赤いランドセル
四月の午後、陽射しがやわらかく溶けていく時間だった。
幸子はいつもの公園のベンチに腰を下ろしていた。背もたれの木肌が、長い年月で少しすり減って、指先が自然にその凹みをなぞる。今日は特に用事などない。ただ、ぼんやりと時間が過ぎるのを待つだけの午後だった。
桜はもう盛りを過ぎ、枝の先々に淡いピンクの花弁が数枚ずつ、かろうじて残っている。風がそよぐたび、ひらひらと舞い落ちる花びらが、地面に薄い絨毯を敷いていた。幸子は目を細めてその光景を眺めていた。花びらがベンチの足元に落ちては、靴の先でそっと押しつぶされる感触が、静かに心地よかった。
十分ほど経った頃、ふと視線を横にやると、隣のベンチに赤いランドセルが一つ、ぽつんと置かれていることに気づいた。
新しいランドセルだった。革の表面がまだ艶やかで、角も尖ったまま。金具の部分が午後の光を反射して、小さくきらめいている。蓋の内側には、名前を書くための白い布地が覗いていたが、そこに文字はまだ書かれていないようだった。持ち手も、背負い紐も、誰にも触れられていない清潔さで、まるで今朝、店から出てきたばかりのように見えた。
しかし、持ち主の姿はどこにもない。
幸子はゆっくりと首を巡らせ、公園全体を見渡した。砂場、ブランコ、滑り台。木々の間を縫うように走る小道。どの場所にも、子どもたちの声や姿はなかった。午後の公園は、まるで時間が止まったように静かだった。ただ、遠くの街路樹で雀が一羽、短くさえずるだけ。
「そうか……」
幸子は小さく息を吐き、鞄から小さなメモ帳を取り出した。表紙は少し擦り切れた革製で、彼女の几帳面な性格をそのまま映している。万年筆のキャップを外し、丁寧な字で時刻を記した。
『午後2時47分 隣のベンチに赤いランドセル 持ち主なし』
五分待った。
誰も来ない。
十分待った。
やはり、誰も来ない。
ランドセルは、ただそこにあった。風が少し強くなり、蓋の端がほんのわずかに持ち上がっては、また静かに落ちる。そのたびに、革の匂いが微かに漂ってくるような気がした。幸子は自分のベンチから少し身を乗り出し、ランドセルをじっと見つめた。ランドセルは何も語らない。当たり前だ。革と金属と布でできた、ただの箱なのだから。
どうしたものか。
持って帰るわけにはいかない。勝手に触れるのも、なんだか申し訳ない。かといって、このまま放っておくのも、心がざわつく。交番に届けるという手もある。でも自分がここを離れたら、誰がこのランドセルを見守ってくれるのだろう。もし誰かが通りかかって、悪戯に持ち去ってしまったら……。
考えが堂々巡りする。幸子はポケットから飴玉を取り出し、セロハンの包みを静かに剥がした。甘いミルクの香りが口の中に広がる。舌の上でころころと転がしながら、残りの桜を眺めた。花びらが一枚、ベンチのすぐそばに落ちて、幸子のスカートの裾に引っかかった。
三十分ほど経った頃、公園の入口の方から足音が近づいてきた。
若い警察官だった。二十代半ばくらいの、背の高い男の子。制服のシャツの襟が少し汗で湿っている。右手で、小さな女の子の手をしっかりと握っていた。
女の子は一年生くらいだろう。紺のジャンパースカートに白いブラウス。目が真っ赤に腫れていて、頰には涙の跡が乾いた筋を残している。それでも泣き止もうと必死で、下唇をぎゅっと噛みしめていた。肩が小さく震え、時折、くしゃくしゃと鼻をすする音が聞こえる。
幸子はその子の顔をまっすぐに見た。胸の奥で、何かがすっと解けるような感覚があった。さっきまでぐるぐる回っていた思考が、一瞬で晴れる。
「あの、それ、この子のですか?」
幸子は隣のベンチを指さしながら、穏やかに声をかけた。
警察官がほっとしたように目を細めた。
「はい、そうなんです。学校から帰る途中で、ここにランドセルを置いたまま、家に帰ってしまったそうで……」
「あらまあ」
「お母さんに『ランドセルは?』って聞かれて、慌てて戻ったんですけど、どこに置いたか思い出せなくて。泣きながら公園中を探しているところを見つけて……」
女の子が俯いた。長い前髪が顔にかかり、表情が隠れる。耳の先が赤く染まっているのがわかった。恥ずかしさと後悔が、小さな体全体から滲み出しているようだった。
幸子は思わず口元を緩めそうになったが、ぐっと堪えた。代わりに、優しく微笑んだ。
女の子が、ゆっくりと顔を上げた。視線が赤いランドセルに吸い寄せられる。そして、次の瞬間、ぱっと駆け出した。
小さな靴が砂利を蹴る音。ランドセルに飛びつくように抱きつき、両腕でぎゅっと抱え込む。背中が大きく上下し、再び嗚咽が漏れ始めた。今度は我慢などできず、おいおいと大きな声で泣きじゃくる。ランドセルの革に、ぽたぽたと涙が落ちるのが見えた。
警察官が安堵の息を吐いた。
「よかった……ずっと泣き通しで。『お父さんに買ってもらったのに』って繰り返してて……」
「そうでしたか」
幸子は静かに頷いた。
「ここに座って、ずっと見ていてくださったんですか?」
「ええ、まあ。放っておけなくて」
「本当に助かりました。ありがとうございます」
警察官が深く頭を下げた。女の子はまだランドセルに顔を埋めたまま、肩を震わせている。
幸子は、その小さな背中を優しく見つめた。
「よほど大事なものなんですね」
「……お父さんに買ってもらったって、言ってました。お父さん、去年亡くなられたそうで」
警察官の声が、少し低く沈んだ。
幸子は何も言えなかった。喉の奥が、きゅっと締めつけられる。新しいランドセルが、ただの通学道具ではなく、そんな重い記憶を背負っていたなんて。
午後の陽射しが、女の子の髪を金色に染めていた。ランドセルを抱きしめる小さな手が、力いっぱい握りしめられている。もしかしたら、この子は今日、学校で何かぼんやりしてしまったのかもしれない。あるいは、ただ単に忘れっぽいだけなのかもしれない。でも、そんなことはもう、どうでもよかった。
女の子がようやく泣き止み、目を真っ赤にしたまま、幸子の方を向いた。涙で濡れた睫毛が、ぴくぴくと動く。
「……ありがとう」
小さな、かすれた声。
「どういたしまして。ただ、見ていただけですよ」
「見ててくれたんでしょ」
女の子はもう一度、そう言った。声はまだ震えていたけれど、目はまっすぐだった。
幸子は微笑んだまま、何も言葉を返せなかった。胸の奥が熱くなって、ただ頷くことしかできなかった。
やがて、警察官と女の子は帰り支度を始めた。女の子はランドセルを背負い直した。まだ体に少し大きすぎて、肩紐がゆるく、歩くたびに背中でゆさゆさと揺れる。一年生なのだろう。ランドセルが、まるで小さな貝殻のように彼女の背中を守っているように見えた。
二人の後ろ姿が、桜の木々の間を抜けて公園の出口へと遠ざかっていく。女の子が時折振り返り、幸子に向かって小さく手を振った。幸子も、静かに手を上げて応えた。
公園が、再び静かになった。
風が吹き、残りの桜の花びらが一斉に舞い上がる。淡いピンクの雪のように、幸子の膝の上にも何枚か落ちてきた。
幸子はしばらくその場に座っていた。指先で花びらをそっと摘み、掌の上で眺める。やがて、メモ帳を再び取り出した。万年筆の先を紙に滑らせ、丁寧に書き連ねる。
『午後3時28分 赤いランドセルを見守る 女の子が来た お父さんに買ってもらったランドセルだった 泣きながら抱きついていた 見ていて、本当によかった。』
メモ帳を閉じ、ゴムバンドを丁寧にかけた。
口の中の飴玉は、もうとっくに溶けきっていた。甘い余韻だけが残る。
幸子は立ち上がり、ゆっくりと公園を後にした。帰り道のコンビニで、新しい飴玉を買おうと思った。
悪くない午後だった。
とても、静かで、温かい午後だった。




