図書館二度目
木曜日、幸子は確認してから出かけた。
朝の光はやわらかく、カーテン越しに台所の床へ四角く落ちていた。やかんの中で湯がかすかに鳴っている。幸子はその音を聞きながら、食卓の端に置いたスマホを手に取った。
図書館の休館日を調べる。
月曜日、と表示された。
今日は木曜日。
もう一度、曜日を確認した。間違いない。
それでも念のため、メモ帳を開いて書いた。
「図書館 月曜休み」
几帳面な性格だったから。
ペン先が紙をこする小さな音が、静かな部屋に残った。
—
図書館は、思っていたよりも大きかった。
ガラス張りの正面は空を映していて、春の薄い雲がゆっくりと流れているのが見えた。自動ドアの前に立つと、足元のマットが少し沈み、センサーが反応する。
音もなく扉が開いた。
中から、ひんやりとした空気が流れてくる。外のぬるい空気とは違う、乾いた冷たさだった。本の匂いが、その冷気に混じっていた。紙とインクと、少しだけ古い木の匂い。
幸子は入り口で、ほんの少し立ち止まった。
図書館に来るのは、何年ぶりだろうか。
視線をゆっくりと巡らせる。高い天井、整然と並んだ書架、静かにページをめくる音。遠くで誰かが咳払いをした。
子どもが小さいころ、よく連れてきた。
絵本を抱えて歩く小さな背中。返却日を忘れて慌てたこと。
その子どもが、今は四十を過ぎている。
「そうか」
口の中で、小さく言葉が転がった。
時間が経つのは、早い。
—
受付に行った。
カウンターは明るい木目で、角が丸く削られている。そこに若い女性の司書が座っていた。髪はきちんと結ばれていて、柔らかい笑顔をしている。
「利用者カードを作りたいんですが」
「はい、こちらにご記入を」
差し出された用紙は真新しく、まだ紙の張りが残っていた。
幸子はメモ帳からペンを取り出した。いつもの黒いボールペン。指になじんだ重さ。
名前、住所、電話番号。
一文字ずつ、丁寧に書いた。枠からはみ出さないように、少しだけ息を止めながら。
書き終えて渡すと、司書は手際よくカードを作った。小さな機械が低い音を立て、薄いカードが滑り出てくる。
それは軽くて、思ったよりも頼りない感じがした。
「一度に十冊まで借りられます。返却は二週間以内です」
「十冊も読めるかしら」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
司書はそう言って、目を細めて笑った。
—
料理の本の棚に向かった。
館内は思っていたよりも広く、歩くたびに靴底の音がわずかに響いた。窓際には陽が差し込み、本棚の背表紙を淡く照らしている。
幸子は棚の前に立った。
最初の目的は忘れていなかった。
孫のための、好き嫌いを直す料理の本。
棚には、びっしりと本が並んでいる。
子ども向け、簡単レシピ、野菜嫌い克服、時短料理——
色とりどりの背表紙が、少し騒がしく見えた。
多すぎた。
幸子はゆっくりとしゃがみ込んだ。膝にわずかな痛みが走る。それでも気にせず、背表紙を一冊ずつ読んでいく。
指先でなぞるように。
几帳面な性格だったから。
—
隣に、人が来た。
気配でわかった。
顔を上げると、白髪の老人が立っていた。少し背が丸く、手にはすでに一冊の本を持っている。
この前、図書館の前のベンチで一緒に座った、あの人だった。
老人も気づいた。
「また来られましたか」
「二度目の正直です」
幸子は少しだけ笑った。
「私は毎週来ます。木曜日は空いてていい」
館内を見回すと、確かに人はまばらだった。遠くで新聞を読む人が一人、窓際でノートを広げる学生が一人。
「そうですか。月曜に来て閉まってたので」
「月曜は休みですからな」
「知りませんでした」
「今は知った」
「今は知りました」
二人の会話は、静かな館内に溶けていった。
—
「お孫さんのカレー、うまくいきましたか」
不意に老人が言った。
幸子は顔を上げる。
「覚えてるんですか」
「覚えてますよ。好き嫌いの多いお孫さんの話」
「うまくいきました」
少しだけ声が柔らかくなる。
「カレーは全部食べました」
「それはよかった」
老人は棚から一冊取り出した。
「これ、うちの孫に使いました」
表紙には、カラフルな料理の写真が並んでいた。
「野菜を星形に切るとよく食べるそうで」
幸子は受け取った。
ページをめくると、にんじんやじゃがいもが、小さな星になって並んでいる。
「星形に切るだけですか」
「子どもというのは、形で食べるらしい」
「そういうものですか」
「そういうものらしい。孫に教わりました」
—
幸子はその本と、もう一冊を選んだ。
腕に抱えると、思ったより軽かった。
合わせて二冊。
十冊には程遠かったが、今日はこれでよかった。
—
帰りに、商店街へ寄った。
夕方前の商店街は、少しだけ賑やかだった。揚げ物の匂い、野菜の青い匂い、魚の塩気のある匂いが混ざり合っている。遠くでラジオが鳴っていた。
幸子は鞄からメモ帳を取り出した。
今日は財布も確認してから出てきた。ちゃんと入っている。
ペンを持つ。
けれど、手が止まった。
何を作るか、決めていなかった。
魚にするか、肉にするか。
煮るか、焼くか、炒めるか。
商店街の真ん中で、少し立ち止まる。
八百屋の前を通る。大根が安かった。土の匂いがした。
肉屋の前を通る。豚バラが特売だった。脂が白く光っている。
魚屋の前を通る。
氷の上に並んだ魚が、光を反射していた。
鯖が一匹、つやつやしていた。
「そうか」
幸子は足を止めた。
「鯖、一匹ください」
「はいよ」
包丁の音が軽く響く。
—
鯖の味噌煮にしようと思った。
孫が来たとき、食べさせようと思った。
好き嫌いリストには、魚全般と書いてあったけれど——
まあ、試してみればいい。
食べなかったら、自分が食べる。
それも悪くない。
—
家に帰って、メモ帳を開いた。
静かな部屋。夕方の光が少し傾いている。
書いた。
「図書館、入れた。利用者カード作った。本、二冊借りた。ベンチの老人にまた会った。鯖、買った。」
一行ずつ、確かめるように。
メモ帳を閉じる。
飴玉を一つ、口に入れる。甘さがゆっくり広がる。
悪くない木曜日だった。




