始まり『夏』
蝉の鳴き声が、ひどく、うるさい。
息も上手くすえない暑さの中、無意識にそう感じていた。とはいえ、耳をふさぐために両腕を動かす気力もなかった。
最後に飯を食べた記憶はすっかり過去の彼方にあった。
なにもかも衰弱しきった体は発汗さえゆるさない。感覚も妙に鈍い。肌をさす熱い太陽光と、ひっきりなしに耳にとどく蝉の鳴き声がただわかるだけ。
あつい。のどがかわいた。みずがほしい。ひかげにいきたい。あのえんがわのひかげ。きのかおり。さくひまわり。わらいごえ。ちちうえ、ははうえ────
─────いえに、かえりたい。
死ぬのがひどくおそろしかった。もう自分には誰もいない。そんなことはわかってるのに、自分が死ぬのは、置いていかれてしまう。みんなに。
死にたくない。強く、そう思った。
「そんなに死にたくない?」
凛、とした声。低すぎないその声は、ぼんやりした意識の中で少年のものであることだけはわかった。
かすんだ視界はあまり役にたってくれない。声の主が、どんな姿なのかわからない。着物姿、それと朱い、番傘?
「ぶつぶつきこえるからオカシイ人なのかと思ったけど、案外大丈夫そうだねえ」
「…………………?」
「きみがいったんですよー。死にたくないって」
と、わずかにおでこに感触がくる。まぶしくなった視界に、のびた前髪がかき上げられたのだと、なんとなくわかる。
「きれいな顔。やせててもわかるんだから、とびきりの美人なんだね、きみ。こりゃがりがりになって死ぬなんて、惜しいなあ」
ついとあごがあがる。「みずだよ、のんで」という言葉のすぐあと、つめたい液体が口内にそそがれた。自然とのどがうごいた。こくりとのどにながれたそれは、ほっと体の力が抜けてしまうには十分なものだった。
「ん、よくできました。がんばったねえ、きみ。ここからはこのおれにまかせて。きみが生きのびられる保証ができるまで、きみを死なせないから」
────さ、いこっか。
そこで、意識は沈んでいった。それが先ほどまで恐れていた死ではないんだろうと、安心しながら意識を手放した。
最後に感じたのは、大きな手が肌に触れたこと。
その手はやけに冷たかった。
まるで、ふりつもったばかりの雪にでも触れたかのように、やわらかく、やさしい感触だった。
これでも一番安定したやりかたなのに、少女を背負うのはそう容易なことではなかった。
体重云々ではなく、体格の差に問題があるんだと気づくとひどく落ち込む。
「うーん、こんなにおれの肩小さいとは…。きたえよっかなあ…」
自身の小さなつぶやきは、うまく耳に入らない。別の音が邪魔をしていた。
蝉が、ひきりなしに鳴いている。
「夏だなあ……」
これが、『蝉』の少女と『雪』の少年との初めての邂逅。
歴史には残らない、しかしいずれ国を大きく揺るがすほどの嵐が吹く、そのきっかけのひとつだった。