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短編集  作者: カズナオト


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9/14

九月の金木犀

九月の朝、台所に漂う甘い匂いがあった。

砂糖を焦がしたような、蜜のような、それでいてどこか湿った、懐かしい香り。

幸子はガスコンロの火を消し、そっと窓の鍵を外した。

カーテンを引くと、朝の光が斜めに差し込み、埃の粒子がゆっくりと舞うのが見えた。

外へ顔を出すと、隣家の庭の奥、古い金木犀の木が橙色の小さな花をびっしりとつけていた。

風が一瞬強く吹き、木全体が揺れて、匂いが一気に家の中まで流れ込んできた。

幸子は目を細め、深く息を吸った。

毎年、この季節になると決まって訪れる匂い。

律儀だな、と心の中で呟いた。

梅雨の湿った土の匂いと、金木犀の甘い残り香と、そういう「きちんと来てくれるもの」が、幸子はひそかに好きだった。

今日は木曜日。図書館の日だ。

トートバッグに返却用の本を二冊入れ、幸子は玄関の引き戸を静かに閉めた。

アスファルトの道を歩くと、朝の空気がまだ少し冷たくて、頬に触れると心地よかった。

返却カウンターで本を渡すと、いつもより少しだけ丁寧に「ありがとうございます」と言われた気がした。

今日は新しい本を二冊借りた。

一冊は、秋の煮物と保存食のレシピが並ぶ料理本。

もう一冊は――なぜか、詩集だった。

詩集なんて、これまで一度も借りたことがなかった。

棚の前で立ち止まったのは、ただ、背表紙の薄い藍色が目に留まったから。

指先が自然に伸びて、そっと引き抜いた。

自分でもよくわからない衝動だった。

普段は几帳面に「必要なものだけ」を選ぶのに、本の前では時々、理由のない気分が勝ってしまう。

閲覧コーナーの隅に、島田さんがいた。

今日はいつもの文庫本ではなく、両腕で抱えるような大きな画集だった。

革張りの表紙が少し擦り切れていて、重たげに光っている。

「重そうですね」

幸子が声をかけると、島田さんは小さく笑った。

「重いです。でも、好きな画家なので」

そう言って、そっと表紙を見せてくれた。

青と緑が静かに溶け合う風景画。

遠くの山は靄がかかり、手前の木々は柔らかい光に濡れている。

色が多すぎず、少なすぎず、ただそこに「在る」だけで胸が落ち着くような絵だった。

「綺麗ですね」

幸子は素直に言った。

「妻が好きだったんです」

島田さんの声は少し低くなった。

「私は最初、よくわからなかった。色が地味だな、って。でも今は……少し、わかる気がします」

幸子はもう一度、画集に目を落とした。

青と緑が、互いに干渉せずに、ただ静かに寄り添っている。

そういうものなのかもしれない、とふと思った。

「そういうものですね」

幸子は小さく頷いた。

「そういうものです」

島田さんも、同じように頷き返した。

帰り道、図書館の裏庭に一本だけ、金木犀の木が立っていた。

今まで何年も通っているのに、今日まで気づかなかった。

幸子は足を止め、ゆっくりと見上げた。

小さな橙色の花が、鈴なりに枝いっぱいに咲き乱れている。

陽の光が花弁を透かし、淡く金色に輝いていた。

風が吹くたび、花の粒が微かに震え、匂いが波のように幸子の周りを包んだ。

来年も、この木を見つけられるだろうか。

来年も、木曜日にここへ来られるだろうか。

そんなことを考えながら、幸子はしばらく立ち尽くしていた。

家に帰ると、まず詩集を開いた。

最初のページ。

一行読んで、よくわからなかった。

目を細めて、もう一度、ゆっくり読んだ。

「……少し、わかる気がする」

島田さんの言葉が、頭の奥で反響した。

そういうことなのかもしれない、と胸の奥が小さく温かくなった。

幸子は机の引き出しから小さなメモ帳を取り出した。

万年筆のキャップを外し、インクの匂いを一瞬嗅いでから、ゆっくりと書いた。

「金木犀、今年も来た。

詩集、借りた。

島田さん、画集を抱えていた。

図書館の裏にも一本あった。

来年も、気づきたい。」

ペンを置いて、メモ帳を閉じた。

引き出しの奥から、飴玉を一つ取り出す。

包み紙を剥がす音が、静かな部屋に小さく響いた。

口に入れると、甘さがじんわりと広がった。

窓の外から、また金木犀の匂いがした。

カーテンが微かに揺れ、夕方の柔らかい光が床に細長い影を落としている。

悪くない九月だった。

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