表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

⑤上澄みの恋と真実の愛 - スティーブ

 彼女を見つけたのは、石畳の道の上だった。


 ◇


「名前は?」


 目を覚ました彼女に名前を尋ねるも、返事はなく、記憶を失っているようだった。


 首を横に振る彼女を見て、スティーブは少し考えてから言った。


「じゃあ……『アリア』って呼ぶことにするよ」


 それが彼女の本当の名前ではないことは分かっていた。

 だけど、彼女が笑みを浮かべたのを見て、これでいいのだと思った。


 アリアの瞳は、今まで見たことがないほどに深い碧色をしていた。

 深い湖の底を覗き込んでいるような、不思議な透明感──その瞳に見つめられると、自分がまるで別の世界に引き込まれるような気がした。


 アリアが笑えば、その微笑みは柔らかく、謎めいていて、見る者すべてを惹きつけた。

 彼女が歩けば、銀色の髪が風にそよぎ、その姿は幻想の中の存在のようだった。


 町の人々が彼女を一目見ただけで噂話を始めるのも無理はないだろう。

「お姫様みたいだ」と誰かが呟くのを聞いた時は、気分が良かった。


 しかし、彼女を家に連れて帰ってからの生活は、正直大変だった。


 そもそもアリアは体調が戻るまでに時間がかかったこともあるが、記憶がないせいか、家事のやり方をまるで知らなかったことも大きい。

 皿を一枚洗わせてもすぐ割り、スープを作らせたら鍋を焦がす。


 それでもスティーブが腹を立てるより先に、彼女がにこっと笑って言う。「ごめんなさい、次はきっと上手くやりますね」と。

 その笑顔を見た瞬間、怒りなんて吹き飛んでしまうのだ。……いや、舞い上がっていた。


 アリアはほとんど何もできなかった。


 だが、彼女はそれを補うほどの魅力を持っていた。

 彼女がいるだけで家が明るくなるような気がしたし、彼女を守らなければならないと思った。

 時々、彼女の瞳の奥に一瞬だけ不安げな光がよぎることがあったが、そのたびに、「大丈夫だ」と声をかけて慰めた。


(アリアには、俺しかいない)


 そのことが嬉しかった。


 アリアの記憶が戻る日は来るのだろうか。

 そして、もし戻った時……──


(いや、戻らなくていい)


 ◇


 アリアと一緒に祭事に参加した際に思ったことは、この祭りがこんなにも楽しいものだったのか、ということだった。

 毎年、エヴァに誘われて仕方なく足を運んでいた時とは、比べ物にならない。


 あの頃は祭りの喧騒も、光のアーチも、ただの背景にしか見えなかった。

 義務感に駆られて、エヴァに付き合っていただけだった。

 でも、アリアと一緒にいると、すべてが違って見える。

 アリアが飾り付けられた町を見て「とても綺麗ですね」と微笑むたびに、胸が高鳴った。


 彼女の銀色の髪がランタンの光を反射し、夜の空気の中でふわりと揺れる。

 その姿はまるでこの世のものとは思えないほど美しかった。


 赤や黄色のリボンで飾られた町並みも、ランタンの柔らかい光も、すべてがアリアを引き立てる為に存在していた。


 通りを歩くだけで、町の人々が彼女に目を奪われるのが分かった。

 視線が集まるたびに、優越感が湧きあがる。


 アリアは『特別』だ。

 そして、彼女にとってのスティーブも。

 そうに違いない。


 光のアーチの下を一緒に歩き、ペア時計を交換した瞬間、スティーブは心から、この祭りに参加して良かったと思った。


 それなのに、水がさされた。


「エヴァが可哀想だと思わないのっ!?」


 背後から声をかけられた時、思わず顔をしかめた。

 振り向くと、そこにはエヴァの友人であるリリアが立っていた。

 リリアは憤然とした様子で、まるでこちらが犯罪でも犯したかのような表情をしていた。


「何の話だ?」


 冷たく返したが、リリアは怯むことなく言葉を続けた。


「毎年エヴァと一緒に来てたじゃない! どうして、その人と来てるの……!? 最低っ!」


 その言葉に苛立ちが込み上げる。


「アリアと一緒に来たかった。それだけだ」

「……なっ」


 リリアは何かを言い返そうとしたが、スティーブはその場をさっさと離れた。


 エヴァのことを考えると、心に少しだけわだかまりが残る。

 毎年、エヴァと一緒に祭りに参加していたことは事実だし、彼女の世話になっていたことも分かっている。

 でも、今のエヴァはアリアを悪く言う。

 そんな奴とは、しばらく顔を合わせたくないと思って何が悪いのだろう。




 ◇◇◇



 エヴァがいなくなって三か月。

 シャツや靴下の替えが減り、夕飯の品数も寂しくなった。


(そういえば、靴下の繕いはエヴァがやってくれていた)


 今のスティーブの生活の中心はアリアだ。

 でも、アリアとの生活は、思った以上に大変だった。

 特に、食事には手を焼いている。


「これ、焦げています」


 アリアが眉をひそめ、皿をそっとテーブルに戻す。


「……食えなくはないだろ?」


 正直なところ、スティーブだって自分の料理がうまいなんて思っていない。

 でも、空腹を満たす為には食べるしかない。

 それなのに、アリアは失敗した料理を一切口にしない。

 空腹でさえ彼女の『信念』を曲げることはないらしい。


(じゃあ、自分で作ればいいだろ……)

 そう言いたくなるのを、ぐっと飲み込む。


 アリアは笑顔で「すみません」と言うけれど、その後も結局、スティーブが台所に立つしかない。


(エヴァがいれば……)

 何度、そう思っただろう。


 エヴァなら、焦げた料理だって笑いながら食べてくれたはずだ。

 そもそもこんな失敗はしなかっただろう。彼女のシチューは美味かった。


 でも、エヴァはもういない。

 三か月前、王都に行った。スティーブに一言の挨拶もせずに。


「スティーブさん、どうかしましたか?」


 ふと気付くと、アリアが不安そうにスティーブの顔を覗き込んでいた。


「いや、なんでもない」


 適当にごまかし、スティーブは食器を片付ける。


 アリアの笑顔に救われた時期もあった。

 それは嘘じゃない。

 彼女が何をしても許せるくらい、自分は魅了されていたのだ。


 ……でも、それももう終わったのかもしれない。


 最近では、笑顔を見るたびに、自分の中に生まれる苛立ちを抑えるのに苦労することが増えてきた。




 ◇◇◇




 ──それは、本当に突然だった。


 アリアが倒れていたあの日から、半年が過ぎた夏の終わりのこと。薄曇りの空の下、家の前で薪を割っていると、かすかな足音が聞こえてきた。


 最初はただの通りすがりかと思ったが、振り返ったスティーブの目に飛び込んできたのは、この町では明らかに異質な一団。


 足音の主は、黒髪を巻き毛に整えた、絵画から飛び出したような男だった。

 背は高く、仕立ての良い服に金糸で刺繍が施されており、その姿は洗練されていて、明らかに田舎町には不釣り合い。


 しかし、それだけではなかった。その男の後ろには、一団が控えていたのだ。


 彼らの服装は、熱砂の国を思わせる薄い布をまとい、顔には砂除けのターバンを巻いている。

 幾何学模様の刺繍が入った衣服がまばゆく、腕には金の腕輪がいくつも光っていた。

 布越しに見える肌は日焼けしていて、砂漠を渡ってきたことを物語っている。


 さらに目を引いたのは、彼らの中にいる騎士たちだ。

 鎧の上に軽やかな布を纏い、腰には美しい装飾の施された剣を帯びている。

 その鎧の表面には、青と銀の模様が刻まれており、太陽が雲間から差すたびに鋭く輝く。


 彼らは町にいるだけで周囲の空気を変えるほどの存在感を放っていた。

 町の人々が足を止め、息をのむのが分かる。


 商人でも貴族でもない。どちらかといえば軍の一団に近いが……それとも違う独特の雰囲気を纏っている。


 黒髪の男がゆっくりと前に進み出た。


 近くで見ると、男の顔は端正そのもので、まるで彫刻のような造りだった。その目には自信が宿り、姿勢には隙がない。


 スティーブの目を真っ直ぐに見据え、彼は低い声で言う。


「ここに青い目の銀髪の女性がいると聞いたが、本当か?」


 だが、スティーブが答えようと口を開く前に、ひゅっと風が走る。

 いや、風ではない。

 スティーブの横をすり抜け、男に抱きついたアリアだった。


「ラシード!」


 アリアの声が耳に響く。


 泣きながら笑っている彼女を見たのは初めてだった。

 いや、泣く彼女を見たのも、こんなにも心の底から笑う彼女を見たのも初めてだった。


 スティーブはその場に立ち尽くすしかない。


「エリザベート……!」


 ラシードと呼ばれたその男が、彼女の名を呼び返す。


 その名前が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


(エリザベート? 彼女の本当の名前か?)


 アリアと名付けたのは、スティーブだった。


 名前を言わなかった彼女に与えた名前。

 半年間、その名前で呼び続け、その名前で彼女を思い、彼女と過ごしてきた。


 だが、それはただの仮の名前でしかなかったのだ。


 スティーブと過ごしていた日々の彼女とは別人のようで……いや、もしかすると、これこそが彼女の本当の姿なのだろう。


「ラシード、わたくし……学園で──」


 アリア──いや、エリザベートは、男に何かを伝えようとしている。

 彼女の声は震えているが、その震えは喜びから来ているのだと分かった。


 そして、その瞬間、スティーブは直感的に悟った。


(『記憶を失っていた』んじゃない。『失ったふり』をしていたんだ)


 自分の身を守る為に。

 すべて計算の内だったのだ。


 でも、何も言えなかった。

 何を言えばいいのかも分からなかった。


 スティーブが知っているのは、小さな町の生活の中での彼女だけ。

 でも、彼女の本当の世界は、もっと広く、もっと遠い場所にあるのだ。今、目の前で見せつけられた。


(俺は『アリア』にとって、どんな存在だった?)


 その答えを聞きたいような、聞きたくないような、そんな気持ちが胸を締め付ける。


 男は、彼女の肩を抱きながらスティーブの方を見た。


「礼を言う」


 その言葉とともに、彼は重そうな袋を地面に置いた。

 袋の中からは金貨がこぼれ出し、高価そうな反物や、上等な酒も一緒に置かれた。

 これが、『礼』なのだろう。


 彼女もまた、スティーブに柔らかく微笑んだ。


「スティーブさん、本当にありがとうございました」


 彼女のその声は優しいが、それ以上のものは何もなかった。

 感謝の言葉だけ。それ以上の未練も、後ろ髪を引かれる様子も何もない。


 そして、彼女は振り返ることなく、男と共に去っていった。


 残されたのはスティーブと、豪華な品々。

 その場にしゃがみ込み、それらをただじっと見つめる。


(結局、俺は何をしていたんだ?)


 彼女を守る為にと自分に言い聞かせ、必死に頑張った半年間。

 だが、彼女が本当に求めていたのは自分ではなかった。


 彼女が笑顔を向ける相手は、最初からスティーブではなかったのだ。


 スティーブは立ち上がり、薪を割る手斧を握りしめた。

 そして、何も考えずに再び薪を割る作業に没頭した。


 考えたくなかった。

 金貨や反物に目を向けたくなかった。


 ただ薪を割る音だけが、曇り空の下に響いていた。

 しかし、割った薪を積み上げながら、胸の中に少しずつ別の感情が湧いてきた。


(……ほっとしてる)


 それに、家事をしない彼女にイライラすることが、これからはないのだと思えば、肩の荷が下りたような気さえした。


 ◇


 数日後、リリアが訪ねてきた。


 その時、彼女が話した内容に、スティーブはさらに驚かされることになる。


「スティーブ、聞いた!? アリア……じゃなくて、エリザベートさんって、王都の侯爵家のご令嬢だったんですって!」


 興奮気味にそう語り始めたリリアは、続けざまに話をまくし立てる。


「しかも、王都の学園で婚約者だった公爵令息に冤罪を着せられて、断罪されたらしいの! でね! 彼女を迎えに来たのは、『王子様みたいな人』じゃなくて、本物の王子だったんだって! ああ、もうっ! エリザベートさんが侯爵令嬢だったって知ってたらあたしだってお世話したのに~~!」


 リリアの話に耳を傾けながら、目の前の事実を受け止めるのに時間がかかった。


「というか、王子様とエリザベートさんって幼馴染だったんだって。お互い好き同士で──あ、というかお礼って何貰ったの? 見せてよ!」


 あの黒髪の男、ラシードが本物の王子だったなんて。

 想像すらしていなかった。


 それだけじゃない。エリザベートとラシードが幼馴染で、しかも両想いだったという話も、現実感が湧いてこない。


(幼馴染)


 その言葉だけが、胸に刺さる。


(……エヴァは、今どうしているだろう?)


 ふいに浮かんだのは、あの頃いつも隣にいたエヴァの笑顔だった。


 何も言わずに寄り添ってくれる彼女は、どんな自分でも受け入れてくれた、優しい女の子だった。

 あの頃は気付かなかったけれど、今は思う。


(俺にはやっぱりエヴァしかいないのかもな)


 エヴァが王都でどうしているのか、今は分からない。

 だけど、もし、エヴァがこの町に帰ってきたなら、今度こそ彼女に伝えたい。「俺の隣にいるべきなのはお前だけだ」と。


 きっと、エヴァは喜んでくれるはずだ。


(失って初めて分かることがあるんだな)


 そう実感したスティーブは、深呼吸して快晴の空を見上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ