○安心○
午後の日本史の授業も何となく出てみた。…案の定席が一番後ろだったのでよそ見しても多少は大丈夫だ。それに歴史の先生は生徒に甘い。だから、割と授業中に落書きをしている人も多い。
…暑い。窓際の男の子の汗が輝いている。こんな真夏によく授業なんてやってられるよ。本当に。
「…山本」
「?」
不意に前の席の人から声をかけられた。と思うと、すぐに前を向いた。
「…?」
机の端を見ると、小さくたたんだ紙切れがあった。大学ノートの切れ端だ。…なんだろ。
『8月19日9時ごろ、○×浜に来るといい。byゆうま』
…は?
…よく意味が分からないので、ふと悠馬君の方を見た。彼は何事もないように、授業に取り組んで(?)いる。……しかたない。返事を書こう。
『why?』
そうして前の人に頼んで回してもらう。
前の人に迷惑をかけているようだが、ハッキリ言おう。歴史の先生の授業をしっかりと聞いている人は少数派だ。ちなみに今回の授業分は、みんな自学自習でまかなっている。前の席の子も、ずっと隣の男子とこそこそ話をしている。
…返事が回ってきた。
『いいものが見れる。H.K(話変わって)、山本って家どこ?』
…話が変わりすぎていた。ちょうど暇だし、こうなったら返事を書かざるを得ない。以降もやり取りは続いた。
『話変わりすぎ(笑)A団地だよ。大きいビルあるじゃん。』
『A団地ってどこ?』
…そりゃわからないよな。
『というかなんで私の家なの?』
『ピアノ』
…それ目的か!?
『音楽室で聞けば』
『てか今日一緒に帰れない?』
…。
『人目につかない程度にね』
…以降手紙が返って来ることはなかった。
…あっという間に放課後になった。窓の外は青い空が、都会の街を見下ろす。汗だくの首を薄いタオルで拭き、私はもうさっさと帰ろうと思った。…来るんだろうな…。
「山本♪」
予感的中。悠馬君だった。
「一緒に帰ろー」
「えっと…あまり大声出さないでくれる…?」
私はうつむきながら階段を降りた。
「…山本。話があるんだよ。」
「あとででいい?」
「うん」
「…。」
人目につくのだけがどうしても気に入らなかったが、仕方なく帰ることにした。
生徒玄関を出てからも、街を歩いてても、いつもかなりの量の汗をかく。都会だし、そこらを歩くひとは多い。とにかく蒸し暑いのだ。ふとよそ見をした悠馬君を見た。
「で、話ってなに?」
「…え?あ、お前んち今大丈夫か?」
「なんで?」
「後で説明する」
なんか、謎。この人がそこまで私に話しかける理由が気になってきた。
「……いいよ」
「まじで!ありがとう!」
大分陽が降り、木の影が伸びているのが幸いだった。が、それでも湿度は高い。毎年熱中症の人は出てくる。
「あ、ちょっとこっちで休憩するね。」
私はよく、帰路の公園に立ち寄る。そして木陰にあるベンチに座り、スコアを開いた。いつもこれを2冊持ち歩いている。1冊はよく弾くクラシック。もう1冊は自分で手がけている。ほとんどがパソコンで見つけた音楽のアレンジだ。
「楽譜?」
「うん。しばらくこれ読むね。後で弾くから。いつもこうしてる」
悠馬君がこうして隣にいると、なぜか落ち着く感じがした。公園に生えた緑も落ち着くし、少しは涼しい感じがする…
「山本。」
「ん?」
「山本って、割と前から学校来てないのか?」
…ギクッ。痛いところを突いてきた。
「た、大抵サボリだよ。あとは家庭事情か…。」
「お前一人暮らしじゃなかったっけ。」
「高校はね。でも小学校のときから不登校だったよ。なんで?」
「お前に学校来て欲しいんだよ。俺の友達もそう言ってる。」
…正直言って余計なお世話だ。
「何が嫌で学校来ないんだよ。……まあ、言いたくないなら言わなくていいけど…」
「言わない。」
「なんか…わりぃな。」
「…。」
涼しい風が吹くのが待ち遠しい。ただ、いつまでも夕暮れを待っていても悠馬君が心配だった。
「行こう。というか、時間大丈夫なの?」
「あ、時間?俺結構遅い方だから大丈夫。」
「…意外。じゃあピアノも聞いていけるね。」
「マジで!?」
スコアをしまい、立ち上がった私よりも、悠馬君のほうが先に行こうとしていた。
「うちわかるの?」
「わかんない。どこ?」
大分スコアを眺めていたのか、もう東の空は真っ青だった。後ろから私たちを冷たく見ているような…。…そんなこと、悠馬君自身どうでもいいらしく…
「山本って何曲ぐらい弾けるのか?」
いつも一人だった私に話しかけてくれた。今はただ、この人の温かさに頼ろうと思った。
タララタララタンっ♪
タンッタン タンッタン タンタン♪
素早い低音。リズムのいい旋律から、今度は重い低音に入る。ここからが難関。右手の高音がとんでもなく速い。 …ここはかなり練習した。倍速。倍速。右手が吊りそうだ。右手のソロが終わったと思うと、次は力強い低音のリズム。もうすぐフィニッシュだ。
タッタッタッタンタン♪
最後の高速技。
♪ ♪ ♪~~~~~~~
「出来たぁっ!!」
「す、スゲェ…!」
またも悠馬君は唖然とした表情でこちらを見た。思わずピースする。…柄に合わない。
「ちなみに今のもゲーム?」
「PCで見つけたよ。『僕が眠るための即興曲』。まあ原曲を聞いたところ難しそうだったから、一部分端折ったりトリルでごまかしたりしてるんだけどね。」
「トリルって…?」
「音を素早く上下させたとこがあったでしょ」
♪~~~~~~~~~
「モーツァルト…『K.545』だったっけ?小学ぐらいのときに弾いて、これはおもしろい!と思って。」
「ついていけない。」
「だよね…。」
…あ、そうだ。この人が私と帰りたかった理由ってなんだろう。
「悠馬君。話ってなんだったの」
「ああ、あれね。さっき話したよ。学校来てないのいつからかなーって。」
「なんでそんなこと心配するの?中学のときはそんなに心配してくれる人いなかったよ。」
「まぁ…理由はいろいろだ」
「……」
…よくわからない。誰かとこうして落ち着いて話せるのも、自分の横に温かさというものを感じるのも。安心する、というのはこのことなんだろうか。
「…で、明日は来るのか?学校」
「…わからない。人とうまくしゃべれるかどうか…」
「てきとーにやり過ごせばいいんじゃね?」
「いつもそうしてるけど…。」
「まあなんの時には俺いるしさ。」
「…。」
窓を見ると、空には藍色の下地にピンク色の明かりが滲んでいた。光はぼんやりとしている。
「悠馬君、もう帰らなくていいの?」
「うん…そうさせてもらうかな。」
悠馬君は立ち上がった。
「お邪魔しました。」
「うん。気を付けて」
「山本はいつもそうやって笑ってればいいんじゃね?」
「え…?」
…気付けば私は自然と笑っていた。
「明日は来いよ。じゃ。」
…あぁ、久しぶりに、心から人に笑いかけることができた。
つづく。