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廃棄世界物語R Squad   作者: 猫弾正
PA.302年 アウトブレイク
1/4

崩壊

 ティアマット暦 PA.302 (※地球標準時間) 



 ヴァージニアシティでも歴史あるホテル・ニミッツの小さなバーを兼ねたロビーは、非常に落ち着いた雰囲気が漂っていてギーネ・アルテミスのお気に入りだった。

 この古風なホテルのマネージャーか、オーナーの意向かは知らないが、長い歳月を掛けて丹念に創り上げてきた空間だけが持つ穏やかさは何とも居心地が良くて、彼女に帝国にいた頃を思い出させてくれるのだった。

 柔らかな橙色の照明が、薄暗くも心地よく店内の天井に揺れている。


 正面玄関には、頑丈な鉄製のシャッターが降ろされている。

 血の染みが壁や床のそこここに広がり、窓に木の板で打ち付けられて補強されてもいても、年季の入った空間から滲み出す雰囲気は、一朝一夕には消えはしない。

 それでも、白磁のカップをテーブルにおいたギーネは、残念そうに溜息を洩らした。

「ふむ、此処の紅茶がもう飲めなくなると思うと心残りであるな」

 対面の椅子に座って、葉巻を手に紫煙を揺らしていたアーネイが笑った。

「ティアマットでは、中々紅茶は手に入りませんからね」

「まして本国並みに美味い紅茶となるとな……この先、百年はめぐり合えないかも知れない」


「けっ、お高く止まってやがる。なにが紅茶だ」

 毒づいたのは、猛々しい表情をした初老の男だった。

 コンバットスーツに身を包んだ体躯は、いかにも歴戦の古参兵といった頼れる雰囲気ではあるものの、同時に粗暴さを滲ませた相当の悪党面をしている。

 ギーネが雇っている傭兵の一人、クインであった。

 磨き上げた床に唾を吐きすてるクインの行為に、ギーネは露骨にいやそうな顔を見せた。

「おい、アルテミスよ。ゾンビ共に囲まれる前に、とっととずらかった方がいいんじゃねえのか?」

 ずかずかと雇い主に近づいてきたクインは、テーブルに手を置くとずいと身を乗り出してきた。

「焦るな、クイン。脱出の算段はついてる。後は待つだけだ」

 片目だけ薄く開いて初老の傭兵を眺めたギーネは、紅茶の味と香りを楽しみながら自信有りげに冷たい微笑を浮かべた。

「だから、不安なんだ。おめぇは肝心なところで間が抜けてやがるからな。

 余裕かましているときは、特にだ」

「なっ、なっ、なにを根拠に……」

「さあな、自分の胸に聞いてみろ」

 クインが吐き捨てて踵を返した。

 同席しているアーネイはクインに冷たい眼差しを向けたが、その無礼を咎めはしなかった。

 クインは、ギーネ自身が選んで雇っている傭兵である。

 誰に対しても憎まれ口を叩く粗暴な男ではあるが、銃や格闘は勿論、状況判断も確かで窮地においては何かと頼りになる傭兵である。

 主が無礼な振る舞いを許している以上、アーネイに言うことはない。


 閑散としているロビーの階段付近では、レコード機械がクラシック音楽をエンドレスに流していた。

 一種異様な静けさに包まれているエントランスの反対側では、揃いの赤い軍服を身につけたギーネ・アルテミスの部下が三人。鉄格子を降ろした出入り口を見通せる位置のソファに座ったまま、無言でマガジンに弾薬を込めている。


 ギーネとクイン、レッドコートの一党以外にも、室内には数人の武装した男女の姿が見えるが、傭兵やハンターであろう彼らを除けば、ホテルの宿泊客は見当たらない。

 全員がそれなりに冷静な態度で振舞っている中、着慣れない様子で青い制服を纏った若い娘だけが一人、発情期の犬のように落ち着かない様子でロビーを歩き廻っては、度々、窓の隙間から、そっと外を覗き見ている。


 時折、ホテル裏の駐車場の方から、散発的な銃声が鳴り響いている。

 ギーネ・アルテミスが配置した警戒用のロボットたちが、迷い込んだゾンビやグールを制圧しているのだろう。現状で裏口から町に増えているゾンビに侵入されることはまずない。

 それを知りながらも、傭兵たちは唇を湿らせたり、頬を撫でたりしている。


 マスターは、ショットグラスを磨き続けており、武装した数人の客は、カウンターで各々陰気に煙を揺らしたり、飲み物を呷っていた。

 マスターの前に座ってぬるいビールを啜っていた男が、腕の時計を眺めてメモに何かを書きとめた。

 隣に座っているハンターが覗き込んだ。

「よう、ルクルス。さっきから、なに時間を気にしている?」

「可愛い女の子とデートの約束でもしていてな」

「本当は?」

「……4時間前は平均して22分に一度。銃声も多くて五、六発だった。今は大体15分置き。十二、三発撃つ時もある」

「増えてきているか」

 肯いた男は、まずいビールを一息に喉に流し込むと、陰気な表情で黙り込んだ。


 駐車場に続く裏口と正面玄関を除けば、他の勝手口も、非常口も、内側から板で打ち付けられ補強されていた。

 外ではかなり激しい風雨が吹き荒れている。

 薄闇のなか、人影が時折、暗い視界の向こう側に彷徨っているのが見えた。

 唐突にダンと激しい音がした。青い制服の娘が小さく悲鳴を上げて、飛び退っていた。

 分厚い窓の外で、鮮血に染まった何者かがガラスをドンドンと叩いていた。

 異様な光景だった。破れた血塗れのシャツの青年が虚ろな目をして、叩き続けている。

 大きく食い破られた喉の奥から、不気味な唸り声を上げていた。


「糞ッ、くそったれ。糞が。」

 口汚く毒づきながらクインが立ち上がった。

 ライフルを担いでバルコニーのある二階への階段を昇って行くと、すぐに銃弾の音が一発。

「五月蝿えったら、ありゃしねえ」

 降りてきて、また唾を吐き捨てる。

 窓の外の人影は消えていた。脳漿がべったりと窓に張り付いている。


「クインは、いい腕をしている」

 無造作に狙って一発で仕留めるのを見て、屋上から市街地の様子を記録し続けている斥候のジャネットが感心したように呟いた。


 カウンターの隅では、皮のジャケットを着込んだ女がラジオを弄くっている。

 三日前から五月蝿くがなり立てていたラジオも、半日ほど前から大半の局が沈黙している。

「まだやってる局は……あった。公共放送か」

「あそこは軍が警備についているからな……とは言え、何時まで持つか」

 皮ジャケットの隣にいたレッドコートが、肩から覗き込きながら呟いた。

「ヴァージニアシティ当局は、今回の事態をゾンビ・アウトブレイクと公式に……非常事態宣言……戒厳令を発……軍を出動さ……西ブロックの閉鎖を決定し……」

 後は、嵐のようにザーザー言う荒れた音だけがラジオから垂れ流されている。

「ああ、また聞こえなくなった。糞」

 皮ジャケットの女が頭を抱え込んだ。


「……今さらか。遅すぎる」

 ギーネの洩らした意見に、アーネイが皮肉げな口調で辛辣に賛同した。

「当局は初動を誤った。封じ込めに失敗したな」


「……原因はなんだろうな。急すぎる。下水になにか……」

「原因なんて今さら、なんでもいい。ヴァージニアシティはお終いだ」

 ロビーのあちこちでハンターたちが意見を囁きあっている最中、明らかにホテルの内部から銃声が響いた。

 ほとんど全員が、ぎょっとしたように一斉に武器に手を伸ばした。

「向こうのエントランスの方か?」

「侵入されたか?」

 中腰の姿勢で様子を窺い続けていたルクルスが首を振った。

「いや、二階だ」

 やがて泣き叫んでいる女の声と宥めるような男の声が聞こえてきた。


 青い背広を着た男がゆっくりと上階へと続くロビーの階段を下りてきた。

 壮年だが若々しい体格と顔立ちをした男で、背広の胸には星型をした金色のバッジが輝いているが、表情はひどく疲れ切っていた。硝煙の昇っているリボルバーを手にしている。

 保安官の後ろからついてきた夫婦が、憔悴した様子で階段の踊り場にへたり込んで抱き合った。

「……さっき、子供の一人が発症した」

 それだけ言った保安官は、表情を隠すように被っていたテンガロンハットのつばを深く下げてから椅子へと座り込んだ。


「おい、若僧。他に感染している奴はいないのか?」

 苛立たしげなクインの呼びかけに、降りてきた保安官は首を振った。

「いない」

「確かか?」

「確かめた……あの子だけが最初から発熱していて隔離していた」

「そいつを聞いて安心したぜ。だが、まだ連中から目を離すなよ」

 唾を吐き捨てたクインは、ソファに座り込んでブリキのスキットルを取り出して呷り出した。

「俺はあの子をよく知っていた。あの娘が教会で洗礼を受けた時も立ち会った。

 十歳の誕生日を迎えたら、俺が銃の撃ち方を教えてやると約束していた」

 保安官が顔を覆って呻き声を洩らした。

 青い制服の娘が駆け寄って、おろおろとしながらも声を掛けた。

「ゴ、ゴードン保安官!み、みんな保安官を頼りにしているんです!」

 下手糞な慰めだが保安官助手の言いたいことを悟って、気を取り直したゴードンが顔を上げた。

「大丈夫だ。キリマンジャロ。俺は大丈夫」

 ゴードンは引退したハンターで、ギーネとアーネイの古い知り合いであった。

 数年前から地区の保安官に選出されて、信望もあったのだろう。

 ゾンビ・アウトブレイクの徴候が出始めると、地区の住民たちを誘導していち早くホテルに篭城することに成功し、自分の地区の住民には犠牲者を出さなかった。

「やっと辿り着いた安住の地でゾンビ・パンデミックが発生しようとは」

 アーネイが耳元で囁いた。

 やっと終の棲家を手に入れたはずの友人を気の毒に思いながらギーネは瞳を細めた。

「ゴードンもついていない男だ」


「キリマンジャロか。保安官補は、変な名前だな」

 ハンターの誰かが小さい声で呟くと、疲れたようにルクルスが溜息を洩らした。

「本人に言うな。気にしている」

 急速に情勢が悪化する中、ゴードンに雇われたルクルスら地元のハンターは、薬局やスーパーから物資を集めてきている。

 ギーネの雇った傭兵たちがホテルを守りながら、レッドコートの斥候が住民がまとめて避難できる安全な退路を探しに近場の廃墟を探索していた。


「……ギーネ。お前は天才だ。何とかならんか?」

 ギーネは、注射のアンプルを保安官に寄越した。

「ほら、ワクチンやるよ」

 ゴードンは凍りついたように動きを止めた。

 保安官助手のキリマンジャロもぎょっとした表情でギーネを凝視する。

「……えっ、お前。そんなガムみたいに気軽に。ええ!」

「では、なくて!創れるなら最初から。」

 五月蝿く喚いているゴードンに、ギーネは眉を顰めた。

「出来たのは今しがただよ。

 友人の為に徹夜したギーネさんに、労いの言葉を懸けてやるべきだと思うぞ」

「……ああ。すまん。そうだな。あの夫婦にはもう一人の子供がいる。せめて……」


 立ち直ったゴードンが、汗の吹き出た額を撫でてから、改めてギーネに向き直った。

「ワクチンだが、幾つある?」

「見ろ。そこの試験管。ゆっくりと一滴一滴落ちてる」

 覗き込もうとしたゴードンだが、試験管の前に掃除機みたいなシルエットの小型ロボットが見守りつつ頑張っていた。

「その子は一滴一滴見守るのが仕事です。邪魔をしてはならない」

「あ……おう」

 相変わらず、ギーネの思考はよく理解できない。ゴードンは諦める。


「三十分で一人分。二十四時間で五十人分。もっとも、それまでホテルが持てばの話だが」

 ゴードンは厳しい表情を見せるが、ギーネが説明で捕捉する。

「別に脱出してからも造れるが、安定した電気が供給できる場所でないと難しいな。

「どれくらいの効力がある」

 これはルクルスの質問だった。二階に避難している中には、彼の子供もいる。

「症状の発症前なら、確実に押さえ込める。子供は抵抗力が弱い。

 取りあえず、出来た分から危なそうな子に注射してやるといい」

「これで、市を救え……」

 キリマンジャロが表情を明るくしたが、ギーネは首を振った。

「無理。ウィルスの潜伏している人間が多すぎる。時間が足りない」

 保安官助手の見せた表情に軽い罪悪感を覚えつつも、ワクチンの限界について説明を始める。

「言っておくが、それ。空気感染は防ぐけれど噛まれたらお終いだからな。

 それに重度の感染や完全に発症した人間は治せない」


手元の携帯端末を眺めるギーネ。

街の地図に、時間と共に赤い点が広がっていく様子が画面に出ている。

「軍と当局は初動を完全に誤った。

 あと18時間47分でヴァージニア・シティは完全に死都と化す」

「なんとかならないか?」

 ゴードンの苦渋に満ちた声に、ギーネは首を振った。

「いくら私でも、未来の世界の狸型ロボットではない。

 ウィルスさえ特定してしまえば、ワクチン組み上げるのに五秒だったけど、大量生産するには、人も、時間も、設備も足りない」

「……そうか」

 手元の端末を操作してから、アーネイがゴードンに言葉を掛けた。

「中央地区は、もう救いようがない。

 あと出来ることはバリケードを作って、死者が外の世界に溢れないようにすることだけだな」

 ギーネも部下の言葉に相槌を打った。

「完全に感染が広まれば、重装備した一個小隊でも立ち入れなくなる。

 中央部は勿論、この南地区も危険だ。我々とて何時までも篭城はできんよ」


 ワクチンを夫婦に手渡していたゴードンが、友人に向き直った。

「ギーネ。お前、ワクチンはいいのか?」

「私も部下も、ナノマシンあるから平気。だけど、そんな高価な代物。皆には配れないだろ?」

「……そうか、色々と感謝する」

「お前とお前の父親には、色々と世話になったからな」

 ティアマットに来たばかりの頃、ギーネとアーネイは親切なゴードン親子に面倒を見てもらったことがあった。

 命の借りと言うほどのものではないが、旧知の恩人である事に変わりはない。


 ソファに腰掛けたギーネに、アーネイが話しかけた。

「お嬢さま。ところであれは猫ですよ」

「ふふっ、またアーネイは適当なことを。あれは誰がどう見ても狸だろう」

 出鱈目を吹き込もうとするアーネイを、ギーネは一蹴するもしつこかった。

「猫です。好きな漫画ですから、間違いありません。鼠に耳を齧られたんですよ」

「では、賭けるか?」

「いいですよ。狸だったら、欲しがっていた火付け盗賊改の時代劇ホロテープ上げます。

 ただし本当だったら、お嬢さまのいう狸型アニメのDVD貰いますからね」

 アーネイの提案にギーネがにやりと笑った。

「乗った!」

 勝利を確信したギーネは、ほくそ笑んだ。

「くふふ、あれが猫の訳なかろうに。愚かなり、アーネイ」


 横で聞いていたクインが口を挟んできた。

「あのアニメは俺も餓鬼の頃、見てた覚えがあるけど……ありゃ、お前……」

「なんだね。クインくん」

 得意げなギーネの顔を見て、クインが口を閉じた。


 ギーネ知ってるよ。あれは狸だって。ちゃんと登場人物が狸って言ってるシーンをこの天才的頭脳がきちんと覚えているんだもん。ああ、自分の完璧な記憶力がこわ恐ろしい。

 火付け盗賊改方のホロテープ手に入ったら、コタツに入ってみかん齧りながら一日中江戸時代に浸るんだ。


 嬉しそうなギーネを見て、クインも面白そうに笑っている。

「あとでのお楽しみだな」

「なにが楽しみなんだね?クインくん。

 ちなみに君がそんな顔をしていると、なんか嫌な予感がしてくるぞ」

 何故か、取り返しの付かない失敗をしたような気がしてならなかった。

 不安になったギーネが不機嫌そうな顔になるも、クインは不気味な哄笑を浮かべている。

「へっ……おめえさんの泣きっ面を拝めると思うとな。

 まあ、もっとも、このくそったれな町から生きて帰る事が出来たらの話だが」

 アーネイが冷ややかにクインに語りかけた。

「相もかわらずの性格の悪さですね。クイン。うちのお姫さまを余り虐めないで欲しいですよ」

「虐めるのは、お前さんだけの楽しみって訳かい?」

 悪びれないクインが煙草の煙を深々と吸い込んで、吐き出している。


「報道では、貴金属店なり、銀行なりに押し入っているハンターも多いそうですが。クインは如何なさいますか?」

「お前らと一緒にさっさとずらかるぜ。アウトブレイクは、やべえからな。

 で、車は大丈夫だろうな。アルテミスよ」

 ギーネは気持ちを切り替えて、手元の端末にロボットたちから報告された戦闘ログを表示した。

「駐車場は、ロボットたちに見張らせている。

 死角の無いように三台が五千発の弾とライフルで武装しているし、負けっこないね」

 淡々と呟いたギーネだが、気になったことがあったのか。眉根を顰めた。

「それにしても……わたしのロボット、何故かひっきりなしにゾンビが襲ってくるが……人工蛋白質の脳みそだからか?生体の波動を感知して?ゾンビの知覚領域はどうなっている?」


 クインとギーネのやり取りに危機感を刺激されたのか。レッドコートの一人がアーネイに呼びかけた。

「軍曹殿。我々は何時までホテルに籠もっているんですか?そろそろ脱出に取り掛かった方が」

「もう少しだ。ヴァイオレットからの連絡を待て。今、避難民を連れて逃げられる経路を探索している」

 レッドコートたちも、やや不安そうな色を隠せない。先任のフィーアが小さく呟いた。

「……老人や子供までいてはな。足も遅くなる」


 周囲を用心深そうに見たクインが、小声でギーネに囁いた。

「分かってるだろうな。アルテミスよ」

「万が一の場合はな。そうはならないことを祈っているがね」

 念を押すようにギーネをみたクインが肯いてから、また離れて煙草を吸いだした。


 ホテルの上階には、百人近い避難民が集っているが、一階には、彼らを守ろうとする保安官と脱出の護衛を引き受けたハンターたちがいた。

 保安官の旧知であるギーネとトレッドコートと彼女の傭兵たちも合流しており、すでに町中のあちこちにゾンビが彷徨っている状況にも関わらず、ホテルを問題なく守り抜ける戦力があった。

 だが、時間と共に町の生存者が減少し、歩く死者が増大して一帯の調和が崩れた時、ゾンビの本格的な【波】が発生するようになれば、この戦力でも到底、持ち堪えられるとは思えなかったし、ギーネには試すつもりもなかった。その前に撤退する予定である。

 ギーネにとって保安官は大事な友人であるし、気の毒には思っている。

 ギーネはゴードンに対して高貴な同情心を抱いており、自身の財産を削り、危険を侵しても助けたいと考えているが、しかし、同時に許容できる損害にも限界があった。

 ぎりぎりまで尽力するし、リスクを侵す覚悟もあるが、最悪の状況に陥った場合は、足手纏いの民間人を見捨てて、自分と手勢だけで脱出するプランも持っていた。

 できれば選択したくないと考えつつ、安全なルートを探っているヴァイオレットからの連絡を今か、今かと待ち侘びている。


 いやな沈黙に包まれたロビーの静けさが、再び破られた。

 ホテルの入り口から、また、バンバンと叩く音が響いてくる。

 毒づいたクインがライフルを片手に立ち上がって大股に歩き出したが、聞こえてきたのはゾンビの不気味な呻き声ではなく、意味のある言葉だった。

「助けて!助けて!」


「大声で叫んでるんじゃねえよ。やつらが集ってくるだろうが。

 間抜けな姉ちゃんめ。そのまま食われちまいな」

 クインが吐き捨てるが、保安官助手が飛び出した。

「サリー。あれは、サリーだ!」

 キリマンジャロは、シャッターを開けるボタンに駆け寄っていく。

「おい!姉ちゃん!妙な真似をするんじゃねえぞ!!

 脳みそにもう一つ鼻の穴を開けて貰いてえのか!」

 クインがライフル銃でキリマンジャロの足元の床を撃った。

 保安官助手が息を飲んで立ち止まった。

「お、お願い!同じ施設で育った子なんです!」

「糞餓鬼が!外の様子も分からんのに!

 ゾンビに追われていたらどうするつもりだ!」

 睨み合う両者の沈黙を破ったのは、保安官だった。


 冷静な態度を保ちつつ、屋上の斥候と無線で話してから開閉装置の傍にいる若いハンターに声を掛ける。

「そうか……分かった。開けてやれ、キッド」

「……ですが」

「大丈夫だ。正面にゾンビは見当たらない。今はまだな」

 手を振ってから椅子に身を深く沈めた保安官は、疲れ切った表情で目を閉じた。


初出 2013年 08月07日

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