一話 蝉と北の一族
みんみんみん…と久方ぶりの鳴き声がきこえる。
「あら、蝉が鳴いてるねえ。尚沖、蝉が鳴いてるよ」
「まあ。もう夏ですから」
やたらと蝉の鳴き声を主張する主人に従者はひかえめにかえす。もうそんな時季かい、と低い声がつむぐ。
仕事やらなにやらで気にとめていなかったが、たしかに外の空気はあたたかい、というより少々湿気をおびた暑さがある。
この調子であれば、庭の向日葵が咲くのも、じきくるであろう。そうすればりっぱな夏の完成だ。
「北もようやく夏かあ。田畑もここらががんばりどころだねえ。今年は冬がきびしかったから、夏は大丈夫だといいなあ」
「ええ、そうですね」
と、なごやかに喋っていたときである。
すぱんと大きな音がした。ちょうど自分たちの目の前の障子が開き、出てきた人物と目が合う。
「あら、遵佳さま。おはようございます」
「ああ、おはよー」
出てきたのは妙齢の女だった。この家の使用人で、もうだいぶつかえていたか。だからいきなり主人に出くわしても、なんてことなく、涼しい顔であいさつをしていた。
一方、しかめ面をして「おい」と声をかけたのは後ろにひかえていた尚沖だった。
「水美。そこは私の部屋なんだが、なぜ貴女がそこから出てくる?」
「うっさい。これぐらい年上にゆずりな。あたしはいますごーく急いでんだ。近道くらい、いいだろう」
「どうして急いでるの?」
遵佳が訊ねると、水美はきょとんと眸を瞬かせる。はてと首をひねり、「もしやご報告がまだでしたか」これはいけないと苦笑いした。
「遵佳さま、尚沖が拾った少女がけさ目を覚ましたのですよ」
「な、それは本当か!」
「ああ、そうだよ」
ああ、あの飢え死にをしかけていた少女か。
三日前、関所で通行者を番人に確認しにいった尚沖が見つけたそうだ。
意識がなく、かなり痩せほそったのが、まだ年若い少女であるのに家中驚きながら、どたばた医者をよんだ記憶が起こされる。
医者の診察によると、疲労と、栄養失調で風邪を引き、熱がでており、あと三日もほっとけば死んでいたらしい。直ちに栄養剤が打たれ、少女は客間の布団に寝かされた。
少女はそれから丸三日起きない。少女の第一発見者である尚沖なんかはとくに彼女を気にかけていたのだから、安心感もひとしおらしい。めずらしいぐらいに顔をゆるませている。
「そ、それで、どうして急いでるんだ。まさかなにか不調があるのか」
「いいや、ちがうよ」
やけにはっきりした水美の否定におや、と違和感。そこで気づく。水美の手にはものがかかえられていた。
「ごはんよ」
水美の抱えるものは、めったにつかわない寿司桶だった。それも、かなりでかい。
○ ○ ○
遵佳はあまりおどろくことがない。それは、自身の制御が上手いからだった。
仕事上、勝手に身についた特技だが、それなりに役に立っていたので多少の自負はしていた。
それがいま、できていないので説得力はないが。
水美について尚沖とともにいったのはあるひとつの客間だった。行き倒れの少女が寝かされた部屋だ。
そこは安静が必要な少女に配慮され、一定の静寂が保たれていた。遵佳も、屋敷でいちばん静かなところだと思っていた。
なのに、これは静かとはかけ離れている。
「あーもう、あんた!そんなにあわてなくてもごはんは逃げないから!」
「あ、水美。新しい米、持ってきた?」
「これで最後だよ。これで食いたりないなんてないだろ」
「ほ、ほんとにこの子さっきまで寝込んでた子なんですかあ…」
修羅場だった。いい年した女三人がひとりの少女に翻弄されている。
遵佳は悪い夢でもみたように目頭をもむ。頭を切り替えて、よしと意気込んでもう一度、瞼をひらく。
そこには必死に茶碗に盛られた米をかきこむ少女がいた。そばには寿司桶が二個、つまれている。大きめのそれは米粒ひとつ残さずからだった。
「ねえ、尚沖……」
「間違いなく、私が拾った少女です」
真面目な従者は冗談など言わない。遵佳は呆れたい気持ちでいっぱいだった。
「遵佳さま、いかがいたします」
「あー……」
馬鹿みたいな量を必死に食ってるわりには姿勢よく、ついでに無表情な少女を見やって困ったように頭をかく。
数秒考えて、結論を出した。
「とりあえず、おちついたら医者に見せよっかあ…。のどつまらせないようにちゃんと見てたげて」
少女を一通り診た医者はいずまいを正し、はあとため息ひとつ。そして
「この子、本当に人間か?」
見事な呆れ顔を見せた。そこに居合わせた遵佳も尚沖も苦笑しかできない。
「何日も食ってなくてとっくに内臓なんて弱ってるはずなのに、寿司桶三個ぶんの飯? 常時でさえそんなに食わねえだろ。おまけに熱まできっちり下がってやがる。おい、あんた。体におかしいところは?」
「ない。気分は良い」
「なら、風邪も完治したんだろ。顔色もいい。問題はねえな」
「そっかあ。それはよかった」
医者は薬の必要さえないと帰っていく。少女はその背中に「世話になった」と頭を下げていた。
「本当に世話になった。命を助けてくれたこと、心より感謝する」
「いーえー。まあ、元気になってよかったねえ」
深々と頭を下げる少女にひらひらと手を振る。
少女は医者の言葉通り、血色のいい顔色になっていた。こうしてみると、かなりの美人であることがわかる。
少女から大人へと変わる、十代独特の瑞々しい美しさだった。瞼が朱く、わずかにすぼませた唇が愛らしい。
いまだ頬の肉はそげているが、じきに誰の目にも良く映るものになるだろう。
さて、一体この少女は何なのか。
「君、名前はー?」
「蝉時雨だ」
明らかに偽名だった。
いきなり嘘から来るとは思ってなかったが、堂々と蝉時雨と名乗る少女の手前、遵佳は動揺はしなかった。
「どこの子? 両親は?」
「北西の地方都市で生まれた。──……両親は、もうどちらもいない…」
「ふーん…」
まあ珍しい話でもあるまい。しかしまだ子どもの少女が天涯孤独で、あやうく飢え死にしかけたのは不幸な話だとおもった。
この少女、どうするべきか。
「こちらから、質問していいか?」
「ん? ああはいはいどーぞ」
「あなたたちはなんだ? 私はいま、どこにいる?」
このとき、遵佳は蝉時雨という少女を屋敷におくことをきめた。
蝉時雨は、一度もゆらすことなくまっすぐな眸で遵佳を見ていた。不安も、哀しみも、ましてや過度な感謝の気持ちもない、不思議な眸で。
それが誰だかを思いだし、面白いと思った。
「俺の名前は雪川遵佳。第八代目雪川宗家の子にして当主。そしてここ最北端の土地、依千重の領主をつとめてまーす。どうぞよろしくー」