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短編集  作者: モトカズ


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10/14

十月の栗ごはん

十月の朝は、ひんやりと澄んだ空気が頰を撫でた。

幸子は薄手のセーターの上にエプロンをかけ、商店街へとゆっくり歩いた。

足元に落ちたイチョウの葉が、乾いた音を立てて舞う。

 八百屋の店先には、大きな栗が山のように積まれていた。

茶色い光沢のある殻が、朝の柔らかな日差しを浴びて、まるで宝石のように輝いている。

幸子は迷わず立ち止まり、両手で一つを持ち上げた。

重みと、指に伝わるざらりとした感触に、胸が少しだけ高鳴った。

「これで栗ごはんを作ろう」

孫が来る週末に合わせて。

今年こそ、ちゃんと味わってほしいと思った。

 家に帰ると、台所の窓から差し込む光が、木のテーブルを優しく照らしていた。

幸子は大きなボウルに栗を入れ、水を張って丁寧に洗った。

一つ一つ、殻の隙間に詰まった土を爪で落とす。

やがて、包丁を手に取り、皮をむき始めた。

 時間がかかった。

指の先がじんわりと痛くなり、親指の付け根が赤く腫れ始めた。

それでも、幸子は手を止めなかった。

几帳面な性格だったから、一つ一つ、丁寧に、まるで大切な宝物を扱うようにむいた。

むき終えた栗の白い実は、濡れてつややかで、ほのかに甘い香りを立ち上らせていた。

 むきながら、ふと思い出した。

母が毎年、この季節になると、同じように台所に立っていた姿を。

母は文句一つ言わず、熱い湯気の中で栗をむき続けていた。

あの頃の母の手は、幸子よりずっと荒れていたはずだ。

今になって、ようやくその大変さが胸に染みた。

「ありがとう」と、もっと早く言えばよかった。

そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

「そうか……」

幸子は小さく呟いた。

言えなかったことは、たくさんある。

この歳になると、それがよくわかる。

 週末の午後、玄関のチャイムが軽やかに鳴った。

孫が元気よく飛び込んでくる。

部屋の中には、炊き上がった栗ごはんの、甘く香ばしい匂いがふんわりと広がっていた。

ご飯をよそい、湯気の立つ茶碗を孫の前に置いた。

 孫が箸を止めた。

「これなに?」

小さな声が、キッチンの静けさを破る。

「栗ごはん」

幸子は穏やかに答えた。

「栗って、あの栗?」

孫の大きな目が、茶碗の中の栗をじっと見つめる。

「あの栗です」

幸子は微笑んだ。

 孫が恐る恐る一口食べた。

二口、三口……。

やがて、ぱっと顔が明るくなった。

「おいしい!」

 幸子は何も言わなかった。

ただ、自分の茶碗を静かに持ち上げ、栗ごはんを口に運んだ。

ほくほくとした栗の甘みと、米の旨みが優しく広がる。

おいしかった。

胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 食事が終わると、孫が少し恥ずかしそうに言った。

「おばあちゃん、鯖は……?」

「今日はないの」

幸子は優しく首を振った。

「食べたかった……」

 幸子は孫の小さな顔をまっすぐ見た。

窓の外では、十月の風が木の葉を優しく揺らしていた。

「次に来たとき、作りますよ」

「約束ね?」と孫は上目遣いに言った。

「約束します」

 几帳面な性格だったから、幸子は約束を守る。

食器を片付けた後、引き出しから小さなメモ帳を取り出した。

眼鏡をかけて、丁寧に書き込んだ。

「栗、むいた。指が痛かった。

孫、栗ごはんおいしいと言った。

鯖、次回。約束した。」

 メモ帳をそっと閉じ、飴玉を一つ、口に入れた。

甘い味が、ゆっくりと舌に広がる。

 十月の午後の陽射しが、台所の床に長く伸びていた。

悪くない十月だった。

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