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短編集  作者: カズナオト


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7/14

夏花火大三角

七月の夜、幸子は縁側に座っていた。

板の間は昼の熱をまだ少し残していて、素足の裏にぬくもりが伝わった。

庭の土は濡れて黒く沈み、草の匂いと湿った木の匂いが、夜気に混じっている。

夕方から雷が鳴っていた。

遠い雷だった。

ごろごろと、山の向こうで何か大きなものが転がっているような、鈍い音だった。

空気の奥で鳴っているようで、胸の内側にわずかに響く。

幸子は空を見ていた。

まだ雲は厚く、星は見えない。

怖くはなかった。

子どものころから、雷は嫌いじゃなかった。

空が本気を出している感じがして、むしろ好きだった。

雷が少し近づいてきた。

空の色が、わずかに明るくなった。

ぴかり、と光った。

庭の木の葉が、一瞬だけ白く浮かび上がる。

葉脈まで見えるほどの光だった。

少し間があって、どん、と鳴った。

空気が揺れ、縁側のガラス戸がかすかに震えた。

幸子は数えた。

一、二、三。

光ってから鳴るまでの秒数で、距離がわかる。

昔、子どもたちに教えたことがあった。

あのときの顔を思い出す。

雷よりも、その仕組みのほうに目を輝かせていた。

「ほんとだ」と言って、何度も数え直していた。

一時間ほどして、雷は遠ざかった。

音はまた、山の向こうに引いていった。

雨も上がった。

軒先から落ちる雫が、最後にいくつか、ぽつ、ぽつ、と落ちた。

空が、洗われたようになった。

雲が切れ、深い紺色が現れる。

そこに、最初の星がひとつ灯った。

幸子はお茶を一杯持ってきて、また縁側に座った。

湯のみの表面はまだ温かく、指先にやさしく触れる。

星が出てきた。

一つ、二つ、三つ——

気づいたら、空が星だらけになっていた。

「そうか」

雷の後の空は、こんなに澄むものか。

余計なものがすべて洗い流されたようだった。

夏の大三角が見えた。

三つの星が、はっきりと形を作っている。

ベガ、デネブ、アルタイル。

名前を、口の中で言ってみた。

舌の上で転がすように、ゆっくりと。

夫が教えてくれた名前だった。

縁側で、ふたりで見た夏の夜があった。

同じように、こうして座っていた。

「あれがベガだ」と言って、指でなぞっていた。

その指先の動きまで、覚えている気がした。

何年前のことだろう。

数えるのはやめた。

天の川が見えた。

白く、かすかな帯が、空を横切っている。

街の中では滅多に見えないのに、今夜ははっきりとたなびいていた。

細かな星の集まりが、ひとつの流れのように見える。

雷が余計なものを全部、空から追い払ってくれたのかもしれなかった。

幸子はお茶を飲んだ。

少しぬるくなっていた。

冷めていた。

それでも、飲んだ。

遠くで、花火が上がった。

ぽん、と乾いた音が、遅れて届く。

空気の向こう側から運ばれてくるような、小さな響きだった。

どこかの町の、夏祭りだろう。

ぽん、ぽん、と続いた。

見えるかどうか、微妙な距離だった。

幸子は少しだけ首を伸ばした。

視線を、屋根と電線の隙間に通す。

見えた。

小さかったが、見えた。

黒い空の端で、赤がひとつ咲き、すぐにほどける。

青が遅れて開き、白い光が最後に残る。

小さな花が、遠い空で咲いては消えた。

「悪くない」

縁側から見る花火というのは、悪くなかった。

届かない距離が、かえってちょうどいい気がした。

しばらくして、電話が鳴った。

夜の静けさの中で、音は思ったよりもはっきりと響いた。

受話器を取った。

島田さんだった。

「花火、見えますか」

少し弾んだ声だった。

幸子は、ほんの少し驚いた。

「見えます。小さいですが」

「私のところからも見えます」と島田さんは言った。

「雷の後で、空が綺麗で」

「綺麗ですね」

「天の川も出てます」

「出てますね」

ふたりで電話口で、同じ空を見ていた。

言葉は、それ以上続かなかった。

何も言わない時間が、少しあった。

受話器の向こうに、同じ夜気があるような気がした。

悪くない沈黙だった。

「また木曜日に」と島田さんは言った。

「また木曜日に」と幸子は言った。

電話が切れた。

花火が終わった。

最後の音が、遠くでほどけるように消えた。

星だけが残った。

夏の大三角が、まだそこにあった。

ベガ、デネブ、アルタイル。

幸子はもう一度、口の中で言った。

メモ帳を出した。

紙は少しだけ湿気を含んで、指にやわらかかった。

書いた。

「雷、遠かった。星、きれいだった。天の川、見えた。花火、小さかった。島田さんから電話。同じ空を見ていた。」

メモ帳を閉じた。

飴玉を一つ、口に入れた。

ゆっくりと溶けて、甘さが広がる。

縁側に、もう少しいた。

庭は静かで、虫の声だけが細く続いている。

夏の夜は、長い方がいい。

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