第2話「ガラスの海と、つるつるボタン」
それでも僕はめげずに、思い切り息を吸い込んで、僕の出せる一番おおきな声を出そうとした。かざぐるまを握る左手に、ぎゅっと力をこめる。そのとき、風がことさらに強く吹いて、僕の帽子を飛ばした。帽子から手を離してしまったことに気づいて手を伸ばしたけれど、そのときにはもう帽子は風に乗って坂道を駆け上がっていた。帽子がてるてるぼうずの背中に押し付けられて止まる。てるてるぼうずは、僕に背を向けたまま身をよじって帽子を手にとると、おおきなフード越しでもわかるくらい大きく首をかしげた。
白いコートの女の子に手を引かれて、石畳の坂道を下ってゆく。降り積もった綿ぼこりを踏みしめながら、ぽふぽふ歩く。ポケットだらけのコートの前をしっかりと閉じて、きちんと靴も履いて。コートは、近くにあった父さんのを勝手に借りてきてしまったけど、まだ寝ているから、しばらくは大丈夫のはずだ。
「どこに行くの?」
「ん、港。下の港だよ」
会話はそこで途切れてしまった。ほんのり水色の空の下、石造りの家々を横に見ながら歩く。本屋さんに、服屋さんに、気むずかしい時計屋さん。この町の人たちは、ほとんどみんな、お店を営んでいる。でも今日はどのお店も閉まっていて、通りはとても静かだ。ゆるやかに曲がった下り坂を、ふたりきりで、ぽふぽふ歩く。
しばらく歩くと下の港が見えてきた。このあたりまでくると、魚屋さんや果物屋さん、お菓子屋さんといった食べ物のお店が多くなってくる。船が来ている日には、遠い国の食べ物がたくさん並ぶ。こんど船が来るのはいつだろう。
「お店、閉まってるね」
女の子がきょろきょろしながら言った。
「今日はどこもお休みだよ」
僕がこたえると、彼女は果物屋さんのほうを向いて立ち止まった。
「まえに来たときは、おいしそうな果物がたくさん並んでたのになぁ。ざんねん」
「まえにも来たの?」
「うん。帽子屋さんもいっしょだったよ」
「あ、そうだったんだ……」
やっぱりなんにも覚えていない。僕は悲しくなった。立ち止まった上着の肩に、白いほこりが降り積もる。
「そんなに悲しい顔しないで。ずうっと前のことだから、忘れちゃってもしかたないよ」
つないだ手をきゅっとにぎって、彼女が懐かしい声で励ましてくれる。僕もきゅっとにぎり返した。彼女はうれしそうに、ふわっと微笑んだ。
やがて港のすぐそばまで来ると、とつぜん、ぱっと女の子が手をはなして、防波堤のほうへかけていった。ぴょんと飛び乗り、そのまま海向きに腰掛ける。僕はきゅうに手ぶらになってしまって、すこし寂しい。
彼女がこちらに体をひねって、手を振ってきた。ぶかぶかの袖が下がって、細めのきれいな腕がみえる。どうやら、白いコートの下はかなりの薄着のよう。寒くないのかな。僕だったら、きっとふるえてしまう。
「はやくー」
彼女が口に手を当てて、僕を呼ぶ。よけいな心配事をして立ち止まっていた僕はわれに返り、いそいでかけ寄って、彼女のとなりに腰掛けた。
「しずかだね。すっごく」
彼女が、海のほうを見ながら話しかけてくる。ふわふわの白いコートから、かすかな果物の匂いがした。僕の好きな、外国の果物。無意識でさっきより近くに腰掛けてしまったみたいで、すこし恥ずかしい。
「……うん。しずかだね」
目の前には、澄んだ海が遠くの遠くまで広がっていた。みなもは真っ平らで、ひとつの波も立っていない。空のほのかな水色を、そっくりそのまま映して、はるか向こうまで続いているガラスの海。あまりにも平らなものだから、それが水であることを忘れてしまいそう。すぐ近くのみなもでは、まっすぐに降りてくる白い綿ぼこりが、水に触れてからもすこしも速さを変えずに、海の底に沈んでゆくのが見えた。
しばらくのあいだ僕たちは、ふたりならんでガラスの海をみつめていた。ぴいんと張って動かない静かなみなもを見ていると、時間がすっかり進むのを忘れてしまったような気さえしてくる。
「あっ」
遠くで、ぱちゃん、と魚がはねた。張りつめてかたそうだったみなもに、きれいなまあるい波が広がっていった。生きたお魚なんて、何年ぶりに見ただろう。
「お魚、このあたりにもまだいたんだね」
僕はちょっとうれしくなって、となりの女の子に話しかける。
「んー……」
「どうしたの?」
すこしはしゃいだ僕とは反対に、となりの女の子は浮かない顔をしていた。どうしたのだろう。うつむいた彼女の表情が、どことなく、なにかを悩んでいるように見えて、僕はつぎの言葉を探した。だけど、彼女がきゅうに思いつめた表情になったものだから、不器用な僕には、次の言葉は見つけられなかった。そうしているうちに、やがて彼女は小さくかぶりを振って、深呼吸をひとつした。
「やっぱり、いわなきゃだめだよね……」
小さな声でそうつぶやく彼女の目は、不安そうな色をうつしていた。すぐ近くで悲しそうに響く彼女の声。僕はすこしどきりとした。彼女は僕のほうを向くと、不安そうな目のまま僕を見すえたけれど、またすぐにうつむいてしまった。彼女の小さな口が、小さく動く。
「帽子屋さんは、その、ほんとにぜんぶわすれちゃったの?」
女の子の質問に、僕は悲しい、というよりも、どうしてだろう、寂しさに似た気持ちを覚えた。
「……うん、たぶん。ごめんね」
「あ、ううん、そういうことじゃないの! 気にしないで」
僕がぼそぼそとこたえると、彼女はあわてて顔を上げ、僕の手に遠慮がちに触れた。彼女が顔を上げたいきおいにすこしおくれて、遠い国の果物の匂いが、ふわっと香った。彼女の香りと、ふれあった手のおかげで、寂しい気持ちがすうっと薄くなった気がした。
「……それじゃあ、これも、覚えてないかな?」
僕が照れくさくなって、うつむいていると、女の子は触れていた手をはなして、白いコートのポケットからなにかを取り出した。
「これって……ボタン、だよね」
「うん。ボタン」
彼女がすこしだけ、笑顔になってこたえる。その手の中にあるのは、すこし大きめで、葉っぱ色のボタンだった。さわると硬くて、つるつるしている。
「……見たことある、かも」
自信はなかったけれど、僕はそのボタンを見たことがあるような気がした。僕がそういうと、女の子はさっきよりもやわらかく、でも悲しそうに笑った。女の子はそれきり黙ってしまって、すこしの沈黙が流れる。
さっき魚がはねた海は、もうすっかり波はなくなって、もとどおりのガラスの海になっていた。そんな海を目の端に感じながら、手元のボタンに目を落とす。このボタンにはきっと、下から二番目の引き出しに入ってる、にがそうな色の糸が合うだろうなあと思った。僕がそんなことを考えていると、つるつるのボタンの向こうに、女の子の口が小さく動くのが見えた。
「……わたしね、帽子屋さんに、ごめんなさいしなきゃいけないんだ」
「えっ、どうして?」
かすかな風がまた吹いて、僕のうしろをひっそりと通った気がした。だけど、ガラスの海には、さざ波ひとつ立っていない。やっぱり気のせいだ。そんなことを思いながら、僕は彼女に訊きかえした。