桜の絵と写真
四月の午後、公園の桜は雲のようにふんわりと空を覆っていた。
枝いっぱいに咲き誇る花びらは、淡いピンクと白が混じり合い、まるで遠くの霞のようにぼんやりと輝いている。
点々と散らばる花びらが、風にそよぐたび、陽光を透かして淡い影を地面に落とした。
幸子はベンチに腰を下ろし、スケッチブックを膝の上に広げた。
隣に座った男は、カメラを首から下げたまま、静かに桜を見つめていた。
ただ、隣に人の気配があることだけが、なぜか心地よかった。
ふたりはしばらく、無言で桜を見上げていた。
風がそっと吹き抜けると、桜の花びらが一斉に舞い上がった。
まるで淡い雪が逆さまに降っているようだった。
花びらは幸子の白髪に一枚、二枚と優しく乗っかり、すぐにまた風にさらわれて行った。
男がカメラを構えた。
シャッターの軽い音が、春の静けさの中に小さく響く。
幸子も鉛筆を握りしめ、紙の上をゆっくりと動かし始めた。
柔らかい桜の雲を、点々の花びらを、なんとか形にしようと試みた。
しかし、線は思うように重ならず、色を重ねてもぼやけてしまう。
それでも、幸子は諦めずに鉛筆を走らせ続けた。
散る花びらを、ちゃんと捉えたいと思ったから。
男がもう一度シャッターを切った。
幸子が鉛筆を走らせた。
風が吹いて、花びらがまた一斉に散った。
二人は、申し合わせたように、同じ瞬間に動いていた。
うまく描けなかった。
紙の上にできたのは、ただの淡い雲のような塊と、ところどころに散らばった点々だった。
それでも、幸子は満足した。
「散る花びらを描こうとした」という事実が、そこに確かに残ったから。
帰り際、桜の木の下で立ち止まった。
淡い花びらが、二人の肩の上をゆっくりと通り過ぎていく。
男が少し照れくさそうに言った。
「また来年も、ここに来ますか?」
幸子はスケッチブックを抱きしめたまま、静かに答えた。
「来ると思います。もう少し上手くなって」
「私も」と男は言った。
「もう少し、違う構図で撮ってみたくて」
ふたりは同時に小さく笑った。
笑い声が、桜の木の下に優しく溶けていった。
来年また会うかどうかは、わからなかった。
でも、来年の桜が、少しだけ楽しみになった。
その気持ちが、胸の奥で小さな灯りのように揺れた。
家に帰ると、夕陽が窓から柔らかく差し込んでいた。
幸子は引き出しからメモ帳を取り出し、眼鏡をかけて丁寧に書き込んだ。
「桜、描いた。雲みたいになった。
カメラの人に味があると言われた。
来年また来る。」
スケッチブックをテーブルの上にそっと置いた。
指先で表紙をゆっくりと撫でる。
ざらりとした紙の感触が、今日の出来事を優しく思い出させた。
悪くない春だった。




