九月の金木犀
九月の朝、台所に漂う甘い匂いがあった。
砂糖を焦がしたような、蜜のような、それでいてどこか湿った、懐かしい香り。
幸子はガスコンロの火を消し、そっと窓の鍵を外した。
カーテンを引くと、朝の光が斜めに差し込み、埃の粒子がゆっくりと舞うのが見えた。
外へ顔を出すと、隣家の庭の奥、古い金木犀の木が橙色の小さな花をびっしりとつけていた。
風が一瞬強く吹き、木全体が揺れて、匂いが一気に家の中まで流れ込んできた。
幸子は目を細め、深く息を吸った。
毎年、この季節になると決まって訪れる匂い。
律儀だな、と心の中で呟いた。
梅雨の湿った土の匂いと、金木犀の甘い残り香と、そういう「きちんと来てくれるもの」が、幸子はひそかに好きだった。
今日は木曜日。図書館の日だ。
トートバッグに返却用の本を二冊入れ、幸子は玄関の引き戸を静かに閉めた。
アスファルトの道を歩くと、朝の空気がまだ少し冷たくて、頬に触れると心地よかった。
返却カウンターで本を渡すと、いつもより少しだけ丁寧に「ありがとうございます」と言われた気がした。
今日は新しい本を二冊借りた。
一冊は、秋の煮物と保存食のレシピが並ぶ料理本。
もう一冊は――なぜか、詩集だった。
詩集なんて、これまで一度も借りたことがなかった。
棚の前で立ち止まったのは、ただ、背表紙の薄い藍色が目に留まったから。
指先が自然に伸びて、そっと引き抜いた。
自分でもよくわからない衝動だった。
普段は几帳面に「必要なものだけ」を選ぶのに、本の前では時々、理由のない気分が勝ってしまう。
閲覧コーナーの隅に、島田さんがいた。
今日はいつもの文庫本ではなく、両腕で抱えるような大きな画集だった。
革張りの表紙が少し擦り切れていて、重たげに光っている。
「重そうですね」
幸子が声をかけると、島田さんは小さく笑った。
「重いです。でも、好きな画家なので」
そう言って、そっと表紙を見せてくれた。
青と緑が静かに溶け合う風景画。
遠くの山は靄がかかり、手前の木々は柔らかい光に濡れている。
色が多すぎず、少なすぎず、ただそこに「在る」だけで胸が落ち着くような絵だった。
「綺麗ですね」
幸子は素直に言った。
「妻が好きだったんです」
島田さんの声は少し低くなった。
「私は最初、よくわからなかった。色が地味だな、って。でも今は……少し、わかる気がします」
幸子はもう一度、画集に目を落とした。
青と緑が、互いに干渉せずに、ただ静かに寄り添っている。
そういうものなのかもしれない、とふと思った。
「そういうものですね」
幸子は小さく頷いた。
「そういうものです」
島田さんも、同じように頷き返した。
帰り道、図書館の裏庭に一本だけ、金木犀の木が立っていた。
今まで何年も通っているのに、今日まで気づかなかった。
幸子は足を止め、ゆっくりと見上げた。
小さな橙色の花が、鈴なりに枝いっぱいに咲き乱れている。
陽の光が花弁を透かし、淡く金色に輝いていた。
風が吹くたび、花の粒が微かに震え、匂いが波のように幸子の周りを包んだ。
来年も、この木を見つけられるだろうか。
来年も、木曜日にここへ来られるだろうか。
そんなことを考えながら、幸子はしばらく立ち尽くしていた。
家に帰ると、まず詩集を開いた。
最初のページ。
一行読んで、よくわからなかった。
目を細めて、もう一度、ゆっくり読んだ。
「……少し、わかる気がする」
島田さんの言葉が、頭の奥で反響した。
そういうことなのかもしれない、と胸の奥が小さく温かくなった。
幸子は机の引き出しから小さなメモ帳を取り出した。
万年筆のキャップを外し、インクの匂いを一瞬嗅いでから、ゆっくりと書いた。
「金木犀、今年も来た。
詩集、借りた。
島田さん、画集を抱えていた。
図書館の裏にも一本あった。
来年も、気づきたい。」
ペンを置いて、メモ帳を閉じた。
引き出しの奥から、飴玉を一つ取り出す。
包み紙を剥がす音が、静かな部屋に小さく響いた。
口に入れると、甘さがじんわりと広がった。
窓の外から、また金木犀の匂いがした。
カーテンが微かに揺れ、夕方の柔らかい光が床に細長い影を落としている。
悪くない九月だった。




