。竹沢大学の大沢教授(植物進化学)は「冬の最低気温がマイナス十度になる上浦市でマングローブが生息することは通常考えられず、なんらかの突然変異体だろう」との見方を示した。

 「地球温暖化とマングローブ」などの著書があるジャーナリスト竹下伸二さん(四五)=東京都港区=は、「マングローブは通常の植物より二酸化炭素を多く吸収する人類にとって重要な生物だが、開発に伴う伐採が止まらず、世界的に生息数が激減している。寒い地域でも育つ種類が出て、今後、生息エリアが拡大するなら明るいニュースだ」と期待している。


 松田は記事を読み直し、掲載された写真を見つめた。松田が撮った雪野川沿いのマングローブが映っている。寒い中、長靴を持って行き、川の中に両足を浸けながらシャッターを押した力作だ。掲載日は一月二十日。

「なんと、ちょうど一年前じゃないか」

 松田は一人きりの部屋でつぶやいた。そういえばクリスマス公園には、記事を書いてから一度も行っていない。

 久しぶりに行ってみるか。

 居酒屋「福々」で由佳里に漏らした通り、最近の上浦市はニュースが無いから暇だ。もしマングローブが枯れていたら、また記事にできる。


 五日後の一月二十五日、松田はマングローブを見るため、一年ぶりにクリスマス公園を訪れた。午後三時過ぎ、オレンジ色の日産マーチを公園の出入り口付近に止める。

 歩いて公園に入ると、砂場で二組の親子連れが遊んでいた。快晴だが平日なので、人影はまばらだ。松田は親子連れを横目で見ながら公園を通り抜け、高さ五センチほどの白いブロックを乗り越えた。二十メートルほど歩くと雪野川に突き当たる。

 一年前と同じマングローブの群落が松田の視界に入った。雪野川と公園の緩衝地帯に、緑の葉を茂らせている。枯れているどころか、左右や上空に枝を張り巡らせ、生命力がみなぎっていた。

「ん、なんだ、ありゃ?」

 予想外のものが視界に入り、松田は思わず漏らした。

 そのうち一本のマングローブの近くに、二人の中学生が居たのだ。二人とも男子で上浦山の手中学校の制服を着ている。公園の隣なので中学生が居ることには驚かないが、二人の行動は目を引いた。

 一人がマングローブの枝を触り、もう一人はその様子をビデオカメラで撮影していた。



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