③出会いと気付き
エヴァは工房に閉じこもるようになった。
町の人の噂も、スティーブのことも、何もかもが自分を傷つける気がして、外に出る気になれない。
決定的だったのは、スティーブがあの女性と恋の祭事に参加すると聞いた日だ。
噂話は、工房の外から嫌でも耳に入ってきた。
あの日も、窓の外を歩いている町の人たちの話し声が、ぼんやりと流れ込んできた──
「今年の祭事、スティーブはあの別嬪と参加するらしいぜ」
「まじで!? かーっ、羨ましい!」
「確かに。あんな美人、見たことねえもんな。でも、分かりやすいよなあ。尽くしてきた女を『ポイッ』だもんな。……まあ、気持ちは分かるけど」
「だよな。女共からしたら、非難轟轟だけど、スティーブの気持ちは正直すげえ分かる」
その声が耳に触れた時、心臓が大きく跳ね、手が止まった。
目の前の空気が鉛みたいに重く、喉奥に酸っぱい気配がこみ上げた。
恋の祭事に参加するということは、この町では『結婚を前提とした関係』を意味する。
だからこそ、エヴァはスティーブと毎年一緒に祭事に行くことを何よりの楽しみにしていた。エヴァが彼にとって特別な存在であるという唯一の確信だったからだ。
でも、彼はあの人を選んだ。
胃のあたりがきしむように縮む。
膝の力まで抜けていく。
指先から血の気が引き、吐き出した息がやけに冷たく感じた。
その日を境に、エヴァは外に出られなくなった。
外に出ればまた誰かの噂話が耳に入るかもしれない。誰かに同情されるかもしれない。
そのどちらも耐えられそうになかった。
◇
エヴァは、時計の修理に没頭した。
小さな歯車やバネを丁寧に扱い、古びた時計の裏蓋を開けると、中には傷んだパーツが複雑に組み合わさっている。
それをピンセットで慎重に取り外し、磨き、組み直すたびに、心が少し落ち着いていく気がした。
壊れたものを直すことだけが、何かをしているように自分を錯覚させてくれる。
工房に籠り、時計の修理に没頭することだけが、エヴァをかろうじて支えてくれる時間になった。
そんなエヴァを、父がじっと見つめて言う。
「エヴァ、なかなか筋がいいじゃないか」
その声に、エヴァは手を止め、ゆっくりと父を見上げた。
滅多に褒めない父の言葉。
その響きが指先にまで染みて、思わず息が止まった。
きっと父は、噂のことも、娘が外に出なくなった理由も分かっている。
それでも何も言わず、こうして黙って見守ってくれているのだ。
「……うん、ありがと……」
ようやく声を出せたが、その響きは自分の耳にも薄く感じられた。
歯車を見つめながら、指先がわずかに震える。
こんな気持ちで時計に向かっている自分が、どうしようもなく恥ずかしい。
夜になれば、エヴァはデザインスケッチに没頭した。
キャンドルの灯りに照らされた作業机の上で、スケッチブックを開き、鉛筆を滑らせて模様を描いていく。
花びらの形をした装飾、鳥や風をなぞった線、そして『誰かにとって特別な一秒を刻む時計』の姿が頭の中に浮かぶ。
線が紙に増えるたび、肩の力がすっと抜け、呼吸がほんの少し深くなっていく。
けれど、どんなに一生懸命描いても、亡き母のデザイン画には到底及ばない。
母が遺したスケッチは、息をのむほど繊細で美しかった。
それは、時計という実用品の域を越えて、一つの芸術だった。
エヴァの線には、まだ母のような芯や深みが足りない。
その事実がエヴァの手をさらに速く動かさせ、同時に鉛筆を握る指先に冷たい汗をにじませた。
「もの作りには感情が出るのよ」──幼い頃聞いた母の言葉が、ふいに脳裏をかすめる。
(……だったら、私が描くこの線には、何が宿っているの?)
こんなにも頼りなく崩れそうな、砂のように定まらない自分の心を線に滲ませるのは嫌だった。
噂話や笑い声、祭りのランタンの光、彼の隣に立つ美しい女性の影──全部が、心の底に沈んで濁りになっている。
「……っ!」
その濁りが、手首の奥にまで染み込んできそうで、エヴァは思わず鉛筆を手放した。
カラン、と机の上を転がる音が、やけに大きく響く。
この線にまで、あの濁りを滲ませてしまいそうで──
(でも……)
エヴァは鉛筆を拾い上げ、もう一度、指に挟んだ。
母に届かないと知りながらも、線を追っている間だけは、その濁りがほんの少し遠のく。
自分が惨めで弱い存在だという感覚も、一時忘れられるから。
◇◇◇
そんなある日、都会の工房から一人の客人がやってきた。
「こんにちは。ルーシャス・モルヴァンと申します」
黒いコートをまとい、短く整えた金髪が光を受けて淡く輝いた。
立ち姿には、都会の空気をそのまま纏ったような洗練さがある。
背は高く、伸びやかな姿勢が目を引いた。
端正な顔立ちに青緑の瞳が柔らかく光り、わずかに垂れた目元が安心を添えている。
落ち着いた声には自信が滲むのに、嫌味がない。
背筋を正した動作と、柔らかな物腰が同時に印象に残った。
聞けば、彼は都会の有名な工房に勤める若きデザイナー兼職人で、父の工房を見学したいと、わざわざ足を運んできたのだという。
「お忙しいところ失礼しますが、どうしてもこちらを訪ねたかったのです」
ルーシャスは、丁寧に頭を下げてそう言った。
その礼儀正しい振る舞いに、父も少し驚いた様子だった。
「こんな小さな町の工房にわざわざ来るとは、ずいぶん物好きな男だな」
父はそう言いながらも、口元が緩んでいた。
都会の一流工房で働く若者に名を挙げられることを、内心では誇らしく思っているのだろう。
「私の所属する工房では、ここで作られた時計の技術が非常に評判なのです。特に亡き奥様がデザインされた時計の美しさには、どの職人も舌を巻いていました。製造面ではもちろん、デザインや装飾の繊細さに感嘆しております」
その言葉に、父の表情がかすかに揺れたのを、エヴァは見ていた。
母の話になると、父はいつもどこか照れくさそうな顔をする。少し頬をゆるめて、けれど最後までは笑わない。
たぶん本当は、母のことを話題にされるのが嬉しいのだと思う。
でも、その嬉しさをまっすぐ表に出すのは気恥ずかしいのだろう。
「……あいつのデザインは確かに評判だった。……まあ、もうずいぶん前の話だがな」
父はそう言いながら、頬をぽりぽりとかく。
「あのデザインの美しさは今でも私たちの手本です。特にこちらの工房の技術に触れることで、私自身、さらに多くを学びたいと考えています。どうか、学ばせていただけないでしょうか?」
ルーシャスの真剣な言葉に、父も少しだけ気を良くしたのが分かった。
「うちは特に大したことはしていないが、見るのは自由だ。……案内くらいならしよう」
「ありがとうございます」
父が肩をすくめて応じると、ルーシャスは満足げに微笑んだ。
その笑顔には、都会の人にありがちな冷たさはなく、むしろ人懐こささえ漂っていた。
父が工房の設備についてルーシャスに説明している間、エヴァは黙々と修理作業を続けていた。
自分が口を挟むべき場面ではないし、そもそも都会から来た人と話すのは気後れしてしまう。
けれど、ルーシャスの視線が自分の手元に注がれているのに気付いた瞬間、指先が固まった。
「あなたは、修理も細工もされるのですか?」
不意に声をかけられ、思わず手を止めて顔を上げる。
ルーシャスは、エヴァの手の中にある時計の細工をじっと見つめていた。
「ええ、そうですけど……」
「素晴らしい仕事ですね、繊細でありながら力強い。特にこの彫りの仕上げには、独自の感性が見える」
「……え、あ、そ、そんな……」
まっすぐな言葉に、エヴァは戸惑った。
「あの、まだまだ未熟です」
エヴァの返事に、ルーシャスは首を横に振った。
「未熟だなんて思いません」
彼の言葉には、確かな自信が感じられた。
お世辞ではない、本当にエヴァの仕事を見て感じたことをそのまま口にしているのだという、確信。
「時計作りでいちばん大切なのは技術より、その人自身の感性です。あなたの仕事には、それが確かに表れています」
彼の言葉に戸惑いながらも、胸の奥に温かな光が差し込むような感覚が広がる。
それは、誰かに自分の価値を認めてもらえた喜びだった。
◇
恋の祭事には、お手伝いとして裏方作業を父に任された。
……はじめは心が重かった。
スティーブが彼女と一緒に祭事に参加することを知っていたし、町の噂や好奇の目にさらされるのが怖かったから。
だけど、祭事の準備が始まってみると、その忙しさの中で少しずつ心が軽くなっていった。
ルーシャスや職人たちと意見を交わしながら、特別なペア時計の装飾を考えたり、王都で流行しているデザインを教わったりする時間は新鮮だった──楽しかった。わくわくした。
「この模様は、王都の貴族たちが好むスタイルですね。でも、こういった直線的な装飾は、この町の素朴さにも合うと思います」
そう言いながらルーシャスが描いてくれたスケッチは、洗練されているのに温かみがあった。
そのスケッチに触発されて、エヴァの指先も自然に鉛筆を握る。
「じゃあ、この線をもう少し曲線にして、リボンのモチーフにしたらどうでしょう?」
「光のアーチとの統一感も出ますし、とてもいいですね」
ルーシャスは微笑みながらうなずいた。
そんな彼を見ながら、エヴァはほっとした気持ちになっていた。
この町を訪ねてきた彼の新しい視点と、自分が育った町の伝統や感性が交わる瞬間。それは、これまでに感じたことのない感情だった。
作業場を出て一息ついた時、祭事の飾り付けが完成した広場が目に入った。
赤や黄色のリボンが風に揺れ、光のアーチが夕暮れの空に映えている。
その美しさに、思わず足を止めた。
心の痛みは、消えたわけではない。
スティーブとあの女性が光のアーチの下を通り抜ける姿を想像するたびに、みぞおちがきゅうっと縮むような気がするし、噂好きの視線が突き刺さるように感じることもある。
だけど、忙しさの中で過ごした時間が、エヴァに少しだけ気付かせてくれたことがあった。
(きっと、時間が解決してくれる)
そう思えた時、ふと心がすっと軽くなった。
恋心はまだ燻っている。
……それでも、きっといつか、この気持ちは思い出になるだろう。
そう思いながら、エヴァは手に持っていた懐中時計をそっと見つめた。
光の中できらりと輝くその小さな時計の針が、規則正しく未来へ進んでいく音を刻んでいた。