第0話「帽子屋さんとお客さん」
石畳の坂道の先を見ると、少し高くなっている丘の上に、白い大きな羽を広げた風車が建っていた。そのすぐそばには、てるてるぼうずがひらひらと立っている。風車とてるてるぼうずの立っている丘の向こうには、寂れた港があり、その先には波打つ海が広がっている。空はめまぐるしく色を変え、さまざまな形の雲がものすごい速さで通り過ぎていた。
風の音で目が覚めた――ような気がした。でもすぐに気のせいだとわかった。風なんて吹くはずないのだから。僕はもう一眠りしようと、ずり落ちた布団を首まで引き上げて、寝返りを打った。今日は『風車の日』だから、お店は休みだ。もう少しくらい寝ていても怒られないだろう。僕は再び目を閉じて、まどろみに身を任せた。カーテンの向こうは、今日も冷たい綿ぼこりが降っている。強い風でも吹いてくれれば、こんなふうに綿ぼこりが積もることもないのに。
そういえば、今朝の夢では強い風が吹いていた。僕はいつも、夢を見たことだけ覚えていて、夢の中のことはほとんど忘れてしまう。わずかに覚えていることも、おぼろげで断片的な記憶だから、本当に風が吹いていたかどうかは自信がないのだけれど、このところはどうも似たような夢ばかり見ている気がする。
りりん、と、かわいらしい音がした。お店の入り口が開いた音だ。僕は反射的に布団を跳ね除け、がばりと体を起こした。だれだろう。僕はベッドから降りると、寝巻きのまま部屋の戸を開け、体を半分だけ外に出して階下の様子をうかがった。はじめは、父さんが出かけたのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。廊下を挟んで向かいのドアから、かすかにいびきが聞こえてくる。父さんも僕と同じで、休みの日はお昼まで寝ていることがほとんどだ。
「……お客さんかな」
眠たい目をこすりながらつぶやく。僕は、今日はおやすみだと教えてあげようと思い、寝る前に脱ぎ捨てたままのカーディガンを拾って羽織ると、作業室の前を早足で通り過ぎ、一階のカウンターへと続く階段を一段飛ばしでかけおりた。
すとんっ、と階段の終わりで足を止めたところで、また「りりん」という音。柱の陰からカウンターの先をうかがうと、正面の入り口がゆっくりと閉まろうとしていた。たてながの扉の隙間が、薄暗さに慣れた目にまぶしい。僕はその隙間に、さらにまぶしく映える白い布が寂しそうにふわりとゆれるのを見た。僕ははっとした。
僕はカウンターの脇の仕切りを乱暴に跳ね上げ、扉が閉まりきる前にたどり着くと、体ごとぶつかるようにして外へ飛び出す。
「うわっ!」
いきおいあまって、石畳の出っ張りにつま先を取られた。寝起きだからか、足元がおぼつかない。そのまま前に跳ぶようにうつぶせに倒れてしまった。ふわふわと降り積もった白い綿ぼこりが、むき出しの手や頬に冷たかった。思えば、着の身着のまま。この町で外を出歩くにはあまりに薄着だった。僕は考えなしに飛び出したことをちょっと後悔した。
「……あの、だいじょうぶ?」
後ろから声をかけられた。そよ風のような、女の子の声だった。僕はその声にどこか懐かしさを覚えた。体をあお向けにすると、さっき飛び込んだせいで舞い上がった綿ぼこりが、ゆっくりとゆっくりと地面に戻ってきている。いつもより時間が重たくなったような、たった今できたばかりの世界の中で、僕と同い年くらいの、真っ白いひらひらのコートを着た女の子が、心配そうに首をかしげながら手を差し伸べていた。コートのすそは足首の辺りまで伸びていて、同じ色のフードを目深にかぶった姿は、いつか見たてるてるぼうずにそっくりだった。目が合う。彼女が小さく息をのむのがわかった。
すっかりぼーっとしてしまっていた僕は、われに返り、あわてて立ち上がった。白い綿ぼこりが、ふたたび宙を舞う。なにか言わなくては。
「あ、ごめんね、大丈夫大丈夫! 僕、よく転ぶんだ」
やたらと早口になってしまった。まるで言い訳をするみたいだ。どうしてかいつものように喋れない。僕は決まりがわるくなって、服についた綿ぼこりをはらうのを理由に彼女から目をそらした。ふわりと、彼女が差し伸べていた手を下ろすのが目の端に見えた。僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「帽子屋さん、だよね?」
彼女がさっきよりも小さい声で訊ねてきた。悲しそうにも、嬉しそうにも聞こえる声だった。僕は服をぱたぱたしたままでこたえる。
「えっ……ああ。うん、そうだよ。でもわるいんだけど、今日は『風車の日』だから、おやすみなんだ」
「……」
彼女からの返事がない。僕は服をはらうのをやめて、彼女のほうを向いた。ふたたび目が合う。僕は次の言葉を探そうとしたけれど、よく見ると彼女が両目に涙を溜めているものだから、それどころではなくなった。
「えっ、どうしたの? なんで泣いてるの? えっと――」
自分のせいで泣かせてしまったのなら、謝ろうと思った。でもこの短いあいだですら、やましいことがありすぎて、けっきょくなにを言っていいかわからずに言葉を詰まらせてしまった。
「ずっと、ずっとずっと、会いたかった」
彼女は涙をはらはらと流しながらつぶやくと、とつぜん、僕のほうへ倒れこむようにして抱きついてきて、そのまま僕を抱きしめた。
「えっ、えっと」
僕は驚きのあまり、ただただ固まってしまう。真っ白いコートは思いのほかふわふわとやわらかで、港から運ばれてくる外国の果物に似た匂いがした。僕がどうしていいかわからず困り果てていると、女の子はいよいよ本格的に泣き出してしまった。僕は一瞬迷ったのち、父さんが僕をなだめるときにそうしてくれたように、彼女の頭をなでた。ぎこちない手つきで、しかもフードの上からだったけれど、泣いている子をなだめるやり方なんてこれくらいしか思いつかなかった。それが同い年くらいの女の子にも効くのかわからなかったけれど、この子が泣き止むまでそうしていようと思った。