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短編集  作者: カズナオト


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本日休館日

六月の午後、陽射しが少し強くなり始めた頃だった。

幸子はバスを降り、杖を突きながらゆっくりと歩いていた。バス停から図書館までは、いつものように二つ分。道沿いのアスファルトが、足の裏にじんわりと熱を伝えてくる。六十八歳という年齢は、歩くたびに膝や腰に小さな抵抗を返してくるけれど、今日はそれほど気にならなかった。図書館で料理の本を借りて、孫が来る日の献立を考えようと思っていたから。

しかし、図書館の自動ドアの前に立った瞬間、ガラスに貼られた紙が目に入った。

「本日休館日」

白い紙に黒い太い文字。シンプルで、容赦ない。

「……そうか」

幸子は小さく息を吐いた。悔しいとか、腹が立つとか、そういう感情より先に、ただ「そうか」という言葉が口をついて出た。この歳になると、怒るための体力すら惜しくなる。代わりに、静かな諦めが胸の奥に広がった。

杖を少し強く突きながら、幸子はその場で鞄を開けた。中からいつものメモ帳を取り出す。表紙は少し色褪せ、角が丸くなっている。万年筆のキャップを外し、「図書館」と書かれた項目に丁寧に丸をつけた。それから横に、小さく「休み」と書き足した。几帳面な性格が、こんな失敗さえもきちんと記録させる。

「帰るか」

そう呟いたものの、足は動かなかった。バス停までまた二つ分、歩いて戻る気力が、急に湧いてこない。陽射しが眩しく、額に薄い汗が浮かぶ。

すぐ近くに、日当たりのいいベンチがあった。木製で、背もたれが少し傾いている。幸子はそこに腰を下ろした。杖を膝の間に立てかけ、両手を軽く重ねる。空は抜けるように青く、雲がほとんどない。遠くの街路樹の葉が、風にざわめいている。

悪くなかった。

どのくらいそうしていただろうか。十分か、二十分か。時間はゆっくりと溶けていくようだった。

やがて、足音が近づき、隣に誰かが腰を下ろした。

老人だった。幸子より少し年上、七十過ぎくらいだろう。白髪が短く整えられ、銀縁の眼鏡の奥に穏やかな目がある。手に文庫本を一冊持っていて、指の間に栞が挟まっている。

「閉まってましたな」と、老人は静かに言った。

「閉まってました」と幸子は答えた。

「月曜は休みなんですな、ここは」

「そうみたいですね」

「うっかりしてたな」

老人は、小さく笑った。

二人は自然と空を見上げた。話すことは特にない。でも、その沈黙が、妙に心地よかった。風がベンチの間を抜け、老人の白髪をわずかに揺らす。

「どこから来られましたか」と、老人が聞いた。

「バス停、二つ向こうから」

「それは遠い」

「あなたは?」

「三つ向こうから」と老人は言った。「徒歩で」

幸子は少しだけ老人の方へ顔を向けた。杖も持っていない。七十過ぎで三つ分を歩いてくる。感心したような、羨ましいような気持ちが胸に広がる。

「お元気ですね」

「膝が痛い」と老人は苦笑した。「でも歩かないと余計に固まるんですよ」

「そういうものですか」

「そういうものらしい。医者に言われました」

また、静かな沈黙が落ちた。悪くない沈黙だった。ベンチの木の温もりが、背中にじんわり伝わってくる。

老人が文庫本を開いた。ページをめくる乾いた音が、小さく響く。

幸子は鞄の中を覗き込んだ。本を借りるつもりで来たので、何も読むものがなかった。メモ帳しかない。仕方なく、再び空を見上げた。一つだけ、綿のような雲がゆっくりと流れていく。形が少しずつ変わりながら。

「何を借りるつもりでしたか」と、老人が本を読みながら聞いた。声は穏やかで、視線はページに落ちたまま。

「料理の本」と幸子は答えた。「孫が来るので」

「何歳ですか」

「六つです」

「それは可愛い」

「可愛いです」と幸子は言った。頰が自然と緩むのを感じた。「でも好き嫌いが多くて」

「何が嫌いですか」

「ピーマン、ナス、きのこ、魚全般」

「多いですな」

「多いんです」

老人が本から目を上げ、幸子の方を見た。眼鏡の奥の目が、優しく細められる。

「カレーにすれば全部隠れますよ」

幸子は少し考えた。頭の中で、具材がルーに溶けていく様子を想像する。

「確かに」

「孫がそのぐらいの頃、うちもそうしてました」

「お孫さんがいるんですね」

「いた」と老人は言った。声が少し遠くなった。「今はもう二十過ぎで、カレーより辛いものが好きになりました」

幸子は小さく笑った。喉の奥から、自然と声が出る。

老人も、口元を緩めて笑った。しわの深い頰が、柔らかく動く。

バスの時間が近づいてきた。幸子は腕時計をちらりと見て、立ち上がった。膝が少し軋む。

「そろそろ行きます」

「どうぞ」と老人は言った。また文庫本に目を落としていた。

幸子は鞄をしっかり持ち、二歩歩いてから振り返った。

「カレー、作ってみます」

老人が顔を上げた。眼鏡が陽射しを反射する。

「うまくいくといいですな」

「うまくいかなくても、まあ」と幸子は言った。声が自然と柔らかくなる。「孫は来てくれるので」

老人が、今日一番の顔で笑った。目尻に深いしわが寄り、白い歯が少し見えた。

バスの中で、幸子は窓際の席に座った。揺れる車内で、メモ帳を取り出す。万年筆の先を滑らせ、「図書館 休み」の下に、丁寧に書き足した。

「カレーにする」

ページを閉じ、ゴムバンドをかける。外の景色が、ゆっくりと流れていく。

悪くない一日だった。

図書館は、また今度でいい。



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