⑦光のアーチの下で
二年という月日が流れ、エヴァは王都での修行を終え、一人前の時計職人として父に挨拶をする為、故郷に帰省した。
町並みは懐かしく、王都での忙しい日々を少しだけ忘れさせる。
父の工房にたどり着くと、扉を開けたエヴァを見た父が一瞬驚いたような顔をし、すぐに笑みを浮かべた。
「おかえり、エヴァ」
「ただいま、お父さん!」
二年ぶりに訪れた工房は、相変わらずの懐かしさに満ちていた。
木の香りや、作業台の上に整然と並べられた工具たち。
壁にかけられた父の作った時計は、どれも昔のままで、変わらない空間がここにあった。
「王都の生活はどうだ?」
椅子に腰掛けた父に、穏やかな声で尋ねられ返事を返す。
「うん、大変だけど充実してるし、楽しい」
父はゆっくりと頷き、満足そうに目を細めた。
「それを聞いて安心した。お前が修行に出るって決めた時は、正直、寂しかった。でも、今のお前を見ると、誇らしく思う」
その言葉に胸の奥がじんと熱くなる。
「ありがとう、お父さん。これからももっと頑張るね。私もお父さんみたいに自分の店を持ちたいの」
「はは、そうか」
父との会話は尽きることがなかった。
修行中の話や、王都の出来事、そして父の最近の仕事のこと、亡き母のこと──久しぶりに再会した父との時間が、心を温めた。
少し落ち着いたところで、エヴァは「町を歩いてくるね」と声をかけ、工房を後にした。
石畳の道を歩くと、王都とは違う故郷の空気が体に染み渡る。
パン屋の店先から漂う香ばしい匂い、花屋に並ぶ鮮やかな花々、どこかで響く鐘の音──
そんな中、視線の先に見覚えのある人影が立っているのに気付いた。
「エヴァ!」
懐かしい声に思わず足を止める。
「スティーブ……?」
少し日焼けした肌、以前より逞しくなった体つき。
けれど笑みの形と立ち姿は、あの頃のままだった。
「久しぶりだな」
彼がこちらに歩み寄りながら微笑む。
「うん、久しぶり。元気にしてる?」
「まあ、なんとかな」
エヴァは懐かしさを感じながらも、距離を取るような微笑みを返した。
スティーブは、エヴァの顔をじっと見つめた後、わずかに視線を落としながら口を開いた。
「……王都で頑張ってるって聞いた。お前、本当にすごいよな……でさ、その……あの時のこと……覚えてるか?」
「『あの時のこと』……って?」
「町外れで倒れてた女性がいただろ?」
彼があえてその話題を持ち出してきたことに、少し驚きつつも頷いた。
「ああ、うん。……覚えてるよ。彼女、どうなったの?」
スティーブは肩をすくめながら苦笑した。
「それがさ、彼女、いいとこのご令嬢だったんだ。結局、外国の王子とやらが迎えに来てな。今はその男と一緒にどこかで幸せに暮らしてるってよ」
彼の言葉には皮肉っぽさが滲んでいた。
「王子が迎えに来るなんて、俺には分が悪すぎたって話」
スティーブはそう言って笑ったけれど、その笑顔の裏に悔しさと未練がうっすら透けて見えた。
「……俺がもっとちゃんとしてればよかったんだよな。教会に預けてれば良かったんだ。……エヴァ、俺、あの人の為に色々やったつもりだったけど、結局、無駄だったよ」
エヴァはその言葉を聞いて、心の中で小さくため息をついた。
「……スティーブは、あの頃、私のことをどう思ってた?」
エヴァは真っ直ぐに彼を見つめながら、問いを投げかける。
あの頃の自分が知りたかった言葉を、今になって聞いてみたくなったのだ。
彼は少し戸惑ったように眉を上げ、目を泳がせた。
「お前は、ずっとそばにいてくれたよな。大事な幼馴染で、家族みたいな存在だって思ってた」
目を泳がせたのは、エヴァを『他人』と言ったことを覚えているからだろうか──相変わらず、嘘が下手な人だ。
(……でも、こんな卑怯な言い方するような人ではなかったのに)
スティーブはさらに言葉を続ける。
「お前がいなくなって、分かったんだ。本当に大事だったのは、お前だったんじゃないかって。ほら、王都でも流行ってんだろ? 『真実の愛』ってやつがさ。あれと同じだよ」
彼の言葉には、後悔と都合の良さが混じり合っていた。それがエヴァを少しだけ苦笑させる。
「ううん、私たちの間に『真実の愛』なんかないよ。ただの幼馴染。それ以上でも、以下でもない」
「え? ……は? え?」
スティーブは何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
「スティーブ、ありがとう。二人で過ごした時間はとっても大切な思い出だよ。あなたなら、きっとまた誰かを本当に大切にできる時が来る」
スティーブは、一瞬きょとんとした後、作り笑いを浮かべた。
「おいおい、そんな言い方はないだろ? ……はあ。昔みたいに、もう一度やり直せるって思ったんだけどな……」
彼の声には甘えるような響きがあった。
それはかつて、彼がいつもエヴァを言いくるめる時に使っていた声だった。
「スティーブ……」
エヴァはため息をつきながら、彼の視線をしっかりと受け止めた。
「確かに、私たちは一緒に過ごした時間が長かったよね? でも、だからって、それが今の私たちにとって一番大事なものとは限らないでしょ? 現に、私はただの世話焼きでしかなかったんだし」
スティーブは顔を曇らせたが、すぐに表情を取り繕い、少し前に身を乗り出した。
「でもさ、エヴァ。お前、本当にあの王都で幸せなのか? 忙しく働いてばっかりで辛くないか? それにさ、親父さんや昔馴染みといると落ち着くだろ? 俺は、そうだよ。やっぱり故郷がいいし、お前のそばが一番落ち着くかも、って思う」
二年前に言われていたら舞い上がっていただろう言葉だった。
でも、今は──違う。
「なあ、俺たちって、運命ってやつなんじゃないか?」
「運命なんかじゃない」
エヴァは即答した。
「私が王都に行く前、スティーブは私のことなんて気にしてなかった。むしろ、あの女性に夢中だった。そうでしょ?」
彼は少し動揺したように視線を泳がせた。
「……それは、あの時は俺も未熟だったんだ。目先のことしか見えてなくて、お前の大切さに気付けなかった。でも、今は違う。ちゃんと分かってる。エヴァ、俺にはお前が必要なんだ」
「必要なのは、『都合よく動いてくれる世話係』でしょ? でも、私は、もう二度とそんな役は引き受けない」
エヴァの冷静な言葉に、スティーブは口を閉ざした。だが、すぐに食い下がるように続けてきた。
「いや、そうじゃないって! 本気なんだよ、エヴァ! 俺、ずっとこの町でお前を待ってたんだ。戻ってきたって聞いて、どれだけ嬉しいか……分かるか!?」
「分かるよ。便利だから、でしょ? 世話好きな私が」
「おい、そんな言い方しなくてもいいだろ。俺たち、昔からそういう仲じゃなかったか? なんだかんだでお互いを支え合ってきただろ?」
「支え合って……ね」
エヴァはその言葉に、本心を込めた。
「そんなに冷たい奴だったか、お前。……王都に行って、嫌な女になったんだな。都会の人間って感じだ」
その言葉に少しだけ心が粟だったけれど、すぐに気持ちを立て直すことができた。
「スティーブにとってそう感じるのなら、そうなのかも。……私は、変わりたいって、望んでいた結果が今だよ」
スティーブはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、ややぶっきらぼうな声で言った。
「……お前も、俺なんか必要ないってことかよ」
「? 必要ない、なんて思ってない。でも、あなたと一緒にいる未来は考えられない。それだけ」
その言葉が彼にどう響いたのか、エヴァは分からない。
スティーブは最後に「もういい」とだけつぶやき、ゆっくりと背を向けて歩き出した。
彼の背を見送りながら、エヴァは心の中で「さよなら」と呟いた。
それは、昔の彼と、かつての自分に向けた言葉だった。
◇◇◇
あれからさらに三年後。
エヴァはついに王都に自分の工房を立ち上げた。
工房は大通りに面した小さな建物で、ガラス張りのショーウィンドウには、これまでエヴァがデザインした時計が並んでいる。
その時計たちは、一つひとつが王都の人々の心を掴み、少しずつ信頼を得られるようになった。
ルーシャスとは協力し合いながら仕事をしている。彼はエヴァにとってかけがえのないパートナーであり、誰よりも大きな支えだ。
そんなある日、ルーシャスが工房の作業を手伝いながらふと提案した。
「エヴァの故郷の祭りに行こうよ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
「……恋の祭事?」
彼は笑みを浮かべながら頷く。
「うん、どうかな?」
「ふふ。そうだね、一緒に行こ!」
懐かしい町と祭りの光景が頭に浮かび、自然と微笑みがこぼれた。
◇
久しぶりに訪れた恋の祭事は、昔と変わらない賑やかさだった。
町中には赤や黄色のランタンが飾られ、石畳の道を歩くたびに足元から温かい灯りが跳ね返るようだった。
露店が立ち並び、パンや焼き菓子、スパイスの効いた料理の香りがあちこちから漂ってくる。
子供たちの笑い声、楽器の音、楽しげな話し声が町を彩り、空には満天の星が広がっていた。
「活気があるね」
ルーシャスが隣で感心したように言う。
「うん!」
エヴァも頷きながら、懐かしい景色に目を向ける。
中心の広場には、祭りの象徴である光のアーチが設置されていた。
そのアーチは、金色のリボンや赤い花で飾られ、無数のランタンがその周囲を包み込むように吊るされている。
アーチの光は、夜空から星が降り注いでいるようで、見る者すべての心を奪う美しさだ。
エヴァは足を止め、その光景をじっと見つめた。
ここで、かつてスティーブと一緒に歩いたことを思い出す。
けれど、その思い出が胸を締めつけることはもうない。ただ、懐かしさと穏やかな感情が心を満たしている。
「エヴァ」
ルーシャスの声に振り返ると、彼が微笑みながらエヴァの手を取った。
「歩こうか」
「うん」
彼に促されてアーチの下を歩くと、ランタンの灯りが優しく二人を包み込む。
ルーシャスはふと足を止め、エヴァの方を振り返った。
「エヴァ、君とこれからも一緒に時計を作り続けたい。僕と結婚してくれないか?」
その言葉に驚いて目を見開く。
彼はひざまずき、手にはペアの懐中時計を差し出していた。
それは、これまでの二人の軌跡を象徴するように、細やかな装飾が施され、美しく輝いていた。
「片方を君に持っていてほしい」
本来、この祭りでは恋人同士が時計を交換し合う。
互いの時を託し合い、未来を願うための儀式。
けれど彼は、交換ではなく同じ時を刻む為に、二つの時計を作った。
エヴァの手の中にあるのは、ルーシャスがともに歩む時間そのものだった。
アーチの光に包まれ、エヴァは彼の真剣な眼差しを見つめ、そして、何度も頷いた。
「ええ、ええ……! もちろん!」
エヴァは、受け取った時計を胸に抱き締め、そのままルーシャスの腕の中へと飛び込んだ。
彼の体温が伝わった瞬間、胸の奥から幸せが溢れ出す。
周りの音が遠ざかり、ただエヴァとルーシャスの世界だけが広がっていく。
──どこからか歓声が上がった。
「見て、プロポーズだ!」「きゃー、素敵!」
町の人々の冷やかす声と、女の子たちの黄色い声が弾け、祭りの喧騒がふたたび二人を包み込む。
広場を飾るランタンが風に揺れ、星空のような光が二人を祝福する。
エヴァの心は穏やかで、でも、確かに熱を帯びていた。
【完】




