第1話「笑顔で、手をつないで」
てるてるぼうずは、港の先の、うねうねとうねる海の、そのまた先の風景を見ているようだった。強い風が、てるてるぼうずの白いコートを海のほうへ引っ張る。僕はだいじな帽子を飛ばされまいと押さえた。声をかけようとしたけれど、いくら喉を絞っても声が空気を震わすことはなかった。それに、聞こえないのは自分の声だけではなく、波の音も、風の音も、風車の回る音も、なんにも聞こえなかった。目の前の風景だけが激しくざわめいて、なんだかとても悔しかった。
向かいの家のかざみどりが、えらそうに胸を張ってこちらを見下ろしている。小さいころは、いつもこっちを向いているあいつがなんだか不気味で、外出のたびにわざとこわい顔を作っては、きっと睨み返してから出かけていた覚えがある。
僕は今、家の前に置かれた長いすに座っている。長いすの左側には、さっきまで泣きじゃくっていた白いコートの女の子。今はもう泣き止んで、僕から少し距離をとったところに座ってうつむいている。細い角材に木の板をとんとん打ち付けただけの長いすは、おじいちゃんが若いころに作ったものだと父さんが教えてくれた。よく父さんは、昔の帽子屋は店の外にまでお客さんがあふれるほどにぎわっていたと言っているけれど、さっきまで冷たいほこりの積もっていた長いすからは、まったく想像がつかない。
「……あの、さっきはごめんね。急に、その、泣いたりしちゃって」
女の子がうつむいたまま、遠慮がちに口を開いた。まだ少し涙声だ。いうと彼女は、おおきなフードの下から、ちらちらと目だけでこちらをうかがってきた。
「あ、ああ。気にしないでよ。こっちこそ、ごめん」
いったいなにが『ごめん』なのか自分でもよくわからなかったけれど、つい口をついて出てきてしまった。さっきあんなことをした照れくささがまだ残っていて、まともに彼女のほうを見られない。僕と女の子のあいだに、冷たい綿ぼこりといっしょに沈黙がつもっていく。僕は気まずくなって、つい彼女と反対のほうを向いてしまう。彼女もそれきり黙ってしまった。
だれもいない通りをどこを見るともなく眺める。天気は晴れで、ほんのり水色の空。今日は『風車の日』だから、どこの家も、二階の窓や玄関の前に夕方色のかざぐるまをかざっている。帽子屋のうちも例外ではなく、父さんの部屋の窓を見れば、せいたか帽をかたどった土色の鉢植えに、きれいな十字が咲いているはずだ。
毎日のように降ってくる白い綿ぼこりのせいで、いつもは白っぽいだけの通りだけど、今日は夕方色の星がかわいらしく列を作っている。石畳の通りは坂道になっていて、下った先は『下の港』につながっている。たまにしか船は来ないけれど、僕はその船が運んでくる外国の果物が大好きだ。
ぎぎ、と長いすが鳴った。見ると、白いコートの女の子がさっきよりも近くに座っている。うつむいていた様子からは打って変わって、真剣な表情でこちらを見つめている。おおきなフードに隠れがちな目が、ぱちぱちとまばたきをする。僕は彼女の瞳がすこし茶色がかっているのを知った。
「わたしのこと、おぼえてる?」
「えっ……」
彼女のそよ風のような声に、僕はすぐにこたえることができなかった。どうしてか、すこしだけ胸がちくりとした。
ひらひらの白いコートを着た彼女は、夢に出てくるてるてるぼうずにそっくり。だけど「夢で会った」なんて言ったら、きっと笑われてしまう。そのうえ、ほんとうにこの子だったのかどうかも、確かじゃないのに。
「わすれちゃったのかな。……しょうがないよね。ずうっと前だもん」
微笑みながら、彼女はひとりごとのようにつぶやいた。すこしすねているようにも聞こえて、僕はまたちょっと申しわけない気持ちになった。
「あ、そうだ!」
僕がことばに詰まっていると、女の子はなにかいいことを思いついたのか、急に元気になって、ぴょんといすから降りた。さっきまで顔を曇らせていたのに、今度はすごく楽しそう。とつぜん泣いたり、笑ったり。変わった子だなぁ、と思った。彼女がこちらを振り向く。白いコートがふわりと波打った。
「おさんぽ、しない?」
「おさんぽ?」
どうしておさんぽなんだろう。やっぱり変わった子だ。
「そう、おさんぽ。またいっしょに町を歩いたら、ずうっと前のことでも思い出せるかも、だよ」
女の子は心底得意そう。
「……うーん」
僕はすこし戸惑って、もごもごとあいまいな返事になってしまう。そもそも、本当に会ったことがあるのかどうかもわからないのだから、どうこたえたらいいのかさっぱりだった。でも、彼女のそよ風のような声を聞いていると、ふしぎと懐かしさをおぼえて、やっぱり会ったことがあるのかも、なんて思ってしまう。
「だいじょうぶ。きっと、思い出せるよ」
そういいながら彼女は、さっき僕が転んだときとおなじように手を差し伸べてきた。今度は遠慮がちな心配顔ではなくて、やさしい笑顔で。
「ほらっ」
彼女の明るい声。僕はせかされるようにして、差し出された手をそっとにぎり、そのままぴょんといすを降りた。長いすの反対側が、ことん、と音を立てる。
「手、つめたいんだね」
僕は驚いて言った。女の子の手は、眠っているおじいちゃんの手よりも冷たかった。同い年くらいの女の子の手って、こんなに冷たいのものかな。
「しょうがないよ。さむいもん」
彼女は困ったように笑って、僕の手をにぎり返してくる。うつむいて、一瞬さみしそうに顔を曇らせたけど、すぐに、あれ、と不思議そうに首をかしげた。
「……くつ、はかないの?」
「くつ? あっ!」
あわてて飛び出したせいで、靴をはくのをすっかり忘れていたらしい。そんな僕を見て、彼女がころころ笑っている。さっきの困った笑顔とは違う、お花みたいな笑顔だった。つられて、僕も小さく笑う。ほんとうにいろんな顔する子だなぁ、と思った。そのとき、ふわっと、やわらかい風がくるぶしの近くを通った気がした。でも、それはやっぱり気のせい。だってこの町は風が吹かないのだから。こっちを見下ろしたままのかざみどりを目の端に、僕は思い直した。