⑥尊敬と愛情 - ルーシャス
エヴァと出会った日のことを、ルーシャスは今でも鮮明に覚えている。
◇
その日、ルーシャスは彼女の父親が営む工房を訪ねた。
目的は、亡き奥様が手がけた時計のデザインを学ぶ為だった。
ルーシャスの所属する工房では、そのデザインの美しさがいまだに手本とされていて、彼女の家族が守り続けてきた技術にどうしても触れてみたかったのだ。
「お忙しいところ失礼しますが、どうしてもこちらを訪ねたかったのです」
そう頭を下げると、彼は少し驚いた顔をしながらも、どこか誇らしそうな表情を浮かべていた。
亡き奥様のデザインが業界内で評価されていることを、内心喜んでいるのだろう。
工房を見学させてもらう中で、ルーシャスはふと作業台に向かっている若い女性──エヴァの姿に目を留めた。
黙々と修理作業を続ける彼女の姿勢には迷いがなく、作業に没頭する様子から高い集中力が伝わってきた。
彼女の指先が歯車を慎重に動かし、秒針を整える動きは、見ていてため息が出るほど正確だった。
だが、ルーシャスを本当に驚かせたのは、その修理が終わった後だった。
「あなたは、修理も細工もされるのですか?」
彼女が作業を終えた懐中時計に目を留め、思わず声をかけた。
「ええ、そうですけど……」
彼女は少し戸惑ったように答えた。
その控えめな声とは対照的に、彼女の仕事は堂々とした存在感を放っていた。
時計の細工には、元のデザインに馴染むような繊細な装飾が施されていて、それが時計全体に新たな命を吹き込んでいるように見えた。
「素晴らしい仕事ですね、繊細でありながら力強い。特にこの彫りの仕上げには、独自の感性が見える」
ルーシャスは、思ったことをそのまま口にした。お世辞ではなく、心の底からそう思ったからだ。
彼女は「まだまだ未熟です」と言うけれど、未熟だとはとても思えなかった。
「未熟なんてことはありません。時計作りでいちばん大切なのは技術より、その人自身の感性です。あなたの仕事には、それが確かに表れています」
エヴァはしばらく言葉を失っていた。
だけど、その瞳の奥に、ほんのわずかに自信の光が宿るのをルーシャスは見逃さなかった。
その瞬間、確信したのだ。
この女性は、きっと時計職人として、そしてデザイナーとして大成するだろう、と。
◇◇◇
エヴァが王都の工房にやってきた時、彼女はすぐに訓練生たちの中でも際立つ存在になった。
ここでの修行は厳しく、訓練生たちは全員、互いに競い合うように腕を磨いていた。
誰もが高い志を持ち、妥協を許さず、時には言い争いになることもある。彼らの中には、すでに地元で名を上げていた者も少なくない。
だが、そんな中でも、エヴァの存在感は群を抜いていた。
彼女は努力家だった。
与えられた課題に対して全力で向き合い、壁にぶつかるたびに解決策を見つける為に夜遅くまで作業台に向かう。
その姿勢だけでも称賛に値するものだったが、彼女の本当の強みは、技術以上に感性にあった。
エヴァのそのデザイン画を見た時、ルーシャスは息をのんだ。
それはただの課題の完成品ではなく、まるで生命を持ったかのような力強さと繊細さを兼ね備えていた。
彼女の描く模様や曲線には不思議な魅力があり、一度見たら忘れられないような印象を残すのだ。
訓練生たちの間で開催したデザインコンテストも忘れられない出来事だ。
課題は『星空』をテーマにした時計のデザイン。全員が一週間をかけて描き上げたスケッチを提出し、職人たちがそれを審査するというものだった。
その中でエヴァが提出したデザイン画は、誰もが目を奪われるほどの完成度を誇っていた。
彼女のデザインは、夜空に輝く星々をイメージしたものだった。
時計の文字盤には、深い青色の背景に点在する無数の小さな星々を描き、十二時の位置には北極星を象徴する大きな星を配置していた。
針は星の光を反射するようにキラキラと輝く銀色にし、時間が進むごとに星々がまるで夜空を巡るかのように見える仕掛けを施していた。
訓練生たちの中にはエヴァの才能に嫉妬する者もいたが、それを声に出す者は誰もいなかった。
彼女の作品がそれほど圧倒的だったからだ。
そのデザインを見たベテラン職人の一人が呟いた。
「……エヴァはあの方を超えたな」
『あの方』というのは、エヴァの母親だった。
時計業界では今でもその名が語り継がれている人物だ。
その母親を超える才能がエヴァにはある──職人たちはそれを認めざるを得なかった。
だから、商会の会長が彼女のデザインに目を留めたのも当然のことだった。
「この模様を時計だけに使うのはもったいない。ポスターのデザインを頼みたいんだが、どうだろう?」
その申し出は工房内でも驚きの声を呼んだ。
時計のデザインだけではなく、広告のデザインという新しい分野にまで手を広げることになる、エヴァの才能がどれだけ特別なものかを改めて実感させられる出来事だった。
だが、エヴァはどれだけ評価されても、決して驕らなかった。
「まだまだです」と彼女はいつも口にする。
それは単なる謙遜ではなかった。本当にそう思っているのだ。
彼女は自分の未熟さを認め、だからこそ成長し続ける。
その謙虚さこそ、彼女をさらに輝かせる最大の理由だ。
スカウターと呼ばれる職人斡旋業者たちが、彼女に声をかけてくることが何度もあった。
「エヴァさん! ぜひうちの工房に来ていただきたい。最高の環境をお約束します!」
彼らの言葉には魅力的な条件が並び立てられていた。
ルーシャスはそのたびに胸の奥がざわついた。
彼女がこの工房を去る可能性──それは、いつか訪れる未来なのだろう。
彼女ほどの才能を持つ人間が、ここに永遠に留まるわけがない。それは理解している。
それでも、もし彼女が目の前からいなくなったらと思うと、どこか息苦しい気持ちに襲われる。
そんなルーシャスの心を見透かしたように、彼女はいつも穏やかな表情で答える。
「今はここで学びたいことがたくさんありますから」
その声には、迷いの影は微塵もない。
エヴァは、彼女自身の目標に向かってまっすぐに進んでいるのだ。
その姿を見るたび、ルーシャスは彼女の強さと芯のある生き方に心を打たれた。
(……いや、そんな簡単な言葉では片付けられない)
エヴァが特別だということは、最初から分かっていた。
彼女の才能が、努力が、人間としての魅力がどれほど優れているか、ルーシャスは何度も目の当たりにしてきた。
それでも、最近の自分が感じているこの感情は、それだけでは説明がつかない。
彼女と一緒に過ごす時間の一瞬一瞬が、何か特別な意味を持っているように思えてならなかった。
彼女がスカウターの誘いを一蹴するたびに、ルーシャスは胸を撫で下ろす。
そしてその後すぐに、自分の心が安堵していることに気付いて、戸惑う。
こんな気持ちになるのは、ただの同僚や指導者としての役目を超えた何かがあるからだと、薄々理解していた。
だが、その思いを言葉にする勇気が、ルーシャスにはまだない。
エヴァがこの工房にいる間に、自分は彼女の才能を支えられる存在でありたい。
それ以上の気持ちを伝えたら、彼女の進むべき道を邪魔してしまうのではないかという恐れがあるからだ。
もし彼女がこの工房を去る日が来たら──その時は、全力で応援しようと決めている。
それが自分にできる唯一のことだ。
けれど、その未来を想像するたび、胸にぽっかりと穴が開くような感覚に襲われる。
彼女のいない工房がどんなに静まり返っていようと、そこに彼女がいないだけで、ただの空間に変わってしまうような気がして……。
だから、今はせめて、この瞬間を目に焼き付けておきたい──エヴァがここにいる間に、できる限りその姿を覚えておきたい
ふと、辺りを見回すと、工房の灯りはほとんど消えていた。
訓練生たちはすでに寮に戻り、工房には静寂が広がっている。
それでも、一人だけスケッチブックに向かう影があった。
エヴァだ。
ランプの灯りが、彼女の手元を柔らかく照らしている。
鉛筆を走らせる音が微かに響き、彼女の集中した横顔がそれに重なる。
ルーシャスはその姿をじっと見つめた。
いつもの光景のはずなのに、今夜の彼女はどこか違って見えた。
静かに紙に描き出される模様たち。
鉛筆の動きが止まるたびに、小さく息を吐く彼女。
そんな些細な仕草に、胸が締めつけられる。
(もし、彼女がこの工房を去る日が来たら──)
そんな考えが頭をよぎるたび、喉の奥がひりつく。
気付けば、彼女に声をかけていた。
「エヴァ」
自分の声が震えているのが分かった。
彼女が顔を上げる。
「ルーシャスさん?」
その無垢な表情に、心が揺れる。
伝えるつもりなんてなかった。
本当に、なかった。
嘘ではない。
彼女を困らせたくなかったし、この思いを胸に秘めたままでも構わないと思っていた。
でも──
「君は……本当に、すごい人だね」
気付いた時には声に出していた。
緊張で自分の言葉が耳に届かないような気さえしたけれど、それでも止まらなかった。
「僕たち職人の誰よりも、君の才能は素晴らしい。だけど、それだけじゃない。君自身に惹かれているんだ。僕はエヴァのことが好きだ」
愛おしすぎて、ついつい告白してしまった。
そんな言い訳を胸の中でしながら、肩の力が抜けたような気がした。
一方で、胸の奥が痛んだ。伝えなければよかったのかもしれない、と。
それでも、彼女への思いが溢れて止められなかったのだ。
エヴァは目を見開いたまま、口をぱくぱくと動かしている。
「え、え……?」
彼女が慌てたように声を漏らした時、ルーシャスは少しだけ笑みを浮かべた。
嫌がられているわけではないと分かり、ほっとしたのだ。
「ごめん、急にこんなことを言って困らせるつもりはなかったんだ。ただ……声に出てしまった」
エヴァは視線を落とし、鉛筆を握りしめたまま小さく息を吸い込む。
それから、おずおずと口を開いた。
「あの、ルーシャスさん……ありがとうございます。そんなふうに思ってくれて、本当に嬉しいです。でも……」
彼女の声は震えていた。
「……い、今の私には……時計作りとデザインのことしか考えられなくて……あの……」
彼女の真剣な思いを前に、頷くことしかできなかった。
「分かってるよ。君が真剣に向き合っていることを、僕はよく知ってる。……でも、覚えていてほしいんだ」
「え?」
「僕は、気がすごく長いほうだってね」
「……?」
「もし、君が迷惑でなければ、待たせてほしいってことだよ」
エヴァは顔を上げ、慌てたように言った。
「め、迷惑だなんて、そんなこと全然ないです……っ」
その言葉に胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう。それだけで十分だよ」
ルーシャスは微笑みながら続けた。
「思うだけなら、許してほしい。それだけで、僕は幸せだ」
エヴァは戸惑いながらも、少しだけ笑顔を見せた。
「……私も、いつかちゃんと答えを出したいです。その時まで、もう少しだけ猶予をください」
彼女のその言葉に、心の中で感謝する。
ルーシャスは静かに息をついて、彼女の瞳を見つめた。
「君のペースでいい。僕は、いつまでも待っているよ。もちろん、断ってもいい」
エヴァは少しだけ目を伏せて、ほんのりと赤らんだ頬が月明かりに浮かんで見えた。
その仕草に胸が温かくなる。
(届かなくてもいい。この想いが、彼女の手を縛らないのなら)
エヴァは再びスケッチブックに向き、鉛筆の音が静寂を満たしていく。
その音を聞きながら、ルーシャスは胸の奥に残る痛みを、一つの鼓動として受け止めた。
それは恋の終わりではなく、彼女を見つめ続けるための始まりだった。




