六月の雨
六月の午後、幸子は窓の外を見ていた。
硝子には細かい雨粒が、途切れなく縦に筋を引いていた。
向かいの家の屋根は、しっとりと濡れて色を深くし、雨樋からは一定の間隔で水が落ちていた。ぽたん、ぽたん、と規則正しい音が、部屋の奥まで届く。
雨だった。
昨日も雨だった。
一昨日も雨だった。
梅雨というのは、律儀だと思った。
約束でもしているように、毎年きちんとやって来る。
忘れたことがない。人のほうが、よほど忘れっぽい。
外に出られないから、本を読むことにした。
畳の上に置いた座布団に座り直し、低いテーブルの上の本に手を伸ばす。
図書館で借りた「魚嫌いの子どもが食べた十のレシピ」だった。
表紙は少し湿気を含んだように柔らかくなっていて、指先にわずかなざらつきが残る。
返却日まで、まだ五日あった。
几帳面な性格だったから、ちゃんと数えていた。
借りた日のことも、そのとき履いていた靴のことも、なんとなく覚えている。
ページを開いた。
紙がかすかに鳴る。
蒸し料理のページだった。
鯖の蒸し煮、というレシピがあった。
白い皿の上に、湯気をまとった鯖が載っている写真が、小さく印刷されている。
味噌の濃い色ではなく、透き通った汁が、やさしく身を包んでいた。
「そうか」
味噌煮とは、また違うらしかった。
軽くて、やわらかそうだった。
歯がいらないくらいに、ほろほろと崩れそうな気がした。
読んでいたら、電話が鳴った。
古い電話機が、少し遅れて震えるように音を立てる。
部屋の静けさが、そこで一度だけ途切れた。
受話器を取った。
「おばあちゃん」
孫だった。
少しだけ息が弾んでいる。
「どうしたの」
「暇」
間を置かず、そう言った。
「雨だから」
「うん、雨だから」
幸子は本を閉じた。
指をページの間に軽く挟み、場所を覚えさせてから、そっとテーブルに置く。
「おばあちゃんも暇です」
孫が笑った。
受話器越しでもわかる、軽い笑い方だった。
「遊びに行っていい」
「いらっしゃい」
三十分して、孫が来た。
玄関の引き戸が開く音と、濡れた靴底がたたきを踏む音が続く。
少しだけ湿った空気が、一緒に入り込んだ。
「おじゃまします」
声は元気だった。
ふたりでテーブルに座った。
幸子がお茶を出した。
湯のみからは、まだ細い湯気が立っている。
孫がお茶を飲んだ。
「熱い」
顔をしかめた。
「冷ましてから飲みなさい」
「言う前に飲んだ」
「几帳面に生きなさい」
孫が首を傾けた。
「几帳面ってなに」
「ちゃんとする、ということ」
「おばあちゃんみたいに?」
「そう」
孫が少しだけ考えた。
視線が湯のみの縁をなぞる。
「むずかしそう」
「慣れます」と幸子は言った。
雨が窓を叩いていた。
先ほどよりも少し粒が大きくなっている。
孫が窓の外を見た。
「ねえ、雨の日って何して遊んだの、昔」
幸子は少し考えた。
遠くを見るような顔になったが、すぐに戻る。
「折り紙」
「折り紙」
「それから、あやとり」
「あやとりってなに」
幸子は台所に行って、引き出しを開けた。
古い木の引き出しが、少しだけ引っかかる。
中には輪ゴムや使いかけの紙袋、小さな布切れが無造作に入っていた。
その奥に、毛糸が一本あった。
くすんだ赤色で、ところどころ毛羽立っている。
いつからあるのか、わからなかった。
輪にして、持ってきた。
「これで遊ぶの」
「これで遊びます」
あやとりを教えた。
幸子の指は、迷いなく動いた。
孫の指が、もつれた。
幸子がほどいた。
毛糸が、するりと元に戻る。
また教えた。
また、もつれた。
また、ほどいた。
三回目で、橋ができた。
毛糸が、ぴんと張られ、小さな形を保っている。
孫が目を丸くした。
「できた」
「できました」
「もう一回」
四回目も、橋ができた。
五回目も。
指の動きが、少しずつ確かになっていく。
雨が少し弱くなった頃、孫が言った。
「おばあちゃん、これ持って帰っていい」
毛糸のことだった。
「持って行きなさい」と幸子は言った。
「友達に教える」
「教えてあげなさい」
孫がポケットに毛糸を入れた。
そっと、確かめるように押し込んだ。
大事そうに、入れた。
帰り際、孫が玄関で振り返った。
雨は、もうやんでいた。
雲はまだ低いが、明るさが戻っている。
傘を渡した。
「なくさないように」
「なくさない」
「几帳面に」
「几帳面に」と孫が繰り返した。
走って行った。
濡れた地面を蹴る音が、遠ざかる。
幸子はテーブルに戻った。
毛糸のなくなった引き出しを、少し見た。
そこにあったはずのものの形だけが、なんとなく残っている気がした。
それから、メモ帳を出した。
表紙の角が、少し丸くなっている。
書いた。
「雨。孫が来た。あやとり、教えた。毛糸、持って行った。」
少し考えてから、書き足した。
「悪くない雨だった。」
今日は先に書いた。
飴玉を一つ、口に入れた。
ゆっくりと甘さが広がる。
本を開いた。
指を挟んでおいた、鯖の蒸し煮のページに戻った。
今度作ってみようと思った。
四口目を目指して。




