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④王都での充実した日々

 今年の恋の祭事が終わり、ルーシャスが王都に戻る日が四日後に迫っていた頃。工房でスケッチをしているエヴァに、父が声をかけてきた。


「エヴァ、王都で修行してみないか?」


 その一言に、エヴァは驚きのあまり手を止めた。


 父がこんな話をするなんて、思いもしなかったからだ。


 工房の空気がわずかに変わり、蝋燭の炎が小さく揺れた気がした。


「……私が、王都に?」

「そうだ。ルーシャスがお前に『ぜひうちの工房に来てほしい』と言ってくれている。こんな機会、滅多にあるもんじゃない。お前の技術を伸ばす為には、きっといい環境だ」


 都会の工房で働くことは、職人として大きなステップアップになるだろう。

 ルーシャスのような一流のデザイナーや職人たちと一緒に仕事ができるなら、エヴァの技術も大きく成長するはずだ。


 けれど、その話を聞いても、心の底に波が立つばかりだった。


「……少し考えさせてほしい」


 そう言って話を切り上げたものの、その日からエヴァの心は渦を巻くように揺れ続けた。


 工房で時計を修理する手が止まるたび、同じ考えが頭をよぎる──王都に行くべきか、それとも、この町に残るべきか。


 父やルーシャスの言葉に耳を傾けるたび、都会での修行が自分にとって大きな跳躍になることは理解できた。

 そう、頭では理解しているのだ。

 だけど、思考の隙間にはいつもスティーブの影が差し込み、払いのけられなかった。


 スティーブはあの女性と恋の祭事に参加した。

 それが『自分は特別ではない』という答えを突きつけているのに、どこかでまだ期待を手放せない。


 彼がいつか振り向いてくれるかもしれない、と。


 その思いがどれだけ愚かであるか、エヴァ自身が一番よく分かっている。


 少し前には、時間が解決してくれると信じて心が軽くなったはずなのに。

 いざ王都に行くか町に残るかという選択を突きつけられると、想いは断ち切れなかった。


 幼い頃から積み重ねてきた日々が、簡単に捨てられるはずもない。


 エヴァは、自分に問いかける。


(このまま町に残って、何が変わるの? これは私に与えられた大きなチャンスなんだよ? ……でも、王都に行って私に何ができるの? ……それに、それに……スティーブと離れて、私は平気なの?)


 誰も答えてはくれない。

 ただ、作業台の上に置かれた時計の針が、規則正しく音を刻むだけ。


 ルーシャスの誘いを断る理由はない。

 彼はエヴァにとって優れた職人であり、よき理解者だ。


 都会での新しい生活を思い描くほどに鼓動は速まるのに、足はどうしても前に出なかった。


「……よし」


 エヴァは拳を握りしめ、一度スティーブに会って話をしようと決めた。

 心の奥で渦を巻く迷いを断ち切るには、それしかないと思った。


 ◇


 スティーブの家を訪ねると、窓から中の様子が見えた。


 そこには、スティーブとあの女性がいた。

 二人は近付きすぎなくらい近くで笑い合っている。

 女性が何かを言うと、スティーブは頬をゆるめ、まるでその言葉を宝物みたいに受け取っていた。


(好きな女の子の前では、そんな顔をするんだ……)


 胸がぎゅっと痛む。


 あんなふうに心から笑う彼を、エヴァは見たことがなかった。


 あれが本当のスティーブなのだとしたら、エヴァが信じてきた時間は、ただの独りよがりに過ぎない。


 その場に立っているのが耐えられなくなり、エヴァはその場を離れた。


 不思議と涙は出なかった。


 胸の奥が冷たくなっていく感覚だけがあった。




 その夜、エヴァは自分の部屋でじっくり考えた。


 スティーブへの思いは、まだ消えていない。

 それでも、この町に留まれば、同じ痛みに何度も足を取られるだろう。

 その未来は、もうはっきり見えていた。

 それでも、離れるのは怖かった。

 この町で過ごした季節も、笑い声も、ぜんぶスティーブと結びついている。

 思い出を捨てるようで、息が詰まった。


(でも、行かなければ私は変われない)


 そう何度も心の中で繰り返した。



 次の日、父に向かってエヴァはついに言った。


「お父さん、私、王都に行くよ──ううん、行かせてください」


 その言葉を口にした瞬間、胸の中にあった何かが少しだけほどけた気がした。




 ◇◇◇




 王都に来て最初に感じたのは、想像していた以上の喧騒と眩しさだった。


 石造りの建物が肩を並べる大通りを、馬車の車輪が絶え間なく駆け抜けていく。

 露店には、目がくらむほど鮮やかな布と、鼻を刺す香辛料の匂い。

 生まれ育った町とは何もかも違い、一歩進むたびに別の世界に足を踏み入れたようだった。


 視線を向ければ、両側に並ぶ商店の窓越しに宝石やシルクの衣装が輝いていた。そこへ香水の匂いをまとった貴族の馬車が通り過ぎ、華やかさをいっそう際立たせる。


 けれど、ふと足元へ目を落とすと、路地の影に乞食や芸人が腰を下ろしていて、王都の光と影が一枚の絵のように重なって見えた。


 ◇


 ルーシャスの工房での生活は、それまでの毎日とは比べものにならないほど厳しく、そして充実していた。


 工房では、訓練生たちが皆それぞれの目標を持ち、朝から晩まで黙々と作業に励む。

 その情熱に触れるたびに、自分も負けていられないと思った。


 ある日の彫刻作業でのこと。

 作業台に向かい、細かな装飾の彫り込みに集中していると、背後からルーシャスの声がした。


「この彫りの仕方だけど、もっと力を抜いてみるといいですよ。繊細さが際立つから」


 言われた通りに力を抜くと、刃先が木目をすうっと走り、線がまるで息を吹き返したように滑らかに伸びた。

 模様の輪郭に温度が宿り、ただの飾りがひとつの物語を語りはじめたように見えた。


「そう、その調子です。君の感性は確かだから、自分を信じてみて」

「はい!」


 ルーシャスの言葉には、どこか背中を押してくれるような力があった。


 彼の言葉に励まされ、エヴァは新しい技術を吸収しながら、自分の可能性を探り続けた。


 ◇


 王都に来てから数週間経ったとある日の昼休みの時間、工房の訓練生たちが休憩室に集まり、声をひそめながらも熱心に何かを話し合っていた。


 そのざわめきが気になり、エヴァは作業台で手を止め、耳を澄ます。


「ねえ、貴族の学園で起きた婚約破棄の話、聞いた?」

「聞いた。聞いた。公爵家の令息が、侯爵家の令嬢を独断で断罪したって話だろ?」

「そうそう! 酷いよねえ」

「しかも、令嬢をどこかに置き去りにしたらしいじゃないか。高位の貴族がそんなことをするなんて、信じられないな」

「今もその侯爵令嬢は行方不明なんだっけ?」

「ああ、そうらしいよ」

「じゃあ、もう生きてはいないだろうね」


 耳に届いた会話に、思わず彫刻刀を机に置いた。


 どうしてか、話の内容が胸に引っかかった。


(もし私がその令嬢の立場だったら……)

 そう想像してみるだけで胸が詰まった。


 彼女のことを思うと、とにかく気の毒だとしか言いようがない。


「……可哀想に」


 つぶやいた瞬間、自分でも何様なんだろうと思い、頬が熱くなった。

 何も知らないくせに分かったような顔をした自分が、途端に恥ずかしい。


 工房の誰もがこの話題に興味を持っているわけではないし、エヴァも深入りするつもりはない。

 それでも、どこかで「どうか無事で」と願う自分がいることに気付く。


 手元に戻った彫刻刀は、いつもと同じように冷たく硬かった。


 ◇


 工房では、毎日、毎日、課題が山のように積み上げられ、夜遅くまで作業が終わらないこともあった。

 それでも、疲れよりも達成感が勝った。


 技術を学ぶたびに、見えない歯車が少しずつ自分の中に組み込まれていくような気がした。


 特に胸を熱くするのは、デザインの時間である。


 工房のデザイン室は、夢のような場所だった。

 壁には過去の名作のスケッチが所狭しと貼られ、長い年月をかけて生み出された職人たちの成果が、まるで命を宿したかのように輝いている。

 それを眺めているだけで、自然と鉛筆を手に取りたくなる。


 エヴァもスケッチブックを広げ、無数の線を紙の上に走らせた。

 しかし、最初は描けば描くほど迷いが深くなった。

 そんな時、ルーシャスがいつものように、エヴァのスケッチを覗き込んだ。


「このライン、とても良いですね。でも、この部分、少し装飾が多すぎるかもしれません。もっとシンプルにしてみたらどうでしょう? 必要なものだけを残す、それがいいデザインの秘訣です」

「はい!」


 彼のアドバイスに従い、何度も修正を重ねてみた。


 余計な要素を削ぎ落としていくと、不思議なことに全体がまとまり、洗練された印象に変わった。

 完成したスケッチを見つめると、肩の力がすっと抜けて、息が少し楽になった。自分の中に芽生えた小さな自信が、確かにそこに息づいていた。



 そんな修行の日々の中、ふと夜更けに父のことを思い出した。

 あの日、父がエヴァを王都に送り出してくれた時の言葉が頭をよぎる。


「行ってこい。そして、自分の腕で未来を切り拓け」


 その言葉に応える為にも、前に進まなければならない。

 そう思うと、いてもたってもいられなくなり、机に向かって手紙を書くことにした。


 静かな夜の工房の部屋で、鉛筆を手に取り、白い紙に思いを込める。



《お父さんへ

 王都での修行はとても充実しています。

 ルーシャスさんや他の職人たちと一緒に働く中で、私も少しずつ自分の技術に自信が持てるようになってきました。

 もちろん、まだまだ学ぶべきことはたくさんあります。失敗も多く、自分の未熟さを痛感する毎日です。でも、ここで多くのことを吸収し、一人前の職人として成長してみせます。

 お母さんが遺してくれたデザインや、お父さんが築いてきた工房の技術を大切に守りたい。

 そして、それを新しい形で未来につなげていけるように頑張ります。

 まだまだ未熟な私を送り出してくれてありがとう。

 お父さんの期待に応えられるように精一杯努力します。これからも応援してください。

 エヴァより》



 鉛筆を置いた時、胸の中にあった重いものが少しだけ軽くなった気がした。


 この王都での新しい日々の中で、少しずつでも、今まで見えなかった自分自身を見つけ始めているのかもしれない。


 スケッチブックを開き、改めて新しいデザインを描く。

 紙の上に線を走らせるたび、頭の中にはこれから作りたい時計の形が鮮やかに浮かび上がる。

 デザインを考える時間は、エヴァにとって一番心が落ち着く瞬間だ。


 ふと、父に手紙を書いたせいか、ぱっと脳裏に故郷の風景が浮かんだ。


 頭の片隅に現れたのは、小さな町での思い出たち──幼い頃の、スティーブの無邪気な笑顔、石畳の道を一緒に歩いた日々。


 そして、恋の祭事で彼と過ごす未来を夢見ていたあの頃の自分。


 あの頃は、ほんの少しの言葉や仕草に一喜一憂し、夜に枕を濡らした。

 でも、今はスティーブのことで泣くことはない。


 それは、彼への気持ちが完全に消えたから……ではない。残念ながら。


 王都での新しい日々が、心の空白を少しずつ埋めてくれているのだと思う。

 忙しい日々の中で、自分の手で作る時計やデザインに向き合う時間は、スティーブへの想いを徐々に薄れさせてくれている。

 過去は愛おしいけれど、もうそれに縛られることはない。

 それは確信だった。


 もう一度鉛筆を持ち直し、スケッチに集中する。


 新しい形、新しい模様。


 過去の想い出を糧にしながら、手元で未来が形作られていくようだった。

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